籠女(前編)
序
かごめ かごめ かごのなかの とりは
いつ いつ でやる
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろの しょうめん
だあれ
*
深夜、暗い路地に不気味な歌声が響いた。
買い物帰りの妊婦は、その声に振り返る。
誰も居ない。
おかしいなあ、今確実に、歌が聞こえたのに。
子供が遊んでいるのだろうか。
妊婦は再び歩き出す。
大きな影が、妊婦を覆った。
妊婦は空を見上げる。あっとした。屋根の上に、誰かがいる。
着物を着て、長い髪。
顔には、怪我でもしたのだろうか、包帯を巻いている。
妊婦は不自然な光景に、恐怖を覚える。
思わず身を固めるのと同時に、腹の子が動くのが分かった。
腹の子が蹴っている。
まだ、生まれるまで二週間もある筈だというのに。
激痛が襲う。
同時に、膣から羊水が滴り流れた。
子供が、産まれようとしている。
いや、引き出されようとしている。
妊婦は激痛に耐えきれず、買い物袋を落とした。
その場にうずくまる。
助けて!
叫ぶ。
声が枯れる程に。
誰も助けに来ない。
屋根の上に居た男が、すっと、妊婦の前に飛び降りた。
人間ではできない、荒業である。
妊婦は恐怖した。
お願い、この子だけは……。
ああ、頭が出た。
吸い出されるように、胎児はずるずると妊婦の腹から這い出す。
血が溢れ、流れる。
まるで滝のようだ。
流れる血が男に到達していた頃には、妊婦は死んでいた。
胎児を無理やり引き出される激痛に耐えきれなかったのか。
それとも、余りに出血が多かったからか。
男は血だらけの胎児を抱くと、へその緒を無理やりに千切り、死んだ女に背を向けた。
かごめ かごめ かごのなかの とりは
いつ いつ でやる
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろの しょうめん
男は振り返った。
「だあれ」
一、
妖怪世界は“喪”に服していた。静かな空、誰も居ない街。
あの賑やかさは何処へやら。
しかし、これほど居心地のいいことはない。綺堂はぐっと伸びをした。もともと日向が苦手な綺堂は、この曇天も、生温い空気も好きだった。唯一気にくわない、三百日間の祭りが終わり、綺堂は上機嫌だった。
綺堂壱紀は古本屋をしている。今どき、古本が売れるなんて、と思われがちだが、妖怪世界では、意外と人気だった。しかも、綺堂の古本屋はどんな本でも揃っている。祭りが終わり、喪の時期に入ると、毎日のように、古本を求めて、妖怪や半人、勿論人間なども訪れていた。
二階で本を読みながら、最近、客が減ったなあ、と思っていた。別に、それで生活が出来なくなったりすることはないのだから、気にする必要は無いのだけれど。
外に目をやる。ふと、気になる男が通った。
長い髪に、右半願は包帯で隠されていて、花柄の、女が着るような派手な服を、胸元まで開けっぴろげて着崩している。
―――初めて見る顔だな。
男はその風貌に似合わず、葉巻をふかしながら、鼻歌を歌っていた。
―――変わった奴もいるもんだ。
本に視線を戻す。すると、
「これから、人間の世界は変わる」
男の声がした。
もう一度道に目をやると、派手な男はこちらを見ていた。
「もう少しで、始まる」
それだけ言うと、男はまた鼻歌を歌いながら、歩いて行った。男の去った後には、気味の悪さだけが残った。
あの男は誰だろうか。以前、夏芽が言っていた人物に、特徴が似ている気がする。夏芽は、その人物に惑わされ、危うく命を落としかけた。もしその人物と同一人物であるとしたら、危険な奴に間違いはない……。
そう言えば、古本屋に客がひとりも来ない、というのも奇妙な話だ。もう、客足が途絶えて、一週間以上になる。今まで、一週間も客が来なかったことがあっただろうか。
道を、妖怪がひとりも歩いていない、というのも変だ。喪に服しているといっても、食料の調達や、友人宅への訪問など、やることは沢山ある筈なのに。
辰之助の姿も見ていない。奴に関しては、喪に服す、という言葉が全く通用しない、という感じで、年がら年中、毎日、綺堂の家へ訪れる。しかし、ここ一週間、いや、祭りが終わってから一度も、辰之助の顔を見ていない。
―――何か、起きているのかもしれない……。
綺堂はぱたり、と本を閉じた。
その頃、人喰い女、波奈野目優子も異常を感じ取っていた。優子は妖怪離れして早数百年、仲のいい妖怪は、ぎょろ眼の辰之助と半妖半人の綺堂壱紀くらいであった。彼らが優子の家を訪れないのは別にかまわない。しかし、この胸騒ぎ、なんだろうか。純粋なる妖怪だからこそ分かる、この気持ち悪さは一体なんなのだろうか。
優子は、夏以来ハーブティにハマっていた。特に、ローズヒップティは、優子の好きな赤色をしているし、香りも酸味があって好きだった。次に好きなのが、ジャスミンティ。ローズヒップティもジャスミンティもカフェインが入っていないので、子供の夏芽が来ると、コーヒーでは無く、そちらを出すようにしていた。最近ではコーヒーでも、“デカフェ”というものがあるらしい。今度試してみよう。
蟲男事件が終わった後、妖怪世界はすぐに喪に服した。綺堂が夏芽に「喪に服すと静かでいい」とか言ったのだろう。賑やかな世界が好きな夏芽は、すっかり二週間ほども遊びに来ていない。しかし、何となく感じ取れるこの世界の異常……夏芽は、暫く来ない方が良いだろう。
優子はローズヒップティをすうと口に運ぶと、窓の外の曇天を見上げた。
*
「たかねー!おめでとう!」
「ありがとう、夏芽」
たかねは嬉しそうに微笑んだ。
「まさかこの歳で弟が出来るなんてね」
「うらやましいよ。私、一人っ子だから」
「一人っ子同士だったのにねー。夏芽だけ置いてっちゃって、ごめん!」
新しい学年への期待を胸に、なつめとたかねは地獄坂を上っていた。春の息吹に包まれる。そんな中、たかねの母が妊娠し、新しい命が誕生しようとしていた。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ。来月生まれるってことは、もっと早くわかってたってことでしょ?」
「だってぇ、宮本先輩の事で忙しかったし、なにより夏芽を驚かせたたくて!」
「そりゃ、びっくりしたけどね」
「夏芽は、弟ほしいとか思わないの?」
「うーん、お兄ちゃんなら欲しいけどなあ。あと、妹なら。弟だと、大きくなってから色々馬鹿にされたりしそうで嫌。ほら、年下男子って、何かと目上の人に反抗的じゃない」
「これから弟が生まれるって人になんてこと言うのよ」
たかねは肩をすくめた。
「でもね、私には夢があるの」
「何?」
「弟が、二十歳になって、二人で歩いても、姉弟じゃなくて、親子じゃなくて、“カップル”に見えるような、そんな二人になりたいなってね」
「たかねがいつまでもその“美貌”を保ってなきゃ無理な話ね」
夏芽は皮肉っぽく言った。
「おばさんにはなっちゃだめよ」
「そうだねー。いつまでも綺麗でいなきゃ」
たかねは自分の頬を叩いて気合を入れた。
「てか、春休みの宿題終わった―?」
「終わったよ。まあ、ぎりぎりだったけど。お蔭で、“向こうの世界”にも行けなかったし、つまんない春休みだった」
「“向こうの世界”って、マジで夏芽はいつまでたっても信じてるのね。綺堂壱紀って人は、ほんとに居たみたいだけど。あ、もしかして、あの人にだまされてるんじゃない?妖怪がいるとか、あれは妖怪ですとか」
「違うから。もう、たかねには何も話さない」
夏芽はプイと横を向いた。
教室に入ると、鷲島がいつものように、偉そうに教員用机に座っていた。鷲島は体育教師で、いつも竹刀を持ち歩いている。強いとか、格好つけだとか、いろんな噂が流れているけれど、夏芽は、鷲島と竹刀は“二つで一つ”つまり、セット物と同じ感じだと勝手に解釈していた。ペット好きのおじさんが、犬を連れて散歩するのと同じ、宝石趣味のおばさんが、毎日高級なルビーのネックレスを付けているのと同じ感覚だ。
教室では、みんなひそひそ声で喋る。鷲島が怖いからだ。たかねが小声で、
「また、ホームルームの十分も前なのにいるよ。気まずいっての」
夏芽は、鷲島には進路の相談に乗ってもらったり、アドバイスをしてもらったり、かなり良い待遇を受けていたので、たかねとは違う意見だった。卒業するまでにもっとクラスに溶け込んで、みんなと仲良くなれればいいと思う。見た目がこれだからとても誤解されやすいが、進路相談等、様々な悩みを聞いてくれる良い先生だ。だが、彼にそんな相談をする生徒はいない。それが残念でならない。みんな、もっと鷲島のいいところを知るべきである。
「たかねちゃん」
同じクラスの朝香が声をかけてきた。
「弟が生まれるんだって?」
「そうなの!」
「おめでとう!なんか、お祝いしなくちゃね」
「えー、いいよー気にしないで」
気にしないで、と言いながら、たかねは絶対に“お祝い”を期待している。
「クッキーとかでいいよ」
「じゃあポディバのチョコレートクッキー、弟君生まれたらあげるね!」
朝香は嬉しそうに言った。
「名前は決まってるの?」
「ううん、まだかなあ」
たかねは拳に顎を乗せた。
「でも、ひらがなにしようかって。わたしもひらがなだから」
「そうなんだ。姉弟名前揃ってるとか、素敵」
朝香は笑った。
「夏芽ちゃんも、親友に弟が出来るなんて、嬉しいでしょ」
「そりゃあ、うれしいよ。かわいかったら、貰っちゃおうかと思ってる」
「えー!さっきは弟は嫌だとか言ってたくせに。絶対にあげないんだから」
「ふふふー。どうかなー。ある日突然私の弟になってたりして」
二人のやり取りを見て、朝香は愉快そうだった。
チャイムが鳴る。三人は慌てて席に戻ると、鷲島が立ち上がって、
「ホームルーム、始めるぞ。赤崎」
「はい!」
緊張感漂うホームルームが始まった。今日は進路について、アンケートを配るらしい。来週までに書いてもってこい、という内容だった。それから、受験が近いこと、進路が決まっている者はそれに向かって勉強を進めること、部活動も最後だからやりきりなさい……という話などを長々とされ、時間ぎりぎりになって、
「これでホームルームを終了する」
と言った。生徒たちが、ほっと胸をなでおろす。やっと終わった。
「唐沢たかね」
突然名前を呼ばれて、たかねは驚いて立ち上がった。
「は、はい?」
「片付けが終わったら、体育研究室まで来い」
それだけ言って、鷲島は教室を出て行った。たかねの顔がみるみる青くなる。夏芽はたかねに駆け寄ると、
「何したの!たかね、何したの!」
「何も……だって、今日が学年変わって初登校の日だよ?」
「変な不良とつるんでたところを見られたとか、そういう事はない?」
「こう見えて、変な不良とつるんだりしないから、私」
確かに、たかねは正統派のイケメンや、“頭良さそう”で地味な男子が好きで、そういう子たちとばかり仲がいい。女子なら尚更だ。不良やヤンキーとつるんだりする筈がない。
「……兎に角、行かないと、もっと、やばいよね?」
「……鷲島先生、意外と、いい人だから、大丈夫だよ」
夏芽は勇気づけるように言った。
「私の進路の話もね、真剣に聞いてくれて。だから大丈夫」
「進路の話だったらもっとやばいでしょ。私、成績学年最下位なんだから」
夏芽の励ましは、逆効果だった。
「……とりあえず、行ってくるよ」
たかねは震えながら、教室を出て行った。
「たぶん、進路の事だよ」
「たかね、成績悪いし、服装もあれだし」
「生徒指導の先生が担任やってるクラスとしては、よろしくないもんね」
生徒たちが口々に言う。夏芽は、たかねが無事ですように、ということと、これを機に、たかねが改心して勉強に励んでくれますように、ということ、両方を願った。
たかねは、鷲島の待つ、体育研究室の前で立ち止まっていた。中でがさごそ音がする。鷲島がいるのだろう。たかねははち切れそうな心臓の音をなんとか押さえようと深呼吸をすると、こんこん、とドアをノックした。
「はい、どうぞー」
鷲島の声が聞こえる。
「し、失礼します!」
たかねは緊張を隠しきれないまま、手に汗握り、研究室のドアを開けた。研究室には、鷲島がひとり座っていた。振り返ってたかねを見ると、
「唐沢か、呼び出してすまんな」
と、予想外にも謝った。
「とりあえず、この椅子にでも座りなさい」
パイプ椅子が出される。たかねは鷲島の雰囲気がいつもと違うような気がして、不信感を持った。
―――成績の事とかじゃないのかな。
鷲島はたかねをパイプ椅子に座らせると、険しい表情で言った。
「お母さんの話だ」
「お母さん、ですか?」
たかねはきょとんとした。鷲島には、全く関係のない話のように思える。
「お母さんが、どうかしたんですか?まさか、事故とか!」
「いや、そうじゃないんだが」
鷲島は頭を掻いた。
「唐沢も、テレビのニュース番組で、観ているだろう、連続妊婦殺害事件」
「あ、はい。でも、詳しくは知りませんけど。この街では起こってないし、なんで私に関係があるんですか?」
「唐沢のお母さん、妊娠しているな?しかも、もうすぐ子供が生まれるんだろう」
「はい。何で知ってるんですか?」
「さっき、大声で喋ってたじゃないか」
確かに、夏芽と朝香と一緒に大声で騒いでいたかもしれない。
「子供は、男の子なんだそうだね」
「そうです。男の子です。あと一ヶ月くらいで、生まれるんですよ」
たかねは誇らしげに言った。それから、目の前に居るのがあの恐ろしい体育教師であり担任の鷲島であるという事を想い出して、肩をすくめた。
「先生とは、何の関係もないと思うんですけど……もしかしてその事で呼び出したんですか?」
「そうだ」
鷲島は腕を組んだ。
「この学校は、まるで呪われている様だ」
突然、鷲島は怖い顔をして言った。
「平沢先生の事件、土田和也の事件、短期間で、連続に起きすぎてるだろ。胸騒ぎがするんだ、嫌な予感がな。今回の妊婦殺害事件だって、この街でこそ起きていないが、近い地域で起きているのは確かだ。唐沢のお母さんがそんな、危ない時期に子供を産むなんて、やっぱり因縁みてえなものを感じざるを得なくてな。お前は確かに問題児だし、他に警告すべきことがあるだろう、とは思ったんだが、先生はそれよりも、お前のお母さんと生まれてくる弟君が心配だ」
「でも、私のお母さんが狙われるとは限らないし、それに、お母さんが子供を産む頃には、事件も解決してるんじゃないかって思うんですけど」
「そうとも言えん」
「なんでそう思うんですか?」
「お前、テレビ見てないのか?もうかれこれ二週間、犯行は繰り返されている。手掛かりはほとんどないそうだ。捕まってくれればいいが、そうとも限らん。お母さんを、安全な病院にかくまった方が良い」
「その忠告をするために私をここに?」
「それだけじゃない。狙われるのは、全員“男の子供”を身ごもった妊婦のようだ。お母さん、危ないだろ」
「確かに……」
「先生は、この学校の卒業生でな」
懐かしそうに、鷲島は腕を組んだ。
「この学校が、これ以上、血で汚れるのは嫌だ」
「先生……」
「被害者も、加害者も、二度と出したくない。だから、お母さんを、出来るだけここから離れた病院へ、しかも監視のついたいい病院へ移せ」
鷲島は真剣だった。たかねは唖然として少し間を置いてから、はっとしたように、
「すぐ、お父さんに電話してみます。それで、なんとか病院に入れてもらうように、手配してもらいます」
「ああ。その方が先生も安心だ。弟さん、無事生まれると良いな」
鷲島は、怖い顔のまま、優しい声で言った。
「さあ、授業が始まっている。言い訳は、鷲島先生に呼び出されていた、と言っておけばいい。そろそろ行っていいぞ」
「は、はい。ご心配、ありがとうございます!」
たかねは立ち上がって、鷲島に礼を言った。それから出口に向かうと、
「失礼しました!」
と声を張り上げた。
たかねが去った研究室で一人、鷲島は腕を組んで目を瞑っていた。まさかとは思うが……。いや、例えそうだとしても。
鷲島は眼をかっ開いた。
―――自分の生徒にだけは手を出させてなるものか!
「ってことなのよ!夏芽!」
帰り道、たかねは夏芽に、鷲島に呼び出されて話されたことを全て語った。
「そう……確かに、妊婦さんの子供はみんな男の子だったって、報道されてたよね。それに、妊婦さんの死体は見つかるのに、子供の死体は見つからないんだって……」
「そうなの?私、ニュースとか新聞とか見ないから知らなかったや」
「少なくとも、お母さんは見てると思うから、不安じゃないかな。今日は早く帰ってあげなよ」
「うん……」
たかねは不安そうな表情をしていた。
「利やんのこともそうだし、蟲男のこともそうだけど、やっぱり妖怪っているのかな……。人間に、こんな残虐なことは出来ないよ。お母さんを殺して、子供を、子どもは生きてるかわからないけど連れ去って……」
「妖怪は居るよ。でも、犯罪を犯すのは人間。妖怪じゃない」
「でも、ひどいでしょ。人間には出来ないよ。妖怪に憑りつかれてやってるのかもよ。綺堂さんに聞いてみなよ」
「綺堂さんが言ってたの。妖怪は、人間に直接手を下すことは出来ない、って。ただ、妖怪に影響を受けた人間が、犯罪を起こすことはあるかもしれないって」
あの、平沢利夫のように。
「そうなんだ……。とりあえず、私は家に帰って、お母さんのそばにいる。お父さんも、事情を話したら、すぐ帰って来てくれるって」
夏芽は安堵した。
「良かった。お父さんがいれば、怖いものなしだよね」
「でもうちのお父さん、なよいからなあ」
「なよい?」
「弱いってことよ。気も弱いし、力も弱い。私の方が強いんだから」
たかねは拳を振り上げた。
「もしお母さんを襲うような奴がいたら、私が退治してやる!」
「頼もしいね。でも、あんまり無理しないでよ」
平沢利夫には勝てなかったんだから、と言おうとしてやめた。彼女の首元には、まだエメラルドのネックレスが光っていた。
「あ、それとね、鷲島先生、夏芽の言った通り、いい人だった」
「でしょう?」
夏芽は笑った。
「人は見かけによらないのよ」
「自分の受け負ってるクラスの子たちを、必死に守ろうとしてるんだろうなって思った!だからあんなに早い時間から、クラスに居るんだよ。そんな気がする。竹刀を持っているのも、悪い奴が来たら対処できるようにするためだよ」
「そうだよ。私も、進路の話聞いてもらった時、鷲島先生には勇気をもらったもん」
「人は見かけによらないよねー」
「それ、今私が言った言葉!」
バス停まで来ると、たかねはすぐさま乗り込んで、夏芽に手を振って帰っていった。夏芽も、帰路を急ぐ。
家に着くと、春代がリビングで寛いでいた。ソファに座ってお菓子を食べている。今はまだいいけれど、その内お腹が出て“中年女性”になってしまうんだ。夏芽は溜息をついた。たかねの母親は、若く、子供まで授かったというのに、春代は、最早“女であること”を捨てているかのようだ。
「あ、なっちゃんおかえり」
春代はクッキーを頬張りながら言った。
「ただいま。そんなに食べてばっかりいると、太っちゃうよ」
「あら、失礼ね。毎日欠かさずウォーキングしてるんだから、大丈夫よ」
「そうだといいけど」
夏芽はスクールバッグを置いて、春代の隣に座った。テレビがついている。”連続妊婦殺害事件”についてのニュース番組が流れていた。
「たかねのお母さん、妊娠してるんだって」
「え?」
春代は驚いたように顔を上げた。
「まなみちゃん、妊娠してたの?だからママ会にもあんまりこなくなっていたのね」
「時期も時期だし、心配だね」
夏芽が言うと、
「本当に……」
と言って、春代は珍しく暗い顔をした。
「どうしたの?」
「いつ生まれるの?」
「ううん、来月位って言ってたよ」
「じゃあ子供の性別は分かっているわね?」
「男の子だって。だから心配よね」
春代は一層顔をしかめた。
「なんてこと……亡くなった妊婦さんたちはみんな子供が生まれるまであと二、三週間ってくらいだったらしいのよ。それで、さらわれた胎児はみんな男の子。妊婦さんはね、まだ陣痛が来ていないのに、無理やり胎児を引っ張り出されて、出血多量で死んでしまったんですって。人間の出来る仕業じゃないわ。恐ろしい」
「ワイドショーでやってた?」
「そう。まさか、身近に妊婦さんなんていないから……。まなみちゃん、若いものね、十分あり得たのにどうして気付けなかったのかしら」
「大丈夫、たかねとお父さんがついてるから。それに、大事を取って病院に入れてもらう事にするそうだよ」
「そう……」
春代は依然暗い顔のままだった。
「そうだと良いんだけど……」
*
がんがん、とガラスの引き戸が叩かれた。
「どうぞ」
綺堂が言う。
ガラガラ、と戸を開けて入ってきたのは、人喰い女の波奈野目優子だった。
「どうした、人喰い」
「あんた、気付かないかい」
優子は険悪な表情をしていた。
「この世界が乱れ始めてるよ」
「乱れ始めてる?」
「あたしは、人を喰うのをとうの昔にやめたといったね、でもその時の感覚が、妙にリアルに脳内に浮かんだりするんだ。今まで、この世界に来てからこんなことはなかったよ。あたしは妖怪離れして長い。だからこれで済んでるのかもしれないけど、他の妖怪たちは、もっと侵されてる」
「侵されてる?」
「人間を襲って恐怖させる喜びにさ」
「そんなもの、妖怪はみんなもっているじゃあないか。人を襲って、人を驚かせて、それで何ぼの生き物だ、妖怪って奴は」
「違う!」
優子は取り乱したように言った。
「そういう意味じゃないよ、坊や」
肩を上下させている。尋常ではない様子だ。
「あんた、人間だろ」
「当たり前だ」
「逃げな」
優子は扉を開けたまま言った。
「この世界は今、人間を排除する動きが高まっている。さっき見ちまったんだよ、妖怪たちが、今まで寛容に受け入れてきた“向こうの世界”の人間を、襲って喰っちまうところをさ」
「人間を喰う妖怪なんざ、いるかい」
「でもこの目で見たんだ。ぬっぺっぽうですら、人に襲いかかっていった」
「あの、ぬっぺっぽうがか!」
ぬっぺっぽうという妖怪は、死者の脂肪の集まりで、ただ夜道を歩くだけの妖怪だ。気味が悪いだけで、人を食べたりすることはしない。
「綺堂の坊やは、半妖半人だからね、あんまり心配しなくていいと思うけれど、もしもの時の為に、逃げておいた方が良いかもしれない」
「……穏やかな話じゃないな」
綺堂は腕を組んだ。
「先程、変な男が通った」
「変な男?」
「派手な着物を着た、片目で長髪の男だ」
「見ない男だね。そんなに派手な人間がいたら、一度くらい目にしている筈なのに。まあ、出不精の私だから、仕方がないか。そんなことより、坊や、とっとと行きな。妖怪世界は、おかしくなっちまっているよ」
「では人喰い、なんでお前には通用しない?」
「わからないよ。そんなこと。でも、あんたがこっちにいたら、夏芽ちゃんもこっちに来るだろう?もしかしたら由宇奇の坊やも。今こっちに人間が来ることは、危ない。妖怪の直感だけど、そう思うんだ」
綺堂は少し考えてから、
「わかった。お前の言うとおりにしよう。兎に角、家の中に上がりたまえ」
その時、優子の後ろから、久々に辰之助が顔を出した。目はかっと見開かれていて、異様な程クマが出来ていた。
「……ぎょろ眼……」
「旦那あ、旦那あ、綺堂の旦那あ」
弱弱しい声で、辰之助は言った。
「やべえですぜい、おそろしいことがおきてやすぜい、旦那なら、トンネルから“向こう”の世界に出られやす。はやくお行き下せえ」
「ぎょろ眼は、正気なのか」
優子はぎょろ眼の腕をがっしりと掴んだ。
「どう見ても正気じゃないだろ!いいかい、何故かあたしだけこんなだけど、他の妖怪たちはみんな“ゾンビ”の様さ。ぎょろ眼は、最後の力を振り絞って、あんたの所に忠告に来たんだ。その気持ちがわからないのかい!」
綺堂は唇を噛み、急いで支度をすると、優子と辰之助の隣をすり抜けた。
「急ぐんだよ。くれぐれも、他の妖怪に見つからないように」
すれ違いざまに、優子が言う。綺堂は頷いた。
綺堂は小走りで、八千代トンネルを目指した。言われてみれば、最初からおかしかった。何故この綺堂が、気付かなかったのか。いや、それも“異常”だったのだ。
―――僕より強い霊力の持ち主なのか。妖怪を操ることが出来る程の霊力。
妖怪は、人間によって作られた。その為、人間によって操作されることが稀にある。今がその事態であるという可能性も、無きにしも非ず。半妖半人という種族は特に、妖怪を操作する力を持つと言われている。辰之助が綺堂になつくのも、この世界で綺堂が何故か信頼されているのも、その力が少なくとも影響している。そして半妖半人には、先詠みという力がある。しかし、もしそれが正常に機能していたとしたら、この状態に、綺堂はもっと早く気付いていたはずである。
明らかに、綺堂より強い何か、何かがこの世界を汚染している。
八千代トンネルを抜けながら、綺堂は思うのだった。
二、
ちっ。
由宇奇は第四、つまり一番最近の殺人事件が起きた現場に立っていた。こういう場所に立つことで、由宇奇は稀に、過去に起きた事柄、その場所が記憶している“映像”を見ることが出来る。由宇奇は舌打ちした。半妖半人でありながら、こちらの世界に住む由宇奇は、嫌な空気を感じ取っていた。今回の“連続妊婦殺害事件”、全くもって、気持ちの悪い事件だ。悍ましい光景が脳内に映し出される。痛みにもがき苦しむ妊婦を、そいつは―――男か女かわからない―――ただ、観ている。胎児が無理やり、引きずり出されるように腹から這って出てくる。そのへその緒をちぎり、妊婦をを置き去りにして去る。とどめは刺さない。痛みのあまり、妊婦は子が外に出る頃には死ぬか、死ぬ寸前にまで陥っているようだ。
頭が痛い。映像が途切れた。由宇奇は頭を抱え、うう、と唸った。
この事件、早く解決しなければ、危険な事態が待ち受けている気がした。
―――綺堂の家へ行ってみようか……いや、俺の予想が当たっていれば、あいつの家に行くのは、今は危険極まりない。
それに、綺堂は今、人間世界に居る、そんな気がした。由宇奇はまだ血の痕跡が残る事件現場に花を手向けると、手を合わせてその場を後にした。
*
玄関のチャイムが鳴った。
「はあい」
春代が立ち上がって、クッキーのかすで汚れた服をパンパン、と払った。
「今いきまあす」
春代が去ってから、ドアを開ける音と、春代の悲鳴のような声が聞こえてきた。夏芽は驚いて、玄関まで走る。不審者だったらどうしよう。
玄関にたどり着いた時、夏芽は安堵した。
「綺堂さん……」
「夏芽さん、すまないね、突然来てしまって」
「いえ、綺堂さんが家に来るなんて、なんだか珍しいですね」
「ちょっと、“向こう”の世界で異常があってね。暫く、帰れなくなったんだ」
春代は綺堂の腕を取った。
「さあさあ、中に入って。夏芽の“彼氏”ですものね、歓迎しなきゃ」
「お母さん!それは違う!」
「違いませんよ、“お母さん”。夏芽さんは恥ずかしがり屋なんです」
「そうなのよ、この子ったらね。親に何も言わないんですもの」
「ははは、夏芽さん、少しくらいは僕の話をしてくれててもいいのに」
「だから、そういう関係じゃないです」
夏芽は正直うんざりしながら言った。
「まあ、積もる話は客間でしましょう」
少しして、客間に緑茶がとお菓子が運ばれてきた。
「こんなものしかないけど、ごめんなさいね。じゃあ、あとは若い二人でごゆっくり」
「お母さん!」
夏芽が一喝すると、春代は悪戯な笑顔を見せて去っていった。全く、困ったことになった。
「全く、困ったことになった」
「へ?」
今、夏芽が心の中で思った事と全く同じ文章を、綺堂は述べた。
「困った事って、なんですか?」
「妖怪世界で、妖怪たちが人間を襲うという事件が多発している」
「襲う!どういうことですか?でも、妖怪って、人間を脅かすのが本能なんじゃ……」
「脅かすだけならね。脅かすだけならともかく、人間を襲って喰っている妖怪も居るらしい」
「人喰い女じゃないですか!」
「ところが面白いことに、人喰い女は正常なんだよ。ぎょろ眼は……もうだめそうだったが。いや、それは置いておいて、こんなことは、通常、妖怪世界ではありえない。人間の世界でも、もちろんあり得ない話なんだ」
「どうしてですか?」
「前にも言ったじゃないか。妖怪というものは人間によって創造された存在だ。それが、創造主に危害を加えることは出来ない、と。だから妖怪たちは、驚かすことは出来ても、相手を怪我させたり、殺したりすることは出来ないんだよ。脅かす専門なんだ。ところが今回は、人間を“殺して喰っている”というではないか」
「人間世界で、じゃないですよね?」
「妖怪世界で、だ。妖怪世界にも人間はいる、と言っただろう」
「秩序が、乱れ始めているっていう事ですか?」
「……そういう事だ。妖怪世界は、いま“喪“という時期でね。皆、妖力を弱めて―――祭りで使った妖力を回復する期間として―――喪に服している期間なんだよ。それが、お祭り好きの妖怪たちの”残りの六十五日間“の秘密さ。だがそうやって、眠っているすきをついて、誰かがよからぬことを吹き込みながら歩いているのだろう。妖怪たちに”命令“したり、秩序を変えることが出来るもの、それは何かわかるかい?」
「え?妖怪の、王様とかですか?」
「違うよ」
「じゃあ、“お偉い方”?」
「それは、完全に違うとは言い切れない」
「一体誰なんです」
「誰かは分からない。確実にわかっているのは」
綺堂は緑茶をずずっと啜ってから言った、
「人間だ」
夏芽は驚愕した。
「人間?たかが人間が、そんなことできるっていうんですか?」
「無理だろうね、たかが人間ごときには、そんなことできやしない。しかし、そういった力を持った人間ならば、例えば霊力がある人間や、半妖半人であれば、可能だ」
「前例とかはないんですか?」
「聞いたことはないが……」
綺堂は頭を掻いた。
「家に帰れば即座に調べることが出来るというのに。ああ、もどかしい」
本を持たない綺堂など、想像し難い。
「あの、よかったら、図書館とか行ってみますか?」
「人間の図書館には新しいものばかりが並んでいて、参考にならない。無駄足だ」
綺堂は尚も頭を掻いていた。取り乱しているようだ。
「ああ、もどかしい、もどかしい」
項垂れる綺堂に、どう声をかけていいかわからない。辰之助の事も心配だった。綺堂は『もうだめそうだった』と言っていた。もうだめそう、という事は、辰之助も、人を食べる妖怪に変わってしまったのだろうか。
辰之助と初めて出会った日を思い出す。迷う夏芽の手を優しく引いて、綺堂の元まで連れて行ってくれた。蟲男事件の時も、一緒に青森まで行ってくれたり、資料を探してくれたり……世話になってばかりだった。辰之助を助けたい。しかし、夏芽は無力な人間だ。何もしてやることは出来ない。
そう言えば、と夏芽は話を変えた。
「こっちの世界でも怖い事件が起きているんです」
「怖い事件」
綺堂が興味深そうに言う。
「はい、連続妊婦殺害事件、っていう事件なんですけど、臨月の妊婦さんばかりが狙われて殺されるんです。中の胎児は連れ去られているみたいで……この街の周辺で起きている事件なのでちょっと気持ち悪いんですよね」
「ああ、その話なら、新聞で読んだよ。非常に気味が悪く、興味深い事件だ」
綺堂は腕を組んだ。いつもの綺堂に戻っていた。新聞が、妖怪世界にも届くのか、と疑問に思ったこともあったが、綺堂曰く”新聞というものは、お金さえ払えば、全ての人が例外なく読むことのできる筈のもの”なのだそうだ。
「それで……」
夏芽はふとたかねの事を思い出した。
「たかねのお母さん、まなみさんっていうんですけど、今妊娠しているんです」
「……なんだって」
綺堂は険しい顔をした。
「あとどれくらいで生まれる」
「一ヶ月くらいって。しかも男の子だってわかってるって言ってました」
「この事件の犯人は、男児を身ごもった女性ばかりを狙っている。たかねくんのお母さん、まなみさん、危ないかもしれないな」
「はい。でも、安全な病院に入れるから大丈夫だって」
「そういう油断が一番いけない。人間はすぐ、人に任せて安心しようとする。よろしくない」
夏芽は肩をすくめた。綺堂はいつものように、扇子を懐から取り出すと、
「相手は恐ろしい殺人鬼だぞ」
と言った。
「それに、人間世界で起こっているこの事件、妖怪世界がおかしくなった時期と同じころ発生している。もしかしたら、二つの事件は何か関わりあっている可能性がある。しかも、妊婦という神聖なる存在から、その根源である胎児を、生まれ出でる前に取り出している。新たな人間を産ませまいという、犯人のメッセージなのかもしれない。そして、男児ばかりが狙われているのは……自分が男だからではないだろうか」
「男?」
「ああ。この事件は、殺人鬼の過去に影響されていると推測される。あくまで僕の推測だがね。犯人像を推理してみよう。こちらの世界で犯罪を起こしている殺人鬼は、“母親”というものに恨みを持っている可能性が高い。母親に、自分よりも大切な子供を奪われ、そして殺される―――正確には死に至るまで放置される―――という恐怖と絶望と悲しみを与えているのだから。そしてそれは妖怪の世界で起きている異変にも共通する。母なる人間を殺し、食べることで排除しようとしている。やはり犯人は“母”というものに大いなるコンプレックスを抱えている者に違いない。僕はそう推理する」
綺堂の推理は、余りに暴挙的だった。しかし、綺堂の推理は中々外れない。こんな短時間に、綺堂は普段は十パーセントしか使われていない脳味噌の、二十パーセント、三十パーセントを使って考えたに違いない。
夏芽は一瞬興奮した。また、綺堂が、事件を解決に導いてくれるかもしれない。綺堂が、たかねの弟となる少年を、救ってくれるかもしれない。
しかし、ふっと夏芽の胸を満たしたのは、希望でも怒りでもなく、切なさだった。
「自分の親に恨みがあるからって、他の親を傷つけていい筈ないです。きっと、その人が犯罪を犯していなかったら、幸せな家庭が築かれていたはずです」
夏芽たちの様な、幸せな家庭が。
「そうだね」
綺堂も、寂しそうに言った。
「同時に二つの命が、“奪われた”んだ。それが四回も繰り返されている。許されることではない。決して。夏芽さん」
綺堂は立ち上がった。
「この事件、僕が解決してみせよう」
*
くくくく…………。
不気味な笑い声が、人混みの中、微かに響く。誰もその派手な着物を気に留めない。夜崎拾は、今日もいつもの姿で、人間世界を歩いていた。妖怪たちを操るのは簡単だった。今、妖怪たちは催眠状態にある。眠ったまま、人を襲い、喰らい続けている。そしてその内、八千代トンネルが開き、妖怪たちは人を喰らいに街に繰り出す。ああ、楽しみで仕方がない。
こいつらが生きていられるのも、あと少し。あと少しで、妖怪たちによって、人間は滅びる。
俺を捨てた、人間たちを。
俺を捨てた、母さんを。
絶望の中、滅ぼしてやる。
殺してやる。
想像するだけで、心が躍った。
夜崎拾の瞳孔は開いていた。前を見ているのか、空を見ているのかわからないまま歩き続ける。
太陽は苦手だ、日焼けする。日焼けすると、爛れた顔が、痛む。
しかし今は、その痛みすら心地いい。
ああ、早く皆、
死んでしまえばいいのに。
*
綺堂と夏芽が客間で会話をしていると、再び玄関のチャイムが鳴った。春代は、
「今日は来客が多いわねえ」
と言いながら、玄関に向かった。
玄関に立っていたのは、茶色の背広にスラックス、光に当たって緑っぽく見える不思議な髪色に、無精ひげを生やした、青年、由宇奇秋人だった。
「まあ!秋人くんじゃないの!」
「ご無沙汰っす」
以前、秋人の父親が死んだときに、葬式に行って以来だった。こんなに早く再会するとは。春代は嬉しく思った。
「でも、秋人くん、どうして家なんかに?」
「あーはい」
由宇奇はだるそうに、
「夏芽さんって人、居ますか」
「夏芽?なっちゃんに用事?会った事あったっけ?」
「あーはい。実は、春代姉さんの知らねえところで会ってたりして。ほんで、たぶん綺堂って奴が一緒に居ますよね?」
「あらまさか、お二人でうちのなっちゃんを取り合ってるの?まあ、あの子ったら、隅に置けないんだから」
「いや、あの、そういうんじゃないんですけど、とりあえず、用事有るんで、上がらせてもらっていいっすか」
「勿論どうぞ!二人は客間よ」
春代は客間を指した。由宇奇は靴を脱いできちんと揃えると、
「邪魔します」
と言って、客間へ向かった。
がらがらがら。
客間の引き戸が開く。綺堂と夏芽は驚いて、目をやる。
「やっぱここか」
由宇奇は言った。
「ああ、由宇奇。無事だったか」
綺堂は笑わずに言った。
「妖怪の世界がなんか変なんだろ。何となく雰囲気で分かる。てか、言えよな、一応友人だろうが。ただでさえクオーターの俺が向こうの世界に行って喰われちまったらどうしてくれてたんだ」
「喰われるってところまで知ってるなんて、流石ルポライター由宇奇だ、愉快愉快」
綺堂は扇子で口を覆って笑った。
「何が愉快だこの野郎!」
それから小さな声で、
「いつかぜってえ殺す」
と言った。
「それで、由宇奇、何の用だ?」
由宇奇は腰を下ろすと、
「こっちと“向こう”で起こってる事件の、犯人に心当たりがある」
と言った。
「なんだって?」
綺堂は眉を顰めた。
「蟲男事件の時に、週刊誌に駄文を書き散らしが糞野郎がいただろう」
「ああ、いた。あいつのせいで、あの事件は始まったようなものだ。夜崎、拾とか言ったな」
「私と同じ苗字……」
夏芽は項垂れた。
「でも、親戚で拾なんて、居ないですよ」
「まあ、夜崎って苗字も辿ればいくつか出てくるからね、君の親戚とは限らない」
綺堂は言った。
がらがらがら。
また戸が開いた。春代だった。
「あら失礼。なっちゃん、秋人くんはね、夏に、あの人喰い事件があった時に、仲人さんのお葬式があるって言ったでしょ?その亡くなった、仲人さん、秋男さんの息子さんなのよ。秋男さんがいなかったら、私達出会ってなかったし、なっちゃんも居なかったの。感謝しなさい、秋人くんに」
「いや、その当時、俺まだ小っちゃかったんで記憶にないっす。感謝されても困るんで」
「いいのいいの。ほんとは夜、家族三人で食べようと思ってとっておいたケーキ、三人にあげるわ。綺堂さんは夏芽をいつも救ってくれる方で、秋人くんは私達の生みの親。その二人に求婚されてるなんて、なっちゃん、幸せよ」
「ちがう!私たちはそんなんじゃない!」
「ちげーっすよ!俺たちゃ腐れ縁で」
「ちがいますよ、夏芽さんは僕のヒトですから」
三人が同時に抗議する。
「賑やかでいいわあ」
春代は微笑んで、戸を閉めた。
静寂が訪れる。由宇奇は夏芽を見、
「お前と綺堂は分かるけど、なんで俺まで巻きぞいなんだよ」
「知りませんよ!てか、お母さんと知り合いなら言ってくださいよ」
「まさか本当にあの夜崎だとは思わなかったんだよ」
「じゃあなんでここがわかったんですか」
「もしかしたらと思って来てみたら当たってたんだよ」
「夏芽さん、由宇奇、ふたりでこそこそ何を言い合っている」
綺堂は腕を組んで一喝した。
「だいたい、夏芽さん、なんで勘違いされるような態度をとるんだ」
それは夏芽のセリフだった。
「由宇奇、お前もだ」
由宇奇も、同じことを思った。
「……ところで、話の続きだ」
由宇奇は言った。
「夜崎拾ってのはな、俺の幼馴染であり、従兄弟だ。顔半分が爛れてて、包帯でそれを隠している。俺は単に普通の人間と妖怪のクオーターだったから、妖怪の力はそんなになかったが、そいつは、霊力の強い一族を父に持ち、俺と同じ、妖怪の中でも力の強い火間蟲入道を祖父に持つクオーターだったから、妖力に身体がもたなくてな、妖力が溢れだして顔半分が爛れちまったんだ」
「そんなこと、よくあるじゃないか。由宇奇、お前だってクオーターだが、腕に“蟲”が生えている」
綺堂は立ち上がると、由宇奇の袖を捲ってみせた。白い細長い虫たちが、産毛のように揺れている。夏芽は思わず悲鳴を上げて、由宇奇から遠ざかった。
「こんくらい仕方ねえだろ。ハーフなのに外見に何の損傷もないお前のほうがおかしいぞ、綺堂」
由宇奇は綺堂の手を振り払うと、腕を袖の中へ隠した。
「ハーフとか、クオーターとか、とりあえず半妖半人と呼ばれる奴らは皆、それぞれ見た目や心に黒い影を持ってて、それと戦いながら生きている。妖怪世界に逃げ込んで生きる奴の方が多い。何故なら、その方が楽だからだ。でも、親の都合とかで俺みたいに、人間世界で生きていくことにする奴もいる。拾も、その一人だった。俺は、腕という隠せるところに妖怪の面影を残したが、拾は顔と言う致命的な所にその痕跡を残してしまった。本人はそれをとても気にしていてな。本人だけじゃない。親もそれを気にしていた。だからか、母親は拾を虐待してな……」
由宇奇は苦々しい顔をした。
「父親が死んでから、母親は拾を捨てた」
「ひどい」
「顔が醜かったからな。父親がいたからこそ、何とかやっていたようなもんだったんだよ、あいつの家は。母親の虐待を、父親が止めてた。でも、その父親が死んだ。俺は見ちまってよ、死んだ父親の前で泣く母親が、拾に、“お前なんか産まなければよかった”と言うところをね。葬式が終わると、母親はすぐどっかに消えちまった。拾のやつ、泣きもしねえで、な。その日からあいつは心とやらを失ってしまった。人間に最も必要不可欠なものだ。それを、失っちまった。祖父母も居ない拾は、児童養護施設に引き取られていった。それ以来、俺はあいつに会ってねえ」
言い終わると、由宇奇は大きなため息を吐いた。
「人喰いの事件で夏芽が見た男、週刊誌にありもしねえ駄文を送りつけた男、そして、今、妖怪の世界を狂わせ、人間の世界で“母親”を殺しているのは、俺は、拾、あいつだと思う」
「成る程」
綺堂が言った。
「有り得る」
「じゃあ、その人を止めればいいんですね」
由宇奇はため息を吐いた。
「それが、そう簡単じゃねえ」
「そうなんですか?」
「拾は神出鬼没でどこに現れるか、俺でも探れない。見た目は派手で分かりやすいらしいが」
「どんなだ」
「花柄の女物の様な着物姿で、長髪だと聞いている。あくまで、噂だが」
「その男なら、僕も”向こう”の世界で出会った。謎の言葉を吐いていったよ。まさか、あいつだとは……」
由宇奇は腕を組んだ。
「あいつは、何より、強い。恐ろしい程に。あいつは身体の外見以外、すべて妖怪だ。それ故に顔も歪んでしまった。そして、脳味噌は人間。心の歪んだ人間だ。綺堂なら、俺の言っていることがわかるだろう」
綺堂は扇子をぱたりと閉じて、テーブルに置いた。
「妖怪の力を持ち、人間のように恐ろしい思想を持つ。妖怪よりも、人間よりも恐ろしい化物だ」
夏芽にはまだ理解が出来ない。綺堂は説明を加える。
「妖怪というのはね、恐ろしい力を持ちながらにして、それを人間に向けないのは、創造主が人間だからだ。創造主を壊すことが出来ないという“秩序”が、妖怪にはある。人間は、夏芽さんに何度も言っている通り、妖怪のように規則正しく生きず、“秩序”を乱すことで生を得た存在だ。人喰い事件でも、蟲男事件でも、犯人は皆妖怪を利用した人間だっただろう。しかし、この拾という男は、妖怪の妖力を持ち、それを以て人間に危害を加えることが出来る。何故ならば、人間だからだ。人間の血が通っているからだ。だからあの八千代トンネルを通って、この世界とあの世界を行き来することが出来る。しかも、どうやら由宇奇の話によると、拾という奴の心は壊れているらしい。あの平沢利夫のように、宮本雪江のように。すなわち僕が言いたいのは、拾という人間は、人間に危害を加えうる、妖怪だと言っても過言ではない、ということなのだよ」
「ああ」
由宇奇は目を伏せながら同意した。
「あいつは、もう人間というよりも」
夏芽は息を呑んだ。
「妖怪だ」
妖怪は恐ろしくない、という夏芽の“常識”が、今簡単に覆されてしまった。
「人間世界に現れた、妖怪だ」
「じゃあ本当に危ないんじゃ!」
夏芽が言った。
「私の親友のたかねのお母さんが今妊娠してて」
「どのくらいで生まれるんだ?」
「あと一か月後です、しかも、男の子が」
「……夏芽、そりゃほんとか」
「先程詳しく聞いたが、どうやら、本当のようだ」
綺堂は腕を組んだ。
「全く、彼女は悉く、夏芽さんを事件に巻き込んでくれる」
ため息を吐く。
「しかも今回は、我々の手だけでは防ぎおおせない事件かもしれないというのに」
「夏芽、今すぐ、安全な場所にそのたかねの母さんとやらを隠せ!」
「それは、大丈夫です。病院に、入院させるみたいだから」
「それにしても、夜崎拾とやらは、一体何故、こんなことをしているのだろうか。単に恨みだけの犯行にしては、少しやり過ぎな気がするが……」
その時、夏芽の携帯電話がぶるる、と振動した。画面を見ると、『唐沢たかね』と表記されている。
「もしもし、たかね?」
『あ、夏芽?心配していると思って、電話したんだ。お母さんの入院先、決まったよ』
「ホントに!よかった!」
『うん。でもね。どこの産婦人科さんもいっぱいで、結局近くの岐山会病院になっちゃった』
「……そう」
『でも病院だから、大丈夫だよ。心配しないで。てか、寂しがってるから、明日、お見舞いにでも行ってあげてよ』
夏芽はぎこちなく頷きながら、
「お母さんの容態は?」
『容態?全然普通だよ?』
たかねは嬉しそうに言った。
『それに、妊婦さんなんかいっぱいいるんだから、私のお母さんが狙われるなんて、そんなこと有り得ないから大丈夫だよ』
たかねは言う。しかし、なんだかんだ今までの事件、たかねが関連している。察するに、たかねはきっと、不吉な何かを寄せ付けてしまう体質なのだろう。心配だ。
「明日、必ずお見舞いに行くね」
『うん、じゃあ、明日』
電話を切ると、綺堂が、
「たかねくんかい」
と言った。
「はい。能天気な子だから、全然事件のこと気にしてないみたいで……。でも、お母さん、病院に無事入院できたみたいです」
「そうか、それはよかった」
「明日、みんなでお見舞いに行きませんか?」
綺堂は頷いた。
「そうだな。心配なご婦人でもあるし、一度顔を拝んでおきたい。まなみさんと言ったね?」
「俺もそうしようかね」
由宇奇が気だるそうに言った。
「あ、それから」
由宇奇は綺堂を見る。
「てめえ、今夜何処に泊まる気だ」
「夏芽さん家に決まってるじゃないか」
「馬鹿言うな。未成年の家に泊めるわけに行くかよ。まあ、両親の仲人の息子としての意見だ」
由宇奇は頭を掻いた。
「とりあえず、お前はうちにこい。その方が夏芽のご両親も安心するだろう、“色んな意味で”」
確かに。と夏芽は頷いた。
「しかし、僕たちは」
「お前のそういう言動が、夏芽のお母さんまであんな風に洗脳しちまってるんだぞ。少しは反省しろ」
由宇奇は綺堂の耳をつまんだ。
「痛いじゃないか!何をするんだ」
「こんくらい、罰だと思って受け流せ。行くぞ」
由宇奇は綺堂を連れて、客間を出た。
「明日、学校休めるか?」
由宇奇が夏芽に聞く。
「多分、大丈夫です。風邪だとかなんとか言って」
「じゃあ、早えが、朝十時に、神坂公園に集合な」
「分かりました」
「夏芽さん、また明日」
綺堂が手を振る。それから、
「お母さん、お邪魔しました」
と大きな声で言った。由宇奇が綺堂を肘で軽く突く。
「だから、そういうところだっつーの」
三、
とんとん、
病室のドアが叩かれる。
「どなた?」
不信感を抱きながら、まなみは言う。
「夜崎夏芽さんの、知り合いの者です」
「あら、夏芽ちゃんの。たかねから聞いてるわ。さあ、入って」
まなみは男を病室に招き入れた。
まなみはたかねの母で、活発な性格の女性だ。出産直前まで働こうとしていたようだが、今回の事件の事もあり、夫とたかねに説得されて、昨日から入院している。
今日、夏芽が見舞いに来る、ということは聞かされていたため、然程驚かなかったが、まさか知り合いの男性だけが来るとは予想外だった。夏芽は来ないのだろうか。
「唐沢まなみさん、ですよね?たかねさんの、お母さん」
「そうです。たかねとは」
「夏芽さんの知り合いなんです」
夏芽が変わった子だという事は聞いていたが、この着物姿の不思議な男性、夏芽の彼氏だろうか。
「心配で、お見舞いに来てしまいました」
「ありがとうございます。お出しできるものなんてないけれど、よかったらお話していかない?私、とっても健康なのに、強制的に入院させられちゃって、とっても暇なのよ。どうかしら」
「いえ、今日は、これを届けに」
男は花と千羽鶴を取り出した。
「早く元気になってほしいなって思って。あ、言い方が間違ってますよね、元気な男の子を、産んでほしいなって思って」
男はにっこりと笑った。
「因みに夏芽さん、少し遅れてくるそうです。僕は、このあと用事があるので、すぐ行かなきゃいけないんですけど」
「そうなの、残念」
「お子さんのお名前は、決まってるんですか?」
「うふふ、まだ悩んでてね。秘密よ」
「そうですか。産まれたら、教えてくださいね」
花と千羽鶴を置いて、男は立ち去って行った。去り際に振り返って、
「あ、夏芽さんたちに、よろしくお願いします」
「ええ。気を遣ってくれてありがとうね」
男が出て行ってから少しして、花を手に取る。白いチューリップ。良い香りがする。春に咲く花、チューリップ。その中でも、白という、こんなに繊細な色を選ぶなんて、きっと素敵な方なんだろう。千羽鶴まで用意してくれて。夏芽はあんな優雅な人を恋人に持っているのだから、幸せ者だ。まなみは花を抱きながら、そんなことを思っていた。
男は廊下を颯爽と歩く。不意に笑いがこぼれる。
くくくく。
人間ごっこは面白い。
院内ですれ違う人は皆、男を振り返っては怪訝な顔をした。着物姿は、やはり、この世界では派手のようだ。
しかし、良い情報を手に入れることも出来た。まなみの“男児”は、順調に成長している様だ。そろそろか。そろそろ“とりだす頃か”。
男の不気味な引き笑いが、院内に響いた。
*
綺堂、夏芽、由宇奇は、病院への坂道を上っていた。
「たかねのお母さん、元気だと良いですね」
「ああ」
綺堂は言葉少なめに言った。どうやら、由宇奇の家に泊まったのが余程気にくわなかったらしい。
「夏芽さんにも二日連続で会うことが出来て、面白い事件を解決に導こうとしているというのに、何でこんなにも気持ちが重いんだ」
「悪かったな、俺の部屋が狭くてよ」
「ああ、その通りだ。僕はあんなちっぽけな部屋に住む蟲男の気がしれないね」
「誰が蟲男だ。ふざけてるといい加減殴るぞ」
「好きにし賜え。この世界には警察という奴がいるんだ。即刻呼んでやる。もう二度とお前の顔なんか見なくて済むようにな」
「二人とも……仲良くしてくださいよ」
夏芽は困ってしまった。
「これからお見舞いに行くっていうのに」
「ああ、その事だがね」
綺堂は先程から持っていた大きな紙袋から、花束を出して見せた。
「ガーベラの花束だ」
「オレンジやピンクの色とりどりのガーベラが、籠に詰まっていた」
「わあ!素敵!」
「お前、いつの間に調達しておいたんだ」
「さっきさ」
「ああ、ついでに俺の煙草を買って来いって言って、買ってこなかった時か」
ちっ、と由宇奇は舌打ちをした。
「ガーベラにはね、『希望』という意味の花言葉があってね、特にこのピンクのガーベラの花言葉は『我慢強さ』。子供を産むというのは、非常に大変な仕事だ。それを我慢強く、耐えて、立派なお子さんを産んでほしい、そんな意味を込めて、ガーベラのフラワーアレンジにしたのさ」
「綺堂さんって、意外と気が利くんですね」
「意外と、とはなんだい、夏芽さん」
「俺とは違ってよ」
「由宇奇さん、良いじゃないですか、私だって何も持ってきてないし」
由宇奇は煙草をふかしながら、不服そうだった。一本取られた、という奴だろう。
受付を済ませてを病室へ向かった。エレベーターが降りてくる。
「こちらの世界には、こういった愉快なものがあるから、面白いね」
「綺堂さん、こっちに居る時は、“向こうの世界”のことはしー、ですよ」
夏芽は人差し指を唇に当てた。
「分かってるよ」
「由宇奇さんも」
「へいへい」
エレベーターが三階に着いて、三人はエレベーターから降りた。まなみの病室は、三〇三号室。エレベーターを出てすぐそこだ。
三人は静かに歩みを進めると、病室のドアを叩いた。
「あら、夏芽ちゃん?」
「はい、おばさん、入りますね」
「どうぞ」
まなみの声は明るかった。三人は病室を開け、息を呑んだ。
―――白のチューリップ、しかも鉢植え……。
「たかねのお母さん、私たちが来る前に、誰か来たんですか?」
「ええ、着物姿の方でね。夏芽ちゃんの彼氏も着物姿って聞いてたものだから、てっきりそうだと思ったんだけど」
それから綺堂を見て、
「着物のヒトって、意外といっぱいいるのかしら」
夏芽はまなみに駆け寄った。
「何もされてませんか?無事ですか?」
「何言っているのよ。あのヒト、夏芽ちゃんの知り合いだって、言っていたわよ」
「……知り合いじゃ、無いんです」
「え?」
まなみは目を見開いた。
「でも、千羽鶴や、こんな素敵なお花まで用意してくれて……」
「千羽鶴?」
そこにはよれよれの千羽鶴があった。
「とても古そう……」
夏芽は首を傾げる。まなみは千羽鶴に目を落とすと、
「あら、確かに。まさか使い古し?嫌な人だわ」
「まなみ、さん」
綺堂が言った。
「その、チューリップも、奴が置いて言ったんですか」
「奴って……ほんとに知り合いじゃないのね?ええ、そうよ」
まなみは肩を落とした。
「てっきり夏芽ちゃんの恋人か何かかと思って、楽しくおしゃべりまでしちゃって、私ばかみたいね。たかねが、言ってた、着物姿の彼氏だと勘違いしてしまって」
「それは、僕の事です」
「そんなことより、おめえさん、やべえぞ」
由宇奇は三人の間に割って入った。
「その白いチューリップの花言葉は『失われた愛』だ。しかも、入院患者に送ってはいけない鉢植えで送っている。病魔が根付く、という意味で、忌み嫌われていることだ。それをわざわざしてきたってことは」
一息置いて、由宇奇は言った。
「次の犠牲者は、お前さんだ、まなみさん」
「え?どういうこと?」
こほん、と綺堂が咳をした。
「今の話じゃ、ごちゃごちゃし過ぎていて分かりづらいだろう。まとめるとこういう事だ。あなたのところに今朝来た男は、夏芽さんの知り合いじゃない。そして男は病人に渡してはいけない鉢植えの白いチューリップを置いていった。白いチューリップの花言葉は、『失われた愛』。つまり、子供を奪われた母の苦しみ若しくは、母を失った子供の苦しみを暗示している、と思われる、何故ならば。今日ここに来た男の外見が、多分着物姿と言うだけで容易に想像できるが、“連続妊婦殺人事件”の犯人に酷似しているからだ。だから由宇奇秋人、このルポライターは、次に狙われているのはあなただ、と確信したんだ。勿論僕も。そして、夏芽さんも、ね」
「そ、そんな……でも、その為に入院したんじゃ……」
「多分だが、あんたは、最初から狙われてたんだ」
由宇奇は言った。
「あの、たかねって少女、何か良くないモノをひきつける体質みたいだからな」
「じゃあ、わたしは、この子は、死ぬんですか?」
まなみは顔を強張らせて言った。
「嘘よ……うそ……たかねも、お父さんも、あんなに楽しみにしているというのに……私は、この子は、死ぬの……?」
「大丈夫です」
綺堂が言った。
「そうさせないために、僕たちはここまで来ました。あなたに会って、あなたを守るために」
「安心してください」
夏芽も続けて言う。
「綺堂さんと由宇奇さんがいれば、安全です。あとは、たかねのお母さんが、安静にしててくれればそれでいいんです」
まなみは三人の顔をかわるがわる見た。
「本当に、守ってくれますか?」
「勿論です」
「いいか、今度、そいつが来たら、すぐにナースコールしろ。そうすれば人が駆けつけてくれる。それと、奴は普通に産ませるのではなく、切迫早産に追い込んで無理やり胎児を引き出す。自分の手を汚さずにだ。少なくとも、男手があった方が良い。旦那を、呼び戻せ。付いててもらえ」
「わ、わかりました……」
まなみは冷や汗を流しながら言った。そんなまなみの手を、綺堂が優しく握った。綺堂とは思えない微笑みだ。
「大丈夫ですよ、心配しないで。僕たちが、付いてますから。安心して、立派なお子さんを産んでください」
それから、
「このチューリップと千羽鶴は、不吉なので持って帰りますね。代わりに、僕が今朝買ったこのガーベラをプレゼントします。ガーベラの花言葉は『希望』、そして、ピンクのガーベラの花言葉は『我慢強さ』。あなたなら、耐えぬけます。いいですね?安心して、ただ眠っていてくれればいいんです」
まなみは頷いた。
「分かりました。主人をすぐに呼び戻します。だって、息子の大事だもの。私の事はどうでもいいけれど、息子を死なせたくない。そしてたかねを悲しませるのは、もういやですもの」
「強い人で良かった」
綺堂はまなみの手を放した。
「それでは、僕たちはこれで」
「てめぇ、何のつもりだ」
由宇奇は部屋を出ると、ぼそりと綺堂に言った。
「あの不気味な笑顔はなんだ」
「私も、びっくりしました。綺堂さんが、あんな優しいことをするなんて」
「嫉妬かい?」
「いえ、違います」
「いいかい、妊婦ってのは、ただでさえホルモンの乱れで、自律神経がおかしくなっている。そこにあのような恐ろしい話をしてしまったら、恐怖で錯乱して何を起こすかしれない。妊婦への一番の治療法、それは、“安心させること”なのだよ。もし、僕たちが彼女に怖い話だけを聞かせて“気をつけてください”なんて言って去ったら、彼女は何に対しても“気をつける”ようになる。食事も、なにもかも。そして、心も身体も弱っていく。それが奴の仕組んだ罠だ。だから、僕はそれを逆手に取ってやった」
「成る程な」
由宇奇は頷いた。
「いつものお前らしくねえと思った」
「僕は単なる興味のない人間に優しくしたりなんかしない。しかし、夏芽さんや夏芽さんの友達のたかねくんの大切な人だならば、守ってやらねばなるまい」
「俺たちみたいな、半妖半人が関わっていることだしな」
「ああ。放っては置けない事態だ」
綺堂は白いチューリップの鉢植えを、由宇奇に渡した。由宇奇はそれを地面にたたきつけようとしたが、夏芽が慌てて止めた。
「花に、罪はないので……」
夏芽は由宇奇から鉢植えを受け取った。
「私が育てます」
「不吉な花だぞ」
「でも、きれいじゃないですか」
「確かにそうだ」
綺堂は頷いた。
「それに、チューリップ全般の花言葉は『思いやり』夏芽さんにピッタリの言葉だ」
夏芽は少し顔を赤くした。
「そういわれると、照れますね」
昼の鐘が鳴る。夏芽の腹の虫も、そろそろ限界を迎えそうだ。
「何か食べませんか、うちの親が、用意していると思うんです」
「本当かい!いやあ、お母さんの手料理が食べられるなんて、嬉しいよ」
「なんか、勘違いされそうだから、俺は遠慮しとくわ」
由宇奇は言った。
「えー!由宇奇さんも来てくださいよ」
「だーかーら。おめーの母親に変な因縁つけられたくねえっての。また親族での集まりがあった時に気まじいだろうが」
「そうですか」
夏芽は残念そうに肩を落とした。それを見て由宇奇は、
「まあ、気持ちだけ、ありがたく受け取っとくよ」
と言った。
「それから、綺堂」
綺堂は由宇奇の方を向く。
「その千羽鶴、よこせ」
*
「ああ、愉快でたまんねえや」
半顔を包帯で隠した着物姿の男、拾は、楽しそうに笑った。
「すぐ人の事、信じちまうんだからなあ」
拾は懐から手鏡を出した。
「こんな顔で、こんな格好でも、ああ、こんなのもいるんだ、で終わる。人間世界では、やりづれえ格好かと思ってたけど、そうでもなかったか。不思議なもんだね。人混みの中に居たら、溶け込めちまう、どんな珍妙な姿でも、例え、半分以上が妖怪だとしても」
くくくく……。
拾は、八千代トンネルの淵にもたれ掛かっていた。
誰も、拾を、悪魔の殺人鬼だとは思っていないのだ。すれ違いざまに、殺されてしまうかもしれない、そんな恐怖を、彼らは感じることなく、しかし身近に潜ませながら生きている。そう考えると、愉快でたまらない。
「ああ、おもしれえ、これから滅ぼすってのに、今更面白さに気付いちまうなんてね」
だが、拾の心は変わる由もなかった。傷つき、やつれ、錆付いた心は、今や修復不可能であった。脳味噌が、人間の誕生を阻止せよと命じる。だから子供を、産ませない。産み落とさせない、新たな命を。今まで、自ら手を汚すことを避けてきた。しかし、もう我慢が出来ない。血が見たい、血が。あのほとばしる鮮血を。
あと一人。あと一人で、妖怪世界と人間世界が繋がる。そうしたら、ゾンビ化した妖怪たちが、人間たちを、嫌でも滅ぼしてくれる。自分を生み出してくれた、母なる人間を……。母という存在が、この世から消える。
なんと喜ばしいことか。
「夜崎拾」
突如、名前を呼ばれ、拾は振り向いた。そこには見知った顔があった。
「やっぱり、来ましたか、由宇奇秋人」
由宇奇は手に持った千羽鶴を目の前にかざした。
「お前、こんな大事なもん、捨てちまったらいけねえだろ」
「何言ってんだ、俺にゃ大事なもんなんか、存在しちゃあいねえって」
「これは、お前の親父さんが亡くなる時に、お前が作った、千羽鶴だろうが。この、不細工な作りですぐにわかった。お前、関係もない人間殺して、母親に復讐したような気になってんじゃねえだろうな」
「なってるとしたら?」
拾は悪戯っぽく笑った。
「母親に復讐した気になっているとしたら、どうするってのさあ?」
「てめえ」
由宇奇は拾の胸倉を掴んで、トンネルに押し当てた。
「死んだ、親父さんの気持ちも考えてみろ。確かにお前の母親は、悪魔みたいなやつだったさ。でもな、親父さんは精一杯お前を守ろうとした。死んじまったけど、守ろうとしたんだ。その、守られた命を、こうやって無闇に“人の命を奪う事”に使うなんて、親父さんに謝れ!天国の親父さんに」
「天国なんざあ、ねえよ」
拾は冷たい目をしていた。
「俺あ、観てきた、いろんな奴の死を。そこには、地獄しかなかった。天国なんざあ、ねえよお、なあ、由宇奇。おめえにも、わかるだろうよ」
「わかんねえな」
「わからせてやるっていってんのよ」
突然、強風にあおられたように、由宇奇は拾から遠ざけられた。胸倉を掴んでいた手が、離れてしまう。
「俺あさあ、由宇奇の事は嫌いじゃねえよ?寧ろ大好きなわけ」
拾はゆっくりと、右半顔の包帯を説き始めていた。
「けどよお、世界一嫌いなもんがあるんだあ」
右半顔が露わになる。焼け爛れ、まぶたがない。表情のない顔は、由宇奇を睨み付けると言った。
「胡散臭え、説教だよお、由宇奇」
真赤な炎が上がった。由宇奇は唖然としてそれを見つめる。人間世界で、妖力を使ってはいけないとされている。それが人間世界の秩序を乱すことに繋がるからだ。しかし、目の前に居る夜崎拾は、ルールをあっけなく壊してしまった。それほどまでに、奴の心は汚染され、そして妖力は、強かった。
「よせ、拾!」
「大丈夫、今の俺の標的は一つ」
「一つ?」
真赤な炎の弦が、拾の右半顔から生えるようにして飛び出し、動きを止めて、由宇奇の方を見た。見た、という表現が正しいのかはわからない。しかし、炎の弦は確実に、由宇奇を捉えていた。
拾はにやりと笑って、仕留めるように言った。
「お前だよお、由宇奇い」
*
昼食を食べていた夏芽の携帯電話が鳴った。
「もうなっちゃん、ご飯を食べるときくらい電話はしまって?」
「だって、何があるかわからない世の中だよ。持っておかないと。ちょっと待ってて」
夏芽は箸をおいて、携帯電話の画面を見た。知らない番号からだった。
―――誰だろう。
夏芽は不審に思いながら電話に出た。
「もしもし?」
『もしもーし。由宇奇くんの、お知り合いさん?』
「あ、はい、そうですけど」
『由宇奇くんねえ、ダンプカーに轢かれちゃってね、今、死にそうなの。八千代トンネルの近くでねえ。この世界の“救急車”?とかの番号知らねえから、とりあえず、ここに電話してみたんだけどお、なんてったって、名字があ、俺と一緒だから興奮しちゃって』
「名字が一緒?何言っているんですか?てか、由宇奇さんがダンプカーに轢かれたって」
綺堂が箸を止めたのが分かった。
『とりあえず、八千代トンネルに来たほうがいいってことよ。由宇奇、死んじゃいそうだからさあ』
「夏芽さん、代われ!」
綺堂は奪うように夏芽から携帯電話を取り上げた。
「おい、おい!お前!」
ツ―――――――。
電話は切れていた。
「くそっ……」
いつになく、綺堂が取り乱した。
「夏芽さん、奴は、なんて?」
「あの、八千代トンネルの近くで、由宇奇さんがダンプカーにはねられたから、すぐ来いって……」
「行こう。まず、一一九番するんだ、八千代トンネルに向かうようにって」
「わ、わかりました」
春代は慌てて、
「秋人くん、どうかしたの?」
「詳しくは、後で話します!今は、急ぎますので、御馳走様でした!夏芽さん、行こう」
綺堂は夏芽の手を取って走り出した。夏芽は救急車の要請をしながら、八千代トンネルを目指す。穏やかではない風が吹いていた。あの妖怪世界の様な、曇天の下。夏芽は少し狼狽えながら、綺堂のがっしりとした手だけを頼りに走った。
八千代トンネルには、まだ救急車が到着して居ないようだった。そう分かったのは、人気のないいつもの様子と、血だまりの中で横たわる、由宇奇秋人の姿を見つけたからだ。
「由宇奇!」
綺堂は夏芽から手を放すと、由宇奇の元へと駆け寄った。余りにもおびただしい血痕が、トンネルの手前一帯を黒い水たまりのように映しだす。綺堂は由宇奇を抱き起すと、何度も名前を呼んだ。
「由宇奇!由宇奇!しっかりしろ!」
反応はない。夏芽は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
綺堂は着物の袖をちぎると、由宇奇の腹を押さえた。どうやら、そこの傷が深いらしい。血があふれ出続けている。
「くそっ、血が止まらない……」
夏芽は脳味噌がぐらぐら揺れるのを感じた。さっきまで、隣にいた人が、死に逝こうとしている。由宇奇は目を開けない。血だまりは、少しずつ広まって、夏芽の足元まで到達していた。
―――血だ……。
以前、綺堂の血を見た時に卒倒したのを思い出した。あの時は、脳味噌が正常では無かった。今は違う。
夏芽は由宇奇の元に駆け寄った。
「由宇奇さん!」
「夏芽さん、あらゆるところを切り刻まれている。本当に、まるでダンプカーにでもはねられたかのようだ。ここを、押さえてくれ」
言われた通りに、夏芽は由宇奇の胸の位置を押さえた。由宇奇は目を覚まさない。
「脈はある。まだ、生きている。大丈夫だ。救急車がくるまで、なんとかもたせよう」
遠のいていく意識の中、二つの顔が由宇奇の瞳に映った。
俺は、死ぬのか。
何もできずに。
友人一人救えずに。
死ぬのか。
「死ぬな!由宇奇!お前にはまだやることがたくさん残っているだろうが!」
やること……。
忘れてしまった……。
もう死ぬのだから。
いいだろう……。
悲鳴のような、綺堂の声がトンネルに反響した。しかし、由宇奇には、もう何も聞こえなかった。
*
「なんであたしだけ」
優子は家に閉じこもり、コーヒーを飲みながら言った。
「人を喰らうなんざ、寧ろあたしの方が都合がいいってのに」
妖怪世界の妖怪たちは、皆人間を襲い、喰らうようになっていた。どん、どん、と魂が消える音がする。耳をふさぎたい気分だった。
優子が“妖怪”を辞めてから早数百年が経つ。その為、その名を知らぬ者も多い。その所為だろうか。もしその所為で毒されていないのだとしたら。
“妖怪であることを忌み嫌う妖怪”は毒されることはないのかもしれない。
その時、玄関のインターホンが鳴った。こんな時に、こんな恐ろしいときに一体誰が。
ドアを開くと、そこには人間がいた。恐怖で逃げ込んできたのだろうか。優子は、
「あんた、人間だね?怖いだろ。入んな」
「どうしてだ」
男は言った。
「なんで、おめえには利かねえ」
「何を言っているんだい?」
奇妙だ、と、男は笑った。それから、
「上がらせてもらうよ」
と、優子の家へ入った。
「あんた、帰り道、わかるかい?今、妖怪の世界はおかしくなっていてね。このままここに居ると、あんた、危ないよ」
「へえ、そうなんだあ」
「……ここまで来るのに、襲われなかったかい?」
「あんた、俺を見ても、“正気”なのかい?」
「何を言っているんだい」
会話がかみ合わない。男はくくくく、と笑うと、
「珍しい妖怪も居るもんだね。興味深い。あんたの話、聞かせてくれないかい」
「あたしの話?」
「ああ、あんたが」
男は一呼吸置いた。
「妖怪を辞めた話」
四、
「この化物!」
今日も母親は少年を叩いた。少年が、母の大切にしていた皿を割ってしまったからである。
「お前なんか産まなきゃよかった!」
「なんてことを言うんだ咲良!」
父は母を一喝した。
「拾だって、わざとやったんじゃないだろう!そんな言い方しなくてもいいじゃあないか。それでも母親か!」
父は少年を抱きしめた。
「かわいそうに、こんなに脅えて」
少年は泣いていた。母に喜んでほしかった。それで、お気に入りのお皿に、手料理を作って運ぼうとしたのだ。
「もとはと言えば咲良、お前の血筋の所為じゃないか!」
「私がすべて悪いっていうの!」
「いや……私も悪い。霊力の強い人間の子孫であるからな。ふたり、あわせて、このような顔になってしまったんだ。親の所為なんだ。可哀想に」
少年は泣いて父に縋った。
「すまないなあ、すまない」
父は少年を母から庇うようにして、いつもそうやって謝った。
こんな顔だから、幼稚園には行けなかった。必ず虐めの対象になる。両親が、というよりも、父が、そう考えたからだった。
少年はいつも、同じく幼稚園に行けない従兄弟の少年と一緒に遊んでいた。名は秋人という。彼は少年の顔を見ても驚かなかった。たまに自分の腕を見せては、
「今日もむず痒い」
といって白い蟲を見せてくれた。
秋人の蟲は、居るだけで、何もしないのだという。少年の顔も、醜いだけで、何をする訳でもなかった。
ただ、母を異常に怖がらせた。母は言った。
「夢にまで、あんたの顔が出てくるのよ」
この顔に怯えているのならば、いっそ、この顔をつぶしてしまおうかとも思った。しかし、そんな勇気は少年には無かった。
水面を見るたびに、少年の醜く爛れた顔が映った。しかし、生まれてからこの顔と共に生きてきた少年にとって、この顔は決して汚れた恐ろしいものでは無かった。
単に自分である。
それだけだった。
それ故に、母がどうして自分を恐れているのかがわからなかった。母は何故、自分をここまで恐れる。秋人にだって、腕に蟲が住んでいる。母の身体にだって、きっと何か異常があるに違いない。それなのに、どうしてこんなに少年ばかりを責めるのか。少年には理解できなかった。
ただ、少年は愛してほしかった。自分を見てほしかった。
一緒に居て、笑ってほしかった。
少年は母に殴られるたび、そう思った。
今日も殴られた。目つきが悪いと言って殴られた。母と一緒に居たいと、そう言いたくても言い出せず、隣に立って、母の顔を見ていた、それだけで、殴られた。
父がいない時、母は少年を必ず殴った。服で隠れて見えないところを蹴ったりもした。少年が母のいる部屋から去ると、決まって母の泣き声が聞こえた。
母の父は妖怪だった。恐ろしく、強い妖怪だったと聞いている。しかし、人間と結婚をして、子が産まれてから姿を消したのだという。
だから、母は、父を見たことがない、と父から聞いたことがある。少年も、祖父を見たことが無かった。それ程に、恐ろしい妖怪だったのだろう、醜い妖怪だったのだろう。
母は、自らが妖怪の子孫であるという事を恥じていた。その為、それを寛容に受け入れてくれそうな男性を、見合いで見つけたのだという。それが父だ。父は、“霊力”を持つ人間、所謂巫女などの部類の人間の子孫で、霊感が非常に強いため、一目で母を、半妖半人であると見抜いたという。そうやって二人は結ばれ、子が生まれた。母は、やっと妖怪という恐怖から逸脱して幸せになれる、そう思っていた。
しかし、生まれた子供の顔半分は妖怪のように爛れていた。
原因は不明で、皮膚移植をしても治らないと言われたという。妖怪の部分が、容姿に現れてしまったのだ。
それから母は狂ったように、我が子に手をあげるようになった。
少年は虐待を受けながら、五歳にまで成長した。
母が少年を嫌う理由が明確にわかったのは、その頃である。
風呂から出る母の姿が、遠くから見えた。少年は隠れながら、何となくその姿を見ていた。母親の背中には、火にあぶられたように爛れた模様があった。
―――間蟲だ!
火間蟲入道、それが祖父の名である。彼女は、火であぶられたような模様として、妖怪の部分を受け継いでいた。
女性にとって、身体に傷があるというのは、非常に辛いことだ。学校の水泳の授業も出られず、夏に海なんかにも行けず、背中の爛れた模様の所為で、散々辛い目に遭ったに違いない。
だから子供を見るたびに、それを思い出すのだ。思い出して、少年を叩くのである。
それが、彼女の真実だった。
その日から、少年は母に殴られても泣かなくなった。自分も強くならなくては、強くなって、母を虐める人間たちから母を守らなくては。そう思ったからだ。
父は、勿論母に殴られる少年を守ってくれた。父がいない時は、泣かずに堪えた。辛い日々だった。どんなに殴られても、蹴られても、罵られても、少年は泣かなかった。そうすれば、いつか母が認めてくれる、そんな気がしていた。
泣かない少年を見て、母は不満げだった。父は、虐待によって感情を失ってしまったのだ、と嘆いて、母を責めた。その度、母は、
「お前なんか産まなきゃよかった!」
と言って泣いた。少年は、それを見るのがつらかった。
そんなある日、父は病気になった。結核だった。治らないと言われた。それでも少年は、治ると願って、千羽鶴を折った。友人の秋人も一緒に折ってくれた。二人で、父の回復を願った。
一か月後父が死んだ。
母は今まで以上に、狂ったように泣き続けた。少年は、やはり泣かなかった。母が泣いているのだ、自分まで泣いてしまったら、誰が母を守るのだ。
母は父の亡骸に縋りながら、少年をきっとにらんだ。
「お前の所為だ」
「僕は、何もしてないよ、お母さん」
少年は久しぶりに口を開いた。
「お父さんがいなくなった分、僕が、お母さんを守ってみせるよ」
「ふざけるな!」
母は叫んだ。
「お前の所為でお父さんは死んだんだ!お前が生まれてきたせいで。お前の所為で心労がたたって、死んだんだ!すべて、お前の所為だ!」
少年は慌てて首を振った。
「僕は、何も……」
「お前なんて」
母の目から大粒の涙がこぼれた。
「お前なんて産まなきゃよかった」
葬式が終わると、母は出て行った。行く当てなどあるというのか。死にに逝ったのか。少年にはわからない。
少年はそのまま児童養護施設へ預けられることになった。児童養護施設へ預けられる際、秋人の父親が、爛れた顔に包帯を巻いてくれた。
「これで少しは隠せよう。いいか、辛くなったらいつでも家に来るんだよ」
少年は頷いた。秋人は、少年に、千羽鶴を渡した。
「これを見て、俺と、お父さんを思い出して」
少年は去っていった。
児童養護施設で、やはり、少年は虐めを受けた。あろうことか顔の包帯の所為だった。
「こいつ、年がら年中顔に怪我してやがる!」
「きもちわる!」
「化け物!」
皆そう言って、少年を嘲笑った。
石を投げられたこともあった。綺麗な方の顔にも、石が当たって、傷が出来た。職員に見つかって、
「どうしたの?」
と尋ねられたが、
「転んだ」
と言った。職員は、首をかげていた。
ある日、また、化け物、と呼ばれて虐められた。仕方なく少年は、
「そうなんだ」
と、芝居を打つことにした。本当に、化け物ってことにして、少しだけ、虐めっ子たちを懲らしめたかった。それだけだった。
「僕は本当は、化け物なんだ」
少年はゆっくりと包帯をほどいた。
「怖がらせないように、これを巻いていたけれど」
ほどけた包帯の下には、爛れた顔と、まぶたのない、剥き出した眼球があった。
「僕は化け物なんだ」
虐めっ子たちは悲鳴を上げると、即座に逃げ出した。
その日から、少年が虐められることはなくなった。
そんな少年だったが、養護施設にひとりだけ、友達がいた。
名前は思い出せないが、優しい少女だった。
少年の事を化物呼ばわりする虐めっ子たちを追い払ったり、石を投げられた時は身を挺して庇ってくれたりした。その所為で、彼女は右肩に大きな痣を作ってしまった。消えないかもしれない、と言われたけれど少女は気にする様子もなかった。
「自分だって、ほくろがあったり、ゆうすけくんなんか、吊り目でしょ。なのにどうして、あなただけ虐められるのかしら。みんなそれぞれ、特徴があっていいと思うの。私だってそう。あなたたちのお蔭で、もう一つ特徴が出来たしね」
右肩の痣の事を、彼女はそう言って笑った。
ある日、彼女は、叔母が迎えに来て、去っていった。どうやら、一時的に預かられていたらしい。最後まで、少年の事で渋っていたが、仕方なく、さよならをすることとなった。
「大丈夫。みんな僕のことを、化物だと思ってる。だから、虐めたりはもうしないよ」
「だから心配なのよ。あなたは化物じゃないでしょう。あなたは人間よ。そして、大切な私の友達でしょ」
彼女はそう言って小指を出した。
「いつまでも、自分を責めないで、そしてもう二度と、自分を化物だなんて呼ばないで。約束」
二人は指切りをすると、さよなら、と言って別れた。
彼女が去ってからは、ただ孤独だった。孤独でしかなかった。
少年は少女を追うかのように、いや、笑ってくれなかったあの日の母親を追うかのように、養護施設を抜け出した。
拾は煙草屋で葉巻を買った。
「うまくいってやすかい」
「そりゃあ、もちろん」
拾は葉巻を吸って吐いた。
「いらねえの、ひとつ消してきたし、八千代トンネルが開かれるまで、あと一人ってとこまできたよ」
「あと一人の幼子で、八千代トンネルが本当に解放されるんですかい?」
「てめえ、俺を疑ってんの?あったりめえよ、調べたんだもの。贄が必要ってな」
「まあ、旦那が言うんなら本当なんでしょう」
「そういえば、お前も俺を見ても平気だね?どうして?」
「どうしてもこうしても、あっしは妖怪業なんざとうの昔にやめてますからね。今は煙草屋の、ただの亭主ですよ」
「……そうかい。さっき、同じような奴に話を聞いてきたよ。まあ、妖怪に手を下すほど、俺にゃ力はないから、放っておくことにしたけどさ」
葉巻の煙がすうっと曇天に上がっていった。
*
瞼を開けると白い天井が目に入った。最後の記憶は、拾との会話だ。拾はどうやら、由宇奇の事を友人だと思ってくれてはいたらしい。しかし、邪魔ものとして、排除しようとした。突風が吹いた所まで記憶があるが、それ以降は脳が拒絶反応を起こして思い出せない。多分、それほどの恐怖に、由宇奇は陥ったのだろう、あの短時間で。
確実に息の根を止められるかと思ったが、この状況を見ると、そうでは無かったようだ。
由宇奇が目を開けたのを見て、夏芽が声をあげた。
「綺堂さん!綺堂さん!由宇奇さんが!目を覚ましました!」
それから由宇奇の肩にしがみつく。
「よかった……本当に良かった……」
「こいつがそんなことで死ぬはずがないだろう、夏芽さん」
綺堂はいつも通り平静を装って言った。しかし、内心安堵していた。
「由宇奇さん、大丈夫ですか?」
夏芽が聞く。由宇奇は何とか、
「ああ」
と声を絞り出した。
「由宇奇さん……」
その蚊の鳴くようなかすかな声に、夏芽は泣き出してしまった。
「由宇奇さん、死ぬところだったんですよ……」
何となく覚えていた。由宇奇の止血をしようと二人が駆け寄ってくる姿。
「夏芽、わりいことしたな」
由宇奇は出来るだけ、元の声に聞こえるように言った。のどの方までやられたらしく、扁桃腺が腫れている。その所為で、以前よりまして、ガラガラ声だ。
「二人が助けてくれたんだろう。ありがとよ」
「助けたんじゃない。血が出ていたから、止めただけだ」
「それを助けたって……まあいいや」
由宇奇は咳込んだ。
「俺、どんくらい寝てた?」
「三日です。あの日から、三日目です、今日」
夏芽は目を腫らして、言った。
「一緒に、病院にお見舞いに行って、それで、一緒にご飯食べようって言って……私、断られて。でももっと、もっと強く誘っておけば、由宇奇さんはこんなことにはならなかった……」
「違えよ、夏芽。俺は、最初から、あいつに会いに行くつもりだったんだ」
「え?」
「あいつとは、従兄弟って言ったよな。だから、もうこんなことはやめろって、言いに行ったんだ」
「でも、場所は分からないんじゃ」
「分からないから適当に、八千代トンネルまで行った。そうしたら案の定、あいつがいたってわけだ」
由宇奇は包帯に巻かれた腕を上げたり下げたりしながら言った。
「話し合いで解決できなかったんだな」
綺堂が言う。
「そういう奴じゃねえって、俺分かってたつもりだったんだけどなあ。最後の希望にかけちまったよ。あっさり裏切られて死にそうになったけど」
「由宇奇さん、今度から一人でこんな危ないことしないでください!由宇奇さんに何かあったら、私……」
「はいはい、もう泣かないの、お嬢ちゃん」
夏芽は両手に顔を埋めた。由宇奇は綺堂を見ると、
「おめえ、俺の腕のこと、医者になんて言った?さぞ気味悪がっただろ」
由宇奇の両腕は、“白い蟲”で覆われていた。寄生虫が顔を出しているように、由宇奇の腕からはその蟲たちが、“生えて”居る。何をする訳でもないが、通常の人間ではありえない。由宇奇は腕に、無数の生きた蟲たちを飼っていた。というより、同じ身体に同居している、という言い方の方が正しいのかもしれない。
「奇病だと言っておいた」
「正解だ。でも、こんなに包帯で巻かなくても……」
「腕は無傷だった。両方ともな。妖力に守られたんだろう。だが、医者はやはり気味悪がって、包帯で巻いたってわけだ」
「ひでえ、ヤブだな。まあ、他の患者に見られるよりはマシか」
由宇奇は再び天井を見上げた。
「やっぱり、あいつは、止めらんねえ」
「分かってたなら、何故一人で会った。命をも奪われかねんかったぞ」
由宇奇は寂しそうに笑った。
「幼馴染だったからな」
「……そうか」
綺堂は腕を組んだ。
「だが、我々も君の友人であるという事を、忘れないでほしい」
「ああ。すまなかった。浅はかだったよ」
由宇奇は、夏芽の泣き顔を見て言った。
「ところで、奴に何をされた」
「何を?」
「奴から電話が来たんだ、『ダンプカーに轢かれた』ってな。でもそれにしちゃあ傷がひどすぎる。それにしちゃあってのもおかしいが、お前が半妖半人でなければ、死んでいただろう。全身が骨折。体中が切り傷だらけで腹部に穴が数か所開いていた。本当にダンプカーにはねられたのだとしたら、鋭い牙を幾つも持ったデコレーションダンプカーに轢かれながら突き刺されたとしか思えない」
「お前にしてはよく出来た冗談じゃねえか。でも、思い出せねえんだよ」
由宇奇は再び天井を見上げた。
「あいつの胸倉を掴んだんだ。そうしたら、突然突風が吹いてよう、あいつから離れた。それ以降、お前らが来るまでの記憶がすっからかんだ」
「相当のダメージだったんだろうな」
「そうだろう。ダメージどころではなかったさ。この傷、わかってると思うが、ダンプカーなんかじゃねえぜ」
「妖力か」
「ああ」
「奴は、相当危険なようだな」
綺堂は複雑そうな顔をした。
「まなみさんを、守り切れるかどうか……」
「綺堂さんが弱気になってどうするんですか!」
突然、つい今まで泣いていた夏芽が、目を腫らしたまま立ち上がった。
「由宇奇さんがこうなってしまったからこそ、だからこそ、もっと奮い立つべきです」
由宇奇は一瞬圧倒されながら、ははは、と笑った。
「夏芽、流石夜崎家の跡取りだ。強えな。俺も、夏芽に一票だぜ。それに」
由宇奇は傷だらけの身体で起き上がってみせた。
「妖怪の力をなめちゃいけねえ」
「由宇奇さん、まだ怪我が」
「俺は普通の人間と違って、治りが早えんだよ」
由宇奇は腹部の包帯を一巻き一巻き解いて見せた。穴が空いているように深かった傷が、もうふさがっていた。縫った痕だけが残っている。痣もない。小さな傷は、消えてしまったかのようだ。
「三日間も寝てりゃ、完治してても不思議じゃねえってのに、まだ痛むってことは、それほど強い力で痛めつけられたんだろう」
「そりゃあそうです。だって、血まみれで、もう死んじゃったのかと思ったくらいでした」
夏芽は抗議するように言った。助かったのはよかったが、こうやって奇妙な程に回復した姿を見ると、三日間祈るように由宇奇に付き添い続けた自分が馬鹿らしく思えて、夏芽は溜息をつかずにはいられなかった。半妖半人とはいうが、あそこまで血を流して、あそこまでひどいけがをして、三日で回復するなんて、通常の人間だったら想像しえない。しかし、大事に至らず、よかった。
「これからどうする」
由宇奇が言った。
「これほど危険な“男”に、夏芽を関与させるわけにはいかないだろう」
夏芽は思わず顔を上げた。呆然とする。
「この件から、夏芽は外そう」
「それには僕も同感だ」
綺堂が続けた。
「夏芽さんは普通の人間だ。相手が半妖半人、しかも、妖力の強い、“悪人”であると分かった以上、関わらせるわけにはいかない。お母さんも、望まないだろう」
ここで、春代の事を口にするのは卑怯だ。夏芽は拳を握った。最初にまなみを助けたいと言ったのは、夏芽だ。そして、由宇奇の看病を、三日間し続けたのも、夏芽だ。綺堂と共に、由宇奇を助けたのも、夏芽だ。
「そんなの、ずるいじゃないですか」
夏芽は言った。
「そんなのずるい。私が、私が言い始めた事なのに、二人ばかり危険な目に遭って傷ついて、私ばかり逃げろというんですか。そんなの、あんまりです。できません」
「夏芽さん、君の気持ちもわかるが」
「綺堂さんも綺堂さんです。私の気持ち、知っているくせに。私がどんなに、たかねを大切に思っているか、そして、綺堂さんと由宇奇さんを、どれだけ大切に思っているか……。それなのに、三人を、たかねのお母さんや赤ちゃん、お父さんを合わせたら六人を置いて、私だけ逃げろって、言うんですか。そんなことできません。できない。したくもない!」
「てめぇがいると足手まといだって言ってんだよ」
ふと、由宇奇が言った。
「俺でさえ、油断してこれだ。俺だったからこそ助かったが、もしお前だったら、死んでた。確実にな。そうしたら、何人の人間が悲しむと思っている。俺はそう簡単に死なない。綺堂もだ。だが、お前は違う。簡単に、死ぬ。そんな奴、足手まとい以外のなにものでもない。俺を助けてくれたことは礼を言う。だが、今回の事件、お前は外す。これ以上口を出すな、顔を突っ込むな」
厳しい口調だった。夏芽は食い下がる。
「何よ!動けないくせに!」
「動けるっての。半妖半人なんだからよ」
由宇奇はそういうと、ベッドから起き上がり、床に足を付けて立ち上がってみせた。
「これで満足だろ。お前がいなくても、俺と綺堂で何とかできる」
「嘘よ。由宇奇さん。私を、馬鹿にしてるでしょ」
突然、夏芽は由宇奇に突進した。由宇奇は避けることが出来ず、衝撃と共に、そのまま夏芽に馬乗りにされる。
「女子高生の攻撃を避けることさえ出来ないようなおっさんが、事件を解決できる筈ないでしょ!」
「おっさんとはなんだ!痛!」
由宇奇は、やはり完治していなかった腹部を押さえた。外見は綺麗に見えても、中身、つまり骨は接着していなかったに違いない。由宇奇はもだえると、夏芽の下で丸く縮まった。夏芽は慌てて由宇奇から退く。
「ご、ごめんなさい、つい……」
「初めて女に押し倒されたが……こんな形になるとはな……」
由宇奇は腹部を押さえながら、立ち上がれず、壁に寄り掛かった。夏芽は慌てた。頭に血が上って突発的に起こした行動ではあったが、これで由宇奇の怪我が悪化するようなことがあったらどうしよう。かなりの勢いで突進してしまった。しかも頭からだ。最悪、骨の一、二本、ひびが入ったかもしれない。
綺堂は笑った。
「いやあ、夏芽さんにはいつも驚かされるが、今回は本当にまいったね」
綺堂は由宇奇、ではなく、夏芽に手を貸し、起き上がらせると、白いベッドに座らせた。
「由宇奇、演技をしても、夏芽さんにはお見通しみたいだ。貴様はまだ傷が治っていない。通常の人間通りに動くことも、ままならない状態だ。もう少し休息が必要と言っていいだろう。その間、妊婦殺害事件については、僕が主導して調べよう。しかし、一人では心もとない。そこで、夏芽さんを今まで通り、助手として起用しようと思う。あくまで、貴様の復帰までだ」
由宇奇は壁伝いに立ち上がった。「普通、けが人に手を貸すだろうが」、とかなんとか、嫌味を垂れ流す。腹部と肩を両手で押さえながら、ゆっくりとベッドまで向かうと、夏芽の横に腰を下ろした。
「俺が、俺がやられたときの姿、見たか?」
険しい顔だった、夏芽は頷く。それから、
「すみません、今、やりすぎました……」
「あの時の俺の姿」
由宇奇は夏芽の言葉を遮った。
「忘れるな。お前は絶対ああなるな」
由宇奇の脳内には、あの旋風が甦っていた。思わず手を放してしまうほどの、突風。恐ろしい表情の、拾。友人だった、拾。
救うことが出来なかった。たった風ひとつで、この手を放してしまった。もっと強く、奴を捕まえてやるべきだった。捕まえて、放さない、二人の友情は、そのくらい強いものだと思っていた。
―――最初に手を放したのは、俺だ。
白いシーツは、由宇奇と夏芽の体重で皺を作る。めしめしと軋むベッドは、由宇奇が小刻みに震えているのを夏芽に分からせた。あの由宇奇が、誰よりも男らしく、頼れる由宇奇が震えている。それ程、相手は恐ろしいのか、それとも、従兄弟であるという事に罪悪感を抱いているのか。夏芽にはわからなかった。
「俺は、怖い。お前が、血の海に寝転がる姿が思い描かれて、嫌でも脳内に映し出されて、それに恐怖している。しかも、それを行うのが拾だと考えると、従兄弟だと考えると、それだけで恐ろしくて、壊れてしまいそうだ」
「私は、死にません。約束します」
震える由宇奇の手を、夏芽は握った。
「俺の身体が治るまで」
由宇奇は静かに唇を動かした。
「俺の身体が治るまで、あいつを、止めててくれるか」
ああ、やはり、由宇奇は、拾への恐怖で震えていたのではなかった。従兄弟を思いやる、優しい思いから来た震えだったのだ。
「お前なら、できるかもしれない」
由宇奇は続けた。
「同じ“夜崎”の姓を持つ、お前なら」
夏芽は強く頷いた。
「絶対に、助けてみせます、まなみさんも、拾って人も」
由宇奇は顔を上げて夏芽を見た。夏芽は見つめ返して、もう一度頷いた。
「二人とも、助けてみせます」
「夏芽さん、そうと決まったら、一度行ってみたいところがある」
綺堂が言った。
「先日、“向こうの世界”の公衆電話から、連絡があった。由宇奇の手術中だったから、出ることが出来なかったが、多分、何か僕に知らせたいことがあって連絡してきたのだろう。そんなことをしてくるお人よしは一人しかいない。少々危険を伴うが、久しぶりに、八千代トンネルを通ってみないか」
きっと、綺堂に連絡を入れたのは、お人よしの妖怪、通称“人喰い女”、波奈野目優子である。夏芽は立ち上がった。
「行きましょう」
「喰われるかもしれねえんだぞ、危険だ」
由宇奇が言う。
「言ったでしょう、絶対に、助けてみせますって」
夏芽は由宇奇に笑って見せた。
「それに、私の事は、綺堂さんが助けてくれるから大丈夫なんですよ」
「夏芽さん、ついに僕の事を利用し始めたね?」
「いつもの事じゃないですか」
二人の会話に、由宇奇は静かに微笑んだ。この二人なら、任せても平気かもしれない。拾を、救ってくれるかもしれない。犯罪の嵐を、治めてくれるかもしれない。そして、それに終止符を打つのは、従兄弟であり親友である、由宇奇自身でなければならない。その為に、早く回復しなければならない。
「早く行け」
由宇奇は言った。
「早く行って、優子に会ってこい。それで、全て終わるんだったら、ここに居る時間がもったいない。俺も、寝て、早く治さなきゃいけねえしな」
「お前が戻ってくるころには、既に事件は解決しているだろう。残念だったな、由宇奇。今回も僕の勝ちだ」
「“も”ってなんだ“も”って。お前に負けた覚えはないし、勝負さえした覚えがないぞ」
ははは、と綺堂は笑った。
夏芽は部屋を出る最後まで、由宇奇の体調を心配していた。心配してくれなければ困る。夏芽が由宇奇の怪我を悪化させたようなものなのだから。由宇奇は、態と痛がったり、嘘だ、と言って誤魔化したりして最後まで夏芽を困惑させた。その度に、夏芽の表情はころころと変わる。面白い“女”だ。
綺堂と夏芽が部屋を出た後、由宇奇は窓の外を見つめていた。三階だろう、眺めがいい。三階と言えば、同じ階にたかねの母、まなみがいる筈だ。もしもの時は、自分が守ることが出来る。しかし――――――。脳内に先程の夏芽の泣き顔が浮かんだ。
―――無理はしないでおこう。
由宇奇は静かにベッドに横になると、目を閉じて強引に眠りについた。
*
春代はテレビをつけた。ワイドショーで、“連続妊婦殺害事件”の話をしている。今日は、由宇奇秋人は休みのようだ。夏芽から連絡があったが、“ダンプカーに轢かれて”重症なのだそうだ。
「秋人くんが出てたから見てたようなものなのに」
ため息を吐く。つまらない。秋人の容態については、ワイドショーでは取り上げられていないが、体調不良のため、欠席、とされていた。
由宇奇の代わりのコメンテーターは退屈な人間だった。有名大学の教授らしいが、猟奇的だとか、残虐的だとか、幼少時に何か問題を持っていた者が犯人だとか、誰でもわかる事ばかり、大げさに言ってのける。
「そんな発言、誰も求めてないのよ、馬鹿な教授も居るのね」
春代は文句を言いながら、しかしワイドショーを見続けた。
この事件には特に興味があった。何故かわからないが、嫌な予感がして堪らなかった。先程、夏芽から「由宇奇が目を覚ました」という事と「会話できるくらい回復している」という事を聞いた。由宇奇の家系は特殊だから、“ダンプカーに轢かれた”程度で死ぬことはないだろうことは、春代は知っていた。それにしても、三日も目を覚まさないとは、相当な勢いでダンプカーに轢かれたか、かなり巨大なダンプカーに轢きつぶされたに違いない。今日中にでも、由宇奇の所にお見舞いに行こう。花は何がいいか……いや、男性のお見舞いに行くのに花はよくないか。そう言えば、まなみも由宇奇と同じ病院に入院しているという。
―――二人同時にお見舞いしちゃえば、一石二鳥だし、楽ちん楽ちんね。
春代はにこり、と笑った。
五、
八千代トンネルは、以前より増して、薄暗く、生臭かった。気の所為だろうか。いや、妖怪世界で起こっている事件を想定すれば、十分にあり得る。この生臭さは、妖怪に喰われてしまった、人間の血の臭い。綺堂と夏芽は、手をつないで、トンネルを抜けていた。綺堂は半妖半人、妖怪の臭いがある。夏芽の"人間の臭い"はほとんど消えてはいるが、心配だということで、念のための対策ということだ。
綺堂と手をつなぐのは、何回目だろうか。思い返す。去年の夏に、助けてもらった時、冬に蟲男から逃げた時、そして由宇奇を助けに向かった時……四回目くらいだろうか。こんなに手をつないでいれば、仲を疑われても仕方がない。夏芽だって、綺堂に気がないわけではない。しかし、そうだ、と言ってしまったら、折角できた沢山の輪が、崩れてしまうような気がした。だから、“確信”に至るまで、決して頷かないようにしようと決めていた。例え、誰にどう、謝意だ意気地なしだと馬鹿にされようと、決して「はい」と言わずにおこう。それが夏芽の中で勝手に取り決められた法則だった。その方が、縛りもなく、夏芽も楽だった。
綺堂はこうやって手をつないだり、命がけで夏芽を救ったり、両親にあいさつをしたり、夏芽に一生懸命“尽くして”いるように見える。しかし、真実はどうなのだろうか。彼の気持ちは、本当にわからない。顔にも表れない。感情を黒い布で覆っている様だ。そんな綺堂を見て、夏芽は時々不安を感じるのであった。夏芽は不安を感じているという事を感じ取らせないように、平静を装うのも一苦労だ。
八千代トンネルを抜けると、曇天のじめじめした中央通りが二人を迎え入れた。妖怪たちが、彷徨い歩いている。西洋のサイコホラーや、“ゾンビ”を思わせた。夏芽は「ひっ」と息を呑み、綺堂の後ろに隠れた。
「夏芽さん、これから、人喰い女の家に行くまで、決して喋るな」
「わ、わかりました」
綺堂と夏芽は、彷徨う妖怪たちの間をぬって歩いた。時偶、妖怪たちが綺堂に近づいて臭いをかごうとする。
「人間の臭いがする」
その度、綺堂はそれをかわしながら、
「気の所為だ」
と言った。
夏芽と綺堂はぴったりとくっついたまま、中央通りを抜け、波奈野目優子の家に向かう不気味な細道にたどり着いた。転がるマネキンの生首を避けながら、尚も妖怪を警戒しながら歩く。夏芽も、冷や汗が頬を伝うのを感じながら、やっとの思いで、優子の家の前まで辿り着いた。
インターホンを鳴らす。
「はいよ」
中から優子の声がして、勢いよくドアが開いた。
「あんたたち、よく来たね。早く入んな」
優子に招き入れられるまま、綺堂と夏芽は優子の部屋に入った。優子は辺りを見回すと、ドアを閉め、鍵をする。それからふう、とため息を吐くと、真紅の着物を直しながら、二人をリビングへ案内した。
「他の妖怪たちは、みんなおかしくなっちまったよ。辰之助も、もうだめだね、言葉が通じない、ただ、人間を食べる食べるって言って、聞かないんだよ。恐ろしいことだよ」
優子は肩をすくめた。
「人間を食べる、とな」
「ああ、そうさ」
優子はいつもより少しやつれて見えた。
「妖怪は人を脅かしてこそ妖怪、それが美学って奴なのに、食べるなんて、殺すなんて、間違っているよ。あたしゃ、見てられない」
「この世界の秩序を乱した奴がいるという事だな」
「その事なんだけどね」
優子はそれから、はっとしたように、
「話の前に、紅茶でもどうだい」
と立ち上がって、キッチンへ向かった。キッチンで優子が紅茶に湯を注ぐ音か聞こえる。その間も、綺堂と夏芽は黙ったままだった。少しして、優子は紅茶をトレーに乗せて運んできた。今日は何を思ったか、レモンティだ。いつもは自分の好きな色であるローズヒップティであるというのに。
「今日は気分が乗らなくてね」
優子は夏芽の表情を見て言った。
「それで、その、秩序を乱した奴ってのがね」
すうっと紅茶を啜ると、
「うちに来たんだよ」
「え!」
夏芽は驚愕して飲もうとしていたレモンティを危うく溢すところだった。
「うちに来たって、なのに優子さん、平気なんですか?」
「相手もそれを不思議がってね。どうしてお前は、俺を見ても正気なんだい、なんて言い出してね、過去の話とかをさせられたよ。適当に話をして、でも一時間くらいかねえ、結構話して、一方的に帰っていった。あの子は一体何だったんだろうねえ」
「そいつは、長髪で、派手な着物で、右側の頬に包帯を巻いていたか?」
「ああ。どうして知っているんだい」
「向こうでね、妊婦が出産直前に殺されて、産まれてくる筈だった子供が連れ去られるという狂事件が起きていてね、その重要参考人が、そいつだ。というより、確実にそいつがやっているようだ。そして、夏芽さんの友人のお母さんが、次の犯行の餌食となりかけている」
「なんてこったい。人間世界と妖怪世界、両方ともおかしくしちまおうってのかい、あの子は」
「あいつの話は聞いたか」
「いいや、一方的に話をさせられて、自分の事は何にも言わずに帰っちまったよ。不思議な子だ。ただ、“洗脳”せれない妖怪がいることに驚いていたね」
「洗脳か」
「その子を見ると、何故か洗脳されるんだそうだよ」
「その洗脳って、治らないんですか?」
夏芽は不安になった。辰之助が、もう二度と、元の辰之助に戻らなかったらどうしよう。人を食べる悪魔になってしまったらどうしよう。
「これは僕の予想だが」
綺堂は言った。
「その男は、この“喪”という妖怪の妖力が弱まっている期間を使って、妖怪を操っていると言ったね。だから、この“喪”が過ぎれば少なくとも解決される問題ではある。そして、その男の“妖力”をなんとか解けば、妖怪たちは正気に戻るだろう。だから夏芽さん、安心しなさい。ぎょろ眼は、元に戻るよ」
辰之助を心配する夏芽の心情を察しての言葉だった。よかった、辰之助は元の優しい辰之助に戻る日が来るのだ。少しの我慢と時間が必要だが。
「それにしても、なんであたしは“洗脳”されないのかねえ」
「それは要するに、“妖怪”ではなくなってきているからだ、と僕は推測する」
「あたしゃ人喰い女だよ?妖怪さ」
「それは分かっている。だが、人を喰わなくなって何年になる」
「もう数百年に……」
「だろう。妖怪としての能力を使わなくなった妖怪には、拾の能力は効かないんだよ」
「でも、優子さん、初めてであった時私を襲いました」
「でも人は食べていないだろう?」
「はい……」
「そういうことだ」
綺堂はやるせなそうに言った。
「妖怪の世界にも、既に妖力を失った妖怪がいるとはな……」
「あたし、妖力が失われているっていうのかい?」
「全くというわけではない。少しは残っているだろう。だが、それは僕と同じ程度でしかない。だから人喰い、お前には効かないんだ、拾の“妖怪を操る力”が」
「でもなんで、あの子はあたしを襲ったりしなかったんだい。そんな使えない妖怪、消しておいた方が後々いいだろう」
「いや、半妖半人に、妖怪を消す力はない。そんな大それた力は持っていないんだよ。だから消したくても、お前を消すことは出来ない。第一に、奴の目的は”人間に復讐すること”だ。だから、妖怪を消したところで意味が無い。ただお前の元を訪れたのは、暇つぶしか好奇心によるものだろう」
綺堂は咳込んだ。
「それより言いにくいのだが、そいつに、由宇奇がやられた」
「秋人の坊やが」
優子が身を乗り出す。
「何があったんだい」
「分からない。とりあえず、とてつもない妖力で傷つけられたようだ。あの由宇奇が、三日間も目を覚まさずに、今もなお、病院から出られずにいる」
「あんなに力の強い半人でも、押し負けるなんて」
「押し負けるどころじゃない。ずたぼろだ。まあ、由宇奇の事だ、戦う前に、隙を取られてやられたんだろう。間抜けな奴め」
「何が間抜けな奴め、だい。死んでたら元も子もないじゃないか」
優子は項垂れた。
「秋人の坊やは、昔から優しい子だったからね」
「その拾って男は優子の従兄弟でもあるらしいからな。情が移ったんだろう」
優子はちらりと綺堂を見た。
「あんたは、そうはいかないよね?」
「勿論だ」
綺堂は即答した。
「あの血の量から察するに、僕に値するほどの半人では無いように思われる。しかも、身体が妖力に耐え切れず、妖力が顔面にはみ出してしまったなど言語道断。僕は身体に妖力を封印することに成功している。しかも拾という奴は、由宇奇と同じクオーターであるようだ。だったらハーフの僕の方が、優位だ」
「でも、油断はいけないよ」
優子はティーカップをテーブルに置いた。
「凄い“気”だったから。あたしの話を聞くときのあの子。恐ろしかったよ。殺されるんじゃないかって、まあ妖怪は死なないけれど、そんなことを思ったよ。だから、綺堂の坊やは兎も角」
そこまで言うと、優子は夏芽を見た。
「夏芽ちゃんは、気を付けなきゃいけないよ」
「は、はい」
優子の勢いに圧倒されて、夏芽は頷いた。きっと、優子の事だ、自分の妹のように、夏芽を思っているに違いない。その夏芽が危険にさらされることを、何よりも恐れているのだ。由宇奇や辰之助のように、夏芽にまで何かあったら。
優子は頭が痛くなった。
「ちょっと、体調が悪くてね。部屋で寝てくるよ。好きな時に帰っていいし、好きなようにキッチンを使っておくれ」
優子はそういうと、ゆっくりと立ち上がった。螺旋階段へ歩く。一段目を上ろうとした時、ふっと振り返った。
「そういえば、明後日、道が開かれる、とか、なんとか、拾って子が言ってたよ。道って、なんのことかわからなかったけど、トンネルの事かねえ、あの」
「何だって、それはいつの話だ」
「一昨日だよ。だから今日、道は開くらしいよ」
「いけない、夏芽さん、急ごう、奴は今日、決行する気だ!」
綺堂は立ち上がった。
「でも、綺堂さん、たかねの弟さんは、まだ生まれませんよ」
「無理やり取り出すつもりだ。今までもそうだったように。夏芽さん、急ごう!病院だ」
「は、はい!」
夏芽はまた綺堂に手を引かれて走り出した。
「人喰い!世話になった!」
「だからその呼び方!」
優子は後姿を見て、ほっと息を吐いた。二人だけでも、無事でよかった。
「その言い方、いい加減やめなよ」
言い終わるのと同時に、優子の豪邸のドアが閉まった。
*
ひつじがいっぴき
ひつじがにひき
ひつじがさんびき
ひつじがよんひき
ごひきめのひつじは、こんやのばんごはん
さあ、みちよひらけ
にえをくらい
いにしえのひとがたてとした
かべをこわし
みちを
ふっかつにみちびくのだ
*
夏芽は綺堂に手を引かれて、八千代トンネルまで来ていた。綺堂が突然立ち止まる。
「夏芽さん……だめだ」
「え?」
「トンネルの霊道が、塞がっている……」
「そんな!私にはいつものトンネルにしか見えないですけど……」
暗闇は、永遠に続いているように見えた。
「よりによってどうしてこんな時に」
綺堂は珍しく取り乱した。頭を掻き乱す。
「急がないと、二つの世界が終わるというのに……」
「終わるって、どういう事ですか?」
「拾は、八千代トンネルを開いて、狂気に狂った妖怪たちを人間世界に傾れこませ、喰らわせる気なんだ。その為の生贄として、五人の胎児を捧げる、そんな昔話が、こちらの世界にはあってね」
―――フタツノ クニヲ ワカツ ミチ イツツカラナル イキナガラニシテ シンダ タマシイガ アツマルトキ ヒラカン―――
「まさか本気にしている奴がいたとはな」
「イキナガラニしてシンダ魂ってなんですか?」
「水子、つまり、お産で死んだ子供の事だよ」
「じゃあ拾って人が集めてたのは、妊婦さんの死体の方じゃなくて!」
「赤子の方だ」
つーん、と脳天をつんざくような耳鳴りがして、頭を押さえた。苦しい、痛い。これは、誰の痛みだろうか。殺された妊婦の痛みだろうか、それとも、母体から無理やり取り出された、赤子の痛みだろうか……。
夏芽はその場に倒れるようにしゃがみ込んでしまった。
―――たすけて。
―――たすけて。
―――たすけて。
頭の中で、悲鳴が響く。脳味噌が割れそうだ。止めてくれ、止めてくれ。これ以上、苦しめないでくれ。夏芽は心の中で懇願する。すると、悲鳴の主は突然叫ぶのを辞めて、言った。
『じゃあ、代わってくれる?』
「夏芽さん」
綺堂が心配そうに夏芽によりそう。
「……大丈夫です。でも今」
今“視えた”ことは、もしかしたら、何かを暗示しているのかもしれない。以前も、こんなことがあった。蟲男の事件の時に、二人のキャッチボール姿が見えたり、逆に死体が錦鯉に見えたり……。人間の脳味噌はその大きさの割に十パーセントしか使われていないという。もし、その十一パーセントが夏芽に語りかけているとしたら……。
「綺堂さん、行きましょう」
「何を言っているんだ、霊道は閉ざされている。誰が見ても明らかだ。死層に入るようなものだぞ。危険だ」
確かに、トンネルの向こう側は深い闇だった。何の光も見えない、暗い闇。
「でも、誰かが呼んでるんです」
夏芽は言った。
「たすけてって、呼んでるんです」
夏芽は、綺堂の手を強く握った。
「大丈夫、絶対に、帰れる。信じれば、帰れます。綺堂さん、向こうの世界で、私たちの助けを待っている人が、沢山いるんです。行かなきゃ」
深い闇に心まで持って行かれそうになる。夏芽は、出られるかわからない暗黒のトンネルに足を踏み入れた。無言で、綺堂が着いてくる。綺堂は夏芽の手を放すことなく、夏芽の一歩後を歩いた。初めて、夏芽が綺堂を先導したかもしれない。それ程、綺堂は驚いていた。この小さな少女の持つ、正義感と“力”に。やはり、夜崎夏芽は何か“力”を持っているに違いない。それが“妖力”や“霊力”とは違うものだとしても、夏芽のその力は、半妖半人の綺堂をも圧倒させた。
出口がない。いつまでも、出口が見えない。
二人は信じて歩き続けた。この先に、世界が開けると……。
突然、眩しい光が差し込んだ。遠くに見える人混み、寂れた公園……。
戻ってきたのだ、元の世界へ。
「綺堂さん!」
夏芽は綺堂を振り返った。
「やりましたよ!」
綺堂は笑っていた。
「私達、戻ってきました!」
「そうだね、夏芽さん。それでは、やらなければならないことをやろう」
綺堂は、病院に続く坂道を見上げた。
「僕たちはメシアだ」
「メシア?」
「ヒーローさ。助けに行くんだよ。今から、可哀想な籠女を」
「籠女」
「とある地方に伝わる話さ。女の人は昔ね、男の人に嫁ぐと、元の家に一切返してもらえなかったんだよ。そして旦那の家という“籠”の中で、こき使われてね。昔は何人も妻を作っていい時代だったから、女たちは籠の中で、子供を作る為だけに集められたようなものだった。子供が出来てもね、すぐに取り上げられてしまって、愛しいわが子の顔さえ、拝むことが出来なかったんだよ」
「そんなむごい話が、あったんですね」
「とある地方にだけどね。逆に、籠なんて知らない女性たちも居た。海女たちだ。彼女たちは自由に恋愛をし、自由に生きていた。何故なら、自分が収入源なのだからね。女性は虐げられていた、なんて話が一般的だし、農村地域だとそういうのが当たり前だったけれど、例外もあったんだよ」
「そうだったんですか。幸せな人たちも居たんだ」
「夏芽さんは、これから文学の世界に入っていくのだから、女性の作り上げた美しい仮名文字文化や、しかし女性が虐げられていた時代の話をきっと耳が痛くなるほど聞くことになるだろう。決して、過去から目を背けてはいけないよ。過去があるから、今の自分たちがいるんだからね。籠に縛り付けられて、子供を産むためだけに集められた女人たちのことも、決して忘れてはいけない」
「そういえば、かごめかごめって歌がありますね」
「かごめ、かごめ。あれは恐ろしい呪いのうただ、なんて言われているけれどね、そんなことはないよ。ただ皮肉を込めて作られた歌さ」
「皮肉?」
「いろんな説があるがね。かごめ、とは、籠目。籠の中の鳥というのは、自分。処刑される人間、若しくは、籠から出られない御姫さまのうた、なんて説もある。僕が思うに……」
綺堂はそこまで行って扇子で口を覆った。
「長く喋りすぎたね」
「あっ!忘れてました、行かなきゃ」
二人は病院に向けて歩き始めた。
「それで、綺堂さんが思うに、何なんですか?」
「妊婦が流産する話、と言ったらありきたりだね」
綺堂は意味深気に笑った。
「僕は、所謂“女郎”、遊女の歌だと思っている。籠にとらわれた女性、まさしく遊女だ。遊女は籠から出られない。子を産むことも許されない。遊女が自分の人生を呪った歌だよ、かごめかごめは。昔はね、子を産むことも、おろすことも、命がけだった。だからこそ、恨みを込めて、後ろの正面だあれ、で終わるんだよ」
夏芽はぞっとした。背筋に悪寒が走る。学校で何となく遊んでいたかごめかごめに、こんな裏話があったなんて、信じられなかった。
「怖いですね」
「だろうね。本当だとしたら怖いね」
「本当じゃないんですか?」
綺堂は悪戯っぽく笑った。またからかわれた。夏芽がそう思った時、岐山会病院の入口まで辿り着いた。今の所、いつも通りのようだ。
「たかねのおかあさん、無事かなあ」
夏芽は呟いた。
「無事じゃなければ困るだろう」
綺堂は夏芽の背中に手を置いた。
「さあ、行こう。由宇奇もいるし、安心だ」
太陽が、二人の影を映し出す。影はすうっと静かに、病院に飲み込まれていった。
*
くくくく。
男は笑った。
そろそろ、宴が始まる。
この二十八年間、ずっと胸に秘めてきた思いが、今、この世界に発信されるのだ。
今更反省するがいい。
今更懺悔するがいい。
今更生まれてきたことを後悔するがいい。
そのくらいの苦しみを、味あわせてやる。
あと一匹の羊で、全てが始まり、終わる。
俺の苦しみが、終わる。
男の掠れた微笑は、古びた神坂公園に響き続けた。空は段々薄暗くなり、小雨が降りだす。男を警戒しているのか、追い出そうとしているのか。構わない。今更、手遅れだ。
男は笑いながら歩き始めた。雨に濡れながら。目指す先は、岐山会病院、唐沢まなみ。




