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綺堂奇談  作者: 篠田ひさし


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3/7

啓蟄(前編)

主な登場人物(よみがな)


夜崎夏芽(よざき なつめ)

綺堂壱紀(きどう いっき)

由宇奇秋人(ゆうき あきひと)

宮本肇(みやもと はじめ)

宮本吉造(みやもと よしぞう)

宮本雪江(みやもと ゆきえ)

土田和也(つちだ かずや)

土田翔也(つちだ しょうや)

土田京子(つちだ きょうこ)

波奈野目優子(はなのめ ゆうこ)

ぎょろ眼の辰之助(ぎょろめのたつのすけ)

唐沢たかね

夜崎春代(よざき はるよ)

夜崎冬吉(よざき とうきち)

平沢利夫(ひらさわ としお)

夜崎拾(よざき しゅう)

鷲島光晴(わしじま みつはる)

煙草屋の親父

小豆洗いの兵部衛(あずきあらいのへいべえ)

序


 春が来た。

 待ちに待った春だ。

 私達は外に出た。

 やっと陽の光を浴びたというのに。

 何故皆、逃げるのだろう。

 私はそれほどにも、悍ましい存在なのだろうか。


『蟲男』より



 俺は、子供のころから虫が好きだった。例えば、蟷螂(かまきり)が獲物を捕える瞬間であったり、蜘蛛(くも)が糸を吐く瞬間であったり、毛虫が木から落ちてのたうち回る姿であったり、何が、どれが、と限定することなく、俺はその虫たちのすべての瞬間が好きだった。だが、群を抜けて特別好きなシーンというものもやはりあった。それは、寄生虫が、主の体を突き破って飛び出すシーンである。

 十歳の頃、俺は青虫を一匹捕まえて、観察目的で飼っていた。大事に箱に入れた青虫を、俺は毎日毎時間、飽きることなく眺める。餌をやって、餌と言っても庭に生えていたよくわからない雑草ではあるが、俺は毎日欠かさず餌をやって、そして、数分と置かずに青虫を観察していた。

 青虫は、通常の青虫よりも巨大で、そして動きが鈍かった。きっと虫も人間と同じように、太っていると動きにくいのに違いない。その時は、そう単純に考えていた。

 観察から一週間が経つと、青虫の体は少しずつ黒くなっていった。蛹になる時が近づいているのだ、俺はそう思い、心を躍らせた。虫が蛹になる瞬間など、そう見ることができないだろう。

 だが、俺の期待とは裏腹に、何故か青虫は弱っているようであった。餌は欠かさずやっているし、害虫も居ない。不自由なことなど、何一つない筈なのである。それなのに弱りきっていく青虫を見て、俺はただただ首を傾げるばかりであった。

 そんなある日、青虫が動きを止めた。

 俺が見守る中、それは、一瞬にしておこった。

 音もない。ただ、空間に緊張が走った。

 青虫の黒いからだが、少し波打ったかと思った瞬間、奴の皮膚を食い破って、白いものが無数に飛び出した。

 俺は今までにない興奮を覚えた。

 黒くなった青虫から這いだした白い何か達は、本当にこの青虫の中に居たのか、と疑ってしまうほど、成長していた。どうやら、蜂か何かの幼虫であるらしかった。くねくねとうねるそいつ等の横で、先程の青虫が、小さく萎んでいた。

 青虫は、死んでしまった。しかし、青虫は自らの体内に全く自らと異なる生命をはぐくみ、そして彼らのために、犠牲となったのである。まるで、生命の母。箱の中から取り出して、青虫に接吻をしてやりたいくらい、俺は感動していた。

 その日のうちに、俺は当時の親友にこの事件について語った。しかし親友は、この「寄生虫」の神秘性に賛同してはくれなかった。それどころか、俺を「悪趣味」と呼び、青虫を「汚らわしい」と罵ったのである。俺はその日のうちに、そいつと友人の縁を切った。

 寄生虫を見てから、俺はやはりまた虫の世界に深く嵌っていった。いや、寄生虫の世界に、と言った方が正しいかもしれない。もっと的確に絞って言うならば、つまり、寄生虫が主から飛び出す瞬間である。あれは、俺に、他の人間が言うような「恋愛」と同じような感情を抱かせたのだと、俺は思っている。無論、俺は人間という存在に対して愛だの恋だのという感情を抱いたことが一度として無いのだから、そのような喩では逆にわかりづらいのかもしれないのだが。

 大人になった俺は、寄生虫を求めて歩き回った。いや、寄生虫が寄生している主を探して回ったのかもしれない。そして、いろいろな虫と出会った。

その中でも、蟷螂に寄生する針金虫という奴は、非常に興味深かった。針金虫に寄生された蟷螂は、死の間際、必ず水辺に行くのである。水辺に行くと、尻から、一体何処に隠れていたのだ、と思うほど長い棒のような虫がずんずんと出てくる。それが、針金虫だ。これは俺の仮説にすぎないのだが、針金虫という奴は、蟷螂に寄生し、十分に成長した後、蟷螂の脳味噌、いや、そもそも蟷螂に脳味噌があるのかどうかは不明であるのだが、兎に角蟷螂に「水場に行け」と言うような信号を出し、それによって蟷螂は入水自殺をするのではないだろうか。

 俺は、二十五になった。だが、仕事をすることもなく、やはり虫を見ていた。親はいつの間にか死んでいたが、俺は自分が一人になったことにさえも気付いていなかった。

 最後に、弟が病死すると、俺にとって肉親という奴は一人もいなくなった。

 その頃、俺は流行病にかかった。なんたら、という南蛮から持ち込まれた病気であるらしいが、もはやそんなことは俺には関係なかった。死からは免れることが出来ない。あの青虫が死んだように、俺にだって死は訪れる。それはこの世の常なのだ。

 病は、一秒の猶予も与えることなく、俺を確実に蝕んで行った。俺は、不思議と恐怖を感じることは無かった。安らかであったか、と聞かれれば、別にそういうわけではないが、かといって取り乱したようなことは一度もない。

 本格的に死を意識し始めたころ、俺は不思議な夢を見た。

 夢の中の俺は、森の中を歩いていた。いや、森、だろうか、正確に言うならば、巨大な草むらのようである。草むらは、暗闇に向かって続いていた。今歩いている場所も、十分暗いのだから、暗闇に向かって、という表現で正しいのかはわからない。ただ、夢の中の俺は、ひたすらに、当てもなく続く一本道を歩き続けていた。

 暫く歩くと、上の方から「ねんねんころり、ねんねんころり」という声が聞こえた。子供のころに聞いたことがあるような子守歌である。この声、もしかしたら母親に似ているかもしれない。俺は咄嗟に、ああ、死んだ両親が迎えに来たのだ、と思った。だが、あたりに歌が響くだけで、死を予感させる悪魔や、俺の両親が俺の前に現れて、俺をあの世へ連れて行こうとするようなことは無かった。じれったい、と俺は思うのだが、やはり夢だから足が止まることはなかった。

 俺は仕方なく子守唄を聞き続けた。そして気付いたのだが、どうやらこの声は、母親のものでは無い。男の声である。だとしたら父親だろうか、弟だろうか、いや、確かに似ているかもしれないが、父親や弟に子守唄を歌ってもらった記憶はない。

 だがこの声、何処かで聞いたことがあるのである。しかも、よく聞く声。俺は夢の中で、しかし、考えた。

 そして思い出した。

 これは、俺の声だ。

 この歌は、俺が、青虫に聞かせた子守唄だ。

 だが青虫は死んでしまった。

 白い虫達に、食い殺されて。

 俺は、それが羨ましくて仕方がなかった。青虫の死が、では無い。何かが自らの体の中で、“生きている”ことが、である。それで、俺は小一時間ほど、イエスを前にしたキリスト教徒のように、縮んだ青虫を眺めていた。

 この子守歌を歌いながら。

 そしたら、動いたのだ。

 そうだ、あの時。

 青虫は、死んでいなかった。


 目を覚ました俺は、非常にすっきりとした気分であった。額に触れてみる。どうやら、熱もないようだ。病が治ってしまったらしい。

床から起きて立ち上がろうとしながら、両腕がなんだか気持ちが悪い気がして、俺は着物をたくし上げた。腕に目を落とす。

 言葉を失う、とは、こういう時に使うべき言葉であるのだろう。

 俺の腕から、白い虫が無数に顔を出して、ゆらゆらと揺れていたのであった。






「全く、気味の悪い小説を書く人間も居るものだ」

 一昨夜から書庫に閉じこもっていた綺堂壱(きどういっ)紀(き)は、手にしていた本をぱたり、と閉じた。古い本だ。何処も彼処も傷やらシミやらで埋め尽くされていて、おまけに埃だらけの書庫に置きっぱなしにされていたため、ぱたり、と本を閉じただけでも、そこに積もった塵やら埃やらの異物が舞いあがる。

 綺堂は全く咳込むこともしない。紺色の着物の裾が、本棚に当たって、やはりぼうん、と埃が舞う。

「だが、全くもって、興味深い」

 綺堂は言うと、本の背表紙を指でなぞって、埃を落とした。

 白い埃で覆われていたそれは、指で払われ、やっとその名前を浮かび上がらせた。

「『蟲男』、か」

 ああ、やはり興味深い、と綺堂は言う。

その時、書庫の戸がきい、と音を立てて開いた。



一、


 小鳥が鳴く。どうやら、冬が終わりに近づいているらしい。二月下旬、雪はまだ不規則に降り続いている。草木が雪をかぶって、しかし、微かに芽吹くこの季節。夏芽は二月という月が、暦の中でも格別に好きだった。

 高校二年生の冬、夏芽は多くの同級生たちと同じように、大学受験というものを意識するようになった。夏芽は成績もいい方なので、親が望む、近隣の国立大学への推薦入試を勝ち取ることが出来そうである。

「いいなあ、夏芽、推薦もらえそうなんでしょ」

 地獄坂を上りながら、たかねが言った。

「私なんか、推薦ください、って言ったら、“お前だけは絶対にダメだ”って言われたの。ひどくない」

「自業自得ってやつよ、たかねは。不良だもん」

 夏芽は、この街が好きだった。この街が、というより、夏前から通っている“向こうの世界”が大好きだった。だからこの街を極力離れたくない。しかし、大学に進学してほしいという両親の期待を裏切ることは出来ない。ならば、一番の解決策は、近隣の、実家から通う事の出来る大学に行くことだ。幸い、国立のそこそこ有名な文系大学が電車で通える場所にある。夏芽は夏に出会った“綺堂壱紀”という男のお蔭で、国語が大の得意になった。進学先は国文学系の学部にしよう。大学進学、という言葉に夢膨らませながら、そんなことを考えていた。

 正反対なのが、親友のたかねである。たかねは「不良」とひとくくりにしてしまうと少し違う気もするのだが、態度は悪いし―――例えば教師に敬語を使わなかったり―――、茶髪でアクセサリーをしていてスカートも短く、校則違反の塊だ。極めつけは成績の悪さである。国語数学科学社会……何においても、五十点以上の点数を取ったことがない。そんなたかねを受け入れてくれる大学があるだろうか。

 たかねは頬を膨らませた。

「私は至って真面目だよ。髪の毛だって、ちゃんと毎日巻いてるしさ、スカートの丈だって、毎日ちゃんと膝上二十センチになるように測ってるんだよ。これを、真面目と言わずになんと言うのさ」

 馬鹿っていうんだよ、と言って夏芽は笑った。きっと、そこまで糞真面目に不良をやってのける人間は、この世界中で、今夏芽の横に立っているたかねだけだ。

「てゆうか、登校日、面倒くさくない?」

 たかねは大げさに顔を歪め、ため息交じりに言った。県内でも有数の進学校である木沢高校は、冬休みの期間中も容赦なく“集中講義”を行っていた。

「面倒くさいけどさ、いいじゃない。終わったら、今日も、土田先輩と宮本先輩のキャッチボール、見に行こうよ」

 たかねは笑った。

「そうだよねえ、宮本先輩が居れば、どんなうざいお説教でも耐えられるかな」

「ほんと、好きねえ」

宮本肇は三年生で、この木沢高校野球部の元エースピッチャーだ。野球部自体は、それほど有名ではない。今年の高体連の県大会では上位に残りこそしたものの、過去の実績は全くなく、夏の大会で一回戦を制した時は、奇跡かと謳われた。そのくらい、宮本肇の実力は群を抜いていて、有名大学からの誘いも何件かあったらしい。しかし彼はそれを全て断って、一般受験で都立の超名門大学の合格を勝ち取った。勉強もスポーツも出来、それに加えて、イケメンである彼を見て、面食いのたかねが黙っている筈がなかった。

「これは、神様が与えてくれたチャンスだよ。休日の校庭で、二人がキャッチボールしてるなんて、ストーカーやってる私たちくらいしか知らないもん。絶対にモノにするんだから」

「宮本先輩、彼女居ないみたいだしね。てか、私までストーカーの仲間にしないでよ!」

「まあ、夏芽には“綺堂さん”がいるもんね」

「違う!綺堂さんとはそういう関係じゃないの!勉強を教えてもらってるだけ!真面目に!」

 いつの間にか坂を上り終えていたらしく、二人は話しながら校門を抜けた。下駄箱の前で靴を脱ぐ。たかねは、

「そういえば、また出たんだってね、『蟲男』」

と言った。

「気持ち悪いよね、名前からしてさ」

 『蟲男』、とは、今世間で最ももてはやされている都市伝説だ。体中が、蛆虫のような気持ちの悪い虫に覆われていて、町の中を当てもなく彷徨う、という妖怪。目撃者も多数いて、学校はその話でもちきりだ。

見て済むだけならば、所謂口裂け女やトイレの花子さん、のように、可愛らしい都市伝説に過ぎない。しかし、蟲男の場合、噂から発起した“行方不明事件”まで発生しているのである。

「昨日行方不明になった子居たでしょ?その子も、直前に、友達に“蟲男を見た”ってメールをしたらしいよ」

 県内の生徒、既に五、六人が失踪しているらしい。その為、メディアをはじめ、日本中が毎日『蟲男』の話題でもちきりだった。失踪したのは皆中学生や高校生の若者で、失踪する直前に、知り合いに『蟲男を見た』とメールを送っている。それがこの事件の奇妙な特徴だ。

「でも、結局人間がやってるんだよね」

 夏芽は言った。

「蟲男さんっていう妖怪は、居るかもしれないけど」

「なに、夏芽。あんたまだ妖怪なんて信じてるの?」

 たかねは目を細める。

「夏芽って、ほんとオカルト少女だよね」

「妖怪はいるのよ。たかねだって、その内きっと出会うんだから」

「じゃあ、やっぱり妖怪が犯人?」

「それはありえないって」

 夏芽は、夏に起きた悲しい事件を思い出しながら言った。

「この世の奇妙は人間だよ」

 教室にたどり着く。一週間ぶりの教室である。一週間前と変わった様子はないが、強いて言えば、教室の隅に溜まっている埃が、少し増えたような気がする。人が使っているわけではないのに、埃が溜まる。これも妖怪の仕業だったりして。夏芽は小さな妖怪たちが誇りを運んでいる姿を想像してふっと笑った。

「何笑ってんの」

「べーつに」

 クラスの友人たちが、二人に朝の挨拶をする。夏芽は適当な返答をしてから、窓際の自分の席に腰を下ろした。たかねは少し離れた席だ。荷物を下ろすと、やはり夏芽のところへ来る。

「今日、珍しく鷲島が遅いね。いつもはチャイムが鳴る十分前くらいにはあの机に座ってんのに。偉そうにして」

 たかねが教員用の机を指差した。

「珍しくって、鷲島先生だって人間なんだから、そりゃ遅れることだってあるよ」

「そっか。あんなこわーい先生でも“非の打ちどころ”って奴があるわけね」

 たかねは笑った。

 夏の事件の所為で、担任を失ったこのクラスに、新しい担任として現れたのが、学校で一番怖い体育教師として有名な鷲島だった。それまで、学校で一番優しい先生、のクラスに属していた夏芽たちは、発表があるなり天国から地獄につき落とされた気持ちになった。

 しかし、実際接してみると、鷲島は顔が怖いだけで、意外と気さくで真面目な教師だった。不良のたかねには厳しいが、夏芽の様なマトモな生徒には真摯に向き合ってくれる。進路についてもそうだ。夏芽に国立大学の推薦入試を勧めてくれたのは鷲島だった。学校の成績にいまいち自信がない夏芽の肩を叩き、

『大学なんてものは、行く人間が優秀なら、何処に行っても同じだ。推薦入試は、一般入試よりも偏見もハードルも高いが、君の真面目な性格ならば、何処へ推しても恥ずかしくない』

と言ってくれた。

―――人って顔じゃないんだよね。

 夏芽はその時初めてそう思った。

「でさー、宮本先輩の事。宮本先輩、好きな人いたりするのかなあ」

「知らないよ。今は進学とかあって、忙しいからいないんじゃないの?」

「そうだといいなあ。私、いつ告白しようかって、毎日せかせかしてるの。恋する乙女って忙しいー!勉強どころじゃないよね」

「いや、たかねはそろそろ、真面目に勉強した方が良いと思うよ」

 夏芽は厳しい目でたかねを見た。

たかねの首元には、エメラルドのネックレスが輝いている。たかねの元恋人であり、夏芽たちの元担任教師であり、夏に世間を騒がせた“人喰い惨殺通り魔事件”の犯人である平沢利夫からプレゼントされたものだ。たかねは、いつも色恋の話を楽しそうにしながら、本当はまだ“彼”のことを思っているのだろう。夏芽には何となくわかっていた。でも、世の中にはどうにもならないことがある。たかねがいつか、そのエメラルドのネックレスが外せる日が来るといいな。そんな人が、現れると良いな。夏芽は毎日たかねのどうでもいい雑談を聞きながら、ふと思うのだった。

 その時、廊下を、一人の男子生徒が颯爽と歩いて行った。

「あ!」

 たかねは叫んで、夏芽の手を引きながら廊下の方へ走った。

「宮本先輩だ!」

「ほんとだ。なんで三年生がこの階歩いてるんだろ」

 夏芽は首を傾げた。

 宮本肇は、正に“完璧”な人間である。野球部ではピッチャーだけでなく、キャプテンまで務めてみせた。彼の周りは、いつも人であふれている。夏芽は、どちらかというとその様な日向人間は好きではなかった。人一倍人気のある宮本肇より、その下位に位置する土田和也の方が好感が持つことが出来た。

 土田和也は、元野球部キャッチャーであり、副キャプテンであった人物である。多分、宮本肇が居なければ、彼がこの学校で一番注目を集めていた存在なのであろう。彼だって、ルックスは中々上級で、成績だって良い。彼もそこそこ名の知れている国立大学のスポーツ推薦を決めたのだが、その功績も、宮本肇の派手なオーラにかき消されて、つい薄らとしてしまう。あえて言うなら、縁の下の力持ち、だ。

 夏芽は、日陰者という分類に入る、と自分を仮定している。その所為か、光り輝く宮本肇は、なんだか単に苦手な存在でしかなかった。親友のたかねは、その宮本肇のことが好きだというのだから、不思議なものだ。

 そんな光り輝く宮本肇だが、今日の後ろ姿は少し疲れているように見えた。そう感じたのは、夏芽だけだったかもしれない。しかし、“向こうの世界”に行くようになってから、なんとなく人の“オーラ”みたいなものを、色で感じ取ることが出来るようになっていた。

 今日の彼は黒かった。

「宮本先輩、疲れてるのかな」

 夏芽は思わず呟いた。

「え、そうかな。いつも通りかっこいいと思うんだけど」

「かっこいいとか、かっこ悪いとか、そういう事しか見てないの?全く、たかねは」

 チャイムが鳴り響く。ホームルームが始まるのである。チャイムが鳴り終わるのと同時に、鷲島が教室に入ってきた。

「出席をとるぞ」

 鷲島が担任になってから半年。未だにクラスの皆が、鷲島を恐れているようだった。名前を呼ばれるだけで、緊張する。お蔭でホームルームが引き締まっていいのだが……。鷲島の優しさを知っている分、夏芽は少しだけ気の毒に思った。


 ホームルームが終わった後、ふと夏芽の目の前を影が覆った。誰かが来たようだ。咄嗟に顔を上げると、そこには、意外な人物が立っていた。

清潔感を保ったままに着崩された学ラン、その下から見える真白のワイシャツと日焼けした肌、茶色がかった髪はお洒落にウェーブしている、見るからに光り輝くその少年は、先程廊下を颯爽と歩いていた、宮本肇であった。

思わぬ客人に、夏芽は一瞬唖然とする。これほど近くから、この宮本肇を目にしたのは、初めてだった。近くで見ると、余計に輝いて見える。夏芽は宮本肇から目をそらせないまま、無機物のように静止していた。

「み、」

「宮本先輩っ」

 夏芽が言う前に、いつの間にか駆け寄ってきていたたかねが言った。

「夜崎夏芽、だよね」

 たかねを無視して、宮本肇が言う。先程も思ったが、やはり今日の肇は何処か疲れている様だ。

「そうです。これが夏芽です。で、私が、たかね。唐沢たかね」

 夏芽が頷く前に、やはりたかねが口を挟む。肇はたかねの方を少しだけ見て、微笑んだ。

「たかねちゃんね。覚えておくよ。でも今日は、夏芽ちゃんに用があるんだ」

「え?なんで?なんで夏芽?」

 たかねが二人を交互に見た後、横目で夏芽をにらんだ。

―――違う!たかねの考えてることは、違う!

 夏芽は仕草と表情で伝えた。たかねは腕を組んで、ふうん、と鼻を鳴らした。

―――勘違いされてる!

 夏芽たちのやりとりを気にすることもなく、肇は、

「ちょっと、相談があって、聞いてくれないかな」

 夏芽はなんとかたかねを制した。

「どんな相談ですか?私、協力できることがある覚えがないんですけど……」

 やっと言葉を発することを許された。肇は教室内をきょろきょろと見まわしてから、声を小さくした。

「土田のことで」

「土田先輩、どうかしたんですか?」

 たかねが言う。好きな男の前であるというのに、緊張するわけでもなく、いつもと同じ饒舌である。

 肇は首を振る。

「いや、ちょっとね……」

「何か、あったんですか?」

 夏芽は肇を覗き込んだ。肇は一瞬顔を歪め、それからポケットに手を入れた。取り出されたのは、携帯電話である。

「これ、見て」

 夏芽とたかねは同時に肇の黒い携帯電話の画面を覗き込む。そこには、わかりやすい一文が映し出されていた。

『やばい、蟲男見ちゃった』

 差出人名は、土田和也、と表記されている。

「これは……」

 夏芽は息を呑んだ。流石のたかねも、言葉を失ったようであった。

今、県内で起こっている失踪事件の被害者の共通点、それは、失踪直前に「蟲男を見た」というメールを知人に送っている、という点である。まさか、土田和也が、巻き込まれてしまったというのだろうか。

「宮本先輩、警察には」

「土田の親族が、捜索願を出しているよ。何故か担任は……言わなかったみたいだけどね。帰りのホームルームででも言うつもりかな」

 鷲島の事だ。進路選択の時期に、生徒に余計な不安をあおりたくなかったのかもしれない。

「でも、なんで私に見せるんですか?私、宮本先輩とも土田先輩とも、喋った事すらないし……、事件にも詳しくないですし……」

 正直、夏芽は困惑した。「親が失踪届を出している」時点で、どう考えても夏芽の手におえる話では無い。こんなメールを見せられたところで、何か手助けをしてやれるわけでもなく、ただ、恐怖することしかできない。それ以前に、肇とも、失踪したと思われる土田和也とも、夏芽は会話すらしたことがない。そんな相手に相談などして、何の意味があるだろうか。

「いや、噂で聞いて」

 肇が言った。夏芽は思わず聞き返す。

「噂って?」

「妖怪が見えるっていう、噂」

 宮本肇は、真剣な表情であった。

「この世界には、信じがたいことが沢山ある。妖怪だって、その一つだ。でも、妖怪は居る、俺にはわかるよ。でもいくら信じても、俺は妖怪と会話することは出来ない。でも、夏芽ちゃんなら、できるんだろ?」

 夏芽は驚愕するとともに、焦った。確かに、夏芽は妖怪と会ったことがあるし、会話をしたこともある。食べられかけたことだってある。それは事実だ。しかし、そんなことは誰にも言っていない―――信じてもらえないだろうから―――。しかも、そんな噂が広がっているという事は、夏芽には、“オカルト少女”という、この光り輝く宮本肇の耳にすら届くほどの、不名誉な通り名があったという事になる。皆、そんな目で自分を見ていたのか――――――。夏芽は泣きたい気持ちになった。

 肇は真剣な表情のまま、続けた。

「蟲男って、妖怪だろ。だからさ、そいつに会って頼んでほしいんだよ、土田を返してくれって。こんなこと、夏芽ちゃんにしか頼めない。警察に捜索願を出したけど、だって、今までの行方不明者は、未だに誰も見つかっていないじゃないか。警察だけに任せたって、きっと無理だ。だって、相手は妖怪なんだぜ……」

 夏芽は肇を見つめた。

 肇は、本当に妖怪を信じているのか。

「でもさ、宮本先輩。妖怪なんて、迷信だよ」

 たかねが言う。それが、一般的な意見だ。しかし肇は、あくまで真剣な面持ちで返した。

「いや、妖怪は居るさ。だって、おかしいじゃないか。蟲男を見たっていうメール、被害者全員が、送っているんだぜ。俺は、蟲男の仕業だと思う。いや、絶対そうなんだよ」

 それから再び夏芽を見て、今度は深く頭を下げた。

「お願いだ、夏芽ちゃん。俺にとってあいつは、本当に大切な、親友なんだ。あいつが居ないと、俺……」

 肇の言葉は、夏芽の心を打った。親友を助けたい、そう思う彼の気持ちは、同じく大切な親友を持つ夏芽にとって、理解し易いものであった。

 しかし、夏芽は首を振った。確かに、蟲男という妖怪に会うことは、綺堂や辰之助に頼めば簡単かもしれない。だが、抑々(そもそも)その蟲男が、失踪事件の犯人である筈がない。妖怪は、人間に直接触れたり、関与することが出来ない。つまり、人が失踪するという、このような事件は、人にしか起こしえないのだ。無力な女子高生である夏芽が協力したとて、事件解決の糸口を見つけることはできない。

「ごめんなさい、でき」

「オッケーです、任せてください!」

 夏芽は勢いよく顔を上げた。夏芽が断る前に、たかねが「承諾」の返事をしてしまったのだ。訂正しようと口を開くと、それを遮るように、再びたかねが言った。

「夏芽はね、妖怪のことにすっごく詳しいの。だから、夏芽に任せれば、絶対、土田先輩を助けてくれるよ。安心して、宮本先輩」

「ちょっと、たかね……」

 夏芽が、今度こそ弁解しようと立ち上がると、たかねは、夏芽の肩を抱くふりをして、耳元に口を寄せ、静かな声で言った。

「夏芽、私の恋愛に、協力しないなんて言わせないわよ」

 たかねは、事件のことや土田和也のことなど、眼中にないのだ。たかねの狙いは、宮本肇の気を引くこと、ただそれだけ。

「ね、やるよね、夏芽」

 たかねが夏芽に同意を求める。夏芽の選択肢は、一つしかなかった。

「わかりました……」

「ホントか、夏芽ちゃん!ありがとう、頼むよ」

 宮本肇は、満面の笑みを浮かべて、私たちを交互に見た。こうなってしまったからには、やっぱり無理です、なんて言葉は軽々しく口にできない。しかし、頼むよ、と言われても、夏芽は土田和也を取り戻すような超能力や、魔術なんかが使えるわけではないのだ。嬉しそうに微笑む肇とたかねをよそに、夏芽は一人、ため息を吐いた。




「夏芽え、ごめーん、私、宮本先輩の気を引くチャンスは今しかないって思って、つい言っちゃったの」

 帰り道、たかねは言った。

「ごめーん、じゃないでしょ。もう、大変なことになったんだよ」

 夏芽は強い口調で言う。しかし、たかねは全く気にしない様子で、あはは、と笑った。

「でも、よかったよかった。ちゃんと、携帯の番号まで入手できたし」

 たかねは夏芽が肇から手渡された、肇の携帯電話の番号が書かれているメモ用紙を空にかざした。

「これ、宝にするね。早速電話しなきゃ」

「ちょっと待ってよ、それ私が貰ったんだけど」

「えっ、夏芽は土田先輩派でしょ?」

「そういう問題じゃなくて……」

 現在、たかねの脳内の八十パーセントは、宮本肇のことでいっぱいなのだ。なんとか紙切れをたかねから取り戻した夏芽は、それを制服の胸ポケットに入れた。

「てゆうかさ、宮本先輩って可愛い一面もあるんだね。妖怪を信じてるなんてさ」

「私の時は『オカルト少女』とかって言って馬鹿にしたくせに、宮本先輩には甘いのね。てか、私の噂流したの、絶対たかねでしょ」

 夏芽は思わず唇を尖らせた。

「えへへ。ついみんなに言っちゃったかもねー。でも、夏芽は、度が過ぎてるのよ。どうせまた、『綺堂さん』とかって言い出すんでしょ」

「綺堂さんは、実在する人物よ。たかねだって、助けられたじゃない」

「でも、見たことないもん。自分の目で見たものしか信じないの、私は」

 たかねはベロを出した。

 この事件、また綺堂壱紀に協力を頼まざるを得ないだろう。彼は、妖怪、都市伝説、幽霊、こういった類の問題に直面した時、一番頼りになる存在だ。

彼はこの“人間世界”には居ない。“向こうの世界”、つまり妖怪の世界に住む、“人間”なのだ。

「まあ、その綺堂さんだか麗堂さんだか知らないけどさ、その人にでも協力してもらって、なんとか土田先輩を探してあげてよ。私はその間に、宮本先輩のハートをゲット、するからさ」

「たかねは、勝手すぎるのよ」

 夏芽は先程よりもさらに深く、大きなため息をついた。




*




 夏芽は、八千代トンネルにやってきた。受験シーズンに入ってから、向こうの世界にはあまり行っていなかった。

―――綺堂さんや辰之助くんは元気かな。

 夏芽は薄暗い八千代トンネルを通りながら思った。

 街は今日も賑やかであった。この世界は、一年の内の三百日間が“祭り”なのだ。至る所が屋台で埋め尽くされており、そこから、焼き鳥や綿飴の良い匂いが漂ってくる。通路を示すように並べられている提(ちょう)燈(ちん)は、風が吹くたびに中の蝋燭(ろうそく)の炎が揺れて、影を作ったり光ったりを繰り返している。屋台の中の妖怪たちは、忙しなく「いらっしゃい」とか「そこの人」と声を張り上げる。活気ある街、とは、こういう事だ。

 夏芽は中央通りを歩きながら、ある店の前で止まった。林檎飴、を売っている屋台である。丸刈り一つ目の少年が、夏芽に微笑みかける。

「おっ、いつもの綺堂の兄貴に着いて歩いてる、人間の姉ちゃんじゃないか。どうだい、一本」

「あ、うん、食べたいのは山々なんだけど、今日は綺堂さんと一緒じゃなくて。私、こっちのお金は持っていないから」

「こっちのお金ってなんだい。言っとくけどここは結構国際的なのさ」

 少年は胸を張った。

「亜米(アメ)利(リ)加(カ)の弗(ドル)札だって、欧羅(ヨーロ)巴(ッパ)のユウロ札だって、もちろん日本の円だって、銭だって、なんだって使えるんだぜ」

「そうなんだ、すごいんだね」

 なんと画期的だろう。人間世界では、基本的にその国ではその国の金しか使うことはできない。ドルやユーロまで使える、という事は、外国人がここに来ることもあるということだろうか。夏芽は少し疑問に思いながら、鞄から財布を取り出した。

「じゃあ、日本円だといくら」

「いくらでもいいさ。小銭でも札でも、なんでも一個と一個を交換するんだ」

 少年は微笑む。夏芽は、流石に壱円玉を出すのは可哀想だと思い、財布から十円玉を取り出して少年に渡した。少年は目を丸くする。

「姉ちゃん、まさかこんな大金くれるのかい」

「え、たったの十円だよ」

「たったのって……姉ちゃん、どえらいお金持ちだったんだね」

 少年は夏芽を見上げ、それから、林檎飴を二本取り出した。

「こんな大金で一本買わせるなんて、そんな雑に商売やってないよ。ほら、二本だ、これでも少ないけど」

 たった十円なのに、と夏芽は思った。妖怪世界と人間世界では金銭感覚が違うのであろう。夏芽は林檎飴を受けとる。一人で二本も食べられないから、一つは辰之助にあげよう。夏芽は少年にお礼を言って、再び歩き出した。

 暫く歩いて賑わう中央通りを抜け、左に曲がって、また少し歩いたところに、古びた民家がある。瓦屋根に木の造り。古き良き日本家屋。これが綺堂壱紀の家だ。

 夏芽はガラスの引き戸を叩いた。

「こんにちは、綺堂さん。夏芽です!」

 …………。

返事はない。夏芽はもう一度叫んだ。

「綺堂さぁん」

 …………。

 やはり、返事はない。留守なのだろうか。

 夏芽は、申し訳ない、と思いながら、引き戸を開けた。

「綺堂さん、はいりますよー」

 …………。

 やはり、返事はない。しかし、出不精の綺堂が、何処かに出かけているなんて考えられない。迷っている暇があるなら、進め、だ。夏芽は靴を脱いで、家の中に入った。

 綺堂壱紀は、いつも二階で生活していて、夏芽がここを訪れるときは、必ずと言っていいほどそこに居る。今日も、そこにいるかもしれない。きっと、読書に熱中し過ぎて声が聞こえないのだ。

 階段を上ると、すぐ部屋がある。しかし、蛻(もぬけ)の殻(から)だった。

「珍しいなあ。本当に留守なのかなあ」

夏芽は再び階段を下る。階段は先程からぎしぎしと軋んでいて、冬場に食べ過ぎて太ったのだ、と夏芽はため息をついた。

留守なら仕方がない。夏芽は帰ろうと玄関に座って、そこで綺堂の下駄を発見した。履物を履かずに外に出る人がいるだろうか。

 「……綺堂さぁん」

 夏芽は先程と違って、小さな声で言った。いる筈なのに、いない。初めてこの世界に来て妖怪たちの中に一人になった、あの時と同じ孤独に陥った。

 夏芽はふと、物音を聞いた気がして振り返った。そこは、煤けた古戸であった。どうやら、音はその中からしている。誰も居ないところで、音がする筈がない……という事は、綺堂だろうか。

 こんなところに古戸があるという事に、夏芽は今まで気づかなかった。色が他の壁と同じだからだろうか、それとも、目立たないように古戸自体が故意に隠れていたのだろうか。もしかしたら、夏芽が見てはいけないモノがあるのかもしれない……。

 夏芽は取っ手に手を添えた。横にスライドさせようと力を加える。だが、古戸は全くもって動こうとしない。古い所為だと思い、夏芽は更に力を入れる。だが、やはり動かない。

少しして、原因がわかった。夏芽は、顔を近づけて古戸を観察した後、慌てて力を緩めた。この古戸は、横に引いて開けるものでは無く、どうやら押して開けるものだ。危うく、壊してしまうところだった。

 気を取り直して、夏芽は、古戸ゆっくりと押した。戸は重く、ぎしりぎしり、と音を立てる。古戸は、その口を開いた。

 途端、夏芽は咳込んだ。埃が舞いあがり、目の前が、灰色に覆われる。部屋の中は、長い間掃除されていなかったようで、踏み込むと床に足跡が残ってしまうほど、埃が積もっていた。

「夏芽さん、じゃないか」

 声がして、夏芽は口元を押えながらそちらに目をやった。部屋は広く、高校の教室二つ分くらいの大きさはある。夏芽はあたりを見回して、奥の方に立っている、黒髪で長身の青年を発見した。綺堂壱紀である。綺堂はいつものように、紺色の着物に黒い帯を巻いて着流し、足には白い足袋(たび)を履いている。この埃塗れの世界に居るにしては、あまりに清潔な姿だ。

「き、綺堂さん、なんですか、この部屋は……」

 探していた綺堂壱紀にやっと会うことができた、という安堵よりも、この部屋の汚さへの驚きの方が勝っていた。

「すごい埃……。こんな場所にずっと居たら、絶対病気になりますよ」

「ああ、掃除するのが面倒でね。一応、僕の家の中で最も古い書庫なんだよ」

「最もって、他にも書庫があるんですか」

 夏芽は振り返って部屋の外を確認した。しかし、居間や座敷、その他の生活空間は目に入るものの、書庫らしき部屋や怪しげな扉なんかは見えない。

「この家の中には無いのだよ。裏にある、離れの方にね」

 綺堂は人差し指を突き立てながら言った。

「この書庫だけ特別なんだ」

 綺堂は古本屋だ。職業が古本屋で趣味は読書。この世界は、なんとも都合がいい。

「それより、夏芽さん。どうしたんだい」

 綺堂が言う。

「君が無断でこの家に入ってくるなんて、珍しいじゃないか」

「だって綺堂さん、呼んでも返事してくれないから。下駄はあるから家の中にいるのはわかったんですけど……」

「ははは、それは失礼したね」

 綺堂は、悪びれる様子もなく詫びた。

「ある小説に夢中になっていてね」

「ある小説ですか」

「ああ。君にも、非常に関係のある小説だと思うんだが」

 綺堂は手の中にある本を胸の前に掲げた。

「私に関係のある本、ですか」

「そうだよ、夏芽さん。今日、君が大学に向けての勉強を中断してまでここに来た理由さ」

 一冊の薄い本。埃だらけで、汚い。

表紙に大きく印字されている本の題名を見て、夏芽は目を見開いた。

「む、蟲男」

「君たちの世界で、どうやらこいつが暴れているらしいね」

 綺堂は優しい手つきで撫でるように本の埃を払いながら言った。

「それについてのことで、こっちに来たんだろう」

「そうなんです……でも、どうしてわかったんですか」

「僕は、君と関わるようになってから、こちらの世界だけでなく、向こうの世界のことまでしっかりと目を配るようになった。新聞だって、毎日欠かさず読んでいるのさ。だから、いずれ夏芽さんがこういう事件に巻き込まれるんじゃないかって予感していてね。ただでさえ忙しい高校二年生の夏芽さんが、その時間を割いてまで来るとしたら、これしかないと思ったのさ」

「新聞が、こっちの世界にも届くんですか」

「当たり前だよ、夏芽さん。新聞というものは、お金さえ払えば、すべての人が例外なく読むことのできる筈のものなんだよ」

 綺堂は言いながら、手にしていた『蟲男』をぱたり、と開いた。

「蟲男、という妖怪は、実のところ、僕もよく知らない妖怪だ。もしかしたら妖怪とは違うものなのかもしれない。兎に角、知らないものは調べる必要がある。それで色々探していたところ、この、非常に興味深い小説に出会ったというわけだ」

「興味深い?」

「ああ。本というものは、どんなものでも面白いものだ。例え、それがまだ五つにもならない子供が書いたものだとしても、文才のない凡人が書いた平坦な批評文であったとしても、それが面白くないことなどない。ただ、この『蟲男』は、群を抜いて非常に不可思議なんだ。この事件と関係があるから興味深い、という事もあるけれど、それだけではない、これほど気味の悪い怪奇小説を書ける人間は、きっとこの著者以外には居ないだろう。いや、これは単に怪奇小説、猟奇小説、などという言葉で区別するべきではない。何もかもが事細かに書かれ過ぎている。まるで自伝小説だ。だから、非常に興味深いんだよ」

 綺堂はぱらぱらとページを捲る。

「夏芽さんは、蟲男がどんなものか知っているかい」

 夏芽は首を振る。

「みんな、蟲男蟲男って騒いでるけど、実際、あんまり詳しくは知りません。でも、体中が虫に覆われているんでしょ」

「ここには、こう書いてある。”蛆虫を思わせる白い虫たち、いや、だが普通の蛆虫のように豆型ではない。それらはもっと長いのだ。そいつらは、俺の皮膚を食い破って、先程からゆらゆらと揺れている”つまり、単に虫に覆われている、という表現では正しいとは言えないんだ」

「違うんですか?」

「だって今、言ったじゃないか、虫たちが“皮膚を食い破って”って。つまり、その虫とやらは、蟲男の体の中から生えている、とでも言おうか。それに、奇妙なことに、どうやらこの蟲男、元は普通の人間であったらしい」

「人間の身体から、虫が生えてきてるってことですか」

「最初に書いてあるんだよ。蟲男は、そうなる前は、単に寄生虫が好きな、趣味の悪い人間だった、と。それがある日突然、まるで虫に寄生されたかのように病になり、そしてまたある日突然、その虫たちが皮膚を食い破って現れた。これが蟲男の誕生だ」

 おえ……。夏芽は、想像して嗚咽を漏らした。人間の中から蛆虫が飛び出す、その瞬間が、妙にリアルに脳裏に浮かぶ。人間に寄生する虫、といえば、サナダ虫が有名である。しかし、サナダ虫は決して人間を食い破って外に出てきたりすることはない。

「気持ち悪い小説ですね……それに、もしそんな人が本当に居るのだとしたら、もっと気持ち悪いです……」

「ああ。半妖半人の、この僕でさえ気持ち悪いと思ったのだから、普通の人間である君には尚更、刺激が強すぎたかもしれないね」

 綺堂は申し訳なさそうに言った。綺堂や、この世界の住人は、人間の生首が落ちていたり、腐った肉の腐敗臭が漂う空間に居ても、平気だ。そんな彼が言うのだから、やはり、かなり気持ちの悪い小説なのだろう。

「先程も言ったが、この小説、まるで自伝小説のようなんだ。今のところ、最大の手掛かりだよ」

「最大の手掛かりって、」

「もちろん、蟲男に会うための、さ」

 綺堂は微笑んだ。

「む、蟲男に、直接会うつもりですか!」

「ああ、そうだよ。だって、それが一番手っ取り早いじゃないか。人喰い女のときだってそうだった。問題が起きたら、当事者に聞くのが一番なんだよ」

 夏芽は顔を青くした。先程からの綺堂の解説によると、蟲男は今まで夏芽が見た妖怪の中でも際立って気色の悪いモノである。それを見て、夏芽が平気で居られる筈がない。

「待ってください、綺堂さん。人間世界で起こってる、連続失踪事件、本当に蟲男がやったって思ってるんですか?綺堂さん、いつも言ってるじゃないですか、事件っていうのは、人間が起こすものであって、妖怪の所為では無いんだって。世の奇妙は人間だって」

 夏芽は蟲男を見たくないという一心で精一杯弁明する。しかし、綺堂は、はははと高らかに笑った。

「そう、この世の最大の奇妙は、人間だ」

 それから、手にしていた扇子を開いて仰ぐ。ふわり、と埃が舞う。

「だが、妖怪が直接手を下していなくても、間接的に関係しているという事は有り得る。つまり、蟲男に会うことで、僕たちが得をすることはあっても、損をするなんてことはないんだよ。それにね、僕は今まで生きてきて、多くの妖怪や人間に会ってきたが、この蟲男なんて言う妖怪には、一度として会ったことがない。妖怪の中でも希少種であるかもしれないこいつを、僕は一度見てみたくてね」

 だったら、一人で行ってほしい。夏芽は心の中で呟く。しかし、夏芽がここに来たのは“蟲男について調べて、土田和也を取り戻す”ためだ。このまま何もせず人間世界に戻るわけにはいかない。

 でも……正直見たくない。

 夏芽が、頭を抱えていると、背後から、聞き覚えのある大声が聞こえてきた。

「旦那あ、旦那あ、綺堂の旦那あ」

 夏芽は振り返る。玄関のところで、雑誌のようなものを数冊抱えて立っていたのは、後頭部にぎょろ眼を持つ妖怪、辰之(たつの)助(すけ)であった。

「辰之助くん!」

 辰之助は夏芽の顔を見つけると、目を大きく見開いた。

「夏芽姉さん、久しぶりですねい。どうして、そんなところに居るんですかい」

 辰之助の声を聞いた綺堂が、ため息をつきながら夏芽の立っている古戸まで歩み寄り、顔を出した。

「なんだ、ぎょろ眼。お前はまた僕と夏芽さんのデートを邪魔しに来たのか」

「デートですかい」

 辰之助は興味深そうに綺堂と夏芽を見比べた。夏芽は慌てて首を振る。同時に、綺堂が言った。

「ああ。これから二人で青森県へ旅行しようと思っていてね」

「えっ」

「えっ」

 夏芽と辰之助の声が重なる。

「き、綺堂さん、旅行って」

「この本には、蟲男が青森県に住んでいたというような記述が沢山書かれているんだ。だから、蟲男に会うためには、青森県に旅行に行かなければならない」

「旦那あ、あっしも、連れて行っておくんなせえ」

 辰之助が飛び跳ねる。それから手に持っている書物を綺堂の方に差し出した。

「ほら、旦那に言われた通り、後ろの書庫から、こんなに資料持ってきたんですから」

 こんなに、といっても、三冊だった。しかも三冊とも、雑誌だ。

「昨日の夕方(ゆうかた)からずっと探してやしたが、これで全部。いやあ、蟲男ってやつは、本当に珍しい妖怪なんですなあ」

「辰之助君、そんなに長い間、書庫で探し物をしてたの」

「ああ。書庫はいくつもある上、その書庫一つの中には何千、いやそれ以上の本や資料が収納されているんだ。僕は目が二つしかないからね、ぎょろ眼の方が効率がいいだろうと思ったんだよ」

「あっしは、三つありますもんねえ」

「目が三つある辰之助ですらこんなに時間がかかったんだ。僕がやっていたら、ああ、考えたくもないね」

「それに、旦那あ本探しにゃあ向いていませんや。だって、面白そうな本があったら、途端に読みだしてしまうじゃないですかい」

「仕方がないだろう、そういう性分なんだ」

 綺堂は扇子で顔を煽ぎながら言った。

「兎に角、すぐにでもここを出よう。ぎょろ眼も、来たければ勝手に着いてこい。だが、僕と夏芽さんの邪魔を、くれぐれもしないように」

「わかりやした、旦那あ」

 辰之助は雑誌を抱えながら、嬉しそうに微笑んだ。

「あの、どうやって行くんですか」

 夏芽が尋ねる。

「そりゃあ、電車に決まっているだろう。人力車を走らせるには酷な距離だからね」

 綺堂はそう言って、支度をするのだろうか、階段を上って行った。

綺堂の姿が目の前から消えると、辰之助は草鞋(わらじ)を脱いで、夏芽の隣に駆け寄った。

「夏芽姉さん、一体いつからなんですかい」

「いつからって、何が」

「勿体つけないでくださいよう、旦那と、ですよう」

 辰之助は夏芽の肩をつつく。夏芽は顔を赤くした。綺堂が紛らわしいことを言った所為で、辰之助は勘違いをしているらしい。夏芽は首を大きく振った。

「違う違う、何もないよ。多分綺堂さんは辰之助君をからかいたくて、ああ言ったんだよ」

「ええ、そうなんですかい」

 辰之助は残念そうに肩をすくめた。

 綺堂は、偶に冗談なのか、本当なのかわからないことを口にする節がある。今回の様な“夏芽とはそういう関係だ”という冗談は、初めて出会った時からずっと綺堂は口にしている。親にまで挨拶に行ったらしい。お蔭で、あの時は弁解が大変だった。父、冬吉は「まだ早すぎる」と怒るし、母、春代は「あら、いい方じゃない。貰い手がついてよかったわね」なんてお互いに言い出して、二人で口論だ。辰之助も夏芽も、綺堂には振り回されっぱなしである。

「さあ、出発するよ、夏芽さん」

すぐ後ろで 綺堂の声がした。つい今、階段を上って行ったばかりであるというのに、早すぎる。夏芽は驚いて振り向く。

 綺堂は、先程と全く変わらない服装のまま、扇子で顔を煽いでいた。

「綺堂さん、支度しに行ったんじゃ」

「足袋を履き替えていたのさ」

 夏芽は綺堂の足元に目を落とす。先程までは白い足袋だった。今は黒の足袋に替わっている。

 夏芽はふと、綺堂が片足で足袋を脱いだり、履いたりしているのを想像してしまった。綺堂はいつも身支度を整えていて、例えばどんなに走っても、着物が肌蹴ることすらない。そんな彼も、足袋を履き替える時があるのだ。もしかしたら、片足立ちになってけんけんしながら履いているのかもしれない。

 突然くすくすと笑いだした夏芽を見て、綺堂は首を傾げる。

「どうしたんだい、夏芽さん」

 夏芽は、慌てて顔を背けた。

「な、なんでもないです」

「そうかい、それならいいのだが。では、こうしている時間も勿体無い、そろそろ、出かけるとしよう」

「あいっ、旦那あ」

 辰之助が、飛び上がって言った。それから腕の中にある荷物のことを思い出す。

「旦那あ、こいつらは、どうしましょう」

「ああ、帰ってきてから読むから、そこに置いておいてくれ」

 綺堂が言うと、辰之助はすぐさま三冊の雑誌を床に置いた。

「じゃあ、行きやしょう」

「ぎょろ眼、忘れているかもしれないが、いいか、お前はおまけだぞ。おまけだという立場を忘れるなよ」

 綺堂は言いながら、辰之助を追い抜いて家を出た。




 三人が綺堂家を発つと、それと入れ違いになるように、一人の男が綺堂の家を訪れた。白いワイシャツに茶色のスラックス、茶色の背広を右肩にかけている。男は玄関の戸を叩いたり、「もし」と呼んだりするが、誰も居ないから返答などある筈がない。綺堂が留守であることを悟ると、男は肩をすくめながら頭を掻いた。

「参ったな、遠路(えんろ)遥々(はるばる)来たってのに」

 しかし、どう嘆いたところで、綺堂は居ないのだから仕方がない。男は暫く困った顔をして玄関の戸を見つめていたが、諦めがついたらしく、ポケットから取り出した煙草に火をつけながら去って行った。

 誰も居なくなった玄関の床で、辰之助の置いた雑誌が、はらりはらり、とページを捲って、『蟲男』の連載ページを開いた。奇妙である。戸はぴたりと閉め切られていて、風など、入ってくる筈がないというのに。



二、


 車窓から見える景色は、いつの間にか真っ青な海だった。先程まで、山や畑ばかりのところを走っていたというのに。腕時計を見る。ぐるぐると急回転を続ける針。今何時くらいだろう、何時間くらい電車に揺られていたのだろう、と考えたが、無駄だった。この世界には、“時間”という概念がないのだ。

「よく眠っていたようだね、夏芽さん」

 向かいに座っていた綺堂が言った。

「だって、ずっと同じ景色が続いていましたから。退屈で」

「信濃は、山ばっかりですもんねえ」

 隣の辰之助が頷く。

「あっしも寝たかったんですが、何せ旦那がずうっと話を吹っ掛けてくるから、全然眠れもしねえ」

「僕は、夏芽さんが危うく辰之助に寄りかかってしまったら困ると思って、見張っていたんだ」

 綺堂は閉じた扇子を掌にぺんぺんと打ち付ける。

「夏芽さんに肩を貸していいのは、僕だけだからね。だからこの席順にも不満があったんだが、言う前に夏芽さんが早速寝てしまったから、こうする他無かったんだよ」

 綺堂がさらりと言う。ムードメイクのつもりで言ったのだとしたら、寧ろ逆効果だ。

「姉さん、やっぱり……」

 辰之助が夏芽を見る。夏芽は仕方なく、首をすくめて見せた。

「そんなことより」

 綺堂はいつものように、自分勝手に話をすり替えた。

「次の駅で到着だ。降りる支度をしておいた方がいい」

「えっ、もう着いたんですか」

「もうって、姉さん、二刻近くも経ってるんですぜい」

「まあ、夏芽さんにこの世界の時間の感覚は分からないだろうから、仕方のないことだろう」

 言いながら、綺堂は立ち上がった。夏芽と辰之助も立ち上がる。ききーという車輪が軋む音と同時に、電車ががらりと揺れる。綺堂はそれに動じることなく、穏やかに揺れる。夏芽は大きく体勢を崩して、窓ガラスにがん、と顔をぶつけた。窓ガラスに顔を押し付けたまま、ふと外に目をやる。小さな、錆付いたアルミ質の看板があって、それに大きく『陸奥(むつ)』と書かれていた。

 電車が完全に止まって少ししてから、ドアが開く。夏芽は慌てて体勢を立て直して、すでに電車外に足を踏み出している綺堂と辰之助の後を追った。

 何処から取り出したのか、眼鏡をかけた綺堂は、先程から地図、ではなく、蟲男の小説に目を落としていた。それに地図か何かが書いてあるのかと思って夏芽は覗き込む。しかし、細かい文字がずらずらと並べられているだけである。夏芽は眩暈がした気がして頭を押さえた。本だとか、読書だとか、夏芽は文系の大学進学を考えているくせに、未だにそういう類のものが苦手だった。

「旦那あ、そんなもので、わかるんですかい、場所が」

「わかるから、こうやって見ているんだろう」

 綺堂は、文面から目を離すことなく言った。

「こいつは、中々よくできた案内文だ」

「なんて書いてあるんですかい」

「まずは、陸奥駅の近くだ、と書いてあるんだ」

 綺堂は眼鏡を持ち上げて、本を遠ざけたり近づけたりしながら言った。老眼だろうか。いや、綺堂はどう見ても、二十代、いってても三十代だ。そんな若人に、“老眼”なんて言い方は失礼だ。“遠視”と言った方が正しいに違いない。

「あの、綺堂さん、私、ずっと寝てましたよね」

 夏芽はふと言った。綺堂は本から目を離すこともしないで頷く。

「ああ。鼾(いびき)はかいていなかったよ。安心し賜え」

「私が、いびきなんてかくはずないじゃないですか!って、そうじゃなくて、ということは、この電車は、ずっと一本でつながっていたっていう事ですか」

「どういうことですかい」

「だって、こんなに長い距離をずっと走る電車なんて、変だよ。普通、どこかで乗り換えなきゃいけなかったりするんじゃないかな、って思ったんだけど」

「この世界の電車っていうものは、全ての場所に、途切れることなく続いているんだよ。そして、一時間ごとに、電車が来るということも決まっている。人間の世界では、電車は線路の上を走るだろう?この世界ではね、線路なんてものはないんだよ。空間を走るんだ」

「空間を走る?空を飛ぶってことですか?」

 夏芽が言うと、綺堂は不意に立ち止まった。

「夏芽さん、君たちの世界では、電車が走っているときに、窓から落ちたり、走っている電車にぶつかったりしたら、どうなるかい」

 突然話の内容が変わった気がして焦った。綺堂の事だから、きっと言いたいことがあるのだろう。

「ううん、車の窓から飛び降りて助かったって話は聞いたことあるけど、電車はかなりのスピードで走ってるんだから、まず、無理だろうなあ」

「ということは、どうなんだい」

「電車から落ちたり、轢かれたら、死んじゃうと思います」

 夏芽は、出来るだけ一般的な答えを言った。それを聞いて、綺堂は満足そうに「そうだね」と言って頷く。

「夏芽さんの世界では、電車から落ちた人間は、死ぬ。しかし、夏芽さんも知ってのとおり、この世界に『死』というものはない。それがこの世界という桃源郷のルールだからね。だが、それなのに電車から飛び降りるものが居ないという事の意味が、分かるかい。死なないんだから、電車は止まらずに走って、自分の目的地に着いたら、飛び降りれば、それでいいじゃないか。しかし、誰もそんなことをしようとしない。何故だと思うかい」

 飛び降りないのが普通だから、という答えで綺堂は満足しそうにない。夏芽は首をひねる。

「死なない世界だから、電車から飛び降りても、死なない。それなのに、誰も飛び降りない……。何か不都合なことがあるってことですよね、飛び降りたら」

 ああ、と綺堂が頷くのと同時に、磯の匂いの風が、ふわり、と夏芽の髪をなでた。ああ、海の町に来たのだ、と夏芽は思う。しかし、綺堂はそんな夏芽と潮風をよそに、先程よりも一段と暗くて重い声を発する。

「死ぬ、からね」

「えっ」

 夏芽は思わず聞き返した。

「死なないって言ったじゃないですか」

「死ぬ、という表現が正しいのかは、僕もわからない。しかし、そういう行為を行うと、その者は、この世界から消えてしまうんだ。消えてしまうというよりは、消されてしまう、という方が正しいかもしれない。今のところ『別の世』に飛ばされる、という説が、最有力だが」

「『別の世』ですか」

「君たちの言う、あの世とか、死の世界のことだ。なんせこの電車は、『死層』の中を走っているんだからね。死の層と書いて死層。だから走行中に電車の外に出てしまったら、忽(たちま)ち死層に吸い込まれて、二度と出てくることはできない。これは、君がこの世界の出口として使っている“振り返ってはいけないトンネル”も同じさ。ルールを破った者に、この世界は非常に厳しい。妖怪は、素直で平和主義だから、ルールを破るようなことはしないんだが、人間は、どうも好奇心がそういった余計なところにまで及ぶ傾向にある。夏芽さんも、気をつけ賜え」

 夏芽は、寒気を感じて思わず身震いをした。この世界は、安全な世界だと思っていた。“死”の無い、平和主義な世界。しかし、やはり妖怪の世界。“死”と隣り合わせの異世界であることに変わりはない。

 磯の香りが、先程よりも一層生臭く感じる。生臭い闇が、夏芽の首筋をなぞる。

 顔をこわばらせる夏芽を見て、綺堂は、ははは、と笑った。

「夏芽さんは、本当に単純で面白いね」

「ど、どういうことですか。もしかして、今の全部嘘だったりするんじゃないでしょうね」

「いいや、今のは全部本当さ。だが、正確に言うと、推測でしかない。実際に電車から飛び降りた妖怪を見た者は誰もいないからね。それに、夏芽さんは絶対に電車から飛び降りたりすることはないから、大丈夫だ。安心し賜え。それに、死層は様々なところを通っている。けれど、被害にあったものや、犠牲者が出ていないところを見ると、普通にルールを守って生活をしていれば、巻き込まれることはない」

 再びははは、と笑って、綺堂は歩き出した。辰之助が駆け寄る。

「旦那、性格が悪いですぜい。態と姉さんを怖がらせる風に言って」

「本当は、怖くない話なの」

「そうでさあ。電車が死層を通ってるなんざあ、常識ですぜい」

 それが“常識”だという事が、怖いのだ。

 陸奥駅周辺は、辺り一帯が草原、といった感じであった。少し向こうには、砂浜のような白い空間が見える。綺堂はそちらには目もくれない。ただ、草原と草原に囲まれている細い小道に沿って進み続けている。

 それにしても、陸奥という地名を、夏芽は初めて聞いた。ふり仮名をふらなければ、読めない文字である。昔の読み方だろう。

 磯の香りが、一気に強くなる。風が吹いたのだ。そう思った時であった。

「あ……小豆(あずき)ぃ……」

 夏芽のすぐ背後から、声が聞こえた。夏芽は思わず振り向く。振り向いたそこに居たのは、みすぼらしいベージュ色の甚平を着た、小柄な老人であった。いや、老人であるかどうかはわからない。ただ単に老け込んでいる中年男性である可能性はある。しかし、見た目は“おじいちゃん”だ。

「小豆……」

 みすぼらしい小柄な老人は、右手に赤い豆のようなものがいっぱいに入った笊を持っていた。先程から小豆、小豆とぼそぼそと言っているところから考えるに、その赤い豆たちは、小豆であるらしい。

 じゃり、じゃり、と言わせて、老人は笊を少しだけ震わせる。それを見て夏芽は、人を脅かすのが下手な妖怪だな、と思った。

「貴方は、小豆とぎの兵部衛さんじゃあないか」

 少し先を歩いていた綺堂が、引き返してくるのがわかる。

「相も変わらず驚かすのが下手ですね。見てください、夏芽さんを。どうしたらいいかわからずに唖然としている」

 言われて、夏芽は慌てて苦笑いを浮かべた。小豆とぎは肩を落とした。

「どうせ、わしにゃあ、妖怪の才能なんざないんさ」

「ははは、全くですな」

 落ち込む小豆とぎに追い打ちをかけるように綺堂が笑った。

「そんなことより兵部衛さん、貴方、この辺に住んでいるんでしたね」

 小豆とぎは少しだけ顔を上げて頷いた。

「わしゃあ、ずぅっとここに住んどる。そりゃあ、すんげぇむかぁしからだぁ」

「そうですか。小豆とぎは全国に居るものだから、今まで何人も見たことがありますが、貴方ほど人を脅かせない小豆とぎには、今のところ会ったことがない。いや、小豆とぎだけでなく、脅かせない才能は、全ての妖怪の中で、貴方がぴか一ですよ」

 言ってから綺堂は、ああ、褒めているんですよ、と付け足した。その言葉が目の前の小豆とぎの心をずたずたに引き裂いたということは、夏芽の目から見ても明らかであった。妖怪は、人間を脅かすことそのものが生き甲斐なのだという。それができないというのだから、なんとかわいそうなことだろうか。

「……それで、綺堂の坊や。あんたぁ、いつの間に子供さ作ったんだぁ」

 小豆とぎはぼそぼそと言った。

「子供、子供なんて居ませんが」

「居るじゃねえかぃ。その子は誰じゃい」

 小豆とぎが指さしたのは、夏芽であった。どうやら夏芽は、綺堂の『子供』であると思われたらしい。

「わ、私は綺堂さんの娘じゃありませんっ」

 夏芽は思わず声を張り上げた。身長が低いため、何度も中学生だの小学生だの言われてきた夏芽ではあったが、同じ位、いや、夏芽以上に小さな小豆とぎに、しかも“綺堂の”子供だと言われたことに、無性に腹が立って仕方がなかった。

「違うんかぃ。小さいからそうかと思ったわぃ」

「この人は、夜崎夏芽さん、僕の客人ですよ」

 綺堂が言った。

「小豆とぎの旦那あ、あんまり女の人に無礼を言っちゃあいけねえ。そんなんだから奥さんに逃げられちまうんでさあ」

 辰之助が言うと、小豆とぎはまた肩を落とした。

「夏芽さん、この人は小豆とぎの兵部衛さんだ。人を脅かせない妖怪ってことで、ここらへんじゃあ少しばかり有名なんだよ」

 綺堂が兵部衛を指し示す。自分の何気ない一言で、兵部衛の心がどんどん傷ついていく。

「そんなことよりも、兵部衛さん、少し、お聞きしたいことがあるんですが」

「なんでぇ、坊や」

「蟲男、をご存知ですか」

 兵部衛は、少し考えてから首を振る。

「いんや、そんな妖怪は知らん」。

「書物で、蟲男がここに住んでいると踏んで、はるばる来たんですが」

「ううん、知らんのう。大体、なんでそんなもんを探しとるんじゃい」

 兵部衛が言う。綺堂は、説明しろと言わんばかりに夏芽の方を見た。

「今、人間世界で、蟲男に関連した失踪事件が起きているんです。それで、蟲男に会ったら、何か解決の糸口が見つかるんじゃないかなと思って」

「ほう、お嬢ちゃんも、忙しいんじゃのう」

「そういえば、夏芽さん。今回は、どんな風に巻き込まれたんだい、この事件に」

 綺堂が言った。

「えっと、私の友達の、好きな人の友達が行方不明になったんです」

「そりゃまた、随分遠い間柄ですなあ」

 辰之助が目を丸くして言った。

「夏芽さんは、あの人喰い女よりもお人よしだからね。そのくらいは当たり前だろう」

「まあ、今回は特別で」

 夏芽は苦笑いを浮かべた。

「とにかく、何とかして、その人を見つけないと」

「あぁ。じゃがぁ、お嬢ちゃん。わしにゃあ何にも協力できないねぇ。悪いが、ねぇ」

「そうですか……」

 電車で寝ていただけだが、折角ここまで連れて来てもらって、手掛かりの一つも掴めないなんて、なんだか切ない。夏芽は肩を落とした。そんな夏芽を見て、気の毒に思ったのか、兵部衛は、思い出したように言った。

「『蟲男』は知らんが、虫が寄生しとる人間は知っとるぞ」

 綺堂はふわふわと扇子で顔を煽いだ。

「兵部衛さん、それが蟲男ですよ」

 綺堂は鋭い目をした。

「どんな奴ですか」

「どんな奴って、普段は普通の人間さ。人間と妖怪の間の子でね。坊やと同じ半妖半人ってやつじゃな。まあ、そいつは、ハアフじゃなくてクオオタアってやつじゃ。だから人間の要素の方が多くてのう、人間の世界で暮らしておる筈じゃよ。たまーに遊びに来るがね。年に一、二回くらいのう。そのお祖父さんが火間(ひま)蟲(むし)入道(にゅうどう)という偉大な妖怪でのう、ついこの前までは、ここに住んでおったんじゃが、結婚したと聞いてからは見とらんのう。何せ、人間と、と言うもんだから」

「成る程、それは」

 綺堂は扇子を閉じた。

「僕の知り合いかもしれないなあ」


 三人は兵部衛に礼を言うと、別れた。

「知り合いかもしれないって、どういうことですか?」

 夏芽は思わず聞く。

「青森県出身の妖怪クオーター男なら知り合いにひとりいる。仲がいいわけではないが腐れ縁という奴でね。まあ、そいつから虫が出ているのを見たことはないが……。そもそも火真蟲入道を祖父に持つという話は初めて聞いた。名誉なことだが如何して言わなかったのか」

 綺堂は再び本に目を落とした。

「暫く、この本に書いてある通りに進んでみよう。何かがあるかもしれない。無かったとしても、それも新たな真実だ」

 歩き出して暫く、あたりには同じような景色が並んでいた。生えている雑草たちは、手入れされることもなく伸びきっていて、まるで巨大な草むらの中を歩いているようだ。その向こうにあるだろう砂浜や海は、最早殆ど見ることが出来ない。

「昆虫になった気分ですよ、綺堂さん」

 夏芽は言った。

「自然溢れていて、良いといえば良いですけど。ここまで手入れされてない田舎には、住みたくないです、私」

「そうかい、僕は、こんな静かで穏やかな場所、一度住んでみたいと思うがね。毎日毎日書物を読んでいられる。五月蝿いぎょろ眼に邪魔されることもない。嗚呼、理想の日々だね」

「旦那あ、ひどいですよう」

 辰之助が肩をすくめる。

「でも、なんだかんだ言って、二人って仲良いじゃないですか。私がこっちの世界に来るとき、いつも二人で一緒にいるし」

「そうでさあ」

 辰之助はにっこりと微笑んだ。

「あっしと旦那は大の仲良しでい」

「何を言っているんだ、ぎょろ眼。妄想でものを言うのもいい加減にしろ。僕はお前と仲良くしたいだなんて一度も言ったことはないし、思ったこともない。お前が僕にストーキングしているというだけの話じゃないか」

「まあ、細かいところは気にしないでくださいよう」

 辰之助は綺堂にすり寄る。綺堂はそれをすっと躱した。

 視界が開ける。辺りを覆っていた巨大な草原は、いつの間にか無くなってしまった。目の前に、白い空間が現れる。砂浜に出たのだ、と瞬間夏芽は錯覚したが、違うようだ。砂浜よりも、遙かにさっぱりとした空間である。

そこは、表現のしようがない、“不自然に何もない”場所であった。

 そしてその先は、行き止まりだ。

 沈黙が三人を覆った。やはり小説『蟲男』からはなんの手掛かりも得られなかったのだ。

 暫くして、綺堂が静かに沈黙を破った。

「ここだ」

「何もないですね……」

「小説で、蟲男がかつて住んでいた場所だ」

「旦那あ……」

 辰之助が首をすくめる。綺堂は、何もないという事実を前にしても、決して動じなかった。

「余りにも何もない。それは、向こうの世界で、ここに何かがあるからだ」

「という事は、蟲男は、人間世界のここに住んでるってことですか?」

「ああ、そうだろう。いや、もし僕の知り合いがその『蟲男』ならば、“昔は”住んでいた、という言い方が正しい。火間蟲入道は今も此処に住んでいるかもしれないな。そして」

 綺堂は三歩歩いた。屈んで、何かを拾い上げる。夏芽はそれを見て息を呑んだ。

綺堂が拾い上げたものは、白くて細長い、干乾(ひから)びた虫の死骸であった。

「つい最近、奴は、向こうの世界で、ここに来ている」

「じゃあ、やっぱり、この事件には蟲男が関係しているんですね」

「ああ。関係しているね」

「っていうことは、やっぱりその本は……」

「奴の自伝小説かもしれない、ということさ」

 綺堂は、蟲の死骸を人差し指と親指で押しつぶした。一瞬にしてそれは粉になり、地面に降りかかる。

 次の瞬間、夏芽は思わず吐き気を催して口を塞いだ。夏芽たちの目の前に在る荒地と化した空間は、単に、荒地という言葉で片づけていいような、単純なものではなかった。ただの地面にしては、白すぎると思ったのだ。まるで、砂浜のように見えた、その理由が、たった今明らかとなった。

 その空間一帯が、白い虫の死骸で覆われていたのだ。

 綺堂は、その死骸の空間のほんの手前のところで立っていた。

「さて、いろいろと面白いことが分かった。そろそろ帰るとしようか」

 綺堂が振り返る。それから、青い顔をしている夏芽を見て目を見開いた。

「どうしたんだい、夏芽さん」

「どうしたって、その、虫の死骸がいっぱい……」

「何を言っているんですかい、姉さん。何にもありゃしないじゃあないですかい」

 辰之助が目の前の白い地面を覗き込んだ。

「ないって、そんなわけ……」

 奇妙だった。

先程は、確かに、虫の死骸が沢山落ちているように見えたのだ。しかし今、夏芽の目の前には、ただの白い砂地獄が広がっているだけだった。

「ここの土は、非常に白いんだ。夏芽さんがそう見間違えてしまったのも、無理はないだろう」

 綺堂が言う。しかし、夏芽の脳味噌は尚も混乱していた。

 見間違える筈がない。あんなに、リアルに見えたのだ。虫の顔まで、触角まで。

 夏芽は不意に眩暈を覚えて、ふらついた。綺堂が慌てて夏芽の肩を支える。

「大丈夫かい、夏芽さん」

 くらり、と世界が回ったのは、たったの一瞬だった。貧血を起こしてしまったらしい。

「混乱したんだろう。蟲男の話は、君には刺激が強すぎたんだね、すまなかった。あんまり、脳に負担をかけるのはよくない。さあ、もう帰ろう。そろそろ、電車も来るころだろう」

 綺堂が夏芽を支えながら、いつもより少しだけ優しい声音で言った。

「す、すみません……」

 夏芽はやっと自らの足に体重を戻した。

「姉さん、無理しちゃあいけねえや」

 辰之助が心配そうに夏芽を覗き込んだ。




 帰りの電車の中、夏芽は先程の光景を思い出していた。思い出したくて思い出しているのではない。脳味噌が勝手に、記憶を呼び覚ますのだ。

 “あれ”が頭をよぎるたび、動悸が胸を締め付けた。虫の残骸たちは、夏芽の脳に、はっきりと映し出されていた。風が吹けば揺れる、それ程鮮明に、夏芽の脳はその物質を捉えたのである。しかし、綺堂にも辰之助にも、それは見えていなかった。

 脳裏に映る残像たちが、のた打ち回る。夏芽は再び吐き気を催した。悪寒が背筋を伝う。なんと、気持ち悪いものを“視て”しまったのだろうか。

「夏芽さん、本当に大丈夫かい」

 綺堂が言う。夏芽は慌てて笑顔を作った。

「だ、大丈夫ですよ。なんだか、幻覚を見たっていうか、妄想しちゃったっていうか、すごく気持ちの悪いものだったから」

「疲れてるんでさあ、姉さん」

 辰之助が言うと、綺堂は腕を組んだ。

「いいや、夏芽さんの“視た”ものが、単に妄想であったとは限らない。もしかしたら、夏芽さんは目ではなく、脳でそれを直接見てしまったのかもしれない」

「脳で、直接、ですか」

「そうだ。人間は、目で確認したものを、脳に伝達して、そして認識する。だが、目に見えなくても、存在したものや存在するものはあるだろう」

「目に見えないのに、存在してる……幽霊とかですか」

「そうだね、幽霊も、同じ類だ。幽霊は存在しないなんてことをいう人間が居るがね、そんなことは誰にもわからないのだから、そう言い切れる筈がない。だって現に、見たという人がいるのだからね。目で、光としては確認できないけれど、確実に存在しているというものは、必ずあるのだよ。例えば、過去、記憶、思い、なんてものだ。兎に角、そういった、目で確認されないものは、ごく稀にだが、脳に直接認識されてしまうことがあるんだ。だからもしかしたら夏芽さんは、その場所で起こった過去の何か、それか、蟲男の思いや記憶、いや、その他何かの概念といったものを、脳で視てしまったのかもしれないね」

「そうなんですか……。とにかく、気持ちの悪いものでした」

 夏芽はため息交じりに言った。

「因みにね」

 綺堂は懐から扇子を取り出した。

「一般に僕らや、人間が言う様な幽霊ってやつはね、死んだ人間の魂が具現化されたものでは無いんだよ。死んだ者は、別の世に行く。行かないとしても、人間の世界からは消えるだろう。現に、こんな世界があるのだから。その“無いもの”が、現れるなんてことは、端(はな)から有り得ない。だが、生きている者たちは、死んだ人間を記憶している。つまり、生きている人間たちの、死んだ人間に対する記憶や思いなんてものがね、言ってしまえば、幽霊の正体そのものなんだよ。だから、認識されなければ、幽霊は存在しえないんだ」

「記憶を、視てしまったんでしょうか。綺堂さんの言ったことは難しすぎてわからないけど、変なものを視たってことだけは理解しました」

「夏芽さん、決して変なものでは無いよ。よくあることだ」

 綺堂は微笑んだ。

「あ、幽霊っていえば、私、この世界に来るまで、幽霊と妖怪って、一緒だと思ってたんですけど、っていうか、今も違いがあまりわからないんですけど、何が違うんですか?」

「姉さん、幽霊は妖怪の一種ですぜい」

 辰之助が“当たり前だ”というように言った。綺堂が笑う。

「辰之助の言うとおりだ。幽霊は妖怪の一種さ。妖怪ってのは、人間が作り出した概念が形作る、想像の産物。幽霊も、それが人型になっただけの話だ。有名なのは、“お岩”や“お菊”。東海道四谷怪談と番町皿屋敷だね。だが、夏芽さんが想像している幽霊ってのは、死んだ人間の事だろう?“死んだ人間”と幽霊とは、またモノが違う。死んだ人間は、この世界には来ない。死んだ人間は“あの世”へ行く。そしてその“死んだ人間”を仮に“幽霊”と呼ぶとすれば、先程の説明が適応される。つまり、幽霊の正体は、人間の想像や思い込みだ」

 がたり、ごとり、と電車が揺れる。車窓から外を眺める。ありふれた景色がそこにはあった。決して、死層などという恐ろしい場所を通っているようには思えない。

 死の世界は黒い、それこそが単なる思い込みなのかもしれない。夏芽や、他の生きている人間は、決して死の世界を見たことはない。しかし、死という言葉のイメージによって、そこはきっと暗いのだ、とか、血の海があるのだ、とか、または逆に、金色の光に包まれる極楽なのだ、と想像するのだ。もしかしたら、死の世界は、夏芽たちの住む人間世界と、然程(さほど)変わらない世界なのかもしれない。仏教では、輪廻転生という説が説かれている。そもそも死の世界なんてものはなくて、人間や、その他の生物は、死んでも魂はその世界に残り、新たに他の姿に生まれ変わるのかもしれない。あるいは、全くもって消えてしまうことだって有り得る。

 死、というものは、未解決な問題だ。

 この妖怪世界は、その死から解放された空間である。生を感じさせない世界。しかし、妖怪たちはまるで“生きている”かのようだ。生と死は、対を成す存在。死があるからこそ、人間は精一杯生きようとするのだ。だから夏芽は、死がなくしての生は、もっと充実しないものだと思っていた。だが、この世界では、そんなことはない。

 色々と考えているうちに、夏芽は再び眠りについた。浅い眠りの中で、夏芽の瞼に、二人の少年が映っていた。

 二人はキャッチボールをしていた。ということは、もしかしたら、宮本肇と土田和也であるかもしれない。どちらがどちらなのかはわからなかった。しかし、片方はとても楽しそうにボールを投げているのに、もう片方は、何故か下を向いたまま、グローブを構えている。表情はよくわからない。ただ、少し怖かった。

 夏芽は、二人に近づこうと思うのだが、どんなに歩いても、走っても、二人との距離は変わらない。その代わり、止まっていても、二人が離れていったりすることはない。

 二人は、至近距離でボールを投げ合っていた。お互いの表情に気付いてもおかしくない。しかし、笑っている方は、下を向いている方に「どうして下を向いているの」と尋ねたりする様子もない。でもきっと、笑っている方は、下を向いている方の表情を“理解した上で”ボールを投げている。なんとなくそんな気がした。


 どうして分かり合おうとしないのだろうか。


 綺堂に揺り起こされて、夏芽は目を覚ました。突然の光が夏芽を襲う。何度も瞬きをして焦点を定めようとする夏芽を見て、綺堂は笑った。

「余程疲れていたんだね。ぐっすりと、まるで死んだように眠っていたよ」

「姉さんは電車に乗ると、すぐ寝ちまいますなあ」

 辰之助が言った。

「もう直ぐで木沢駅ですぜい」

「えっ、私、またそんなに寝てた?」

「そうでさあ。本当に、ぐっすりと、しっかりと寝息を立てて、しっかりと寝ておいででしたぜい」

「そんなに……まあ、夢を見てたくらいだしね」

 今日は、いろいろなことがあった。沢山歩いたし、変なものも見たし、何せ、青森県まで旅をしたのだ。疲れていない、と言った方が奇妙なくらいだ。

「もう家に帰って、しっかり休むといいよ」

「ええ、また帰っちまうんですかい」

 辰之助が残念そうに顔を歪める。

「旦那の家に、泊まっていきゃあいいじゃあないですかい」

「そんなの駄目だよ、お母さんたちに心配されちゃう」

「なんと、旦那はまだご両親に認められてはおられないんですな」

「そうなのかい、夏芽さん」

「あの、それを言えばまだ私も認めていませんよ」

 綺堂はいつになく肩をすくめた。

 電車を降りる。今更気付いたが、車掌は顔がない、所謂のっぺらぼうだった。のっぺらぼうは綺堂の方を見て言った。

「どうでしたか、良い旅になりましたか」

「ああ、とても。この電車は、いつも乗り心地が良くて助かる。人間世界のそれとは大違いだね」

「嬉しいお言葉です」

 駅を出てから、夏芽は、

「でも、綺堂さん」

と言って綺堂を見た。

「確かに、通勤ラッシュ時の駅の中の混雑具合とか、電車の中に詰め込まれるあの感じはすごく不快ですけど、でもそれ以外の時は、人間世界の電車だって、結構乗り心地がいいですよ」

「そうかもしれないが、だが僕は、人間世界の電車の中でするあのゴムみたいな臭いが苦手でね」

「ゴムですか」

「ああ。いつも気持ちが悪くなってすぐに降りてしまうよ」

 夏芽は、いつもの電車を思い出した。混み合っているときは、確かに少し変な臭いもするかもしれないが、そうでないときに「ゴムの臭い」など感じたことがなかった。

「僕は、まあ、潔癖症でね」

 そんなことを言って、よくも平気で虫の死骸を触ることが出来たものだ。

 中央通りの賑やかなざわめきが、少しずつ近づいてくる。それは、人間世界へ帰るときが近いということを夏芽に示唆していた。

 暫く歩いて、中央通りを過ぎ、八千代トンネルまで辿り着く。

「さあ、夏芽さん、覚えているかい」

「トンネルを通っている間は、絶対に振り返っちゃいけないんですよね」

 このトンネルには、ルールがある。何があっても決して振り返ってはいけないというルールである。

このトンネルは夏芽に、かの伊弉那(いざな)岐(ぎ)尊、伊弉那(いざな)美(み)尊の神話を思い出させた。神話では、妻である伊弉那美を生き返らせようと思って死の世界に赴いた伊弉那岐は、決して振り返ってはいけないという妻の言いつけを守らずに振り返り、腐った伊弉那美の姿を見てしまうのである。そうやって黄泉の国と地の世界が区別されるようになり、そしてその後、穢(けが)れを払うために伊弉那岐が禊(みそ)ぎを行った時、天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)、月読(つくよみ)尊、素戔嗚(すさのお)尊が産まれた、という風に神話物語は続くのである(この神話にはその他諸説ある)。

「その通りだ」

「でも、綺堂さんが後ろで気になることを言うから、いつも振り返っちゃいそうになるんですよ」

 夏芽は口をすぼめて、少しだけ嫌味っぽく言った。綺堂は、ははは、と笑うと、夏芽の肩に手を置いた。

「僕は、何も喋らないでいる方が、不安になってしまうんじゃあないかと思ったんだよ。人間っていうものは、居ることよりも、居ないことに不安を覚えるものだからね。あれは一応、僕の気遣いだったんだが」

「そうだったんですか。確かに、綺堂さんたちが後ろにいる筈なのに、声も何もしなかったら、不安になるかもしれませんね」

 伊弉那岐が振り返ってしまった理由も、それである。

「それに、自然にしていれば、人間は絶対にルールは破らない。ただ、守ろう、とか、いや、決して守るまい、とか、そういった要らぬ感情を抱くから、過ちに進むというだけの話なのだよ」

 やはり綺堂は、ちゃんと合理的に考えていたらしい。

 それから……と言いかけて、綺堂はふっと笑った。

「まあ、あまり難しい話をすると、今日の夏芽さんには酷だからね。長旅で疲れただろう。ただでさえ向こうと時間の流れが違うんだ」

「あっしも、別世界に行ってみたいですぜい」

 辰之助は笑った。

「いつか、“お偉い方”に選んでもらって、向こうに行くのが、おいらの夢なんでさあ」

 辰之助が言う“お偉い方”、というのは、人間世界の、ホラー作家たちのことらしい。ホラー作家にも二種類いて、自ら妖怪や怪異を作り上げる作家と、こちらの世界に来て妖怪を連れ出してくれるホラー作家、所謂“お偉い方”があるのだそうだ。“お偉い方”に選ばれることは、妖怪にとって名誉なことであるらしい。何せ、人間世界に再び出ることが出来るのだ。

「あ、それじゃあ、私帰りますね」

 夏芽はトンネルを歩き出す。

「ああ、気をつけて帰り賜えよ」

 綺堂が左手を袖に添えながら右手を少しだけ挙げた。夏芽は二人に手を振る。

「多分、明日また来ると思います。そのときはよろしくお願いします」

「ああ。それまでの間、じっくりと『蟲男』と、ぎょろ眼が集めた資料を読み漁っておくとするよ」

 綺堂の声がだんだん遠くなって、ついに聞こえなくなったとき、夏芽は眩い光に包まれた。トンネルを抜けたのだ。元の世界へ、戻ってきたのである。

 その時、夏芽は前から歩いてきた誰かにぶつかり、しりもちをついた。

「おっと、すまねえなぁ、お嬢ちゃん」

 夏芽が見上げると、そこには男が立っていた。背の高い、無精髭の男である。茶色のスーツを着ていて、髪の毛は、栗色っぽいのだが、光に当たると、緑色にも見える。よく言えばダンディ、悪く言えば、薄汚い格好だ。

男は、手を差し伸べて、夏芽を立たせた。

「こんなところを人が通ってくるなんて思わなくてよ。怪我無ぇか」

 夏芽はぱんぱん、と砂を払うと、出来るだけ愛想よく微笑んで見せた。

「はい、全然大丈夫です」

「それにしても、学生がこんな時間にこんな所に居るなんて、おかしな話だな。お嬢ちゃん、サボりか」

「い、いえ……今日は学校早めに終わったので…」

「そうか。学生は勉強をするもんだ。がんばれよ」

 愛想よく笑う夏芽と反対に無愛想な無精髭男は、それだけ言ってすぐに八千代トンネルに向かって歩き出した。このトンネルは“通行止め”の看板がある。人が通るなんて、珍しい。夏芽は、後ろ姿を無意識に眺める。

 突然、男は立ち止まった。

「おっと、つかぬ事を聞くが」

 どうやら、夏芽に言っているらしい。

「はい、何でしょう」

 男はゆっくりと振り返って、いや、片目がやっと見えるくらいに振り返ったところで、言った。

「お嬢ちゃん、ちゃんと、人間か」

 夏芽は一瞬、ぞくっとした。それから慌てて、

「当たり前です」

と答える。男は眉を上げて、

「ま、そうだよな」

と言って再び歩き出した。

 男の姿が、トンネルの闇に消えた後も、夏芽は胸騒ぎがする思いで、トンネルの向こう側を見つめていた。普通、人間が人間に「あなたは人間ですか」などという問いをぶつけることはない。だがもし、夏芽が、誰も居ない筈のトンネルから突如出現ところを見ていたとしたら、男がそう思うのも、無理はない。

 しかし、男は八千代トンネルに入っていった。夏芽を奇妙だと思ったのではないとしたら、もう一つ可能性がある。

―――あのヒト、妖怪?

 いや、考えすぎるのはよそう。夏芽は首を振った。今日は、ただでさえ、色々考えすぎたのだから。

 それにどこかで見たことが……。気の所為だろうか?

 夏芽は腕時計に目を落とした。午後三時。夏芽が向こうの世界に行った時間から一分も進んでいない。改めて、人間世界と、妖怪世界の時間制度の違いを思い知らされた。

 夏芽は、自宅に向かって歩き始めた。そろそろ帰ろう。蟲男に関する情報は、あまり掴めなかったけれど。

 ふと、夏芽は携帯電話と、胸ポケットから紙切れを取り出した。宮本肇の電話番号が書かれている紙切れだ。

――土田先輩について、もっと詳しく聞いてみよう。

 今日は疲れたが、綺堂や辰之助、兵部衛のおかげで、少しだけ事件解決に向けて前向きに取り組もうと思うことが出来るようになった。夏芽が見た、あの“幻覚”と“夢”についても気になる。すべては、事件について調べることで、そのうち分かっていくだろう。

夏芽は携帯電話のボタンを押す。つ、つ、つ、と鳴って少したってから、呼び出し音が鳴り始めた。

『はい、宮本です』

「あ、私、夜崎夏芽です」

『ああ、夏芽ちゃん。どう、何かわかった?』

 肇の興奮した声が夏芽を突き刺す。

「いえ、調査始めたばっかりで、まだ何も。ただ、『蟲男』っていう小説があることだけはわかりました。あと、蟲男が本当に存在するかもしれないってことも」

『そっか。進んでるみたいでよかった。ありがとう』

「あの、ちょっと、土田先輩について、詳しい話を聞かせてほしいんですけど」

『わかった。そうだよな、何にも話してなかったもんな……。あ、電話じゃなんだからさ、今から、家来ない?』

「宮本先輩の家って、あの」

 宮本肇の父親は、全国に多数のチェーン店を出す飲食店メーカー『よしみや』の社長だ。肇の家は、誰が見ても「ああ」と感嘆する程の豪邸なのである。特に、こんな田舎にあると、目立って仕方がない。

『まあ、誰が見てもわかる、“ど”派手なあの家だよ』

 肇は恥ずかしそうに言った。勘違いしてはいけない。誇っていいはずの立派な家だ。

「す、素敵な家だと思います!だって、なんていうか、お城みたいで……」

 ぎこちなく言うと、肇はありがとうと言って笑った。

『場所は、わかるよな?俺、待ってるから、いつでも来て』

 電話を切る。夏芽は、たかねを裏切って抜け駆けをしているような気持ちに陥りながら、いや、調査なのだ、割り切って、自宅とは反対方向にある宮本家へ向かった。



三、


 綺堂が家に着き、ガラス戸を閉めた途端、閉められたばかりの戸が、ドンドン、と鳴らされた。

「もし、綺堂壱紀、いるか」

 綺堂は戸を開ける。

「その声は、由宇奇じゃないか。久しぶりだな。そして」

 綺堂は玄関の床に置かれた雑誌を拾った。

「待っていたぞ、『蟲男』」

「失礼な奴だな。誰が蟲男だ、この野郎」

「青森まで行ってきた。貴様の小説を読んで、蟲男の住処がそこだと判断してね。そしたら、人間世界の同じ場所に、人間と妖怪のクオーターが住んでいるというじゃあないか。すぐにわかったよ、由宇奇秋人。蟲男の正体はお前だな」

 由宇奇は頭を掻いた。屋台の提燈の光が当たって、由宇奇の髪が緑色に光る。

「確かにあそこは俺んちだし、『蟲男』を書いたのも俺だ。確かに親父は火間蟲入道と人間のハーフで、俺はその子供だから火間蟲入道のクオーターだ。腕に、白い蟲が住んでいるのも、事実。じいさんは間蟲だったってのに、俺はその間が抜けた蟲が憑りついちまった。だが、お前が一瞬でも考えたことは、それは、間違っている。寧ろ逆だ。俺は、この事件を止めに来た」

「ほう」

「ほんで、その『蟲男』って小説、駄作だから捨ててくれ、マジで」

「結構面白かったぞ。特に“青虫に接吻したい”というところが、奇異で素敵だ」

「やめてくれよ。あれはな、俺がまだルポライターなりたての頃に、生計立てるためにカルト雑誌に送ってた読み切り小説だ。文体も子供じみているし、その、わざわざ“接吻”なんて言葉を使っている時点で気色が悪い。捨てろ、今すぐ」

「嫌だね。貴様の事は嫌いだが、あの小説は気に入った」

 綺堂は雑誌を床に置き、懐から文庫本の方を出した。由宇奇は頭を抱える。

「誰だよ勝手に文庫化した奴。殺してやる」

「いいじゃあないか。フアンもひとり、増えた」

「黙れ。お前は若かった俺の駄文を読んで、優越感に浸りたいだけだろう。そんなことは端からわかってんだよ。……それより、向こうの世界で起きてる、蟲男の事件、早く解決しないとやべえぞ」

「いつになく必死だな」

「もう、七人目の犠牲者が出た」

「犠牲者?生死はまだわからないだろう」

「何を言ってる、お前にだってわかっているだろ。魂が消えてく音がする。大きな音だ。まだ、余命が沢山残っている魂が、消されている」

「相も変わらず変なことを言う奴だ。残念だが、僕はそんな能力を持ち合わせていなくてね」

「兎にも角にもだ。お前の事は糞ほど嫌いだが、頭が切れる奴だってことは俺が誰よりもよく知っている。力を借りたい」

「力ったって、何をしてほしいのさ」

「俺にもわからん。ただ、怒りが湧いて湧いて仕方がねえのさ」

 由宇奇は眉を歪め、とがった眼光で綺堂を睨み付けた。

「俺の小説を“利用して”犯罪を犯している“糞野郎”にな」




*




 急ぎがちに歩く。幸い八千代トンネルから宮本家は近く、十分後には到着した。目の前には巨大な黒い門があった。そこからは庭園が続いていて、ずっと向こうに見える、白くて巨大な建物が、宮本肇の家である。

 夏芽は背筋を正して、レンガ質の柱についているインターホンを押した。

『どちらさまですか』

 家政婦だろうか、女性の声が聞こえる。夏芽は少し緊張しながら、

「夜崎といいます。肇さんに用があって来たんです」

と言った。女性は少しだけ間をおいて、『少々お待ちください』と機嫌悪そうに言った。肇はモテる、というところから察すると、女性は夏芽のことを、肇の付きまといの一人だとでも考えたのだろう。

 暫く待っていると、がががと音がして、自動的に門が開いた。金をかける所を間違えている。夏芽は少し戸惑いながら、足を進めた。両側に花畑。ヨーロッパにでも来たような気分である。

 建物の方まで行くと、ドアが開いて、中から宮本肇が現れた。

「待ってたよ、夏芽ちゃん。悪いね、受験とか、進路とかで忙しいのに」

「いえいえ、いいんです。先輩こそ、友達思いで、優しいんですね」

肇の家は、外見だけでなく、中身まで豪勢であった。高い値がつくであろう骨董品やら宝石やらが、あらゆる棚という棚に置かれている。トロフィーや賞状なんかも沢山飾ってある。野球や陸上、華道。どれも高価そうな額やケースに入れられている。廊下に敷かれている絨毯も、見るからに高級そうだ。宮本肇は、かなりのお坊ちゃまらしい。

 絨毯の上をずっと進んでいくと、開け放たれた白い空間に出る。どうやらそこがリビングだ。

「さあ、座って」

 肇が夏芽を中央のテーブルに誘導する。夏芽は椅子に腰を掛けてから、それにしても広いリビングだな、と思って辺りを見回した。向かい側に、肇が座る。夏芽はもう一度腰を浮かせて、しっかりと椅子に座り直した。

「えっと、早速ですけど」

 夏芽は聞き込みを始めた。

「土田先輩って、どんな人でしたか?」

 肇は、ううん、と唸った。

「そうだなぁ、人の良い奴だった」

「誰かに恨まれてるとか、そういうことはないですか?」

「あいつに限って、それはありえないよ。あいつは、凄くいいやつなんだ。副キャプテンなのに、ボールの片づけはいつも真っ先にやっていたし、それに、野球だけじゃなくて日常生活でだって、あいつはほんとにいいやつだった。いつでも、相手のことを第一に考えるような。だから、あいつに限ってそんなことはない。あいつには双子のお兄さんがいてさ、病気で二年前に死んだんだ。あいつはその分、お兄さんの分も頑張って生きなきゃって、そんなことを言う様な、優しい強い奴だったんだよ」

 『あいつに限って』。確かに親友が、誰かに恨まれていたとしても、信じたくない。その気持ちは夏芽にも十分わかった。そして、そもそも、この事件は“怨恨”によるものでは無い。“蟲男”を名乗る犯人が通り魔的に行っている犯罪なのだ。土田和也がそれだけ優しい人だったのならば、尚更、早く解決してあげたい。

「土田先輩、いついなくなったかわかりますか?それと、居なくなったときに居たと思われる場所」

「そうだなあ……」

 肇は少しだけ眉間に皺を寄せて、考えるポーズをとった。

「土田が消えた日に、話があるって言われて、十一時に神坂公園で会う約束してたんだけど、丁度その時間に用事が入っちゃって、前日にキャンセルしちゃったんだ。だから、最後に会ったのは、その前の日かな……」

 それから少し間をおいて、

「あの時、俺がキャンセルせずに、土田に会いに行っていれば、な」

と寂しそうに言った。

「宮本先輩のせいじゃないです。悪いのは犯人……蟲男、なんだから」

 慰めにはならないだろう。夏芽だって、例えばたかねがそうなってしまったら、そして今の肇と同じ境遇であったら、同じことを言うに違いない。どんなに優しい言葉をかけられても、きっと、自分を責めずにはいられない。

「土田先輩が消えた日、土田先輩から、何か連絡はありませんでしたか?」

「連絡、か……電話が来ていて、それですぐに掛け直したんだけど出なかったんだよ」

「それが、何時ごろだかわかりますか?」

「ちょっと待って、携帯で確認するから」

 肇はポケットから携帯電話を取り出して、左手に乗せると、いくつかボタンを押した。

「あいつから電話が来たのが、午前十一時十二分、俺が電話を掛け直したのが、午前十一時二十一分。因みに、あいつから電話があったのは一回だったけど、俺は二回掛けなおしてるんだ。昨日、土田のお祖父さんにちょっと聞いてみたんだけど、あいつ、午前十時頃に、神坂公園に行くって言って家を出たらしい。それから連絡が一切なくて、それっきり、夜も帰ってこなかったって言ってた」

「ってことは、今のところ、最後に土田先輩が連絡をとろうとしたのが、宮本先輩で、それが午前十一時十二分」

「電話が来ただけだけどね」

「ちょっと待って、土田先輩からメールが来たのっていつですか?」

「メールって、蟲男のメールか」

「そう。蟲男を見たっていうメールです」

 肇は再び携帯電話の画面を覗き込んだ。

「えっと……午後六時三十二分」

「つまり、少なくともそれ以降に、土田先輩は誘拐された……?」

 夏芽は腕を組んだ。

「ちょっと変……」

「何が変なんだ」

「だって、変じゃないですか。土田先輩は、神坂公園に一、二、三……七時間以上も居たことになります」

「それはわからないじゃないか。だって、もしかしたら神坂公園に行くって言って、途中でお昼を買いにコンビニに行ったかもしれない。気が変わって、友達の家に遊びに行ったかもしれない」

「友達の家に遊びに行ったんなら、その友達が、何か証言をする筈です。宮本先輩の電話にも出る筈だし。土田先輩のご両親は、何か言ってませんでしたか?」

「いや……ああ、お祖父さんに聞いたら、昼に帰ってくるって言っていたらしい。でも、あいつ、時間守らなかったりすることがよくあったから、あんまり気にしなかったんだと。それに、俺も、確かに電話を掛け直したけど、あいつ、電話に出ないことなんてよくあったからさ、全然気にしてなかったんだ」

「土田先輩って、結構大雑把な性格だったんですね」

 野球部の副キャプテンをやる程だから、しっかりした人物だと思っていた。

「あの、土田先輩って、宮本先輩が、その時間に用事があるってこと、知っていたんですよね?」

「ああ、言ったからね。大事な用があるって」

「だったら、どうして宮本先輩に電話をしたんでしょうか」

「え」

「だって、土田先輩は、相手のことを第一に考えるような人だったんでしょう。その土田先輩が、宮本先輩が“大事な用事がある”時間に、わざわざ電話を掛けるなんて、なんだか不自然ですよ。余程の何かがあったんじゃないかな」

「ということは…………もしかして、土田は、その時既に襲われていて、俺に助けを求めようとして……」

「……あくまで、可能性ですけど。蟲男は、もしかしたら、人をさらった後に、本人に成りすましてメールを送っているのかもしれませんね……」

 肇は両手で顔を覆った。

「やっぱり俺の所為だ!」

「待ってください、自分を責めないで、仕方なかったんだから」

 夏芽は立ち上がって、肇をなだめた。肇はやはり、いや、夏芽の思っていた以上に、土田和也の事を大切に思っていたようだ。しかも、夏芽が色々と質問をしてしまった所為で、責める必要もないのに自身を責め始めている。これ以上、彼から情報を聞き出そうとするのは、余りに酷すぎる。

もう十二分に、情報がつかめた。この豪邸に入ったのは、やはり、正解だったらしい。

「宮本先輩、私、早速綺堂さ……知り合いの探偵さんに、情報を伝えてきますね」

「探偵?」

 宮本肇は顔を上げた。

「探偵……っていうか、探偵ぽいっていうか、とにかく、凄く信頼できる人がいて、その人に相談に乗ってもらってるんです。だから、絶対に、土田先輩は取り戻します、約束します」

 取り戻す、と言っても、肝心な蟲男すら発見できていない。しかし、肇の泣きそうな顔を見ていたら、自然と口からこぼれた。

「そうか。ありがとう、夏芽ちゃん。俺も、出来ることがあったら、なんでも協力するから、言ってくれ」

「はい、わかりました」

 夏芽が言うと、肇は微笑んだ。ああ、よかった、と夏芽は思う。光り輝く宮本肇は、やはり笑っている方が似合っている。

 後ろで足音がした。振り返ると、上品な灰色髪の、長身の中年男性が立っていた。男性は、夏芽に微笑みかける。

「おや、いらっしゃい」

 それから肇を見て、

「肇、お友達かい」

と言った。どうやら、この中年男性が、宮本肇の父親であり、株式会社『よしみや』の社長、宮本吉造氏であるらしい。

「こちらは夜崎夏芽さん。失踪した土田の捜索を手伝ってくれているんだ」

「そうか……。和也君には、肇はお世話になってたからな。本当に気の毒な話だ。早く見つかってほしいのだがね」

 肇が、夏芽の方を向き直って、吉造の方を示した。

「この人は、俺の父さん」

「よろしく、夏芽さん」

「初めまして、よろしくお願いします」

 夏芽は足をそろえて、額に膝が付くほど深々と頭を下げた。普通の友達のお父さんになら、ここまではしないだろう。この人は何せ、社長さんで在らせられるのだ。

 吉造は笑って、

「よくできた娘さんだ」

と言った。よし、上手くいった、と夏芽は思う。

 突然、吉造は表情を曇らせた。

「だが、君のような女子高生が和也君の捜査をするという事は、同時に、犯人に狙われるかもしれないという危険を伴う。あまり、深入りをせずとも、きっと警察が解決してくれるだろうから、どうか、危険なマネだけはしないでほしい。……あくまで、同じ高校生の子を持つ親としての意見だけどね」

「す、すみません……」

 首をすくめる夏芽を見て、

「巻き込んだのは俺なんだ」

と肇は言った。

「あ、でも大丈夫です。別に、危険なことをしようってわけじゃなくて」

「そうかい、ならば、いいんだけどね」

 吉造は再び、最初の時のように笑った。夏芽は調子に乗って、

「はい、私は聞き込みをしただけで、事件の解決は知り合いの優秀な探偵さんがやってくれるんです」

と余計なことを言ってしまう。

「探偵さんが、かい」

「あ、はい……でも、優秀な人だから、心配しなくても、きっとすぐに事件を解決してくれます。もう、犯人の目星くらいついてると思いますし……」

 口から出まかせというのは、こういうことだ、社長というお偉い方の前だと、どうも自分を大きく見せようとしてしまっていけない。

 吉造は、しかしにこりとして、

「それは、頼もしい」

と言った。




*




 夏芽は公園に向かおうと決めていた。土田和也が消えた、神坂公園。そこで消えたのか、あるいは別の場所に居た時にさらわれたのか、それはまだ分からない。しかし、行ってみる価値はある。

「何かがあるかもしれない。無かったとしても、それも新たな真実だ……か」

 先程、綺堂が言った言葉を思い出す。確かに、蟲男の住処と思われるあの場所には何も無かった。しかし、単に何もないという状態では決してなかった。あの場所で綺堂は、蟲男の存在を確信した。

 しかし、公園に行く前に、まだもう一か所だけ、行かなければならない場所があった。

土田和也の、家である。

もうすぐ午後五時。辺りはもう真っ暗だ。

―――こんな時間に行ったら迷惑かな。

 国道から離れた路地を進む。神坂公園が見えるが、夏芽はそれを素通りする。土田和也の家は、宮本肇曰く、この路地をまっすぐ進んでいったところの、国道との隣接点にあるらしい。

 がたり、ことり、と電車の音がする。神坂公園は、人間世界の木沢駅のその裏にある。そして、この公園からは、あの八千代トンネルがしっかりと確認できる。夏芽は、何故だか、昼間出会った男の事を想い出して、一瞬だけ緊張を覚えた。

 夕方五時を知らせる鐘が鳴った。

 考えているうちに足は進み、いつの間にか、車の音がぶんぶんと聞こえてくるところまで来ていた。国道との隣接点が近づいているのだ、そう思って、夏芽は立ち止まった。質素な、落ち着いた佇まいの家が、目の前に在る。暗くてよく見えないが、多分、屋根は赤茶色で、外壁はベージュ。表札の『土田』を見て、夏芽はそれが土田和也の家であると確信した。

 腹が鳴るのを抑え込みながら、夏芽はインターホンを押す。即座に「今開けます」という女性の声がした。突然の来客に遭遇したにしては、対応が早い。

 ドアを開けながら、

「あなたが夏芽さんね」

と、土田和也の母親は言った。

「さっき、肇君から電話があってね。探偵さんを雇って、和也を探してくれてるんですってね」

 わざわざ肇が連絡してくれていたらしい。

土田和也の母親は、非常にきれいな顔立ちの、芯の細そうなひとであった。美しい栗色の巻き髪が印象的で、肌の色は白く、その所為で目の下のクマが目立って仕方がない。土田和也の失踪に、かなりのショックを受けている様子であるという事は、初対面の夏芽から見ても、一目瞭然である。夏芽は、かける言葉も見つけられないまま、沈黙して彼女の後を追って靴を脱いだ。

 広い、清潔そうなリビングに夏芽は招き入れられた。あらゆる壁に、土田和也とその兄弟と思しき少年の写真が貼られている。

「丸坊主の方が、和也で、髪の毛を染めてる方が、兄の翔也よ」

 初見、夏芽は和也の方が兄だと思った。

「翔也と和也は双子だったんだけど、性格は真反対でね。翔也は不良で、和也は真面目な野球少年だった。翔也は、病気で……死んでしまったんだけれどね」

 母親は、優しい顔つきで言った。

「翔也の分まで生きるって、私を慰めてくれたのよ、まだ子供なのに。あんな良い子、他には居ないわ」

 それから夏芽に向き直る。

「ごめんなさい。事件の時の話をしなければダメよね、思い出話なんて」

「お辛いときに、すみません。私も、土田先輩が恨まれてたとか、そういう風には全然考えていないんです。でも一応お聞きしますが、事件当日、誰かが、土田先輩と喧嘩をしたとか、そういうことってなかったですか」

「無いと思うわ、少なくとも、家に居たときはね」

「そうですか。じゃあ、土田先輩が失踪した日の十一時十二分以降に、土田先輩から何か連絡があったりしませんでしたか」

「和也から。そうねえ……時間通りに帰ってこないことなんてよくあったから、全然心配していなかったのよ……。でも、どうして十一時十二分なのかしら」

「十一時十二分に土田先輩が宮本先輩に電話しているんです」

「じゃあ、その時はまだ無事だったのね、和也は」

 白い顔が、ぐにゃりと歪んだ。泣いてしまうかと思った。しかし、白い顔はそれを思いとどまると、思いついたというように目を見開いた。

「あ、そういえば……」

「何かありましたかっ」

「あのね、事件に関係があるかはわからないんだけど、あの日、十二時ちょっと前くらいにね、宮本さんから電話があったのよ」

「肇先輩からですか」

「いいえ、お母さんからよ。家族三人で出かける予定なのに、夫が少し買い物をすると言って出て行ったきり、帰ってこないって」

「吉造さんが……それで、宮本先輩のお母さんは、他になにか言いましたか」

「わかりました、って。今物騒な事件が起きているときだし、大人が狙われたって前例はないけれど、余りに遅いから心配でって言ってたわ。私も、あの話を聞いたときに、すぐに和也を探しに行けばよかったのだけれど」

 白い顔が、また歪みそうになる。しかし再びそれを阻止したのは、なんと夏芽の腹の音であった。事件の話を聞くのに真剣になって、腹が減っているという現実をすっかり忘れていた。

「あ、す、すみません……」

 土田和也の母親は、栗色の巻き髪をかきあげながら、ふっと微笑んだ。

「あら、もうこんな時間になるのね。家でお母さんたちがご飯作って待ってない?大丈夫?」

「そうですね、ちょっと、一応連絡だけさせてください」

 夏芽は携帯電話を取り出して、メールを打った。

『ごめん、ちょっと用事で遅くなる』

 返信が即座に来た。

『物騒な事件が起きてるから、誰かと一緒にいてくれなきゃ嫌』

『大丈夫、綺堂さんと一緒』

 夏芽は嘘を吐いた。




 土田和也の家を出た時にはもう午後六時になっていた。あまり帰宅が遅くなると、例えお気に入りの綺堂と一緒にいたと言っても、母、春代に何を言われるかわからない。夏芽は少し急ぎ足で神坂公園へと向かった。風が冷たい。夏芽は歩きながら、宮本肇と土田和也の母親から聞いたことを頭の中でまとめようと努めた。

 二人の話を聞いて、気になる点がいくつかあった。

第一に、土田和也の電話とメールの時間差である。土田は肇に電話をし、それから肇は土田に電話を返すが、土田は出なかった。最も考えられるのは、その時点ですでに襲われていたということである。しかし、だとしたら、メールが送られてきたのが遅すぎる。

第二に、宮本肇の父、吉造が、事件当日、しかも丁度土田和也が音信不通になった時間に、外出している、という事実である。あの優しそうな吉造に限って、そんなことはないとは思うのだが……。

 ふと視界が開けて、夏芽は顔を上げた。公園がある、その向こう側にはいつものあの地下トンネルがずんと居座っている。

 夏芽は公園の伸びきった芝生の上に足を進めた。人っ子一人いない。

神坂公園は、小さな公園である。遊具も錆付いていて、中々の年代ものであろう事が伺える。夏芽は、そういうところが逆に好きだった。今は何でもかんでもいらないものは『削減してしまう』とか『仕分けしてしまう』ような時代だ。この遊具たちも、いつ撤去されてしまうかわからない。

 ブランコがひとりでに揺れている。風が吹いているのだ、そう思った時、ブランコの真下で、何かが光った気がして夏芽は目を見張った。何だろうか、白い光を放つそれは、四角形の何かだ。

 土田が襲われたこの公園に残る痕跡。

 もしかしたら、重大な真実を語るモノかもしれない。

 目の前には、あの蟲男の住処を見つけた時とは違い、何かが“在る”のである。夏芽は、近くでそれを確認しようと、足を踏み出した。


 その時、

 ……………………。

 背後に緊張が走った。

 がさ。

 夏芽のものでは無い足音が公園に響き渡る。小さな、ほんの微かな足音である。

悪寒が夏芽の背中に走る。

 額に冷や汗が浮かぶ。

 こうやってびくびくしながら、振り向いたら実は友人だった、なんてことはよくある話だ。しかし、今は違う気がした。

 後ろでする邪悪な雰囲気は、“異常”だ。

 意を決して、夏芽は振り向いた。瞬間、何かが夏芽に向かって突進してきた。咄嗟に全身の筋肉に力が入り、夏芽は自分でも驚く勢いで飛びのく。

 襲われたのだ、そう認識するのに、数秒かかった。それから自分が、今地面に手と膝をついているのだ、と自覚する。

 顔を上げて夏芽が見たものは、銀色に輝く、刃であった。それは、何者かによって握られている。

 刃物を持った何者かが、夏芽を襲ったのだ。

 その何者かは、上から下まで黒い服を着ている。そいつは夏芽が避けた所為でブランコに肩をぶつけたらしく、その衝撃で右腕だけ皮膚があらわになっていた。

 夏芽は息を呑んだ。




虫が、湧いている。


虫が、生えている。


そして、蠢いている。




―――蟲男だ!




 夏芽はなんとか立ち上がろうともがく。しかし、必死になればなる程、体が思うように言う事を聞かない。

 近づいてくる男を見ながら、夏芽は後悔した。蟲男の噂は、ただの都市伝説に過ぎないと思っていた。本当の犯人は人間で、その人間が、蟲男の噂を利用しているにすぎない、そう思っていた。

 だが、目の前の現実は、その夏芽の予想を簡単に裏切った。目の前の男こそ――かの蟲男なのである。

 蟲男がナイフを振り上げる。

 スローモーションで時が流れて行く。

 夏芽は、まだ立ち上がることが出来ないでいる。

 逃げなければ。

 逃げなければ――――。




 その時、夏芽の前を紺色の影が覆った。同時に、夏芽は肩を抱かれ、体を押される。

 一瞬の出来事であった。

 何が起きたのかわからないまま呆然とする夏芽の前に、綺堂壱紀の顔が、あった。

 思わぬ邪魔が入り、蟲男は一瞬だけ怯(ひる)む。しかし、こちらは武器も何も持っていないのに対して、男の方は刃物を持っている。

 男は綺堂という大人の介入を確認しても尚、逃げるのではなく、刃を振り上げて向かってきた。

 綺堂は立ち上がる。着物の裾が―――いや、今日は袴だ―――袴の裾が、さらり、と夏芽の前で舞う。着物の袖をはらりとはためかせて、綺堂は蟲男の腕に衝撃を加えた。

 ナイフが落ちるのが見える。

 蟲男は綺堂から距離をとって、自分の腕を押さえた。

 死んだ虫たちが、ぱらぱらと落ちていく。

「夏芽さん、立って」

 綺堂が鋭い声で言う。

「立って」

 一喝されて、夏芽はやっと我に返った。スローモーションだった時間が、通常通りに再生を始める。

 夏芽は慌てて立ち上がった。同時に綺堂は夏芽の手を掴む。

「走るぞ」




 いつか、こんなことがあった。初めて夏芽が妖怪世界へ行った時、いや、迷い込んだ時、あの時、人喰い女に襲われそうになって、腰を抜かしている夏芽を、綺堂は同じように助けてくれた。

 夏芽の手を取って、人食い女が見えなくなるまで走った。

 夏芽は綺堂に手を引かれ、何度も転びそうになりながら、後ろを振り返った。


 今日はあの時とは違った。


 蟲男は二人を追って走ってきていた。


「綺堂さんっ、蟲男が追ってきてます」

「分かってる。八千代トンネルを目指すんだ」

「でも、妖怪は八千代トンネルを通れるんじゃ」

「妖怪だとしたら、八千代トンネルを通って人間世界に出ることが出来る筈がない。あのトンネルを行き来できるのは、少なくとも人間の血が通っている者だけだ。半妖半人であっても」

 綺堂は走りながら、全く息を切らす様子もなく、静かにそう言った。

―――綺堂さん、あれは、その、半妖半人、かもしれません、だって腕から、



 腕から虫が――――――。



 八千代トンネルがすぐそこに見えた。

 ばさばさと綺堂の袴がはためく。夏芽はやはり不安で、また振り向く。

 蟲男は、全く距離を広げる様子もなく走っていた。なんという足の速さと、そして執念だろう……。

「夏芽さん、振り返るな」

 綺堂が言った。

「君はただ前だけを見て走っていればいい」

 夏芽は頷きながら、落ちている木の枝に引っ掛かって転びそうになる。そうなる夏芽を、必ず綺堂の腕が力強く支える。綺堂の腕は、一見細いようで意外とがっしりとしていた。

 トンネルが近づいてくる。綺堂の左手に、少しだけ力が入ったのが分かった。

 

 妖怪蟲男は……ついてきているのだろうか……。

「振り返ってはいけない。走るんだ」

 トンネルに飛び込むと、綺堂が言った。

夏芽は振り向きそうになる顔を無理やりに捻った。


 二人はトンネルを抜けた。

祭りで賑わう、中央通り。オレンジ色の提燈達。無数に並ぶ屋台。

妖怪世界に、来たのだ――――。

 

 夏芽ははっとした。あの腕、無数に生える蟲……蟲男は……。

 

 振り返る。悍ましい姿の蟲男がいて、再び二人に襲いかかってきたらどうしよう。


 しかし、そこにはトンネルと黒い空間があるだけだった。

 

 夏芽は、ただほっとして、その場にくにゃりと沈み込んだ。それを綺堂が慌てて支える。

「夏芽さん、怪我は無いかい」

「あ、はい……。ありがとうございます。ホントに、綺堂さんにはいつも助けてもらってばっかで……。でもなんで、助けに来れたんですか?」

「虫の知らせとでも言おうか、嫌な予感がしてね。来てみたら案の定」

 綺堂はため息をついた。

「君は本当に、運がいいのか悪いのか」

「ごめんなさい……。ていうか、綺堂さん、今日は袴なんですね」

「走るんじゃないかと思ってね」

「よかったですね、袴で。いつものだったら、絶対追いつかれてましたからね、蟲男に」

 夏芽は安堵の混じった笑顔を浮かべる。

「でもどうして、蟲男は妖怪なのに、トンネルを潜ってもこの世界に来れなかったんでしょうか。こちらの妖怪が人間世界に勝手に行けないのと同じで、向こうに出て行った妖怪も、勝手にこっちに帰って来られないんでしょうか?」

「蟲男、かい」

 綺堂は眉を顰めた。

「だって、綺堂さんも見たでしょ。あの、腕。虫だらけの」

「いや。あれはただの人間だったよ。現に、このトンネルを抜けて来れなかった。妖怪の血が混じっている者であるなら、必ず通れるはずの、このトンネルを。向こうの世界に出ることを許された妖怪は、“通行手形”を持っていて、それがあればこのトンネルを抜けて来れる。そして、君みたいに霊感のある人間も、同じだ。だが、蟲男は、ここに入って来られなかった。人間だからだ」

「嘘ですよ。私、見たんですよ。腕から虫が生えて、ぐねぐね動いて」

 虫が蠢いていたのである。

「夏芽さん、君はどうもいけない」

 綺堂が言った。

「君の脳は、蟲男に洗脳されている。全ては僕が悪いのだけれど。僕は君に、蟲男のグロテスクな話をしてしまった。その所為で君は、いや、君の脳は、無いものを認識してしまうようになってしまった。確かに、それは時に手掛かりや足掛かりを作る。だが、時に先入観や誤解なんてものを招いて、人は自らを攪乱させる」

「でも……でも私、見たんですよ……」

「それは、脳が視たんだよ。まあ、言葉の綾ではあるが、確かに、蟲男と言えないことはない。君を襲おうとした男は、思うに、君の友人の思いを寄せる人の友人とやらをさらった張本人か、またはその深い関係者である可能性が高いのだからね。それにね、君が視た腕の異常は、強(あなが)ち、間違いではない。確かに奴の腕は普通ではなかった」

「私には……虫が居たように視えたんですけど」

「見方によれば、確かにそうも見えるだろう。特に君の脳は、蟲男を“映してしまう”のだからね。奴の腕は、何故だかはわからないが、爛れていた。病なのか、火傷のよるものなのかは、あの一瞬では判断できなかったけれどね」

 綺堂は夏芽の手を取った。

「さあ、いつまでもここでしゃがんでいるわけにはいくまい。そろそろ、僕の家にでも避難しようじゃないか」

 夏芽は頷く。それから、綺堂の袴の裾に何かがついているのに気付き、手を伸ばした。触れると、濡れた感触が指を覆う。水?汗?何だろうか。夏芽の伸ばした右腕に、ポタリ、としずくが落ちた。この世界は妖怪世界。雨など降らない。

 滴は、天から降ってきたものでは無かった。綺堂の着物の袖を伝って、そして夏芽に注いでいるのである。

 指の水滴を確認しようとして掌を返した瞬間、夏芽は言葉を失った。



――血だ……。



「綺堂さん!綺堂さん怪我してる……」

 夏芽は、思わず叫んだ。綺堂は、まるで素っ頓狂な顔をした。

「怪我?」

それからゆっくりと、袖を捲る。先程の蟲男との“やり合い”で、蟲男が振り回した刃が当たってしまったようだ。綺堂は傷を見て、やっと痛みを感じたのか、顔を歪めた。

「ああ……大したことはないよ。さっきあの男に切り付けられた時に、出来た傷だろう」

「そんな、そんなあっさりと言えるような、浅い傷じゃないですよ……だって血が……ああ、大変……」

 腕の肉は、深く切り裂かれているように見えた。赤い縦線が、綺麗に入っている。どうしよう。こんなとき、どうすべきなのだろう。

 夏芽は半ば錯乱状態だった。

 綺堂は、ばさりと袖を返して、傷ついた右腕を体の後ろに回した。

「心配しなくていいよ、夏芽さん。家に帰れば、何とかなるのだから」

 綺堂の白い顔が、儚く笑った。夏芽は、気が動転して、その場に倒れ込み、意識を失った。

「夏芽さん、夏芽さん!」

 綺堂が夏芽の身体を揺さぶりながら、呼びかける。その時、提灯の灯りで微かに緑色に光る髪を揺らして、茶色のスラックスが二人の前に現れた。

「なーにやってんだ。突然家を飛び出したかと思えば。若い娘と手つなぎデートか、この野郎」

 由宇奇は倒れた夏芽を覗き込む。

「このお嬢ちゃんは……昼間に見た珍妙な女子高生じゃねえか。なんでこんなところで寝てるんだ」

 それから、いつになく無口の綺堂に目をやり、由宇奇は目を見開いた。

「おめえ、怪我してんじゃねえか!」

「不覚だった」

「見せてみろ」

 腕の傷は深かった。血は、腕だけでなく、背中からも流れている様だった。由宇奇はその場で綺堂の着物を上半身だけ脱がせた。

「こりゃ……深いぞ」

「ああ。夏芽さんを庇った時に、やられた、蟲男に」

「馬鹿野郎。家行くぞ。手当してやる」

「誰が貴様の手当てなど受けるものか。自分で歩ける」

「馬鹿か!」

 由宇奇は綺堂に肩を貸し、もう片方の肩に夏芽を背負った。

「悪いな……無様なサマを晒してしまって」

「いいんだよ。その代り、明日俺に酒おごれ」

「……酒でも……何でもやるよ……」


 ぽたぽたと滴る血が、三人の歩いた道筋を綺麗に示している。早く止血しなくてはならない。

 中央通りを抜けて、由宇奇は綺堂を引きずるようにして綺堂の家へ向かった。少しずつ、あの独特の古びた民家が近づいてくる。




 変だ、靄がかかって見えるぞ。




 綺堂が言った。

「おい、しっかりしろ、もう少しだ」

 由宇奇が励ます。



 ヘンゼルとグレーテルを思わせる、赤い点々は、血である。



 家の玄関まで辿り着いたとき、綺堂は意識を失った。



四、


 煙草屋に、いつもの男がやってきた。長髪で派手な花柄の着物、右側の顔を包帯で隠している。

「旦那、いらっしゃい」

 今日の男は上機嫌だった。

「どうしたんですかい。いいことでもあったんで?」

「ああ、最高だよ」

 くくくく、と不気味に笑う。煙草屋の親父は男にいつもの葉巻を差し出した。

「旦那の事ですから、また人間世界で、面白い事件でも起きたんでしょう」

「ああ。蟲男、だって。聞いたことある?」

「蟲男?妖怪ですかい?」

「わかんねえのさ。だから面白い」

 男はまた、くくくく、と笑う。

「人間は、脳味噌にちょっと刺激を与えてやるだけで、バレリイナのように踊り始めるのよ。一度踊り出したら最後、死ぬまでそれは止まらない」

「まさか、噂で聞きやしたけど、人間世界で起きてるらしい誘拐事件、旦那が発端なんで?」

 男はちらり、と親父を見た。切れた目が、怖い。親父は思わず目をそらした。

「旦那はいいねえ、あっちとこっちを行き来できる。あっしもそんな生活送ってみてえや」

「退屈しのぎ位にしかなんねえよ、あっちの世界は。でもねえ」

 男は葉巻に火をつけた。

「人を転がすことほどおもしれえことはないよ」

「旦那は、物好きですねい」

 葉巻の煙がすうと空に吸い込まれていく。

「いや、これが俺の宿命なわけさ」

 男は気味の悪い微笑を浮かべたまま言った。

「俺あ人間が大嫌いでね」




*




 宮本肇は、夕暮れの公園に立ち尽くしていた。あの日、肇はここで、土田和也と会う約束をしていた。「キャッチボールをしながら、話したいことがある」、そう和也は言ったのである。しかし二度と、二人でキャッチボールをする日は訪れない。

 昔、肇も和也も幼かった頃、二人はよくこの公園でキャッチボールをして遊んだ。いや、それはつい最近、二人が高校に入学するまで、ずっと続いていた。しかし、忙しくなるにつれ、お互い、知らず知らずのうちに距離を作るようになっていた。試合中、心を通わせねばならない、大切なパートナーであるというのに。

――和也……。

 肇は、揺れるブランコをぼんやりと見ていた。二人の幼い少年たちが、ブランコに揺られて微笑んでいる。肇はその姿を、幼いころの自分と、和也と重ね合わせる。

 いつから――――。

 不意に風がやんだ気がして、肇は振り返った。

 そこには、茶色のスーツにスラックスを着た無精髭の見知らぬ男が立っていた。朝日の光の加減で、髪は茶色にも、緑にも見える。男は、右手に火のついた煙草を持ち、首を傾げたようなだらしのない姿勢をして、ふう、と息を吐き出す。

「よう」

 男は、まるで肇と知り合いであるかのように言った。肇は、こんな男は見たことが無かった。

「お前さあ」

 言いながら、男は肇の隣に歩み寄った。

「あの二人を見て、自分と重ねていただろ」

 肇は、ドキリとした。男の仏頂面は、肇ではなく、ブランコで遊ぶ二人の少年を見ていた。

「だがな、あの二人とお前たちは違う」 

 男は、何もかもを知っているかのように、そう言う。肇は、地面に目を落としたまま、いや、地面を睨み付けたまま、男の声を、ただ聞いていた。

「あの二人は、兄弟なんだ。年子のな。お前たちとは、だから、違うだろ」

「おっしゃっている意味、理解しかねます」

 肇は言った。いつもの肇の喋り方とは違う、堅い口調である。不信感を露わにしているのだ。

「お前たちのバッテリー、さあ」

 男は、自分勝手に話を進める。肇の言葉をまるで聞いていない。

「あれは、すごく息が合っていたな。初めて見たときは、俺も驚いたんだ。正に、神童だと思ったね」

「俺たちは、生まれた時から生活を共にしてきました。息が合うのは当たり前です。そして、神童であるということも、正しい。俺たちの才能は、あの学校では持て余すほど、群を抜いていたんです」

 肇は、自分の瞳が黒く濁っていく様を、脳裏でぼんやりと眺めていた。今喋っている肇は、ここに“居る”肇とは、まるで別人だ。

 男は、煙草を口に運ぶ。

「俺たち、じゃないだろ」

 男は、肇の方に向き直って、口に溜まった煙を、態と肇にぶつかるように吐き出した。肇は、それでも表情を変えない。だが、対する男も、最初と同じ仏頂面のままである。こうしてみると、まるで人形たちの掛け合いのようだ。それではつまらない。男は肇を挑発するように言った。

「“俺”だろ」

 肇の眉毛が、ぴくり、と動いた。

 男は続ける。

「お前は、才能は、自分のほうにあるって、そう思っていた。あいつはおまけだった。違うか、坊や」

 少しの間をおいて、肇が答える。

「あなたの、質問の意図が全く読めません」

「……まあ、そうだな」

 男は肇から少しだけ離れた。

「今のは全部、単なる俺の興味に過ぎない。まあ、だからなんだ、忘れてくれて一向に構わねえ、寧ろそうしてくれ」

「俺は不快になったんですよ」

 肇の抗議の言葉に男は少しだけ笑ったようであった。

「そりゃあ、すまなかったね」

 男は煙草を左手に持ち替えた。

「本題は、これからだ。『よしみや』の御曹子さんよ」

「本題?」

 人形のような仏頂面の男は、口元を歪めて笑った。

「ああ。今のは、お前さんの気を引くための、まあ、前置きっていうか、作戦っていうかだね。だから、忘れてくれて一向に構わない。それに俺は“その件”に関わろうなんざ、全く思って居ねえ。お前が“違う”ってこと、そして“無関係”だっていうことも、ちゃんと理解ってるさ。それに、俺は自分と、そして“奴”を救うことにしか目がないんでね、お前まで救ってやる義理は無い。つまり、俺が知りたいことは、ただ一つ、一つしかねえってこった」

 男はずらずらと、まるで暗号のような言葉を吐いた。肇は顔をしかめる。この男は、一体どこまで、知っているのだ。

 肇は、仏頂面を初めて睨み付けた。

「それは、僕に聞けばわかることなんですか」

「まあ、それは分かんねえけど、聞いた方が良いだろうよ、と思ってな」

 男は、当たり前だとでも言うような顔をしてそう言う。肇は、男の黒い瞳の中に映る自分を見つけながら、そのくらいの至近距離で尋ねた。

「それは、なんですか」

 瞬間、風が音を立てて吹き荒れた。男が何かを言ったのだが、それは肇の耳には届かない。だが、口の動きを見て、肇は理解した。




 蟲男――――。




 目を覚ますと、見知った天上があった。ここは、しかし、夏芽の家では無い。

―――確か私は、蟲男に襲われて、それで、綺堂さんが……。

 はっとして、夏芽は飛び起きた。

「綺堂さんは!」

「夏芽さん」

 知った声がする。窓辺を見ると、上半身を包帯で巻かれた綺堂が、痛々しい姿で座っていた。

「綺堂さん!大丈夫なんですか!」

 綺堂は笑った。

「ははは、僕より先に夏芽さんの方が失神してしまったんだよ。人の心配をする前に、まず自分の心配をしなさい」

「す……すみません……」

 誰かが階段を上がってくる。目をやると、そこには意外な人物がいた。

「……あなたは!」

「おう、珍妙娘。起きたか」

 あの時、八千代トンネルでぶつかった、無精髭に茶色スーツの男だった。

「綺堂が糞やべえって時に、てめえまで寝ちまうから、二人担いで運ぶの大変だったぜ。ほんと、昨日は災難だった」

 男は煙草を取り出した。それを見て綺堂は、

「由宇奇、悪いがここは、全面禁煙だ」

「あ?助けてもらったのになんだその物言いは」

「助けてくれと頼んだ覚えはない」

 ちっ、と舌打ちすると、男は煙草をしまった。

「夏芽さん、紹介しよう。昨日、倒れた君と、深手を負った僕を背負ってここまで運んでくれた、ルポライターの由宇奇秋人だ」

「こいつとは、昔からの腐れ縁でよ。丁度家に来ててよかったぜ」

 由宇奇秋人……。聞いたことのある名前だった。夏芽は思考を巡らせる。そうだ、最近よくテレビに出ている、派手な発言をするルポライターだ。

「救ってやったんだから、ありがとうの一つくらいほしいもんだがな」

 夏芽は慌てて、

「あ、ありがとうございました」

と言った。

「由宇奇はね、ルポライターであり、あの『蟲男』の作者でもあるんだよ」

「え?じゃあこの人が」

「蟲男さ」

「嘘!やっぱりあのトンネルを抜けて追ってきたのね!」

「おい綺堂、紛らわしい言い方はやめろ。またこいつがぶっ倒れたらどうする」

 由宇奇は腕を組んで、夏芽の寝ていた布団から少し離れたところに胡坐をかいた。

「『蟲男』って小説は、俺がまだ若かった頃に、カルト雑誌に送った読み切り小説だ。文庫化されてたのは知らなかったけどな。それで、俺の死んだじじい……おじいさんが間蟲を司る妖怪。おじいさんは人間と結婚して糞じじい……親父を産んだ。俺はその子だから、間蟲男クオーターって感じだな。そんで、俺だけ間が取れて、蟲だけ残っちまった。因みに、今人間世界で起きている事件とは、何の関係もないから、安心しろ、お嬢ちゃん」

「な、夏芽です。夜崎、夏芽」

「夜崎?夜崎ってあの……」

「な、なにか……?」

「ん、いや、珍しい苗字だと思ってな」

 由宇奇は頭を掻いた。

 夏芽たちは今、綺堂の自宅の二階に居た。二階が、綺堂の自室に等しい。壁に沿って這うように並べられている本棚には、見るからに古い本が綺麗にぎっしりと詰まっていた。これらは全て、綺堂のお気に入りの本であるらしい。

 綺堂は、蟲男に襲われた夏芽を助ける際に、蟲男のナイフで腕と背中に傷を負った。蟲男事件の件で、たまたま居合わせた由宇奇が、夏芽をここまで運び、綺堂の手当てをしたのだった。

「かなり血が出ていたし、本当に大丈夫なんですか、綺堂さん」

「ああ。血はかなり出ていたが、そんなに深い傷では無いようだ。な、由宇奇」

「ああ。俺も心配して損したぜ。こいつ、家に着いた途端気を失ったふりをしやがったんだぜ。俺、マジでやべえと思って」

「精一杯の大声で僕を揺さぶり起してくれて、うれしかったよ、由宇奇」

「てめえ、いつか殺すからな」

 言葉は怖いけれど、この由宇奇という人、悪い人ではなさそうだ。夏芽は二人のやり取りを聞きながら、安堵した。

「あっしも吃驚(びっくり)しやしたぜい」

 いつの間に来ていたのか、辰之助が、階段の方から顔を出して言った。

「お二人が歩いてきた後ろにゃあ、血が点々と、続いていたんでさあ。夏芽姉さんと由宇奇兄さんが心配するのもわかりやすぜい」

「そうですよお……」

「人間、そのくらいでは死なないのさ」

 綺堂はにんまりと微笑んだ。夏芽はなんだか損をした気分になり、頬を膨らませる。綺堂という人間は、本当に性質の悪い奴であるのだ。

 しかし、同時に内心ほっとしていた。あの侭綺堂が死んでしまっていたら、いや、そんなことなど抑々(そもそも)なかったに違いないけれど、そういう結末に進まなくて本当によかった。

 突然、綺堂はいつもの堅い表情に戻った。

「ところで、夏芽さん。何故君は、襲われたんだい」

「何故って……暗い夜道だったから通り魔的に襲ったんじゃないですか?それに、公園で、私何か見つけたんです」

「では夏芽さん、君が調査をしていると、知っている人間は何人くらい居るかい」

「そうですねえ…………四人、くらいかな」

 もしかしたらたかねや宮本肇が言いふらしているかもしれないが、と思いながら、夏芽は言った。

「それは、誰だい」

「えっと、私の親友のたかねと、依頼主の宮本肇先輩、それからそのお父さんの吉造さん、あと、行方不明の土田和也先輩のお母さん、の四人です」

「宮本肇と唐沢たかねについては想定内―――というか、唐沢たかねはあんなことがあった後だというのに懲りないのか―――だが、何故宮本の父親や土田和也の母親が知っているということを断言できるんだい」

「だって、さっき、聞き込みに行きましたから。宮本先輩の家と、土田先輩のお母さんに」

「……成る程」

 綺堂は顎を拳に乗せて、考える人のポーズをした。

沈黙が流れる。夏芽は、もしかして出しゃばった真似をしてしまったかもしれない、と思い、綺堂の顔色を窺う。綺堂の腕と胸に巻かれた包帯には、血が滲んでいる様子はない。だが、こうやって見つめているうちに、じわじわと滲みてきてしまうのではないだろうかと、夏芽は、不安な気持ちに陥った。

「夏芽さん」

 突然、綺堂は言った。夏芽は背筋を伸ばす。

「君を襲うとしたら、その四人のうちの誰かだ」

「だ、誰かって……たかねは有り得ないし、他の人たちはみんな、どちらかといえば被害者ですよ。私を襲う理由なんてないです」

「理由はあるさ。もしその中の誰かが、蟲男事件、に深くかかわっている人間だとしたら、ね」

「え…………」

「あれが蟲男で、その蟲男が“本当に通り魔的に人をさらっている”として、あの時も君を“通り魔的にさらおう”としていたとしたら、第三者である僕が現れた時点で、すぐさま犯行を中断して逃げるだろう。蟲男事件の犯人で無かったとしても、単なる通り魔が、あそこまで執念深く僕たちを追いかけてくるなんてことはありない。少女ばかりを狙って犯行に及んでいる時点で、大人が介入したら怯んで―――犯行が明るみになるのを恐れて―――逃げ出す筈だ。それに、少女が消えた事件では、彼らが消息を絶ったであろう場所や見つかった所持品から、血痕らしきものは全く出ていないらしいじゃないか。拭き取られた後、つまり、ルミノール反応もない、と新聞に書かれていた。つまり、被害者たちは、無傷で監禁されている、若しくは血の出ない方法で殺害され遺棄された可能性が高いんだ。それであるのに、変ではないか、夏芽さんの場合だけ、あんなに殺意をむき出しにして、そして僕が現れたというのに、全く怯むこともなく、寧ろ、僕までもを殺そうと、あんなに追いかけてきた……。それは何故か。理由は一つだ」

 綺堂は考えるポーズをやめて、夏芽を見た。

「君はもしかして、自分で調査をしているというだけでなく、“僕が”調査に加わっているということも、言ったんじゃないかい」

「……あ」

 思い当たることはあった。夏芽は、宮本肇、吉造、そして土田和也の母親に、「優秀な探偵を雇って調査を進めている」と言ったのである。

「やはり、そうだね」

 綺堂は納得したように頷いた。

「“あれ”は、君が、一人で調査を進めている、と言っても、特に気には留めなかっただろう。まだ高校生の見るからに幼い君が、犯人にたどり着いてそして犯人を捕まえることが出来るなんて、普通の識人なら考えまい。だがそこで、僕が出てきたらどうだろう。知り合いのお兄さん、とかなんとかと言って僕を紹介すれば別だが、お人よしの君のことだ、被害者であろう彼らを安心させようと思って、優秀な探偵とか、刑事とか、そんなことを言ったんじゃないかい。他にも、昔いろいろな事件を解決に導いた人物とかね。そうなると、話は変わってくる。そんな危険な奴らに、これ以上捜査を進められては困る。だから“あれ”は、君を襲って、これ以上事件に関わらないようにさせようと思ったんだろう。蟲男に襲われて、怖い目にあったら、もう犯人を捕まえるどころか、蟲男なんて言葉も聞きたくなくなるだろうからね。ところが丁度よく、現場に僕が駆けつけてしまった。それで犯人は計画を変更して、“君が雇っている探偵かもしれない人物”である僕を、殺してしまおうと思ったんだ。それで、あんなにも必死になって、追いかけてきたんだよ」

「な、なるほど……」

「つまり、君を襲った犯人は、君が“優秀な探偵を雇って土田の行方を捜査している”と知っている、その四人の内の誰かだ」

「姉さん、大手柄でさあ」

 今までまるで存在を消したかのように黙っていた辰之助が、やっと発言のタイミングを見出して、嬉しそうに言った。

「姉さんのおかげで、犯人が四人に絞られたんでい」

「まだ居たのか、ぎょろ眼」

 綺堂はやはり辰之助を横目でちらりと見て、こぼすように言った。それから夏芽に向き直って、困った、というように眉を歪めた。

「終わりよければ総てよし、と言ってしまえばそれまでだが、しかしあそこに僕が現れなかったら、夏芽さんは本当に危険な目にあっていたんだ。聞き込みでもなんでも、そういうことで危険が生ずることもある。今度からは、自分一人の考えで行動するのは、謹んでもらいたいね」

「す、すみません……」

 夏芽は首をすくめた。夏芽の行動の所為で、自分は兎も角、綺堂は大怪我を負ったのだ。言われなくても、反省せずにはいられない。

 そんな夏芽を見て、辰之助がああ、と声を漏らした。

「旦那はこれだから、夏芽姉さんにも、そのご両親にも、認めていただけねえんですよ」

「そ、そうなのか」

 綺堂が驚愕の声を上げた。

「見て下せえ、夏芽姉さんがこんなに落ち込んだ顔になって」

「そうか、ああ、僕の悪い癖だ」

 綺堂が項垂れる。

「おい綺堂、こいつ、お前のイロなのか」

 由宇奇が小指を立てる。

「ち、違います!」

「え?違うのかい」

 夏芽は苦笑いを浮かべた。

「あ、えっと、それで」

 夏芽は、そう言えば自分は宮本肇から聞き込みをしたのだ、という事を思い出して言った。

「宮本先輩から聞いた情報で、気になることがあるんです」

「ああ、なんだい」

 綺堂は腕を組みざまに言った。

「土田先輩は、両親に十二時に帰るって言って家を出たそうなんです。でも帰らなかった。連絡もなかったようです。それで、十一時十二分に、土田先輩から宮本先輩へ、着信があったそうなんです。その後掛け直したけど土田先輩は出なくて……。つまり、もしかしたらその時すでに、蟲男に襲われていたのかもしれない。でも、おかしいんです。だって土田先輩が宮本先輩に”蟲男メール”をしたのは、六時過ぎなんですよ。七時間も公園に居たはずないじゃないですか」

「確かに。だが、他の場所に居たという可能性は無いのかい」

「いえ、それは分からないんですけど……。土田先輩と宮本先輩は、その日の十一時に、公園で会う約束をしていたらしいんです。でも、宮本先輩が突然、丁度その時間に“大事な用事”が出来て、行けなくなってしまって、土田先輩にもその事を伝えたそうです。宮本先輩は、土田先輩は『とても“人が良くて”“相手の事を第一に考えるような人”』だって言っていました。その土田先輩が、どうして宮本先輩が“大事な用事”があるって言った時間に、わざわざ電話をしたんでしょう」

「ということは、やはり十一時には捕まっていて、それで助けを求めて電話をしたという事だろうか」

「でも、それだったら、メールの時間差が意味不明なんです」

「犯人がメールを打ち込んだんじゃあないですかい」

「だとしたら、土田先輩を捕まえた直後にメールをすればいいじゃない」

 夏芽はううん、と唸った。綺堂も同様に、首を捻る。

「土田和也の身に、一体何が起きていたのだろうか……」

 その時、下の玄関から物音がした。戸を叩く音である。夏芽は一瞬びくりと肩を震わせるのだが、綺堂と辰之助は、予期していたかのように穏やかに反応した。

「お、来たか」

「来やしたねえ」

「ぎょろ眼、出迎えて来い」

「へーい」

「おい、誰だ、俺は聞いてねえぞ」

 由宇奇が顔をしかめる。

「お前に見知った奴だよ」

「この世界に見知った奴なんざ星の数ほどいるっての」

 辰之助が階段をどてどてと駆け降りる。夏芽は、きょとんとしたまま、先程まで辰之助が居た空間を見つめた。

 暫く下の物音に耳を澄ませる。

「あ、あの、誰が来たんですか」

「まあ、すぐにわかるさ」

 だだだだ、と階段を上ってきた辰之助に対し、その後に続く足音は、上品に階段を一段一段厳かに上ってくる。階段を上りきった辰之助は、そのまま綺堂の隣に胡坐(あぐら)をかいた。夏芽は少しだけ息を殺しながら、階段の方を見つめる。そこから顔を出したのは、いつかに見た、色白の顔の横に、長い黒髪を結って流している、赤い着物を身に着けた美しい女性であった。

「ゆ、優子さん!」

 呼ばれて、通称“人喰い女”の波奈(はな)野(の)雌(め)優子(ゆうこ)は微笑んだ。

「久しぶりだねえ、夏芽ちゃん」

「遅かったな、人喰い」

「だから、その呼び方やめないかい、坊や」

 人喰い女の優子は、他人から「人喰い女」と呼ばれることを嫌う。しかし、それを知っていて綺堂は、いつもそうやって呼ぶのである。

「そんで、その傷はなんだい。何かあったのかい」

「ああ、ちょっとね。人喰い女に食いつかれるよりはマシな怪我さ」

 優子ははあ、とため息を吐いた。

「夏芽ちゃん、もうこんなのとつるむのはお止しよ。綺堂の坊やは、頼みごとをしといて、あたしの名前さえ憶えちゃあいないんだ。心配してやっても、この扱いだよ。全く、性格の悪い男だよ、この子は」

 そんなことを言いながら、優子も決して綺堂を嫌っているわけではない。友情とは、そんなものだ。

「よう、優子」

 由宇奇が手を上げた。

「久しいな。元気か。まだあのまじいコーヒー飲んで引き籠ってんのか」

「おやまた、珍しい客人じゃないか」

 優子は驚いたように言った。

「秋人の坊やがこんな所に、何でいるんだい」

 それから肩をすくめて、

「性格の悪い二人が同時に同じ空間に居るなんて、道理で居心地が悪いわけだよ」

 綺堂は不服そうに扇子を叩いた。

「おい、人喰い女、僕は決して性格が悪いわけじゃない。どちらかと言えば、そりゃあいい方さ。そんなことより、お前の仕入れた情報を、早く聞かせてくれ」

「だからその呼び方……まあ、そう焦んないでおくれよ。順序立てて、ちゃんと説明するからさ」

 言いながら、優子はその場に膝をついた。

「それじゃあ、話すよ。まずね、何も知らない夏芽ちゃんにもわかるように、最初から言うけれど、あたしゃ、綺堂の坊やに頼まれて、今人間世界で起きている『連続失踪事件』について、そこら中の情報屋やら、座敷童やらに聞きこんでいたのさ。それで、色々とわかったんだけどね」

「何がわかったんでい」

 辰之助が茶々を入れる。

「だから、焦るんじゃないよ。わかったことは幾つかあるんだ、まとめて話せったって、無理だろう。……まず、一つ目。いつ失踪したかっていう事は、もちろん新聞にも書かれている通り、夕方時から夜までの間らしいけれど、報道では、場所については詳しく述べられていなかった。でも、子供たちが消えた場所には、ある、共通点があったんだよ」

「共通点、ですか」

「ああ、そうさ。必ず半径五キロメートル以内に、『よしみや』って名前の、レストランがあるんだよ」

「よ、『よしみや』ですか……」

 『よしみや』は、宮本吉造が経営する、飲食店である。『よしみや』は全国にチェーン店があり、県内にも沢山の店舗を有している。夏芽は、思わず息を呑んだ。先程の綺堂の推理が、脳裏を駆ける。

「二つ目、今度は、人間の共通点だよ。消えた子供たちは、みんな似た雰囲気の子ばかりなんだ。だから警察は、そういう趣味を持った男が犯人なんじゃないかとみて、捜査しているらしいんだよ」

「どういう特徴なんですか」

「写真を見た方が、わかりやすいんじゃあないかねえ」

 優子は、赤い着物の袖から、四角い紙きれを数枚取り出した。夏芽と辰之助、綺堂は、同時にそれを覗き込む。

「黒髪で、髪の毛の短いひとばっかり……」

「身長はそんなに高くはないよ。それで、目がくりっとしているのが、みんな似ているね。そう、夏芽ちゃんみたいな子、ばっかりなんだよ。これを見て、夏芽ちゃんが襲われないか心配になったよ」

「ルックスにも、共通点があるんですね」

 自分と似たような外見の学生ばかりが狙われていると知って、夏芽はぞっとした。今まで、テレビで何度も被害者の顔写真を見てきたが、そのように意識したことは一度としてなかった。決して、良い気分ではない。

「最後にね、今度は、その宮本家の御曹司の肇っていう子についてだよ。これは去年ある週刊誌が書き立てた記事で、関係者は皆、事実無根だって言っている事なんだけれどね、宮本肇には、腹違いの兄弟がいるらしいんだよ。まだ出世する前の『よしみや』の経営者、宮本吉造はかなりの浮気症でね、あるとき、人妻と浮気をして、よりによって妊娠させちまったんだ。女の方も、吉造も、吉造の子だってことには気付いたらしい。でも、人妻が子を流すなんて、おかしいじゃないか。それで、仕方なく、浮気を隠して、女は子を産んだんだよ」

「もしかして……」

 夏芽の脳裏には、何故か土田和也とあの母親が浮かんだ。しかし、次に人喰い女が言った言葉は、逆にそうではないという事を確信させた。

「そうなんだよ、その女のルックスが、背が低くて、黒髪の短髪だったらしいんだよ。目は大きくてね」

 土田和也の母親は、全く正反対の人物である。背は高くて、髪は長く綺麗に巻かれていた。夏芽は、ほっと胸をなでおろした。

「話には続きがあってね、これは、“本当に噂”なんだけれど、吉造は、そのスキャンダルのことで、相手の女から色々と脅されていたらしいんだよ。『よしみや』は今や全国にチェーン店を持つでっかい店だ、そんなことが知れたら、マスコミの恰好の餌食じゃあないかい」

 ちらりとルポライターの由宇奇を見る。由宇奇はそれに気付いて、

「俺あそんな記事書かねえよ」

と言った。

「成る程」

 暫く押し黙っていた綺堂が、やっと口を開いた。

「やはり、『よしみや』関係者に、“蟲男”は居る、ということだな」

「そうさ。ここだけの話、あたしゃあ社長の吉造が絶対に怪しいと思うんだ」

 優子が、声を少しだけ小さくして言った。

「よ、吉造さんが」

「だってね、吉造には、犯行の時間帯、アリバイがないんだよ。彼は、その時間帯に、いつも一人でドライブしているらしいんだ。帰ってくるのは夜の八時。それに、そういういざこざがあって、ストレスも溜まっていただろうよ。そこに、その忌まわしい女に似た少女が現れたら、どうだい。あたしだったら、ぶん殴りたくなるね。吉造の場合、さらっちまったのさ。それで、捜査を攪乱させるために、『蟲男を見た』って言うメールを、自分で携帯電話に入力する。何故蟲男にしたのかはわからないけれど。まあ、きっと、そのメールで惑わされたのは、一般の人間たちと、妖怪のあたしたちだけだっただろうけどね」

 綺堂は腕を組んで、ああ、と言った。

「確かに、吉造は怪しいな。だが、彼が蟲男であるかどうかは別として、だ」

「別としてって……今のあたしの推理、聞いてなかったのかい、坊や」

 優子が不服そうに言う。綺堂は首を振った。

「いや、ちゃんと聞いていたさ。そして、多分、お前の推理はある程度正しいだろう」

「なんだいそりゃあ。言っていることが矛盾しているよ」

「すべて正しい、と言ったんじゃない。ある程度、と言ったんだ。そして、これは僕の予想だが……夏芽さん」

 綺堂は突然夏芽の方を向いた。夏芽は自然と背筋が伸びる。

「もしかしたら被害者たちは皆、死んでいるかもしれないね」

 綺堂は、さらりと恐ろしいことを言った。

「綺堂さん!」

 夏芽は思わず強い口調になってしまう。

「そんな、だって、血の跡だって見つかってないんですよ。そんなわけないじゃないですか。そんな、そんな残酷な……」

 失踪した少女たちが正確に何人だったか、夏芽は把握していなかった。一人二人だったなら、夏芽でも覚えていただろう。だが、そうじゃない。大勢の中学生、高校生の幼い少女たちが、消えているのである。

 彼女たちが皆死んでしまっただなんて、夏芽には考えられなかった。

 だが、綺堂が夏芽を絶望の淵へ追いやるように、続けた。

「あくまで、僕の想像だと思って聞いてくれ。少女たちが消えた場所を誰かが知っていたのは、何故だかわかるかい。それはね、そこに少女たちのものと思われるバッグやらの所持品が綺麗に残っていたからなのだよ。だが、不自然じゃないか、少女たちは、バッグを持っていたんだ。普通、車やらを使ってさらうなら、バッグごと連れ込んだ方が頭がいい。何人も連れ去っているのだから、一人や二人そういうミスを犯してもいいだろうが、だが、何せ行方不明になった少女全員の荷物がそうやって見つかっているんだ、不自然すぎる。“誰かが置いた”としか、考えられない」

「つまり、どういうことなんだい、坊や」

 綺堂は夏芽の顔色の変化を見て、少しだけ間を置いた。

 それから、目を瞑って、

「他の場所で殺されて、あたかもそこで犯行が行われたかのように見せかけるために、犯人は彼女らの所持品を置いた。あくまで可能性の話だけれど」

と言った。

「そんな!」

 これは、陳腐なサスペンス劇場や人が死んでも平気な空想世界の推理小説なんかとはわけが違う。現実世界なのだ。大勢の少女が死んでいる、それをこんなにも冷静に、語れるだろうか。夏芽は少しだけ、綺堂を軽蔑した。

「すまない、勿論、生きている可能性だってある。違う場所に監禁されていて、それで監禁場所がばれないように、少女たちの荷物を持ち出し、それらから指紋をふき取って現場に置いたのかもしれない。そういう可能性も、十分あるんだ」

 可能性、という言葉は、あまりに曖昧で、説得力のない言葉であった。夏芽は項垂れた。綺堂は、本当に頭がいい。勘が外れたことは一度として無い。

 今回が、その第一回目になってしまえばいいのに。

「夏芽さん」

 綺堂が懐から扇子を取り出しながら、柔らかい口調で言った。

「今から一緒にもう一度宮本肇に会ってみよう」

「今から、ですか」

 夏芽は顔を上げた。それから、はっとした。自分は、“どのくらい寝ていたのだろうか”

「嬢ちゃん、あ、いや夏芽。残念だがな、日はとっくの昔に変わってて、もう向こうの世界じゃ昼ごろだぜ」

「え!嘘!私、親に連絡してないです!」

 夏芽は慌てた。

「捜索願とか、出されてたらどうしよう……」

「安心したまえ、夏芽さん」

 綺堂は言った。

「僕の方から、連絡しておいたよ。よかった、お母さんが出てくれてね。上手く誤魔化しておいたから、大丈夫だろう。まあ、お父さんはどうかわからないけれど」

「……そうですか。ありがとうございます」

 ひとまず、安心した。

「さて、支度でもしようか」

「綺堂」

 由宇奇が遮るように言った。

「肇は、犯人じゃないぜ」

「なんでそう思う?」

「朝、会って来た。あの公園に居たんだ。少しだが、話した。あいつじゃない。少なくとも、“少女たち”をさらったのは」

 なつめは、はっとした。被害者の中で唯一、土田和也だけ“男”である。

「俺は、宮本家には行かねえよ。顔も割れてるし、肇も嫌な顔をするだろう。それに、俺にはやらなきゃなんねえことがある」

「やらなきゃならないこと?」

「ああ。土田和也は生きている。“他の少女”たちとは違ってな。蟲男は“二人いるんだよ”」

 由宇奇は綺麗な、買ったばかりの様な冊子を差し出した。

「ここに書いてある小説、『蟲男』。俺の書いた奴じゃねえ」

「え?」

「『蟲男』の作者はもう一人いるってわけだ。まあ、読んでみろ」

 由宇奇は立ち上がった。

「俺は土田和也専門、てめえらは、“蟲男事件専門”ってことで。俺は、そろそろ、行くぜ。和也が待ってる」




*




 曇天の下、橙の提燈が至る所で輝いている。街を歩く妖怪たちは、皆、浴衣や甚平といった祭り独特の衣装を身に着けて、手には綿飴やら水ヨーヨーを持って歩いていた。人間世界はまだ寒いが、この世界は穏やかに生温い。雪も降らない。賑やかな雰囲気。都会のそれとはまた違う、耳触りの良い爽やかなざわめきだ。空が落ちてきたような暗闇の中で、ここだけはこんなにも賑やかで、光に満ちている。ああ、これが日本の祭りだ、夜だ。

 綺堂と夏芽は由宇奇と別れて、祭りで賑わう中央通りを歩いていた。これから、宮本肇の元へ向かう。 



五、


 晴れ晴れと澄んだ空の下、由宇奇は人気のない道を歩いていた。公園を過ぎる。暫く歩いたところで、由宇奇は立ち止まった。茶色のスラックスに手を突っ込んだまま、目の前の表札を覗き込む。

―――土田。

 目当ての家だ。由宇奇はインターホンを鳴らす。少しして、女性の声が聞こえてきた。

 玄関が開く。そこから顔を出した女性に、由宇奇は下手な愛想笑いを投げかけた。女性は眉を顰め、

「どちら様ですか」

と訝しげに尋ねる。男は、

「蟲男事件を個人的に調べている者です。週刊誌に記事にしたり、そんなことは一切しないから、安心してください」

と言った。しかし、その様な言葉で信用を得られる筈がなかった。しかも被害者の親族なのだから、余計に嫌だったのだろう。女性は「話すことはありません」と言ってドアを閉めようとした。

閉まりかけるドアに、由宇奇は自分の足を挟む。

「大丈夫、和也さんはきっと無事ですよ」

 女性は顔色を変えた。

「ど、どうしてそんな風に思うんですか」

「どうしてもです」

 女性は由宇奇を信じた様子ではなかったが、希望を取り戻したかのような目をした。由宇奇は、今度は本当に無愛想になって、頷いた。

「それで、二、三個、質問に答えていただきたいんですが」

 女性は無言のうちに了解した様子であった。

 由宇奇は、適当な質問を投げかけた。夏芽から色々と聞いていたから、殆ど知っていたが、女性の信用を得るためには、本当に捜査しているように見せかけなければならない。

 質問を終えると、由宇奇はすぐに、

「そうですか、ありがとうございました」

と言って頭を軽く下げた。余りにも少なすぎる質問に、女性は拍子抜けしてしまったようだ。先程までの威勢は全くない。呆けているかのように、ドアを開け広げたまま、去りゆく茶色の背広を暫く見つめていた。

 突然、由宇奇は立ち止まって振り返った。

「つかぬ事をお聞きしますが」

 話はまだ終わっていなかったらしい。

 風が吹いて行った。




 夏芽は公園のブランコに座って、宮本肇と吉造、そして肇の母親を待っていた。因みに、綺堂もまだ来ていない。

 昼過ぎに、屋台で手に入れた出目金の入った金魚鉢を持って、家に帰った夏芽は、母、春代と父、冬吉にこっ酷く叱られた。夏芽はソクラテスの如くそれを雑音に置き換えて聞き流すと、一言「ごめんなさい」と言って罵声の騒音を終わらせた。そして、再び穏やかな日常が夏芽に訪れたわけだが、そう長く家に留まることなく、公園へ出かけなければならなかった。親に叱られた手前、気まずかったが、やはり“綺堂”という単語を聞いて、何故か春代は「綺堂くんがいるなら平気よね」という調子だった。

 そうやって今に至る。それにしても遅い。まだ集合時間の午後三時前だから、宮本一家が来ていないのは理解ができる。しかし、綺堂がまだ来ないのはおかしい。宮本一家が綺堂よりも先に来てしまったら、夏芽は昨日会ったばかりという事もあって、しかも芳造が犯人かもしれない、という事で、緊張してうまく喋れないだろう。どういうつもりだろうか。兎に角、早く来てほしい。

 時間が近付き、宮本一家が来るのではないか、という頃になって、やっと綺堂は登場した。夏芽はブランコから飛び降り、綺堂に駆け寄った。

「もう、遅かったじゃないですかあ。来ないんじゃないかと思って心配したんですよ」

「僕は三時、と言ったら、三時ぴたりに到着するように、と決めているんだ。だから、決して時間を過ぎているようなことはない」

 綺堂の言葉のすぐ後に、三時を知らせる鐘が鳴り響いた。綺堂は微笑んで、

「ほらね」

と言う。几帳面な男だ。

 その時、さくさくという足音が聞こえてきた。夏芽は綺堂という壁から、向こう側を覗き込む。

 宮本肇と、父の吉造であった。母親らしき人物は居ない。

 吉造は穏やかな笑顔で会釈をした。それから綺堂を見て、少しだけ眉を上げた。思いのほか若い“探偵”に、驚いているのか。それとも、昨夜の事を思い出しているのか。父の表情で察したのか、肇が、

「こちらが、探偵さんかな」

と夏芽に尋ねた。

「は、はい。こちら、探偵の綺堂さん」

「綺堂です。今日はお忙しいところ、お集まりいただき有難う御座います」

「いえいえ、気にしていませんよ。和也君を探してくださっている探偵さんですから、出来る限り協力したい次第なんです。しかも、依頼人はうちの肇のようですから」

「よろしくお願いします」

 肇が頭を下げた。

「ところで」

 綺堂は少しだけ首を傾けた。

「一人、足りませんね」

「ああ、家内は急な用事が入ってしまって。家内には毎日県内の店舗を回って、売れ行きや客の調査をしてもらっているんです。それで、今日はどうしても外せないという事で、誠に申し訳ないんですが」

「そうですか。まあ、仕方ないでしょう。ではまず、僕の推理をお聞きください」

 綺堂はそうは言ったものの、多分、昨日優子が言ったことをそのまま代弁するに違いない。夏芽は半ば確信して、綺堂を見た。

 今日の綺堂は、昨日と同じように、袴をつけていた。紺色の着物に、黒い羽織の上着、足には黒い足袋、そして下駄を履いている。どれも非常に高級そうだ。黒くて短い髪は整えられていて、手には扇子を持っている。その姿はこの人間世界では異質で、もしかしたら先程の吉造の反応は、この姿に対するものだったのかもしれない。平成の世で、着物姿で街を歩くなど、京都か祭りでもなければ容認されない。単なる「コスプレ」だ。しかし、綺堂はそんな“派手な”格好を、平気でしていた。何故なら、異世界の人間だから、である。

「これは、僕の優秀な情報屋が仕入れた情報です。被害者の皆さんは未だ皆行方不明ですが、その持ち物であったと思われる、バッグやら何やらは、発見されているんだそうです。そして、その場所にはある共通点があります」

 綺堂は夏芽を見た。夏芽にも、活躍を分けてくれるということだろう。

「見つかる被害者の持ち物の近くに、半径五キロメートル以内に、レストラン『よしみや』があるんです」

「『よしみや』は県内ではかなりチェーン店を持っていますから、ただの偶然と言う可能性も捨てきることはできません。しかし、見つかった被害者の所持品からは、被害者の血痕はおろか、指紋すら出ませんでした。つまり、犯人は所持品を、態とそこに置いている、という事なんです」

 綺堂はワンテンポ置いて、

「そこで生ずる疑惑、それは、蟲男事件は、単なる通り魔的犯行ではないかもしれない、ということです」

と言った。

「どういう事だね」

 吉造が腕を組んだ。

「このことを聞いたとき、僕は思いました。もしかしたら、怨恨による犯行かもしれない、と。違う場所で誘拐した、あるいは殺害した被害者の所持品を、『よしみや』の近くに置き、恰も『よしみや』関係者に犯人が居るかのように見せかける――しかし、だとしたら、半径五キロメートルでは、遠すぎると思うんですよ。もっと、すぐ近くに置けばいい。そうすれば警察たちは、『よしみや』を、もっとしっかり調べるでしょう。五キロメートルは、狙ったにしては少し遠すぎます。そこで、僕は“逆”なんじゃあないかと思ったんです」

「逆、かい」

「ええ。犯人は外から『よしみや』に近づけようと思ったのではなく、『よしみや』から、疑いを遠ざけようと思ったんじゃあないか、そう思ったんですよ」

「……君は」

「話は最後までお聞きください」

 綺堂は柔らかく言った。しかし威圧感がある。

「もう一つ、僕の優秀な情報屋が調べました。それは、貴方の過去です、吉造さん。貴方の過去、そして、被害者のルックス。これには、何らかのつながりがあるのではないか、そう思ったんですよ」

「ひ、人の過去を調べるなんて、プライバシーの侵害じゃないか」

 吉造は声を荒らげた。

「いいえ」

 綺堂は静かに否定した。

「そういう行為は、捜査に関係すること、そして容疑者に対しては容認されるんですよ」

「容疑者、だって」

 肇が顔をしかめた。それから夏芽を見る。

「どういうことだよ、夏芽ちゃん」

「肇君、まだ話は終わっていないよ」

「でも」

「昨日」

 綺堂は肇の抗議を遮って、無理やりに話を続けた。

「昨日、夏芽さんが襲われてね」

 肇と吉造が静かになった。肇は目を見開いて夏芽を見る。

「夏芽さんを襲った人間は、夏芽さんを殺そうと、ナイフを持っていたんだ。そのナイフに、僕は傷つけられて、怪我をした」

 綺堂が着物の袖をさっと捲る。生々しい包帯が、露わとなった。

「何故、夏芽さんが襲われたのか。それは、夏芽さんが蟲男事件について、僕という“探偵”を雇って調査をしていたからだろう。だが、夏芽さんが蟲男事件の調査をしているなんてことを知っていて、尚且つ逃げる僕と夏芽さんに追いつくほどの速さで走ることのできる人物、それは、肇君、吉造さん、あなたたちしか居ない」

「つまり、何が言いたいんだね」

「犯人は……俺か父さんのどちらかだって、そういう事なんですか」

 綺堂は静かに頷いて、それから付け足すように、

「しかし」

と言った。

「しかし、夏芽さんを襲った犯人は、“蟲男事件”の犯人ではない」

「えっ」

 言ったのは夏芽であった。

「そ、そうなんですか?」

「ああ。昨日も言ったじゃないか、”彼が蟲男かどうかは別として”ってね」

「でも、根拠はあるんですか」

「勿論さ。夏芽さんが襲われた件と、他の蟲男事件では、余りに犯行における相違点が多い。蟲男事件の犯人は、計画的かつ冷静で、完璧に近い程の犯罪を行う事の出来る人物だ。しかし夏芽さんを襲った人物は、雑で幼稚、ついでに後先考えずに行動してしまう様な、不完全な人間。二つの事件の犯人は、明らかに違う人物なんだよ」

「そうか……確かに、警察が未だ被害者の居場所すらわかっていないような完全犯罪に近い蟲男事件の犯人が、あんな風に雑に、捕まったり証拠が残ったりするリスクを負いながらも私を追いかけてくるなんて、考えてみれば有り得ないですね」

 夏芽はううん、と唸った。

「それで、吉造さん」

 綺堂は吉造を見た。

「右腕を見せてもらえませんか」

「何を言うんだ、いきなり」

 吉造はもはや、昨日からの優しい表情など少しも浮かべていなかった。阿修羅のような形相で―――完全に怒っている。

 しかし綺堂も容赦なかった。

「昨日夏芽さんを襲った犯人は、右腕が異常に爛れていた。アトピーか何かでしょう。それを確認したいだけです。安心なさい。貴方が昨日夏芽さんを襲った犯人で無いならば、その腕に“皮膚の爛れ”は無い筈ですから」

 夏芽が“蟲”と間違えた、あの爛れである。

 吉造は、眉を微妙にぴくぴくと動かしながら、無言のうちにそれを拒んでいるように思えた。

「父さん、見せなよ。そんなの、無いって。潔白を証明してやれよ」

 肇が言う。しかし、吉造は額に冷や汗を浮かべながら、ただ黙っていた。

「なあ、父さん」

「そうですか、見せられませんか」

 綺堂は、冷ややかな目で吉造を見つめた。

「では、言いましょう、推理の続きを」

 きっと綺堂は、吉造の過去を暴露するつもりなのだ。しかし、それは強硬手段だ。そんなことを言ったら、少なくとも、肇は傷つく。だが、今更、綺堂を止めることはできない。

 綺堂は、悪魔のような顔をしているように見えた。

 沈黙が流れた。

 一秒一秒が重く感じる。

 それから、吉造はゆっくりと口を開いた。

「…………私だ」

「父さん、何を」

「私が、“蟲男”だ」

 吉造はそう言うと、右腕の袖をゆっくりと捲り始めた。

 最初に見えたのは、白い、模様のようなものであった。だが、袖が捲れていくうちに、それは悍ましい姿を露わにした。

――蟲だ――

 くらり、と眩暈がして、夏芽はよろけた。それを綺堂がさり気無く支える。

「夏芽さん、よく見賜え」

 しかし、もう一度吉造の腕に目をやると、其れは単に、本当に重度の肌の爛れ、いや“異形”であった。

「先天性のものです」

 吉造は重々しく言った。それを聞いて、肇は一歩、吉造から遠ざかった。

「父さん…………まさか」

「……すまない、肇」

 吉造は、肇を見ないまま言った。

「で、でも」

 肇は声を張り上げた。

「でも、夏芽ちゃんを襲ったのが父さんだったとしても、だとしたら父さんは、”蟲男”じゃないんだろ」

「いや」

 否定したのは吉造であった。

「私だ」

「う、嘘だ」

「私が、全てやったんだ。夏芽さんを襲ったのも、少女たちをさらったのも、全て」

 綺堂が眉を顰めたのが分かった。

「あなたが――――?」

「綺堂さん、君の推理は、私が蟲男事件の犯人で無い、と言った以外、全て完璧でしたよ。確かにその通りだ。私は、犯行拠点を『よしみや』にしていた。だが、そこで人を襲ったことがばれると、そりゃあ、よろしくないでしょう。犯人がすぐに割り出されてしまう。だから私は、所持品を運んだんです」

「五キロメートルと、微妙な距離にしたのは、どうしてです」

「それは、時間がなかったからです。私は、八時に家に帰るのを習慣にしていた。だが、ドライブの時間に犯行を行っていましたからね、そんなに遠くに運んでいる暇が、ありませんでした」

「う、嘘だろ、父さん……」

 肇は、狼狽えていた。

「なあ、嘘だろ……」

 吉造は、今度は何も答えなかった。

 肇は、拳を握って、震えていた。

「なあ、どうしてだよ……どうして、そんなことを」

「すまない……」

 吉造は言ってから、綺堂に向き直った。

「自首、します」

「ええ、是非そうしてください。それが、肇君のためにもなります」

 夏芽は、何も言えないまま、ただ茫然とその光景を見ていた。肇は、ずっと下を向いていて、そして吉造も、肇の方を決して見なかった。

「夏芽さんを襲い、君に怪我をさせたこと、本当に申し訳なかった。ですが、綺堂さん。最後に、一言、聞いていただきたい」

 吉造が、綺堂に背を向け、歩き出そうという姿勢をしながら言った。




「私には、守らなければならないものがあったんだ」




 守らなければならないもの?

 それは、一体何なんだ。

 自分の威信か。

 それとも――――。






 夕闇は、すぐに訪れた。吉造が去った後も、肇は全く動かないで、その場で棒のように立ち尽くしていた。

「宮本先輩」

 夏芽は声をかけるが、どう続ければいいかわからない。

「……夏芽ちゃん」

 かすれるような声だった。少し、泣いているようだ。

「俺……つらいよ。俺の親友を襲ったのが、父さんだったなんて。そして、その父さんを、俺自身が、告発してしまっただなんて……」

 夏芽は何も言えなかった。ただ、なんとなく、その背中を摩った。

「俺、酷い奴だよな。父さんを」

「違いますよ、宮本先輩は、正しいです。あなたはお父さんを、犯罪から救ったんだもの。そして、土田先輩を」

―――土田和也は生きている。

 脳内に、由宇奇の声が響いた。

「私、土田先輩は生きていると思うんです」

「どうして?父さんは、殺したと、言ったのに」

「私の、信頼できるルポライターさんが言っていたんです、蟲男は二人いるって。そして、土田和也は生きているって」

「じゃあ、どうして……どうして見つからないんだ……」




 宮本を家まで送った後、夏芽は綺堂と再び公園まで歩いた。その間、綺堂はずっと、何か考え事をしているように、腕を組んで黙りこくっていた。

 駅が見えてきたとき、綺堂は突然「夏芽さん」と言った。

「この事件、まだ終わってはいない」

「え。だって、今、犯人が明らかになったじゃないですか。土田先輩については、由宇奇さんが探ってくれているし……」

「いや、彼は、吉造氏は、何かを隠している」

 そうだっただろうか。悪人に情を向けるべきでないが、彼が自供した時、苦しそうだったが嘘を吐いているようには見えなかった。

「人間って、何するかわからない、怖い生き物ですけど、最後の吉造さんは、自分の罪を認めて、悔い改めようとしていました。だから、私……吉造さんが嘘を吐いているようには思えません」

「確かに、彼は罪を犯している。しかし、“殺してはいない”」

 静かな公園に、綺堂の声が響いた。




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