啓蟄(後編)
六、
ガタン。急に光が差し込んで、土田和也は目を細めた。何日、ここに閉じ込められていただろう。砂埃舞う、暗い部屋。手足、口は頑丈にガムテープで縛られており、最初の内は逃れようと必死に動いたが、最早諦めかけていた。餓死するのだ。孤独のまま、餓死するのだ。兄の翔也が病をかくし、孤独のうちに死んでいったように。
しかし、希望の光が差した。和也は顔を上げる。茶色の背広にスラックス、光の加減で緑に光る髪を持つ無精髭の男は、心配するでもなく、安心するでもなく、ただ和也を見下ろしていた。
「おい、大丈夫か」
男は和也の口からガムテープを剥がした。痛い。ああ、生きている。和也の目から涙がこぼれた。それを見て、男は冷たい声で言った。
「泣くな。お前にはまだ、やらなきゃいけないことがある」
*
夏芽の元に、宮本肇からの電話があったのは、宮本吉造の犯行を綺堂が暴いた、次の日だった。宮本肇は受話器の向こう側で、「土田和也」が、学校の倉庫の中から“生きた状態で”見つかったことを、静かに告げた。きっとほっとしていたに違いない。しかし、純粋にそう思うことができないのは、土田和也をさらった人間が、自らの父親だったからだ。
夏芽はその日のうちに、宮本の元を訪れた。宮本の豪邸は、先日訪れた時と全く変わっていない筈なのに、異常に静かだった。
玄関の扉を開けた宮本肇の顔は、昨日に増して疲れ切っていた。クマがひどい。これが本当に“あの宮本肇であるのか”と疑ってしまうほど、彼はやつれきっていた。
「ああ、夏芽ちゃん」
宮本は微笑んだ。きっと、無理に笑っているのだ、と夏芽は思った。今日はきっと、彼から情報を聞き出すのは無理であろう。綺堂ならやってしまうかもしれないけれど、夏芽には出来なかった。
玄関を上がってすぐのところの棚に、賞状やトロフィーが飾ってある。夏芽は、何とか明るい話題を取り上げたくて、それに飛びついた。
「すごいですね、いっぱいトロフィーがある」
肇が立ち止まって、少しだけ目に輝きを取り戻した。
「これは野球のですね。こっちは、陸上?宮本先輩、陸上もやってたんだ」
「違うよ、これは父さんの。父さんは、昔、短距離の選手だったんだ」
成る程、だから夏芽を襲った日、あんなに足が速かったのか。
「へえ、凄いですね。あ、この賞状は、小説……。お母さん?」
「いや、それは俺」
「宮本先輩の?小説も書けるんですか?」
「ああ。二年前に、ある出版社の新人賞に応募したんだ。そしたら運よく引っ掛かってね」
宮本肇は本当に何でもやってのける。夏芽は畏れ多い気持ちで背の高い宮本を見上げた。
「まあでも、これ以来執筆はしていないんだ」
「えっ、そうなんですか。勿体無い」
「そんなにいい作品でもなかったしさ。それに俺には、野球があったし」
そうやって切り替えて、高校野球のエースに上り詰めたのだから、大したものである。
「いやあ宮本先輩って、ほんとに凄いんですね!」
夏芽は感心すると同時に、元気付けるように明るく言った。
暫く廊下を歩いて、また先日のリビングへたどり着く。あの時は、帰ろうとした夏芽に、宮本吉造が声をかけた。だが、今日、もう彼はいない。自分を襲った恐ろしい相手でもある筈なのに、それが残念な気がした。
「土田、さ」
肇は椅子に座りながら言った。
「衰弱してるけど、命に別状はないって」
夏芽も肇に続いて椅子に腰を掛けた。
「そうですか。ほんと、よかったです」
「明後日の午後に、お見舞いに行くことにした」
土田和也が生きていた。これは非常に喜ばしいことである。きっと、由宇奇が助け出したに違いない。
肇は、下を向いていた。親友は助かった。しかし、父親を失った。
「俺、昨日からずっと思ってたんだ。全部、嘘ならいいのにって。だって、父さんは、そんなことするような人じゃないから。そうだって、信じてたから」
夏芽は黙ったまま頷いた。
「どうして父さんは、あんなことをしたんだろう。どうして、父さんは……。何か、悩んでいたのか。それなら、どうして、言ってくれなかったんだ」
肇は、自問自答するように一方的に言った。
「俺の、俺の所為なんじゃないか。俺が、俺がもっと優秀な子供なら」
「宮本先輩は何にも悪くないですよ。宮本先輩は、それに、優秀だもの。野球も出来て、勉強も出来て、それに、友達思いで。自慢の子供だったと思います」
「じゃあどうして」
そう問われても、答えられなかった。人喰い女の優子のいう事が本当ならば、その事実は、肇と吉造の関係を壊すだろう。これ以上、彼らを壊すなんてことは、夏芽には出来なかった。
今日ここに来なければよかった、そんなことも思った。
暫く項垂れた後、肇はふっと顔を上げた。
「ごめん、夏芽ちゃん。夏芽ちゃんに当たるようなことを言って……」
「いいですよ、宮本先輩は、今すっごく傷ついているんだから。私、気にしてないです」
本当は、苦しかった。しかし、肇や吉造のそれと比べたら、ほんの小さなものに過ぎない。
「夏芽ちゃん、優しいんだな」
「えへへ、綺堂さんにも、お人よしだって言われます」
夏芽は頭を掻いた。
「綺堂って、昨日の探偵の事か」
「そうです」
「なあ、もしかして、あれって君の彼氏?」
「えっ」
突然の言葉に、夏芽は思わず目を見開いた。
「だってさ、昨日、夏芽ちゃんの肩を支えたり、俺を送ってくれた後、妙に寄り添って歩いているように見えたし。どうなの、本当のところ」
「ち、違いますよ。き、綺堂さんは」
綺堂は、友人、というか、恩人の様な存在だ。肇は、意外だ、という顔をして見せた。
「そうなのか。俺はてっきり」
「だって、歳だって、離れ過ぎじゃないですか」
「いくつなんだ」
夏芽はううん、と唸った。そういえば、綺堂の正確な年齢を聞いたことは今までなかった。夏芽の予想では、二十六とか七くらいだと思うのだが、どうなのだろうか。
「見た目は、まあ、いい感じだったぜ。お似合い」
「いい感じって、やめてくださいよ」
夏芽は顔がほてるのを感じた。先日の辰之助からして、最近はこういう話題が多い。
顔が赤くなった夏芽を見て、肇は笑った。
「違うんなら、もっと平気そうな顔をしろよ」
「だ、だってぇ……」
なんとか自分を落ち着けようと頬に手を当てる。肇は小さな声で、
「まあ、でも、よかった」
と言った。
「よかった?」
夏芽がすかさず聞き返す。すると肇は意味深気に微笑んで、
「ああ」
と言った。
「成る程」
夏芽が宮本肇の家に訪れた時の事を事細かに話した後、綺堂はそう言って顎に手を当てた。
「あんまり、情報は仕入れられなくて……トロフィーや賞状の事や、宮本先輩がすっごく傷ついていたってことくらいしかわかりませんでした。すみません、事件とは、全然関係のないことばっかりで」
「いや、夏芽さん。夏芽さんのおかげで、夏芽さんを襲った犯人が吉造氏だという確信が持てたよ。普通の中年男性が、あんなに速く走れる筈がないからね」
綺堂は頷きながら言った。
宮本の家を訪ねた次の日、夏芽は約束通り綺堂の家を訪れていた。何か情報を仕入れてくると言った夏芽であったが、思いのほか収穫がなく、今日も、ただ綺堂の推理を聞きに来ただけのようなものである。しかし綺堂は、そんな役立たずの夏芽についてそう気にする様子はなかった。ただ何かを考え込んでいるような、そんな表情をしている。先程も、家に訪れた夏芽の顔を見た瞬間、綺堂は「この事件、なにやら複雑に入り組んでいるよ」と言った。一昨日からずっと、蟲男事件の事ばかりを考えていたに違いない。
「だが、それにしても奇妙だ」
綺堂が腕を組んで言った。
「何がですかい」
いつの間にか夏芽の隣に座っていた辰之助が言った。
「吉造氏だ。彼は、確かに、一人目の被害者に対する犯行は可能だ。だが、それ以外は、彼に犯行が行える筈がない」
「どうしてですか。車があるんだし」
「彼は、平日は、午後六時に、仕事を終えて帰宅、いや、ドライブに行く姿が社員に目撃されている。そして毎晩必ず八時には帰宅していた。これも、近所の住民や家政婦によって裏が取れている。つまり、行きと帰りで二時間、犯行も含めると、移動にはかなり短時間である必要がある。そしてその行動可能範囲、時間で行方が不明になっただろうと考えられるのは、第一被害者だけ。彼は自白したわけだが、実際は犯行は、不可能なんだ」
「でも、ドライブ中に犯行を行って、そのあと、例えばみんなが寝静まった深夜とかに、裏工作をしにその現場まで出掛ければいいんじゃないですか」
「それもあるかもしれないが、第三以降の被害者の所持品は、「蟲男メール」の所為もあって、被害者親族の通報と警察の警戒、捜査が早かったから、早くて夜九時半前後に発見されていたりもする。夜に通行人が発見して警察に届けたなんてこともあったようだ」
「ということは……本当に不可能犯罪じゃないですか!」
いや、夏芽さん、と綺堂は言った。
「不可能な犯罪など、この世には無い」
綺堂の目は、どうやら核心に迫っているのだろう、という事を思わせた。
「夏芽さん、先日の、宮本吉造が言った言葉を覚えているかい」
「えっと、どんなことですか」
「宮本吉造の妻、雪江についてだよ」
宮本肇の母親の名が雪江だという事は、たった今初めて知った。
「そう言えば、あの日、仕事があってこられないって言っていましたね」
「それだけではない。彼は、その仕事の内容まで明らかにしてくれた」
「内容、ですか」
「ああ。彼は、こう言ったんだ、『家内には毎日県内の店舗を回って、売れ行きや客の調査をしてもらっている。それで、今日はどうしても外せない』とね」
「県内の店舗をって……もしかして」
「其れで気になって調べたところ、いろいろと解ってね。雪江氏は、仕事を必ず午後四時には終わらせて帰ったらしい。だが、家に帰るのは、吉造より少し前か、遠くに行っていたときは十時を回ったこともあったそうだ。だが、おかしくはないか。まっすぐ帰宅したにしては、時間がかかりすぎている」
「じゃあ、雪江さんが……でも、動機は一体……」
言ってから夏芽ははっとした。先日の、優子の言葉がよみがえる。
『その宮本家の御曹司の肇っていう子についてだよ。宮本肇には、腹違いの兄弟がいるらしい。まだ出世する前の『よしみや』の経営者、宮本吉造はかなりの浮気症でね、あるとき、人妻と浮気をして、よりによって妊娠させちまったんだ』
動機は十分である。もし雪江が吉造を愛していたならば、その愛人の存在を知って、憎悪の感情が芽生えたとしてもおかしくない。そしてその女性に似た少女を見つけて……。
しかし、何か違う様な気がする。
もし自分が、彼女だったら……。
「綺堂さん、だとしても、おかしいですよ。雪江さんは、元愛人に似た人ばかりを襲ったんでしょう、ということは、雪江さんは、その元愛人が誰だか知っていたんです。私だったら、まあ私だったらっていうのもおかしいかもしれないですけど、それに似た少女じゃなくて、その元愛人本人を襲うと思うんです」
「確かにそうでさあ」
辰之助が同意した。
「わざわざダミイを誘拐してなくたって、本人を狙えばいいんでさあ」
「僕も、そこが一番引っ掛かったところだ。だが、その謎も、もう少しで解けるだろう」
その時、誰かが階段を駆け上がってくる音がした。夏芽は其方に目をやる。階段に繋がる穴から顔を出したのは、人喰い女の優子であった。
「おお、来たか、人喰い」
「なんだい、またそう呼ぶのかい。ふう、まあいいよ。坊や、辰之助、夏芽ちゃん、凄い事実が分かったんだよ」
優子は興奮したように言った。
「吉造の浮気相手で子を身ごもった女、それはね、花崎京子。結婚して姓が変わって、土田になったんだ。土田京子、失踪して昨日見つかった土田和也の、母親だよ。証拠にね、土田の父親はA型で、土田京子はO型なのに、何故か和也はB型なんだ。A型とO型からは、B型は生まれない。稀にあるけれど、今回はきっと違うね。だって何せ、吉造の血液型が、B型なんだから」
「ちょっと、待ってくださいよ」
夏芽は異議を唱えた。
「たとえその血液型の推測が正しかったとしても、おかしいじゃないですか。だって、被害者の人たちはみんな、その元愛人に似た人たちなんですよね。私、土田先輩のお母さんにこの前会いましたけど、背は高かったし、栗色の長い髪で巻き毛だったし、全然特徴が違う人でしたよ」
優子は眉を顰めた。
「どういうことだい、夏芽ちゃん。それは、土田京子に会ったってのは」
「私が襲われた日、宮本先輩の家を訪ねた後に、土田先輩の家を訪ねたんです。その時に会って、話もしました。」
「ああ、夏芽ちゃん」
優子は項垂れた。
「そんな筈ないだろう、夏芽ちゃん。土田和也の母親の土田京子はね、その夫、つまり和也の父親と一緒に、もう十年も前に交通事故で死んでいるのさ」
一瞬、脳内から音が消え去った。
「そ、そんな筈……だって、確かに土田先輩の家でしたよ、表札に土田って書いてあったし、写真とかも貼ってあって、生活感あったし……それに、宮本先輩から連絡を貰ったって……」
「夏芽さん、多分、君は確かに土田和也の家へ行ったんだ。しかし君が会った人は、土田和也の母親でも、ましてや親族でもなんでもない。多分君の言った特徴からして考えるに、その人は―――宮本雪江に間違いないだろう」
綺堂が懐から写真を出した。それを見て、夏芽は息を呑んだ。
―――――。
そこに映っていたのは、確かにあの日、夏芽を迎え入れた“土田和也の母親”であった。
夏芽は頭が混乱してしまった。
あの女性は、土田和也の母親ではなく、まさか、宮本肇の母親であったというのか。
「あたしが言った、本当かどうかわからない噂は、全くのガセネタだったってわけだね」
人喰い女が、多少項垂れるようにして言った。
「死んだ人間が、人を脅すなんてできる筈がないものね。週刊誌も、あてにならないもんだね」
綺堂は腕を組んで唸った。
「成る程、繋がった。雪江は、きっと君に“肇から連絡を受けている”だとか言ったんだろう。それで君は信じ込んでしまった。いや、あの家から出てきた時点で、何も知らない君はそう思い込まざるを得なかった。雪江は、夏芽さんをも利用したんだ。宮本吉造の過去と、自分の犯罪、そして、土田和也が結びつかないように」
それから綺堂は立ち上がった。
「夏芽さん、行こう」
夏芽はまだ頭の中が混乱して収拾のつかない状態にあったが、だからこそ綺堂の後に続いて立ちあがった。
「真犯人は、宮本雪江だ」
*
空が青く澄んでいる。雪江は庭の見えるバルコニーからそれを見上げながら、一人、ふふふ、と笑った。濁った池の中で、錦鯉がぴちゃりと跳ねる。広くそして底が見えないほど深い池である。まるで、雪江の心のようだ。
雪江の復讐は、思わぬ展開に発展して、そして今、幕を閉じようとしている。
それは、好ましくない状況であった。
だが、今更どうすることもできない。
雪江は、また、ふふふ、と笑った。
何もかも、“先手を打たれてしまった”のだ。
それも、自分が“巻き込んだ”のだから、仕方がない。
最初に、雪江が“利用した”のだから。
風がやんだ気がして、雪江は顔を上げた。いつの間にか目の前の庭の青い芝生の上に、見知らぬ着物姿の男と、そしてあの日“土田の家”を訪れた、京子にとてもよく似た少女が立っていた。
きっと、気づかれてしまったのだろう。
雪江は静かに笑った。
「雪江さん」
夏芽は言った。夏芽が雪江を名前で呼ぶのは初めてである。
「あなたが、」
「わかってる。それ以上言わなくていいわ」
雪江はあの日と同じ、綺麗な声でそう言った。
「そうよ、私が本当の犯人。あの人は、無実なのに自分から名乗り出てしまった、馬鹿なダミー」
「雪江さん、どうして、こんなことを」
夏芽の言葉の後、雪江は少しだけ沈黙した。
「それはね」
口を開く。
「それは、愛していたからよ。“あの人”を」
「吉造氏の事ですね」
綺堂の言葉に、雪江は笑顔でうなずいた。
「あの人は、結婚当時、本当に浮気症の人だった。周りからは、オシドリ夫婦って呼ばれていたけれど、実際は全然違って。だけどある年を境にね、彼は私をとても大切にしてくれるようになったの。そう、肇が産まれた年よ。私、すごくうれしかった。子供の、肇のおかげで彼がやっと振り向いてくれたんだって、そう思った。そう思ってた。去年まで」
「昨年の週刊誌に、吉造氏の浮気の疑惑が書き立てられたんですね」
「彼は、事実無根だって言って、気にしていなかったようだったけれど、私はとても気になって調べたの。だって、その浮気相手と子を作った時期が、丁度、私が肇を授かった時期だったんですもの。……土田京子には、すぐに辿り着いたわ。調べれば、すぐにわかった。京子とは、昔からの知り合いで、子供が丁度同い年だってことで、家も近くだったし、仲良くしていたわ。土田家自体とも、家族ぐるみの付き合いだった。それで、気づいたのよ、彼が私を気にかけてくれるようになった頃に、京子の子供は、土田和也と翔也は生まれたの。だから、だからあの人は、和也君をまるで本当の子のように可愛がったのよ。だって、本当の子だったんですもの。あの人はまるで、まるで、肇よりも和也君を愛しているようだった!」
女の瞳は狂気に満ちていた。夏芽ははっと我に返り、その悍ましい顔が、美しい雪江のものなのだと思い出す。
「だけどね、気づいたときにはもう遅かった。京子は、もう当の昔に死んでいた。私は、何処にこの感情をぶつければいいのかわからなかった。その思いをずっと胸に秘めて、私はそれでも、あの人に認めてもらおうと思って、仕事をつづけたわ。一生懸命。だけど、上手くいかないことはいっぱいあった。ストレスが溜まっていった。そんなある日ね、私はいつもの帰り道、京子を見つけたの」
雪江は、曇った焦点の定まらない眼で、遠くを見るようにして目を見開いていた。
「京子がね、居たのよ。私は、私はこれで、これで報われる……だから殺したの!」
雪江の声が、突然大きくなって、夏芽は思わず肩を震わせた。
「だが、それは、京子さんでは無かった」
綺堂が静かな、冷たい声で言った。雪江は、今度は力ない声を出した。
「気づいたら、あの子は私の車の中で、冷たくなっていたわ。京子だと思ったのよ、私は。だけど目の前に居たのは、京子じゃなかった。知らない子だった。それで私は、私が見ず知らずの女の子を殺してしまったという事を悟った。でも、私はいつも、車を運転するときに、手袋をつけているから指紋は残ってない。それでね、思いついたの。こうすればきっと“あの人は苦しむ”んだって。これを続けて行けば、あの人はきっといつか気づくわ、事件が『よしみや』付近で起こっているということ、そして、失踪した少女たちが皆、あの人の元愛人の京子に似ている子たちだっていう事に。そして犯人が私だって気付く。でもあの人は今、きっと、私を愛していて、そして、この幸せな家庭を壊したくないって思っている。だから、あの人は苦しむんだって、そう思ったのよ。そしたら、馬鹿な人。ほんとに馬鹿な人!自分がやったなんて言い出して!馬鹿だ!」
雪江の顔が、また鬼の如く歪んだ。
「『よしみや』から五キロメートルという微妙な地点に被害者たちの所持品を置いたのは、警察に悟られず、しかし、吉造氏が気付くであろうぎりぎりの地点を模索したから、ですね」
「そうよ。警察にばれる前に、彼が気付かなければ、意味がないですもの」
雪江は狂ったように笑った。
夏芽は恐れを感じながら、少し震える声で言った。
「あの日、土田先輩の家に居たのは、どうしてですか」
「あなたが、土田京子が死んでいることを知らないと思ったからよ。リビングの陰で、私はあなたと肇の話を盗み聞きした。そこであなたが”優秀な探偵さん”を雇っている事を知ったの。そんなあなたが京子の存在を知ったら、すぐに私が犯人だってバレると思ったのよ。彼、まだ何も気づいていないみたいだったから、その前に逮捕されてしまったら、意味がないでしょう。だから私は土田家に侵入したの。土田家とは家ぐるみで仲が良かったから、私はたまに、土田家に行ってご飯を作ったり、御菓子を差し入れたりしてたの。お蔭で気に入られて、土田家の合鍵を持っていてね。あの日、土田一家は全員、警察の事情聴取があるって、和也君の親戚の女の子が言っていたの。丁度良かったのよ。神様は私に味方してくれた」
雪江は、ふふふ、と楽しそうに笑った。
「面白いトリックでしょう」
血の気が引いていった。
「皆、殺したんですか」
綺堂が恐ろしいことを聞いた。すると、雪江は、今度は口を大きくあけて笑った。
「殺してやったわ。首を絞めて、こうよ、こう」
雪江が実演してみせる。今にも夏芽に襲いかかりそうだ。綺堂はそんな雪江から夏芽を庇うように一歩前に出た。
「でも死体が見つかったら、きっとすぐに警察が私にたどり着くと思ったの。だから隠したわ」
「やはり、皆死んでいたんですね」
綺堂は言った。先日の綺堂の予想は、土田和也を例外として、当たっていた。
「だって、殺さなきゃ。そうまでしなきゃ私の思いは、この切なさは、苦しさは、あの人には伝わりっこない」
女は笑った。
緑色の池で、錦鯉が、ぴちゃり、と跳ねた。
沈黙していた綺堂が、静かな声で告げた。
「貴女は間違っている」
「間違っていたのはあの人よ。私は”可哀想な女”なの」
「いいえ、貴女は分かっていない。吉造さんの気持ちを」
「気持ち?」
「彼がどうして、土田和也が産まれてすぐに、貴女を大切にしようと思ったか」
綺堂は強い口調で言った。
「彼は、自分の罪を認識したんだ。自分は間違っていたと、そう認識したんです。そして、償おうと思ったんですよ。だから、貴女を、今まで以上に愛し、そして会社を成功させた。全ては、彼の懺悔の念からだったんだ」
「……彼が、反省していたとでも?」
「そうです。自首した時の彼を見ればわかります。吉造さんは、事件の真相に“自分の過去”が絡んでいることに気付き、貴女が犯人だと確信した。だから貴女を守るために、夏芽さんを襲い、自らやってもないことを告白したんです。しかも、息子の肇君の目の前で。肇君が苦しむという事を、分かっていながら、それでも、貴女を守ろうとしたんです。それなのに貴女は、吉造さんの気持ちを踏みにじった。そして、貴女を慕う、息子の肇君まで、貴女は悉く裏切った。貴女のしていることは、ただの自己満足な最低な犯罪でしかない。免罪の余地も、許されないだろう」
「そんな!私は」
雪江は、鋭く言い放った後、続く言葉を見つけられずに口ごもった。
「……私は……」
私は狂っていたのだ。
狂っていたのだ――――。
空間が沈黙に汚染される。居心地の悪い、風の音すら聞こえない、沈黙である。
その沈黙を破ったのは、やはり綺堂であった。
「雪江さん、最後に一つだけ、貴女に聞きたいことがあります」
雪江は、顔を上げようともしなかった。綺堂は続ける。
「貴女は何故、“蟲男メール”を作ったんですか」
雪江の顔が少しだけ硬直したような気がした。
「貴女の証言からすると、貴女は吉造に、貴女が犯人である事を気づかせたかった。僕は、その“蟲男メール”にも、何か関係することがあるんじゃあないかと思うんですが」
「十年前、京子が死んだ年、“蟲男”というオカルト記事が雑誌に掲載されて、その記事を、肇と、あの人と一緒に読んだんです。それだけです」
妙に、そっけないような気がした。先程までの雪江は、鬼気迫るところがあった。しかし今の言葉だけ、まるで魂を抜き取られたかのような、味のない色をしていた。
夏芽は不信感を覚えた。
「そうですか」
綺堂は、気付いていないのだろうか。
少しの沈黙が流れたかと思った時であった。
「貴女は、愛する吉造さんとの思い出を、そして、肇君の未来まで、踏みにじったんですね」
綺堂があっけなくそう言った。目の前の雪江の顔が、見る見るうちに歪んで行くのが分かった。
雪江は、その場に崩れ落ちた。
目の前で、哀れな女は泣いていた。
「私は……私は、ただ」
「確かに、悪いのは貴女だけではありません。吉造さんも、ちゃんと口にして、声にして、貴女に思いを伝えるべきだったんだ。人間は、心を理解する能力を遠い昔に失った。だからこその言葉だというのに、貴方たちは、それを上手く使えなかった。その所為で生じた思いの行き違いが、この惨劇を生んだのです」
女は奇声をあげて頭を掻きむしった。
「貴女が奪った沢山の命は、最早戻らない。貴女はその罪の重さに、そして自分の行為の無意味さに、もっと早く気付くべきであった」
「私は……」
雪江は両手で顔を覆った。
「私は、思い出せないの。私が殺したあの子たちが、どんな顔をしていたのか、どんな風に苦しんだのか、何も、思い出せないの……」
「貴女の殺した少女たちにも、親が居るんだ。貴女や、吉造さんが肇君を愛するように、彼らも、死んだ少女たちを、愛していただろうに」
「ああ、私は、なんて……」
雪江の言葉は、最早言葉になっていなかった。
しかし、雪江は、やっと人間に戻った。
やっと、正常になったのである。
なんとか、助けられないだろうか。
自首したら、少しくらいは罪が軽くなるだろうか―――。
「雪江さん」
夏芽が雪江に自首を勧めようとしたその時であった。
夏芽と綺堂の背後で、足音が、しかも一人や二人ではない、複数の成人であろう人間の足音がした。夏芽は驚いて振り向く。瞬間、夏芽と綺堂の間を、黒い男が割って入った。
「宮本雪江さんですね」
男は言った。夏芽は振り向いた体をもう一度捻って、夏芽の目の前に在る黒い背中を見つめた。しっかりとしたつくりの背広に、不自然なほど真っ黒に染め上げられた髪が目に入る。その男の後に続いて、もう二、三人の男が、夏芽たちの間に割って入った。夏芽は思わず後ずさる。綺堂も、同じように後退しながら、眉を顰めた。
突如現れた黒い男達は、胸ポケットから何やら手帳のようなものを取り出して、雪江に向けた。雪江の表情が落胆のものに変わったのが分かった。
「警察の者です。宮本雪江さん、署までご同行を願います」
夏芽は綺堂を見た。綺堂が警察を呼んだのかもしれないと思ったからだ。しかし、綺堂は首を横に振った。違うのか。
では、一体誰が。
「すみません」
夏芽は一番近くに居た黒服に声をかけた。黒服の男は、面倒くさそうに夏芽を振り向く。
「あ、あの、どういうことですか」
「彼女は“連続失踪事件”の重要参考人です」
「警察さんは、えっと、そこまで自分たちで調べたんですか」
なんとも失礼な質問ではあるが、こう尋ねる以外に見つからなかった。男は少しだけ顔をしかめてから、言った。
「まあ、そうですが、決め手となったのは、先程、タレコミがありましてね。犯人は宮本雪江だと」
男は、上司につつかれて慌てて夏芽から目を離した。それから小さな声で、
「他言厳禁です」
と言った。
雪江は、大柄な男たちの間に挟まれて小さくなっていた。夏芽は思わず、「雪江さん」と言って呼び止める。雪江は何とか振り返って、曇りきった眼のまま、夏芽を見ることもせずに、ただ言った。
「確かに私は、最低な女よ。でもね、私は母としては、ちゃんとやってきたつもり。だから肇は、肇だけは……」
そこまで言ったところで、雪江は刑事に急かされて、そのまま前を向いてしまった。
玄関の所に、黒い車が三台止まっていた。男たちと雪江は、その中に乗り込んで、夏芽の視界から消えた。
夏芽は、取り残されたような気持ちになって、雪江の後ろ姿が消えた後も、ずっと同じ場所を見つめていた。
「綺堂さん」
「ああ、先を越されてしまったようだね」
綺堂は言った。
「どうやらこの事件、かき回してくれた奴がいるらしい」
綺堂は腕を組んで、ううん、と唸った。
「だがこれで、この件は終わりだろう。男と女、夫と妻の、愛と憎悪の入り混じった、最悪最低な事件だった」
「これで、終わっていいんですかね」
「どうしてだい」
「だって、例えこれが真実だとしても……」
例えこの現実が、真実だとしても、結局宮本肇は救われないのだ。
「宮本先輩、辛いだろうな」
「辛いどころではないだろうね。自分の父の容疑が晴れたかと思えば、今度は母親が真犯人として捕まってしまったんだから」
「宮本先輩は、土田先輩との関係を、そしてお父さんの過去を、知ってしまうんでしょうか」
「知らなければならないこともある。それが、どんなに辛い事実でもだ。その試練を、彼は、乗り越えなければならない」
「土田先輩も、可哀想です」
「ああ。今回は本当に、部外者である僕から見ても、非常に辛くて嫌な事件だったよ」
綺堂は言った。
空はまだ青い。
「綺堂さん」
夏芽は言った。
「虫と、蟲って、何が違うんですか?」
「虫は、昆虫だろう。三つ書いてムシと読む蟲は、人間の中に必ず存在している。決して恐ろしいものでも、気持ちの悪いものでもない。ただ当たり前に、人間の脳の中で、たまに蠢いたりしながら生きている。わかりやすく言えば、“思想”だ。だが、例えば嫌なことがあったりすると、その蟲は、その脳という概念から溢れ出て、実体化してしまう。現実世界に現れてしまうんだ。しかし蟲はね、現実世界に出たときに、単体で生きていくことが出来ない。だから人間と言う器に寄生して、人間を思うように操るんだ」
抽象的すぎて、蟲については、夏芽にはよくわからなかった。だが不思議なことに、今回の事件について、綺堂が何を言おうとしているのか、それはなんとなくわかった。
「宮本雪江は、蟲に操られた、可哀想な“蟲男”だった」
綺堂が珍しく、寂しそうな表情をした。
ぴちゃり、と錦鯉が跳ねる。
夏芽は思わず池に近寄った。大きな池であるのに、今まで、横にある大木が邪魔をして存在に気付かなかった。池を覗き込む。緑色で、葉っぱやら何やらが浮いていた。見るからに、深そうな池である。
覗き込む夏芽を見て、綺堂も池に近寄った。
瞬間、綺堂は顔をしかめ、鼻と口を同時に覆った。
「こ、これは……」
「池ですね。すごく深いみたい。広いし、さすが豪邸って感じ」
「夏芽さん!」
綺堂が切羽詰まったように言った。
「君は、“あれ”が見えないのか」
「あれ、ですか」
いつもになく青い顔をしている綺堂を見て、夏芽は首を傾げた。
「私には、錦鯉しか見えないですけど」
「何を言っているんだ、夏芽さん。この池に鯉なんて一匹も居ないではないか」
「え、だってさっき音が。鯉が跳ねた音がしたし、今だってほら」
ぴちゃり、と水の音がした。
「何を言っているんだ。音なんてしていない」
綺堂が額に手を当てて唸った。
「ああ……やはり僕の予想は……やはりこの家に来るのは、危険だったんだ……」
しかし、夏芽の脳には、最後の綺堂の言葉は最早届いていなかった。
鯉が居ない?
音などしていない?
そんな筈はないのだ。
鯉が跳ねる音が、確かに聞こえたのである。
だから池の存在に気付いたのだから。
それに、今だってそこに、錦鯉が泳いでいるじゃないか。
泳いで――――。
錦鯉は、ひらひらと尾びれを揺らしながら、同じ場所でずっと止まっていた。夏芽は目をこする。
次の瞬間夏芽の目に映ったのは、先程と全く違う光景であった。
「…………っ」
絶句する。
目の前の池は、決して、
錦鯉の住む、優雅な水中の桃源郷ではなかった。
視線を感じた。
それも、無数の視線である。
池の底は、
池の底は――――――。
池の底は死体で満ちていた。
そこから“生えた”白い手が、水面に浮かび上がって、
まるで錦鯉のように、ゆらゆらと揺れていた。
七、
朝になっても、夏芽は起き上がる気力を得られないままでいた。昨日の悪夢のような光景が脳裏をよぎる。水の底に沈んでいた死体たちは、最早原型を留めていなかった。みな白くなって異常に膨張しており、ところどころの皮膚やら肉やらがべろりと剥れては、水面に向かって浮き上がっていた。夏芽の見た“錦鯉”は、錘から解放されて浮き上がった、死んだ人間の手だった。
池を覗き込んだ時、深い池だ、と思ったけれど、実際、池はそこまで深くはなかった。ただ夏芽の脳は、そこに在った死体を、夏芽に見せようとしなかったのである。夏芽が、そういった映像に耐えられないという事を端から承知していたのであろう。無論、あんなものを見てしまった夏芽は、その場で失神してしまった。
今、夏芽は自室のベッドで寝ている。こうしているのも、綺堂が夏芽を家まで運んでくれたからだった。夏芽が綺堂に抱かれて帰還したのを見た春代と冬吉は、最初は悲鳴すら上げたらしいが、事情を話すと、綺堂に感謝し、何度もお礼を言ったという。春代は、やはり綺堂が気に入っているらしく、夏芽が朝やっと目覚めた時も、何故か真っ先に「お嫁に行くならああいう紳士的な方がいいわ」などと言った。夏芽は自分が失神したという事実すら記憶になかったため、春代のそう言った言動は、夏芽を余計に混乱させた。対して冬吉は、夏芽が“初めて連れてきた男性”であるために、あまり綺堂をよく思っていない様であった。夏芽を救ってくれた人であるというのに、なんとも失礼な話ではあるが、それが、一般の父親というものなのだろう。
もうそろそろ朝九時になろうとしている。目覚めてから、三時間余りが経つ。夏芽は、頭が、いや、もっと明確に言うと脳が、時折痛んだ。目を閉じることは出来なかった。何故なら、暗闇が訪れると、水の中で膨張したあの悍ましい程に白い少女たちが、目に浮かぶからである。その恐怖は、とてつもないものだった。だから夏芽は、目を瞑って眠ることも出来ないまま、三時間も天井を眺めていた。
とんとん、とドアが叩かれて、春代が部屋に入ってくる。
「なっちゃん、そろそろ、起きないかしら。どう、ね」
春代は春代なりに、夏芽を心配しているようであった。夏芽は、このまま一日中こんな所でぼうっとしていると、両親に更に心配をかけてしまうだろうと思い、仕方なくベッドから起き上がった。
「何処か痛いところはない」
「無いよ。いっぱい寝たしね」
夏芽は笑って見せた。笑いたい気分ではなかったが、これ以上、春代が悩ましげな顔をするのは見たくなかった。春代は微笑んだ。
「そうね。まあ、元気になったならよかったわ。ご飯は食べれるかしら」
「もちろん。お腹すいた」
それは本音であった。あのような気持ち悪いものを見た後であるから、何かを食べたいという気分にはならなかったが、脳味噌とは裏腹に、体がエネルギーを欲していた。
「あら、よかった。ちゃんとね、なっちゃんの分も用意してあるのよ」
春代はそう言って、遽しく階段を駆け下りて言った。夏芽はゆっくりとベッドから降りると、床の感触を確認する。
一階に降りると、テーブルの上に、綺麗な黄色のオムライスが置かれていた。冬吉の気配はしなかった。きっと、仕事に出かけたのだろう。
「今日はね、焦がさずにできたのよ」
春代が子供のような声でそう言った。春代は、所謂天然ボケという性格で、いや、本当は加齢によるボケなのかもしれないが、オムライスを作るとき、何故か八割方焦がす。彼女にとってオムライスは、高校生のセンター試験よりも難しい試練なのだという。だが、春代はセンター試験―――春代の時代は共通一次と言ったようだが―――を受けたことがないらしい。ならば比べようがないじゃないか―――春代はやっぱり、天然ボケだ。
テレビがついていた。夏芽は「いただきます」を言って、スプーンでオムライスをすくいながら、画面に目をやった。オムライスを口に運ぶ。見た目は綺麗なオムライスであるのに、何故か焦げた味がした。決して不味いわけではないが、レストランなんかで出したら、絶対にクレームを付けられるだろう味だ。
「おいしい?」
春代の笑顔には代えられない、と思って、夏芽は大きく頷いた。
「あら、よかった。お父さんもね、おいしいって言ってくれたのよ」
やはり、親子である。冬吉とは気が合いそうだ、帰ってきたら語り合おう、と夏芽は思った。
テーブルの真ん中に置かれている小さな金魚鉢の中で、先日の祭りで綺堂が夏芽の為に掬った黒出目金が静かに泳いでいた。乙姫を思わせる尾鰭がひらひらと揺れる。きっとこの出目金は、未だに”自分が掬われてしまったのだ”ということには気付いていないに違いない。
テレビの画面の映像が切り替わった。どうやら、“連続失踪事件”、つまり“蟲男事件”の犯人が捕まったため、それが全国のテレビ局で一斉に取り上げられているようだ。テレビ中のアナウンサーだかが、宮本家の庭にある池の中から、行方不明者たちのものと思われる変死体が九体上がったことを報じていた。夏芽の脳裏にまた一瞬だけ、あの死体の顔が浮かんだ。
『警察によると、死因は首を絞められたことによる窒息死、宮本雪江容疑者は、殺害した少女たちを池の底に沈めて隠していたということです。宮本容疑者は、犯行を全面的に認めており、警察は彼女が犯人であるとみて捜査を進める方針です』
「恐ろしいわねえ」
春代が言った。
「だって、あなたの学校の先輩のお母様でしょう。人って、わからないわ」
「うん……」
雪江の言動や行動は、少なくとも夏芽に人間不信の念を抱かせる原因となっていた。狂気に満ちた女の顔が思い出される。夏芽は首を振って、焦げた味のするオムライスをもうひとくち、口に運んだ。
本当に、嫌な事件であった。自然とため息が漏れる。宮本肇から受けた「事件解決の依頼」ではあったが、結局、その依頼人自体を苦しめる、最悪の結末となって幕を閉じることとなった。肇は、やっと、父の無罪を知って、少なからず安堵したであろう。しかし、それも束の間、彼は犯罪者の母親を持つ身として、新たな苦しみを抱えて生きていかねばならないのだ。そして、冬吉の浮気の問題もある。しかもその浮気相手が、よりによって親友の土田和也の母親であったのである。
最悪だ、と夏芽は思った。
こんなことならば、事件など追わなければよかった。
肇とも、知りあわなければよかった。
そうすれば少なくとも夏芽は、こんな後味の悪い気分にはならなかったのである。
「世の中って、不条理……」
夏芽は呟いていた。それからまた一口、オムライスを口に運ぶ。そこで夏芽は、このオムライスの失敗要因、焦げた味がする原因は、卵の方ではなく、ライスの方にあるのだ、という事に気付いた。
オムライスの見た目は黄色である。卵が全面的に主張していて、その上に、赤いケチャップが乗っているのが印象的な料理である。だが実際は、このオムライスと言う料理を構成している八割が、ご飯、つまりライスの部分なのである。人間というものは、表面的なものに左右されやすいものだから、どうしてもその「オム」の部分にばかり注目してしまう。
本当に大事なのは、「ライス」。つまり、主要を占める「中身」なのだ。
…………中身。
中身?
そもそもこの事件の中身とは、何だったのだろうか。九人もの少女が殺された、この恐ろしい事件の、中身とは。
違う。夏芽はあくまでも、「土田和也の捜索」を目的としていたのである。
肝心なことを忘れていた。夏芽は決して、“蟲男”事件の解決が目的で、この事件に足を突っ込んだわけではないのだ。
つまり、夏芽にとっての中身は、「土田和也」についてのことだけであるのだ。
確かに夏芽は、“連続失踪事件”を解決した。しかし、未だ、土田和也誘拐の真相にたどり着いては居ないのである。
だが、考えれば、簡単なことではないだろうか。何せ宮本雪江は、土田和也の母親である土田京子を恨んでいたのだ。その怨恨の矛先が、息子の和也に向かっても、何ら不思議ではない。
では、何故和也だけは殺されなかったのであろうか。一番憎い相手である筈の和也だけ、殺さない、しかも肇の話によると、無傷で“命に別条がない”状態で発見されたのだというのだから、全くもって不可思議な話である。一番憎い人間には、一番辛くて、苦しい罰を与えたい、そう考えるだろう。もっと、死ぬほどつらいと和也が感じるように、痛みつけてもよかったのではないだろうか。いや、そもそも雪江は、京子への恨みで犯行に及んだのではない。どちらかと言えば、宮本吉造への『愛』が、雪江の犯行の原因である。最初から、土田和也を苦しめる必要などなかったのだ。殺してしまえば、それでよかったのだ。
しかし雪江は、土田和也だけ、無傷のまま監禁した。愛する人の子供だからとか、そういう理由であろうか。肇の親友だからだろうか。それとも、雪江自身も、土田和也の事を本当の子供のように可愛がっていたからであろうか。
いや、違う気がする。何だろうか、この違和感は。
違和感を感じたのは、今だけではない。
まず、宮本吉造である。彼は最後に「守りたいもの」という言葉を口走った。その守りたいものは、真犯人である雪江の事だろう、と夏芽は察していた。
次に、雪江である。雪江は“蟲男”という名を聞いた途端に、何故だか表情が固まった気がした。夏芽の思い過ごしかもしれないが、確かに雪江は、何か“嘘”をついていた。直感だが、その嘘と言うのは、「十年前に蟲男というオカルト記事が掲載された」ことでは無い気がする。何故なら、もしそれが嘘だったならば、“蟲男”について調べつくしていた綺堂が、その嘘をスルーする筈がないからである。
では、何を“隠した”のだろうか。
そして、雪江については、もう一つ違和感があった。それは、雪江の最後の言葉である。
――母親としては――
女としてはダメな人間だったかもしれない、しかし、母親としては全うしてきたつもりだ、そう雪江は言ったのである。犯罪を行った時点で、親としてもどうかしているに違いないが、そういう観点で無くて、雪江は、もっと違う観点で「親」のあり方を模索していたのではないだろうか。
親とは、一体。
夏芽は春代を見た。意識を現実世界からシャットアウトしていたため気付かなかったが、春代は先程から、ニュースを見てぶつぶつとひとりごとを呟いているようであった。
「お母さん」
夏芽は言った。春代は夏芽を振り返る。
「なあに」
「親って何。どういうもの」
なんともぶしつけな質問である。春代は、訝しげに首を傾げた。しかし、それから表情が何故か憂いに満ちたものとなる。もしかしたら春代は、悲しい事件を目の当たりにした夏芽が、心の安らぎでも求めてそんなことを言ったのだ、とでも思ったのかもしれない。
「親っていうのはね」
春代はしみじみと言った。
「親っていうのは、子供がいて、初めて親になるの。そして、子供を見て、子供を育てて、そして自分も成長する。そして、何よりも自分の子供が、大好きなのよ。だからね、親は子供を守る生き物なのよ」
出目金が、金魚鉢の中で、ぴちゃり、と跳ねた。
「子供を守る!」
夏芽は叫ぶように言った。
「そうよ。それでね……」
春代の話を最後まで聞かず、夏芽は勢いよく立ち上がった。
「……わかったわ、お母さん」
「何よ突然。何が分かったの」
「中身よ、オムライスの」
「オムライス?オムライスの中身はライスよ」
「そう。いくらオムが上手く出来ていても、ライスがまだ、解決していないわ」
「えっ、今度はご飯が焦げてたかしら」
「お母さん、このオムライス、帰ってきてからまた食べるから、とっておいて」
「帰ってきてからって……何処に行くのよ」
噛み合わない会話を一方的に終わらせて、夏芽は鞄を持って家を飛び出した。
宮本肇は、今日の午後から、土田和也の見舞いに行く予定の筈である。兎に角、急がなければ、今度は本当に、最悪の結末を迎えることとなるのである。
急がなければ。急がなければもう一人の蟲男が、新たな悲劇を起こしてしまう。
それだけは、止めなくてはならない。
夏芽は、使命心に燃えていた。
救えなかった、宮本家三人の顔が脳裏に浮かぶ。
いや、今ならまだ、間に合う。
この事件を、悲劇に終わらせてはいけない。
*
二日ぶりに浴びた日の光で焼き尽くされそうな気持ちに陥りながら、吉造は空を見上げた。空というものは、こんなに青かったのだ、そして、空気というものは、こんなに優しかったのだ。吉造は、長時間続いた悪夢のような取調べによって疲れ切った体を少しだけほぐしながら、なんだかやりきれない気持ちで、解放された今も尚、警察署の前から動けないままでいた。
吉造は、結局、愛するものを守ることが出来なかった。
視界に何かが入った気がして、吉造はふと其方に目をやった。少し離れた木陰で、先日の着物姿の若い探偵が、気難しそうな顔をして、腕を組んでいた。
「こんにちは、吉造さん」
綺堂は言いながら、吉造に歩み寄った。吉造は少しだけ笑顔を浮かべて会釈をする。
「先日は、お世話になりましたな」
「ええ。家に、お帰りになるところですか」
「まあ、そんなところです。行き辛いですが」
「途中まで、どうです、送らせていただけませんか」
「ええ、お願いします」
吉造は、重々しい足をやっと前に進めた。綺堂もそれに並んで、吉造の疲れた体がこれ以上疲労しないように、吉造のゆっくりとしたペースに合わせて歩く。
暫く無言が続いた後、吉造が口を開いた。
「私は、本当に、無力な人間です。大切なものを守ることすらできずに、こうやって一人、帰路を行くしか無いのですから。まあ、今日は、探偵さんが同行して下さっているわけですが」
「貴方は、こんなことはするべきでは無かったと、思いますよ、僕は」
綺堂は言葉を返した。
「本当に愛していたのならば、その犯行に気付いたとき、すぐに、自首をさせるべきでした。そうしていれば、あんなに罪を重ねてしまうことはなかった。最早、極刑は免れられないでしょう。精神鑑定にも依りますが」
「そうは言いますけどね、私が犯行に気付いた時には、既に手遅れでした」
「手遅れ?」
「私が犯行に気付いたのは、彼が、和也君が失踪した時でした……。それまでは、全く、まさかその“蟲男事件”が、私に関係のある場所で動いているなんて、そんなことは思いませんでした」
「本当に気付いていなかったんですか。新聞やニュースは目にしていたでしょう」
「そりゃあ、何せ名前が“蟲男事件”でしたからね、注目して見ていましたよ。被害者の人たちが、何だか似たような雰囲気の――そうですね、この前の御嬢さん、夜崎夏芽さん、でしたか、あの子に似た雰囲気の子だってことには気付きました。ですが、事件の起きた場所の近くに、まさか私の経営する『よしみや』があるなんてことは、報道もされていませんでしたから、全く気づきませんでした。家内は、仕事に行くときに通る場所だ、と言っていましたけれど、だから私は、気を付けなさい、とは言ったんです」
「そこまで気づいていて、まさか犯行に気付かないなんて、あなたは、余程鈍感だったのですね」
綺堂が言うと、吉造は自嘲するように笑った。
「気付くはずないでしょう、そんなことで気付くとしたら、本当に、“勘”の鋭い人だけだ」
「……少し、話を変えます」
綺堂は、疑念を抱きながら、言った。
「貴方は、昔、浮気をしましたね?」
「はい?」
「十九年前です。貴方は、」
「土田和也君のお母さん、土田京子さんと、浮気をした、そう言いたいのですね」
「その通りです」
綺堂が言うと、吉造は苦笑いを浮かべた。
「……貴方まで、あの三流週刊誌と同じようなことを言うんですか」
「事実では、無いのですか」
「当たり前です。事実無根です」
「本当にですか」
「綺堂さん…………ここまできて、嘘をついてどうなるというんですか」
吉造はため息をついた。
「確かに、京子さんと仲が良かったのは事実です。一緒にお食事にいったりもしましたし、それを浮気だと、家内に言われたこともありました。ですがそういう交流は、料理のカリスマであり、栄養士としても働いていた彼女に、出来たばかりの『よしみや』第一店舗の料理についての感想やアドバイスを貰っていたというだけのものでした。『よしみや』は、女性にも喜んでいただける料理を提供したいと思って立ち上げたレストランですから、料理のアドバイスや意見は、やはり女性に貰わなければ、と思ったんです。しかも京子さんは栄養士で、料理のカロリーや味のバランスについても詳しい方だった。だから私は、積極的にアドバイスをいただいていたというだけなんですよ。まあ、何度も家内には説明しましたし、家内に同伴してもらったときだってありましたから、理解は得ていたと思いますよ」
「成る、程……」
綺堂は腕を組んだ。
「ですが、吉造さん、土田和也君の血液型はB型ですが、お母さんの京子さんの血液型はO型で、お父さんはA型です。O型とA型の間で、B型の子供が生まれる筈などない……。そして貴方は、B型です」
「ああ、それもね、週刊誌の記者が来たときに、ちゃんと説明しましたよ。京子さんは、和也君がまだ五歳くらいだったころに、骨髄移植をしているんです。彼女は、血液の癌でしたから。しかし移植はしたけれど、結局は交通事故で亡くなってしまったんですがね……。その時に京子さんの血液型は、O型に変わってしまったんです。骨髄移植の後に血液型が変わるなんてことは、よくあることです。ですから彼女、最初はB型だったんですよ。綺堂さんは頭の良いお方だからわかると思いますが、A型にはAA型とAO型があります。そしてお母さんの京子さんは、BB型、若しくはBO型だったと仮定されます。Oは劣性の遺伝子ですから、お父さんがAO型であったと仮定しますと、お父さんのO型、そしてお母さんのB型が合致して、B型のお子さんが生まれる可能性も十分にあるという事になるんですよ。それに、和也君には、京子さんが同じく手術を受ける前に産んだ翔也君っていう双子のお兄さんが居ました。翔也君はO型でした。このことから考えて、つまりお父さんはAO型、お母さんはBO型だったという事が証明できるんです」
「そうでしたか――――」
綺堂は閉口した。まさか、そういう事だったとは。では宮本雪江は、単に、勘違いを起こして、一人であのような狂気に陥っていたというのか。
「しかし、綺堂さん。そんな古い“浮気疑惑”の話が、事件にどう関係するんですかね」
吉造は、やはり苦笑いを浮かべたまま言った。
「それに、私が事件の犯人を真に確信したのは、あの、夏芽さんが家に訪れた時でした」
「……どういうことですか」
「肇はね、女の子と会話をするなんてことは、絶対になかった奴です。ああいう職業柄――まあ中々のピッチャーでしたからね――女の子のフアンというものは、とても多くて、よくそういう子が家を訪れたり、肇に話しかけたりすることもあったんです。でも肇は、その子たちと目さえ合わせようとしませんでした。結構かわいい子も居たんですけれどね。そんな肇が、夏芽さんには、話しかけたりするだけじゃあなく、家に招き入れたり、そして携帯電話の番号まで教えたんです。本当に、我が家では異例の出来事でした。夏芽さんが帰った後も、肇は何度も何度も、夏芽ちゃんが、夏芽ちゃんがって、楽しそうに話をするんですよ。ああ、惚れているんだなと思いましたね。そして、逆にそれが、私を真相にたどり着かせました。肇は、だからその好きな女の子に似ている人を、襲ってしまったんだなあって」
「肇君が?」
「ええ。それにあの日、綺堂さんは、腕に爛れた跡があった人間が、犯人だと言いましたよね。この爛れは、遺伝するものなんです。だから私だけでなく、肇にもあるんですよ」
「という事は、まさか夏芽さんを襲ったのは」
「私じゃありません。それに、犯人はあなたたちを追いかけたんですよね。私はね、そりゃあ昔はバリバリのスポーツマンでしたが、今はもうただの中年男です。あなたのような若い人を、同じスピードで追いかけるなんて、できるはずありません」
「……そうですか」
綺堂は立ち止まった。
「少し酷な話になってしまいますが……吉造さん。貴方は、勘違いをしています」
「勘違い、ですか」
「ええ、非常に致命的な、勘違いです。ですからお願いです、あまり落胆しないでいただきたい」
「落胆する、勘違いですか」
「……ええ」
少しだけ間をおいて、綺堂は再び口を開いた。
「犯人は肇君ではなく、雪江さんです」
「…………そ、そんなバカな!」
吉造は声を荒らげた。
「そ、そんな筈がない!だって、雪江には、雪江には少女たちを襲う動機なんかないじゃないか!和也君についてもそうだ!彼女には何も」
「あるんですよ」
綺堂は静かに言った。
「彼女は、貴方が浮気をしていたという噂を、真に受けていましたから」
「……っ、そ、そんなバカなことが……っ」
「被害者の少女全員に共通することは、見た目の雰囲気が――勿論顔は全然違うのですが――それぞれ、土田京子さんに似ているという点です。それに、肇君には犯行は不可能です。何故なら彼はまだ車の運転が出来ない、そんなに遠くに行って、数時間で犯行を終えて帰ってくるなんてことが、電車やバス、タクシーなんかではできません。特にこんな田舎では」
「まさか……まさかそんな……」
吉造は狼狽えた。
「……そんな、ど、どうして……」
「彼女は、貴方を愛していると言っていました。それ故に、彼女は貴方の浮気を本気で信じ込み、恨んでも居ました。愛しているが故に、自分を裏切った貴方を苦しめたい……だから彼女は、浮気相手だと思い込んでいた土田京子さんに似た少女ばかりを襲い、そして所持品を、『よしみや』の付近に置いたんです。あなたに気付いてもらいたいがために。全て、彼女一人の思いこみであるという事にも気づかず……」
「ああ、なんということだ!」
吉造はその場に崩れ落ちた。
「私は、ああ……私がもっと、もっと彼女を安心させてあげなければならなかったんだ!雪江は、私の所為で!ああ、私はなんて酷い、酷い男なんだ……」
綺堂は吉造の肩に手を置いた。
「……私は貴方を誤解していました……。貴方は、貴方は何も悪くない。貴方は、純粋に彼女だけを愛していた。そして故に仕事を懸命に行った。それだけでなく、母親を失った和也君にまで気を遣い、そして息子の肇君を、方法は間違ってはいたけれど、精一杯守ろうとした。貴方は、貴方は何も悪くないんだ」
「いいえ、綺堂さん……。私がどんなに愛しても、彼女が愛されていると思わない限り、それは愛じゃないんだ。私は、ちゃんと彼女を愛せていなかったんだ……ああ、雪江、すまない、雪江……」
吉造の目からは、大粒の涙が溢れていた。それを見て、綺堂は唇をかんだ。
綺堂の推理は、思わぬ泥濘に足を取られた。全ての人間が、思いを交差させ、行き違わせていた。今までのすべての事柄が違和感を含んでいたのは、そのためだったのだ。綺堂はそのことに、今の今まで、気付くことが出来なかった。
だが、しかし――――。
まだ、終わっては居ない――――。
綺堂は、吉造の肩に置いた手に力を入れた。
「吉造さん、最後に一つだけ、教えてください」
きっとこの謎が解ければ、全てが繋がるであろう。宮本肇、宮本雪江、宮本吉造、土田和也、そして、
――――蟲男。
「“蟲男”についてです…………」
吉造は顔を上げた。
*
夏芽は、駆け足で病院に入った。「受付」という札が下げてある所まで、また走る。
「あの、すみません」
やっとの思いでそこまで辿り着いた夏芽は、息を絞り出すように言った。薄ピンク色の制服を着た女性が応答する。
「どうかされましたか」
「あの、土田和也さんの病室を、教えてください」
「お友達の方ですか」
「は、はい、そうです」
「少々お待ちください」
女性の涼やかな声は、夏芽の焦りを余計に増幅させた。夏芽は今にも走り出しそうになりながら、女性が言葉を発するのを待った。
「お待たせしました、三〇八号室ですね」
「ありがとうございます」
言うのと同時に、夏芽はエレベーターへ向かって走った。しかし、エレベーターのランプは、まだ四階から上へ行く所であった。
夏芽はエレベーターを諦め、階段を駆け上がった。寒い筈の季節であるというのに、暖房もある所為か、汗が滴り落ちる。昨日から風呂に入っていなかったため、その不快感は凄まじいものであった。だが、そんな事を言っている余裕は無いのである。
三階まで辿り着いてすぐ、夏芽は土田和也の病室を発見した。ドアは開いているようである。夏芽は急いで飛び込んだ。
部屋の中に、土田和也はいなかった。その代り、荷物を整理していた女性が、驚いて夏芽を振り返った。
「すみません、土田先輩はっ」
「えっと……どなたかな」
「土田先輩の後輩の、夜崎と言います」
「あら、お見舞いに来てくれたの……そんなに急いで」
「あの、あなたは一体、誰ですか」
失礼だったかもしれない。夏芽が言い直そうとすると、女性は、うふふ、と笑った。
「面白い子ね。私は、和也の従姉の由香里よ。和也が行方不明になったって聞いて、叔父さんの……和也のおじいさんのお手伝いが出来ないかと思って、こっちに来てたの」
ああ、雪江が言っていた“親戚の女の子”か、と夏芽は理解した。
「ところで、土田先輩は」
「ごめんなさいね、折角来てくれたのに、和也ったら、さっきね、お友達に呼ばれて、何処かに行っちゃったのよ。まだちゃんと退院手続してないのに。すぐ戻るって言っていたから、ううん、でも和也の事だから、一時間やそこらはかかると思うわ。迷惑な子よねえ、ほんとに」
夏芽は、すうっと汗が引いていくのが分かった。
宮本肇に、先を越されてしまったのである。
このままでは、土田和也の命が危ない。
「あの、土田先輩は、一体何処に行ったんですか」
由香里は右手の拳に顎を乗せた。
「さあ……でも、キャッチボールをするとかしないとか言っていたわね。『あの場所に行く』とも言っていたわ」
では、公園か。
「ありがとうございました」
夏芽は勢いよくお辞儀をして由香里に背を向けた。そんな夏芽を、由香里は慌てて呼び止めた。
「あ、でも、多分神坂公園じゃないわ」
「え?」
夏芽は再び振り返る。女性は、今度は人差し指を立てて、それを顎に押し当てていた。
「私、聞いたもの、またあの公園に行くんでしょって。そしたらあの子、違うよって言っていたから」
だとしたら――――。
「ありがとうございます!」
夏芽は駆けだした。
その後ろ姿を見て、雪江はうふふ、と笑った。
「和也も、ついに、女の子に追いかけられるようになったんだあ。もう、隅に置けないわね」
それからベッドの上にある和也の着替えの服を一枚綺麗に畳んだ後、「あ」と言って顔を上げた。
「あの子急いでいたから、私が車で送ってあげればよかったんじゃないの」
しかし再びベッドに向き直る。
「ま、いっか。汗を流してこその青春だものね」
吉造を家まで送った後、綺堂は再び神坂公園を訪れていた。確証は全くない、しかし、何かがある、そんな気がしていた。
綺堂にはずっと、心に引っ掛かっていた事柄があった。それは“電話とメールの時間差”である。事件当日の昼に、土田和也から不審な電話を受けた肇は、二回掛け直すが、和也は出なかった。それから連絡が途絶えたのだから、その時に“襲われた”可能性が高い。しかし、”蟲男メール”が肇の元に届いたのは、それから七時間以上経過した後であった。つまり、”空白の時間”があるのだ。綺堂は、いや、きっと夏芽も、その時間に“意味がある”のではないか、と考えていた。考えていたといっても、今まで“蟲男事件の本編”の所為ですっかり忘れてしまっていた。
だが、もしかしたら、そのことに”意味など最初からなかった”のではないだろうか。
もし、犯人が、自分のミスを隠したために“出来てしまった時間”であるとしたら……。
雪江は、巧妙な仕掛けを使い、上手く警察を騙してきた。つまり、それほど完璧な犯罪であったという事だ。そんな雪江が、“このようなミスを犯す筈がない”。
いや、まだ確証はない。証拠がないのだ。
しかしあの日、夏芽はこの公園で“何かを見た”と言っていた。
その何かが、まだ残っているとしたら、それが、最大の証拠となる可能性がある。
先程芳蔵から聞いた“蟲男”の件で、綺堂はほぼ、事件の全容を把握した。綺堂は懐に入っている、由宇奇に渡された小説『蟲男』に手を置く。
確実な証拠がなければ、それは、ただの“憶測”となり、そして彼は、もっと恐ろしいことを引き起こしてしまうかもしれないのである。
だからなんとしても、“それ”を見つけなければならないのだ。
綺堂は、先日夏芽が蟲男に襲われた、丁度その地点に立った。ここから、夏芽には何かが見えたのだ。何かが。
その時、まばゆい太陽の光が反射して、綺堂の目に映った。
綺堂は、一瞬目を細める。
遊具は皆さび付いていて、反射などする筈がない――――。
綺堂ははっとして、その“反射板”に歩み寄った。
「こ、これは…………」
綺堂はそれを拾い上げて、胸に押し付け、目を閉じた。
これで、全てが繋がった。
怪物が、やっと姿を現したのである。
綺堂は再び目を開けた。
――――急がなければならない。
*
由宇奇は、木沢高校に向かって歩いていた。先程、土田和也からメールが入った。
『肇に呼び出されました』
―――あいつ、ちゃんと言えるかなあ。
由宇奇は、和也を助け出した後、和也の看病に立ち会いながら、真実と肇の妄想の相違を伝えた。和也も、それを聞いて、納得していたようだった。
そうは言っても、ただでさえ気の弱い和也が、ちゃんと肇に伝えられるだろうか。由宇奇は心配でならなかった。失敗したら、最悪の事態にもなりかねない。
由宇奇はひゅう、と吹く冷たい風から避けるために、顔を茶色のコートに埋めながら、思った。見届けなければならない。それが、『蟲男』を“最初”に書いた者としての務めだ。
肇の書いた『蟲男』も、良く出来ていた。由宇奇のと違って、気味の悪い描写が無く、素直な文体で、流石、文学賞を取った作品だ。羨ましく思うくらい、完璧な出来だった。
―――しかし、だからこそ“この”事件は起きてしまった。
世間を騒がせた蟲男事件と異なる、もう一つの蟲男事件“土田和也誘拐事件”。
風がだんだん強くなる。由宇奇は足を速めた。もし、“彼”が過ちを犯そうとしたら、止めなくてはならない。
なんとしても。
*
男は、公衆電話の受話器を置いた。派手な着物姿も、この人混みの中ではさほど気にならない。男はため息を吐いた。警察に電話を入れてやったところだった。所謂“タレコミ”ってやつだ。
「はあ。折角種を植え付けてやったってのに」
男は雑誌に目を落とした。
「それにしても、俺あ天才だ。こんなでたらめ記事ひとつで、もう数えきれない人間の人生を狂わせることが出来たんだもんね」
男は微笑した。
くくくく。
だが、もう潮時だろう。
この“物語”を、美談に変えてたまるものか。
人間は皆、とことん不幸になればいい。
「夫の浮気を信じて、九人も人を殺すなんてねえ。人間てのは、いかれてやがらあ」
男は笑っていた。
これから、宮本吉造の築いた莫大な富は、破綻を迎えるだろう。
野球で将来が決まっていた息子肇は、未来も希望も断たれ、今から新たな凶器になる。
―――勘違いで人を殺すなんて、親譲りなこった。しかも、大事な大事な親友を。
そして、死んだ女子学生たちの関係者の人生は、もうすでに狂い始めている。
愉快だ、愉快だ。
もっと、苦しめばいい。
もっと、憎み合えばいい。
男は公衆電話から出ると、青く晴れ渡った恨めしい空を見上げて高らかに笑った。
*
真昼間の静かな校庭で、二人の少年はキャッチボールをしていた。片方は、ピッチャーだろうか、立って、もう一人はしゃがんで、キャッチャーミットという特殊なグローブを構えている。
暫くは普通のキャッチボールをしていた二人が、あろうことか、ピッチャーの少年が投球ミスをして、ボールは大きく後ろにそれて行ってしまった。
「お、土田、すまん」
宮本肇は頭を押さえながら言った。土田和也は立ち上がって、人が良さそうに笑った。
「まあ、久しぶりだからね、仕方ないよ」
それからボールを追いかけて、肇に背を向けて走る。肇はその和也を追いかけて、走った。
和也はボールに追いつくと、後ろから肇が迫っていることに気付いた。肇は足が速いからすぐに来るだろう。和也はボールを手に持ち、その場にしゃがんだままでいた。
「マジ、ごめんな、まだ、退院したてなのに」
「いいよ、僕は全然大丈夫。それに僕なんかより、君の方が、大変なんだから」
「……ごめんな」
「君が、謝るなって」
少しだけ沈黙が訪れた。
でも、言わなきゃいけない。
和也はすう、と息を吸った。
「肇、あの日、君を呼び出した日に、あんな事件に巻き込まれなければ、僕は君に、とても重大なことを、伝えていたんだよ」
「重大なこと?」
和也は頷いた。
「とても、重大なことだ」
肇は、無言のうちに悟った。きっと、和也も、知っていたのだ、和也が、吉造の子供であるということ、そして、和也と肇が、兄弟である、という事を。
だが、今更、それがどうしたというんだ。
今更、懺悔したところで、肇の苦しみは、何も、変わらない。
父の愛を奪われ、そして母まで奪われた。
この苦しみを、目の前の、この鈍感な和也が、理解できる筈がない。
肇はズボンのポケットから、この爽やかな空間に似合わない“それ”を静かに取り出した。
太陽の光に反射して、銀色の刃が、ギラリ、と光る。
ナイフの、少しだけ黒くなっている部分は、あの綺堂とかいう探偵を傷つけた時の血の痕である。
今更であるが、土田和也を襲ったあの日、躊躇せずに殺してしまえばよかった。
あの時はまだ、このボールの感触が掌に残っていた。
だが、今は、もう迷いはない。
「僕、さ――――」
和也が言葉を発すると同時に、肇はナイフを振り上げた。
しかし、その時、声がした。
「先輩!」
肇は刃を振り上げたまま、視線を移動させた。
和也と肇が居る、そこから十メートルくらい向こうのトラックの円の外に、制服姿の夜崎夏芽が立っていた。
肇はゆっくりとナイフを下ろし、ポケットにしまった。
結局、また君に邪魔されてしまった、か。
肇は薄笑いを浮かべた。
「知り合いの女の子?」
和也が言う。
「ああ。俺が片思いしてる子」
和也は「えっ」と言って振り返った。
「え?意外!ああいう地味な子がタイプだったんだね」
肇はふっ、と笑った。
和也を校庭に残して、肇と夏芽は人気のない教室に向かった。休日の教室で、宮本肇と二人きり。たかねが知ったら激怒するだろう。
教室に到着して、少しの沈黙の後、夏芽は肇を振り返りながら言った。
「お母さん、逮捕されたましたね」
「ああ。家に警察が来た」
肇は、眉を上げた。
「彼女は、悪人だからな」
「知っていたんですね、雪江さんが犯人だって」
「知っていたさ。だって、あの人、帰ってくると、いつも必ず池に向かったんだ。そしてその後、大きな音がした。でもあの池には、魚一匹住んじゃいないんだ、俺は不思議に思って、ある日、池に行った。そこで、池の中に人を投げ込む母の姿を見たのさ。ビビったよ、だって、親が、まさか“蟲男事件の犯人”だったなんて」
「それを知って、あなたは、お母さんを利用しようと考えたのね……」
「利用?」
「あなたは、土田先輩を殺害して、その罪も、お母さんに押し付けようとした」
「…………そうさ」
肇は、静かに言った。
「俺が犯人だっていう真実にたどり着いたってことは、知ってるんだろ、浮気の話」
夏芽は頷いた。肇は、少しだけ笑った。
「俺は、宮本家っていうエリートな家庭に生まれて、何不自由なく育った。親は優しかったし、信頼できる和也っていう友達もいた。それで十分だった。寧ろ、それしかいらなかった。でも、成長するにつれてわかっていったんだ、和也と俺が一緒に居て、何かやらかしたとき、父さんは必ず俺を叱った。父さんは、俺よりも、和也の事を可愛がった。アカの他人なのに、ただ、家が近いっていうだけなのに、父さんは、俺じゃなくて和也を愛したんだ。でも、和也はいつも、その事に気付いていて、俺の機嫌を損ねないように振舞っていた。だから俺は、そんな和也を憎んだり、恨んだり、そういうことは出来なかった。親友だったし、兄弟みたいなもんだったからね。だけど、昨年、あるスキャンダルが週刊誌で取り上げられた。それが、父さんの浮気疑惑、だった。父さんはそんなことは出鱈目だって言って、気にしていなかった。だけど俺は、直感的に気付いたんだ、ああ、それが、その浮気で出来た子供が、和也なんだって」
「でも、それだけじゃないですか。それだけで、どうして」
「それだけって、そう簡単に言うなよ。俺は別に、和也が兄弟だってことは構わなかった。でもそれだけじゃなかっただろ。浮気だぞ、浮気で出来た子供だ。罪の子供だ。それなのに父さんは、その罪の子供である和也を、本当の子供の俺よりも、可愛がったんだ。許せるかよ、許せないだろ。それに、俺は周りからは自慢の息子だ、優秀だって褒められたけど、劣等感を感じなかったことは今まで生きてきて一度として無かった。俺は、自分がかなり、色々な面において優秀だったってことは、自覚している。でも、それでも俺は和也に追いつけなかった。父さんは、優秀な俺より、不出来な和也を愛したんだ。そりゃあ、俺は偏屈で、生意気な子供だった。それに比べて和也は、気配り上手で、他人思いで、優しい奴だった。和也を愛したくなる父さんの気持ちはわかるよ、でもさ、でも俺は、俺だって、褒められたい一心で、父さんに優秀だって言われたい一心で、必死に練習してピッチャーの座に上り詰めて、必死に勉強して有名大学に合格したんだ。それなのにあいつは、楽をして、推薦入試で国立に受かって。なのに、父さんはあいつを祝うために、パーティーまで開いたんだ。許せなかった。もう、我慢の限界だったんだ」
「だから、土田先輩を」
「それに、和也は、あいつは気付いていたんだ、自分が浮気で出来た子供だってことに。何も言わなかったけどな。それであの日、あいつは俺を呼び出した。夏芽ちゃんには、俺は別の用が出来て行かなかったって言ったけど、本当は行ったんだ。それで、和也を、後ろから、殴って気絶させた」
「じゃあ……私に言った、電話やメールの話は、全部嘘だったんですね」
「強ち嘘でもないさ。実際あいつは、俺が時間になっても公園に行かなかったから、心配して、俺に電話をかけてきたんだ。俺も、二回掛け直した。掛け直しながら、あいつを襲ったんだ」
「でも、どうやって運んだの。土田先輩は、学校の倉庫で見つかっているもの。そこまで、宮本先輩一人じゃ運べないわ」
「だから、さっき夏芽ちゃんが言った通り。俺はそこで、母さんを利用したんだ」
「お母さんに、運ばせたの……」
「そのために、丁度母さんの仕事が休みの日を選んだんだからね。心配性の母さんは俺が居ないことに気付いて、土田の家に電話をしたらしい。そこで、土田のおじいさんから、公園に居るかもしれないという事を知らされた。それで、母さんは心配で俺を見に来た。その時が丁度、俺が和也を殴った後だった。母さんは気絶している和也を見て、死んだ、と思ったみたいで、凄く焦っていた。母さんは、まさか俺が、『母さんが“蟲男”だって知っている』なんて、気付いていなかったからな、家に隠そうなんてことは言わなかったさ。だから俺は、どうしても隠さなきゃいけないって言って、学校まで運んでもらったんだ。俺は和也が生きているってわかっていたから、手首と足首、それから口にガムテープを貼って、和也を毛布でくるんだ。それからそれを運んで、いやあ、大変だったよ何せ、真昼間だったからさ。見つからないように、使われていない倉庫に詰め込んで、鍵をかけた。鍵は、前日に調達しておいた。そこまでやってから、思い出したんだよ、重大なことを。和也の失踪を、母さんの所為、つまり“蟲男事件”の所為にするつもりだったのに、メールを送るのを忘れていた。慌てたよ。だって、あいつの携帯、どこを探しても見つからなかったんだから」
「でも、あなたは、土田先輩を恨んでいたんでしょう、ならどうして、殺さなかったんですか」
「殺すつもりだったさ、あの時は。でも、できなかった。決意が、足りなかったんだ。だから今日、俺はそれを実行するために、そのためにここに来た。……まあ、また夏芽ちゃんに邪魔をされたわけだけどさ」
肇はふっ、と笑った。
「でも」
肇はポケットから、先程のナイフを取り出した。
「でも今日は、誰にどう邪魔をされたって、計画は実行するって、決めているんだ」
「宮本先輩!」
止めようとする夏芽の首元に、肇は刃を突き立てた。
「夏芽ちゃん、頼むから、邪魔をしないでくれ」
肇の声は、冷たかった。
夏芽は、昨日の水の中の死体を思い出した。
今日の肇は、まるで死体のような顔をしていた。先程からずっと、表情がなかった。
いや、きっと肇は、長い間、そうだったのだ。
ずっと昔に、表情を失ったのだ。
陸奥旅行の帰りの電車で夏芽が見た夢の中で、肇はずっと、下を向いていた。
苦しさを、悲しさを、誰にも悟られないように。
「宮本先輩……」
「何も言うな、夏芽ちゃん。俺は、もう迷わない。俺はあいつを殺して、全てを終わりにする」
苦しみを、絶つんだ――――――。
その時、廊下の方から声がした。
「宮本肇、君は、間違っている」
聞き覚えのある、声だった。この声は、あの、探偵だ。
肇は咄嗟に、夏芽の腕を捕まえた。
「君は、間違っている」
教室のドアを開けて、綺堂壱紀が現れた。
「き、綺堂さん……」
「探偵か。何だ、今更。もう手遅れだぞ」
「手遅れではないよ。君はまだ、罪は犯していない」
「和也を襲った時点で、もう犯罪だ」
「和也君が、それを許しているならば別だ」
「今更あいつに媚びる気はない」
肇は、強い力で夏芽の腕を握った。
「今更、あいつなんかに」
「わかった。僕は君を力づくで止めるなんてことはしない。だが最後に、僕の推理だけでも、聞いてくれないか」
綺堂は言った。肇は少しだけ、夏芽の腕を掴む力を弱めた。
「逮捕された君のお母さんが、咄嗟に“蟲男”を使った理由がわかったのさ。それは、“これ”だ」
綺堂は懐からキレイな本を取り出した。『蟲男』である。
「それは……」
「君が書いた、小説だね」
夏芽は思わず肇を振り返った。先日肇の家を訪れた時の、肇の言葉と、由宇奇の言葉を思い出す。
“二年前に、ある出版社の新人賞に応募したんだ。そしたら運よく引っ掛かってね”
“『蟲男』の作者はもう一人いるってわけだ“
「君は、十年前にある雑誌に掲載された、由宇奇秋人の“蟲男”の記事を参考にして、この小説を書いた。これは、本当に良く出来た小説だ、高校生の文体とは、思えなかったよ。由宇奇が書いたそれよりも、この『蟲男』の方が、完成されている。友人関係で悩み苦しみ、醜い虫になってしまう男の物語。これは、まさに、君自身の事だったんだね。そして、とある有名な賞を取った」
「でも俺は、授賞式に行かなかった」
「吉造さんが言っていた、君は、折角受賞したのに、全然喜ばなかったって」
「俺は、それで父さんが俺を褒めてくれることを期待したんだ。それなのに、あの人は何も言ってくれなかった。そんな俺を見て、“嬉しくはないのか”って。正直、嬉しくなかったさ。賞を受賞したのは、全て、父さんのためだったというのに」
肇の手が、少しだけ震えていた。
「お母さんは、その事を覚えていたんだ。彼女は、犯行をどうしても吉造さんに悟ってもらいたかった、君もわかっていると思うがね。だから敢て彼女は、“蟲男”という、君の関連する妖怪を取り上げたんだよ」
綺堂が言うと、肇は少しだけ顔を歪めた。
「さっき、夏芽ちゃんは、俺が母さんを利用した、そう言ったよな。でもさ、母さんの方が先に、俺を利用したんだぜ、犯罪にさ」
寂しそうな声であった。
「それとね、さっき僕は、吉造さんに会ってきた。そしたら彼は、君が“蟲男”の犯人だと思い込んでいたよ。だから、雪江さんが逮捕されたと伝えたとき、とても取り乱してね」
はははは、と肇は笑った。
「そりゃあそうだろ、父さんは、端から俺を信じてはいなかったんだから」
「それは違うな。吉造さんは、“愛ゆえに“、君を疑わざるを得なかったんだ」
「愛、ゆえに?」
綺堂はゆっくりと頷いた。
「吉造さんは、浮気などしていない」
教室が、しんと静まり返った。
夏芽は、思わず目を見開いた。夏芽も、吉造は浮気をしていたものだと仮定して、肇と話をしていたのだから。
しかし綺堂は、真実は“そうではない”と言っているのである。
少しして、肇は声を荒らげた。
「嘘だ!今更嘘をついても、だって、血液型の話もあるんだ。和也はB型で……」
「和也君のお母さんの京子さんは、和也君を産んだ後に白血病にかかり、骨髄移植を受けている。それによって、お母さんの血液型は、B型からO型へ、変化したんだ」
「そ……そんなことが……」
「あるんだよ。だから吉造さんは、スキャンダルの噂が流れた時に、平然としていたんだ。本当に、ただの“嘘”だったんだからね」
「……嘘……だって……」
「だから吉造さんは、被害者が皆、京子さんに雰囲気が似ている人だなんてことには気付かなかった。京子さんと吉造さんの繋がりなど、本当に無かったのだから。そして土田和也の誘拐が起き、夏芽さんが君の家を訪ねたとき、吉造さんは、君が犯人だ、と確信した。何故なら夏芽さんが、被害者と似た雰囲気の持ち主だったからさ。そして君は、夏芽さんに好意を抱いていた。それこそが、動機だと、彼は思いこんだ。まさか雪江さんが浮気の話を真に受けているだなんて、思っていなかったのだからね」
「そんな、それじゃ…………」
「吉造さんが君を犯人だと思い込んで庇ったことこそ、吉造さんが浮気などしていなかった最大の証拠だろう」
「……そ、そんな……俺は……」
「君は何の関係もない、本当に無実の土田和也を、今、殺そうとしているんだ。そしてその前に君は、もっと関係のない夏芽さんに刃を向けている」
肇は動揺していた。今なら、簡単に肇の腕から逃れられる、と、夏芽は思った。しかし、夏芽は動かなかった。
きっと綺堂は、肇に希望を残してくれる、そう信じたからだ。
「君は土田和也の“蟲男メール”を、偽造せねばならなかったことについても話そう。何故なら君は、彼から携帯電話を取り上げることを忘れてしまったからだ。それが、電話とメールの時間差の意味だよ。君は、携帯電話は土田和也と共に倉庫の中にある、そう思い込んでいたのだろう。だが、実際は違った。君が夏芽さんを襲った日、夏芽さんは公園で、何かを見つけた」
綺堂が夏芽を見て微笑んだ。夏芽は、あっと思い出して、大きく頷いた。
「なにか、四角くて光るものが落ちていて、拾おうとしたときに襲われたんです」
「そうだね。僕はさっき、それを拾ってきた」
綺堂が懐から取り出したのは、携帯電話であった。
「土田和也の携帯電話だ。少し拝見させてもらった。この中には、確かに君への発信履歴、そして君からの着信履歴はあったが、“蟲男メール”の送信履歴は残っていなかったよ。つまり君は、土田和也からメールを受けたんじゃない。自分で、若しくは誰かほかの人の携帯電話を使って、作成したんだ。……そして、ここには、あの日土田和也が父親に送ろうとしたメールが、自動保存されて残っている」
綺堂はゆっくりと肇に歩み寄って、それを差し出した。肇は夏芽の腕を開放して、それを受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『大学の事でいろいろ相談があって、今公園で肇を待ってるんだ。でもまだ来ないから、お昼には帰れないかもしれない』
「土田和也は、推薦入試で受かった国立大学を蹴って、君と同じ大学を一般入試で受けることを決めていたそうだ。国立大学を蹴るということは、とても勇気がいることでもある。何せ国公立大学の、特に推薦入試は“専願”、つまり、そこに受かったら必ず入らなければいけない、という暗黙のルールがあるのだからね。それを蹴るという事は、二度とその大学が、この高校の生徒を推薦入試でとってくれなくなるかもしれない、という、リスクを、後世にまで残す。だから、もしかしたら、高校の教師や、後輩から、恨まれることにもなるかもしれない。それでも君と同じ大学、しかも受かるかわからない難関大学へ、何故彼は、挑戦しようとしているのだと思うか」
肇の目から、滴が落ちたのが分かった。
もう一人の蟲男は、やっと人間に戻った。
綺堂は歩み寄り、彼の持つナイフに手を触れた。
「もうこれは、必要ないだろう」
綺堂が肇からナイフを受け取るのとほぼ同時に、肇は力なくその場に崩れ落ちた。
「俺は、俺はなんて…………」
「宮本先輩……」
夏芽は肇の肩に手を触れた。肩は小さく上下して、震えていた。
「宮本先輩、先輩が、私に土田先輩の相談をした理由、それは、本当は彼の事を、大切に思っていたからです。例え、憎き腹違いの弟だったとしても。実際は違ったけれど。だから、誰かに見つけてほしかった。自分を、止めてほしかった。それで、蟲男を信じそうな私に、相談したんですね。先輩は、優しい人です。そして、先輩は、自分で思っている以上に、みんなに愛されているんです。大切に思われているんです。だから……」
だから、もう、心で泣かないで。
悲劇な結末は、もう要らない。
ゆっくりと顔を上げる宮本に、夏芽はにっこりと笑って見せた。
「行きましょう、土田先輩が、待ってます」
「肇のやつ、抜け駆けかよ」
校庭の石段に腰を掛けながら、和也は呟いた。
「まあ、イケメンだし、仕方ないよね」
ボールを真上に投げる。それをキャッチャーミットで取って、また投げる。肇が夏芽と共に何処かへ行った後、和也はずっとそれを繰り返していた。それ以外にすることがない。暇だ。
それに、だからといって何もしないでいると、悪いことばかりが頭をよぎってしまう。
あの日、由宇奇と名乗った全身茶色の男は、和也にすべてを話した。
『気付いているだろうが、お前を襲った犯人は、宮本肇だ』
驚かなかった。やっぱり、そうか、と思った。
『宮本は“蟲男”って妖怪に憑りつかれててな。尋常じゃない状況なんだ』
『蟲男』というのは、肇が昔書いて、賞をとった小説である。親友との関係に悩み苦しんだ少年が、虫になってしまう。しかし最後に、親友が、虫になった少年を抱きしめて永久の友情を約束する、感動の物語。
『蟲男は、ある勘違いをしている。それは、お前の死んだ母親が、自分の父親と浮気をしていた、という勘違いだ』
そう言えば、週刊誌で大きく取り上げられていたことがあった。
『あれは全部、出鱈目だ』
『出鱈目でも、出鱈目じゃなくても、変わりません。肇は、僕の親友ですから』
由宇奇はそれを聞くと、笑った。
『その言葉、宮本肇に、必ず伝えてやれ。そして、奴を、蟲男から人間に、戻してやれ』
「おっと」
雑念の所為か、和也の投げたボールは大きく後方にそれた。それを目で追ったため、途中で世界が反転する。
反転した世界に映ったのは、バウンドするボールではなく、ボールを手に持って和也に微笑みかける肇の姿であった。
こんな柔らかな笑顔、いつ以来だろう。
「肇、おかえり」
「おう」
肇の目は、何故か少しだけ腫れているような気がした。
それから和也は腕時計を覗き込んで、「あっ」と言って立ち上がった。
「やばい、もうこんな時間……従姉さんに怒られちゃう」
「ごめん、俺が待たせたから」
「ホントだよ。罰として、病院まで一緒に来てもらうぞ」
「何だって」
和也は歯を見せて笑った。それを見て、肇は苦笑いを浮かべる。
「ふん、しょうがないな」
「決まりだっ」
和也は言って、スキップをした。
「そう言えば、相談、覚えてる」
「ああ。結局、どういう話だったんだよ」
「僕さ、推薦で受かった国立行くの、やめようと思って」
「……折角受かったのに、やめるのかよ」
「だってさ、推薦なんてつまらないでしょ。それにね」
和也は振り返って、キャッチャーミットを構えてみせた。
「僕は君と、一生バッテリーを組んでいたいから」
―――――。
肇は和也から顔をそむけた。
「俺みたいな三流ピッチャーなんかより、もっといいのはいっぱい居るって」
「何言ってんだよ。肇以外じゃだめなんだ」
「どうしてだよ」
「どうしても」
肇は空を見上げた。涙がこぼれないように。
「和也、ごめんな」
「何が?」
「だって俺はお前を……」
「『俺はお前を愛している』ってか!そ、そんな告白はいまさら受けられないぞ!俺はこれでもちゃんと、男だ!」
「違う!」
ははは、と和也は笑った。
「笑い事じゃないよ、俺は、犯罪を……」
「許すよ」
肇が言葉を言い終わる前に、和也は大きな声で言った。
「え」
肇は聞き返す。和也は、今度は肇の目の前に立って、肇の顔をしっかりと見つめて言った。
「僕は肇を許します」
「ど、どうして……」
「だって今、君は僕の名前を呼んでくれた」
和也は微笑んだ。
「昔は名前で呼んでくれていたのに、君は突然、土田って呼び出したんだ。だけど今、またもう一度、和也って呼んでくれた。だから、許すよ」
「そんな理由で?」
「いいじゃないか、一件落着さ」
言ってから、和也は再び腕時計を覗き込んで慌てた。
「そ、そんなことより早くしないと。従姉さん、怖いんだから」
和也が歩き出して、その少し後に肇は続いた。
少し離れたところで様子を見ていた由宇奇は、煙草をの煙をふうっと吐いた。
「なんだ、ちゃんと言えるじゃねえか」
青かった空は、いつの間にかオレンジ色を帯びていた。
通学路の坂道を、二人の少年が下っていく。
坂に伸びる桜の木たちは、小さな蕾を枝に咲かせて、
全てを受け入れ、洗い流し、
長い冬は、終わりを告げた。
啓蟄
三月六日、昨夜の雨が嘘のように、空は一斉に晴れ渡った。桜は、ところどころ咲いたり、咲かなかったりしている。しかし、どの木もしっかり蕾を付けていて、巣立ちゆく若者たちを精一杯に祝おうとしているかのようだ。
今日は、卒業式であった。夏芽は特に思い入れのある先輩なんて、宮本肇くらいしかいないし、宮本肇にはたかねの監視が付いているから、特に泣くことも、笑うことも出来なかった。
―――来年の今頃は、私も卒業か。
宮本肇は大勢の友人に囲まれて、幸せそうに卒業式を迎えた。もちろんその中に、土田和也も居る。肇は最後の最後に、本当の笑顔を取り戻して、そして先程、その多くの友人と共に正面玄関を出たところであった。
土田和也は、宮本肇を、許した。彼は自らの失踪を、誤って倉庫の中に入り、誰かが誤って鍵をかけてしまった、という事にして、闇に葬り去ったのである。それに、蟲男メールの事は、どうやら警察には知らされていなかったらしく――といっても、宮本肇本人が仕組んだのだから端から知らせる筈がないのである――土田和也失踪事件は、蟲男とは全く違うものとして処理されたのだという。
肇の母親である宮本雪江は、思い込みと心の闇の所為で、九人もの少女の命を奪った。しかし、和也失踪事件では、彼女は肇を守ろうとした。吉造も同じくだ。そうして、事件の糸は絡まっていった。
雪江が突如逮捕されたとき、振り向いて言おうとした言葉。夏芽は思い出した。彼女は、女性として、夫を誰よりも愛し、母親として、息子を誰よりも愛していた。
彼女のしたことは決して許されない。しかし、その気持ちだけは、わかってあげたかった。
事件解決の後、去年とある週刊誌が発表した、『よしみや』社長の“浮気”と“隠し子”の記事が偽りであった事が発表された。週刊誌の代表者は吉造に謝罪の言葉を発表し、吉造の濡れ衣は晴れたかのように思われた。
しかし、一度世に出てしまった「言葉」は、もう二度と、消えることはない。吉造は、してもいない罪を背負いながら、生きていかざるを得なくなってしまった。
全ての報道に関わる人間は、この悲劇を学ぶべきだ。自分の書いた記事や放った言葉が、誤った憶測を呼び、展開し、不幸を呼ぶことだってある。マスメディアというものは、今や人の生を変えてしまう程の、大いなる力を持っている。その力を無闇に使うことで、報道は夢の詰まった言葉の箱から、「ナイフ」に変わるのである。人間の人生を狂わせる凶器に、変わるのである。
今回の事件はその典型だ。それは、ドミノ倒しで広がっていった。
偽の、嘘の記事に、雪江は、肇は、そして吉造は、踊らされ、苦しめられ、貶められたのだ。
あの記事が、九人の少女を殺したのだ。
幸せだった家族を、言葉のナイフが、ずたずたに引き裂いたのである。
彼らが“元の姿”を取り戻せる日は、二度と来ないであろう――――――。
「なーつめ」
たかねが夏芽を呼んだ。
「ねえねえ、見てみて!私、宮本先輩のボタン、ゲットしちゃったあ」
「へえ」
夏芽はそっけなく返した。
「どんな姑息な手を使ったのよ」
「姑息だなんて、堂々と告白したのよ。そしたらね」
たかねはにっこりと笑って、
「ふられた!」
「えー!」
笑って言うことではない。
「でもね、嬉しいよって言って、ボタンをくれたんだよ。第三番目のボタンだけど。でもそれだけで幸せ!ちなみに、第二ボタンは他の人にあげるんだって」
「そうなんだ」
夏芽は遠くを見るように言った。
「大切なもの、彼はいっぱい持っているからね」
たかねは他の友人に呼ばれて、夏芽の元を去っていった。
その時、後ろから声をかけられた。
「夏芽ちゃん」
振り向く。肇が立っていた。
「あ、先輩。卒業、おめでとうございます」
夏芽は頭を下げる。
「私、先輩なら、幸せになれるって、信じてます」
「ありがとう」
肇は笑った。あの日から、肇は“ちゃんと”笑えるようになっていた。
「夏芽ちゃんのお蔭で、父さんともちゃんと会話できるようになったよ。父さんは、俺が思っていたより、俺の事ちゃんと、愛してくれてた。夏芽ちゃんが気付かせてくれたんだ」
肇は頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
「そんな、私の力じゃなくて」
夏芽は少し離れたところで、友人たちと無邪気にじゃれ合う、土田和也を見た。
「土田先輩の力ですよ」
「それもある。あと、」
少し間を置いて、
「あの探偵にも、感謝しなきゃな」
「あのひとは、そんなこと求めてないと思うから、大丈夫ですよ。でも、伝えておきます」
ざわめきの中で、肇は少し顔を赤らめた。
「実は、貰ってほしいものがあって」
「貰ってほしいもの?」
その時、校門の方から、夏芽を呼ぶ声が聞こえた。
「夏芽さーん」
綺堂である。
「綺堂さん!なんでよりによって学校になんか!」
肇は綺堂を見ると、慌てて夏芽の手を取って、掌の中に何かを押し込んで握らせた。
「俺の思い。俺、忘れないから、夏芽ちゃんのこと」
「わ、私もです」
頬が赤くなるのがわかる。
「じゃあ、夏芽ちゃん、またね!偶に連絡して!」
肇は早口でそういうと、夏芽の元を離れて行った。夏芽は肇によって握りしめられた掌を開くことが出来ないまま、それを見送る。
「夏芽さん」
いつの間にか隣に来ていた綺堂が言った。
「綺堂さん、なんでこんなとこに居るんですか!」
少し離れて、他の友人たちと楽しそうに喋っていたたかねが、着物姿の異様な男を見つけて、駆け寄ってくる。
「夏芽、綺堂壱紀って、このひと?」
「うん、そうだよ」
「わー!すごい!実在したんだ」
確か、夏の事件の時、綺堂が颯爽と現れた際、たかねは平沢に切り付けられ、意識を失っていたのだった。つまり、二人は初対面であって、初対面でない。
「はじめまして!夏芽がお世話になってます!」
「君が、いつも夏芽さんを困らせてる、“あの”たかね君だね?」
綺堂は眉を顰めて言った。
「まあ、君のお蔭で僕と夏芽さんは結ばれるわけだから」
「結ばれないです!綺堂さん、こっち!たかね、先帰るね!」
綺堂があまりにも学校の雰囲気に馴染んでいなかったため、夏芽は慌てて綺堂を連れ出した。綺堂とともに地獄坂を下る。
「もう、いつも突然すぎるんですよ、綺堂さんは」
「はは、すまないね。土田和也と、宮本肇の様子を見に来たんだ。元気そうで、なにより」
綺堂は満足げに頷いた。
綺堂の言葉で、夏芽は事件の事を再び思い出した。
「雪江さんは、どうなるんでしょうか」
「精神鑑定の結果にもよるが、九人も殺したのだからね。残酷だが、極刑は免れまい。それに例え精神鑑定での異常が発見され、入院なんてことになっても、最早彼女に、元の暮らしに戻る猶予は与えられないだろうね」
一つの記事が引き起こした誤解、これによって狂わされた宮本家。確かに、殺された九人の学生を思えば、死刑は当たり前の宣告かもしれない。しかし、夏芽はやはり、居た堪れなかった。
「誰があんな記事……」
「それなんだけどね、僕も引っ掛かっていたのさ」
綺堂は腕を組んだ。
「どうやら、一般からのタレコミだったらしくてね。名前だけわかっているんだが、顔も素性も明らかになっていないんだよ」
「じゃあ、罰は下らないんですね」
「残念だがね」
綺堂も夏芽も、肩を落とした。
「因みに、なんていう名前の人なんですか?」
「多分ペンネームだと思うのだが……」
*
公園で煙草をふかしながら、由宇奇は雑誌の記事を破り捨てた。全く、なんていう内容だ。これを信じてしまう人間も、人間だが、それにしても、あんまりである。ありもしないことを、さも有り気に語り、読者の心を煽っている。文章の中に密かに潜む狂気。こんなものを載せる編集者がいるなんて。同じ、一記者として、怒りが湧いてきた。しかも、これがペンネームでないとするならば、“あいつ”だ。
―――ふざけたことしやがって。
由宇奇は怒りに震えた。
―――この記事一つで、九人も死んだんだぞ……。
死んだのは九人だが、人生を狂わされた人間はその倍以上。怒りと共に、ある“嫌な予感”が由宇奇の脳裏を過った。
―――現実にならなければいいが……。
「由宇奇さーん!」
不意に声がして、顔を上げる。夏芽と綺堂が、由宇奇に手を振りながら向かってくるところだった。
由宇奇は記事を踏みつけると、手を振りかえして歩き出した。
破かれ、踏みつけられた記事の片隅に、この記事を書いた者の名があった。
―――夜崎拾―――
*
「旦那あ、今日は葉巻はいいんですかい」
「今日は吸いてえ気分じゃねえ」
派手な着物姿の男は、目の前のベンチに仰向けに寝転がった。
「嫌なことでも?」
「両方さ。片方はうまくいったのに、もう片方は邪魔されたの」
「また、綺堂の旦那にですかい?」
「誰だかは知らねえのよ。知りたくもねえ。でも、合計九人、向こうの人間が死んだ」
「そりゃあ、穏やかじゃねえ」
「全くだ。心躍るね」
「気味の悪いこと言わねえで下せえよ、夜崎の旦那」
長い髪、爛れた右側の顔を隠すために巻かれた包帯、胸まで開けて着崩された派手な着物―――夜崎拾は綺堂壱紀と同じく、半妖半人の類に当たる。しかし、妖怪の力を受け入れきれず、顔の半分が焼けただれてしまった。右半顔の余りの醜さゆえに、親に捨てられ、それ以来、人間を憎み続けてきた。哀れで残忍な、男である。
夜崎拾は曇天を見上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「旦那、何をお考えなんです?」
煙草屋の親父が聞く。
「俺が考えることなんか、一つしかねえわけ」
不気味な微笑は、賑やかな街の音を全て消し去ってしまうほどの殺傷能力を持って、妖怪の世界に響いた。
「人間を苦しめること、それが俺の唯一の生きる希望よ」
*
「由宇奇さんと綺堂さんのお蔭で、事件が解決されました。ありがとうございます」
八千代トンネルに向かって歩きながら、夏芽は頭を下げた。
綺堂は肇の母親が犯人である“蟲男事件”、由宇奇は肇が起こした“土田和也誘拐事件”を解決に導いた。
「土田先輩も、宮本先輩も、元気になったみたいで、よかったです」
「俺は、何もしてねえよ。青森にも行ってねえしな」
「ああ、あれは、今思うと無駄足だったな」
「あれが無駄足だったとするならば、その無駄足が、私を一番恐怖のどん底に陥れたんですよ」
夏芽は肩をすくめた。
その時、近くの木陰で何かが動いた。
「今、何か……」
「地虫じゃあないか」
「む、虫ですか」
夏芽は思わず身震いをした。
夏芽は、正直虫が嫌いである。蛙や蛇やヤモリやイモリは好きなのだから、変に思われるかもしれないが、特に芋虫や蛆虫、あとナメクジなど、そういう系統の這う虫が大の苦手であった。例外で、蟷螂も苦手である。子供のころ、蟷螂の鎌で怪我をしたことがあったからだ。
「虫なんて、一生出てこなければいいのに」
「そう言うわけにはいかないさ。それに、今日は、啓蟄だからね」
「けいちつ、ですか」
「“啓蟄”、三月五日、六日ごろの、太陽の黄経が三四五度になったとき、二月節気のことを言う。亦、暖かくなって、冬眠していた虫や蛇が穴を出てくること」
由宇奇が淡々とした口調で、辞書のように言った。
「啓蟄は、俳句の季語には欠かせねえ単語だからな。カレンダーにも載っているぜ」
「でも私、そんな言葉今日初めて聞きましたよ」
「今日初めてって、おい……お前それでも蟲男を追っていた身か?俺の書いた蟲男はな、啓蟄が非常に関係してんだ」
「そうなんですか」
由宇奇は残り少なくなった煙草を地面に落として火を消した。
「蟲というのは、人間の中に潜む、隠れた感情や欲望のことを言う。春になるとその欲望が這いだし、蟲男という名の妖怪が産まれる」
「なんだか、綺堂さんも同じようなこと言っていませんでしたか」
「ははは、参ったね」
綺堂は笑った。
「啓蟄とは言うが、桜はまだまだ、咲かねえな」
由宇奇が言った。
「これじゃあ、花見酒も美味くねえ」
「桜が咲いたら、また三人で集まって、花見でもしようじゃあないか。まあ夏芽さんの事だから、花より団子、という奴だろうがね」
「酷いですよ、綺堂さん。私だって、それなりに風流をたしなめる女の子ですよ」
夏芽は言った。
「それに、桜を見ながら食べるお団子だから、余計においしいんです」
「それは確かに」
綺堂が笑った。
「“向こう”は、桜は咲かないんですか?」
「ああ、季節がないからね」
綺堂が言った。
「啓蟄から暫く、六十五日間は静かな日が続く」
心なしか、嬉しそうだった。
「じゃあ、行ってもつまんねえな」
「静かでいいじゃあないか。静かな妖怪世界も、風流でいいものさ」
「そうなんですか。一回、静かな妖怪世界に行ってみたいです。静かな方が、綺堂さんも優子さんも、外に出やすいでしょう?」
「お前とあいつは出不精の塊だからな」
由宇奇は新しい煙草に火をつけた。
「まあな。夏芽さん、六十五日の間、妖怪は喪に服したような状態になる。八千代トンネルが通れない日があるかもしれないが、そういう時もある、と我慢してくれ」
夏芽は目を見開いた。
「そんな不思議なことがあるんですか?」
「あるんだよ、そういう奇妙なことは。そして、奇妙なことがない世界など、全くもって、つまらない」
綺堂は意味深気に微笑んで見せた。
「それじゃあ、夏芽さん」
「じゃあな、お嬢ちゃん」
綺堂と由宇奇は同時に歩き出した。
「さよなら」
夏芽は手を振る。
二人の後ろ姿は、トンネルの半ばで、すっと消えた。
夏芽は、何だか心に穴が開いたような気持ちになって、少しの間、立ち尽くした。
その時、ぐう、とお腹が鳴った。そう言えば、もうお昼はとうに過ぎている。今日は卒業式であり、学年が変わる大事な日だ。春代が、きっと、おいしい御馳走を用意して待っているに違いない。
夏芽は回れ右をすると、トンネルと幼い日の自分に別れを告げて、帰路についた。
そう言えば、肇は何をくれたのだろう。握っていた掌を開くと、制服のボタンだった。
『ちなみに、第二ボタンは他の人にあげるんだって』
夏芽はふっと微笑んだ。
―――第二ボタン、だったりしてね。
桜並木を、一人歩く。
花は、まだ咲かない。
啓蟄……冬籠りをしていた虫が動きだし、巣の外へ這い出る、の意。春の季語としても知られており、陽暦では三月五、六日のことを言う。
啓蟄 了




