夕餉(後編)
五、
華やかな祭りは今日も開催されていた。曇天の下、妖怪たちは楽しそうに、街を練り歩いていた。
「あ、御嬢さん」
昨日“三十分妖怪になれる飴”を夏芽に売ろうとした妖怪が声をかけた。
「今日も来たのかい。もうすっかり、こっちの世界に馴染んだみたいだね」
「あ、はい。おかげさまで」
「今日はね、獅子舞が通る日なんだよ。人間世界の獅子舞の十倍の大きささ。きっと楽しんでもらえると思うよ」
十倍の大きさ、を想像することができないまま、夏芽は妖怪に礼を言った。
「妖怪になりたかったらいつでもおいで。御嬢さんかわいいから、まけてあげるよ」
そんな日はきっと、いや、絶対来ない。夏芽は思った。
突然、誰かに手を掴まれた。振り向くが、誰も居ない。手にはまだ、捕まれている感触がある。夏芽は恐る恐る自分の手に目を落とす。そこには、夏芽の手を掴む“手”があった。
―――手だけで動いてる!
“手”は、夏芽を“見て”、「あ、人違いだ」とでも言うように去っていった。夏芽はふう、と安堵の息をついた。
中央通りを進む。妖怪たちにもまれながら、中央通りを左に曲がる。暫く行くと、妙に物静かな路地があって、そこだけ屋台が出ていない。ここが、綺堂壱紀の家である。
「夏芽姉さん」
聞き覚えのある声に振り向くと、辰之助が立っていた。
「待ってましたぜい、今日も来てくれたんですねい」
「うん。だって、早く事件、解決してほしいから」
言ってから、
「辰之助くん、綺堂さんの家の中で待ってればいいのに」
辰之助は肩をすくめた。
「旦那あ、あっし一人じゃあ家にゃ入れてくれないんでさあ。なげえ付き合いだってのに、ひでえ話でさあ」
夏芽は玄関のドアを叩く。
「綺堂さん、夏芽です」
「ああ、夏芽さん」
声が上から降ってきた。やはり、綺堂は二階にいたようだ。綺堂は本を右手に持ちながら、夏芽を見下ろすと、
「待っていたよ。夏芽さん。さあ、遠慮なく上がって来たまえ」
と言った。
「へい!」
辰之助は勢いよく返事をすると、夏芽より先に玄関の戸を開け、ドタドタと中へ入っていった。
「五月蝿い!」
と綺堂が言うのが聞こえる。夏芽は微笑しながら、靴をそろえて家に上がった。階段は、古い木でできているようで、足を乗せる度にメシメシと音を立てた。壊してしまわないように、夏芽はゆっくり階段を上った。
階段を上りきると、そこにはぎっしりと本棚が並んでいた。窓際に綺堂がいて、その周りに無数の古本が積み重ねられている。綺堂は夏芽を見ると、
「そんなところに立っていないで、いいよ、好きな所に座り賜え」
と言った。好きな所、と言っても、余りにもスペースが無くて―――本が密集し過ぎていて―――ろくに座れそうなところがない。夏芽は仕方なく、目の前に在る本の山を、崩さないようにそうっとずらして、正座した。
「ぎょろ眼、茶」
「へい!旦那!」
辰之助はさっき上ってきたばかりの階段を再び下って行った。辰之助がいなくなると、部屋は一気にしんと静まり返った。
「あの、綺堂さん」
静寂を遮るように、夏芽は切り出した。
「何か、分かりましたか?」
「ああ。奇妙な文献を発見した」
綺堂は非常に古い、分厚い本を取り出した。本、というより、紙を束ねてひもで閉じてあるだけの簡素な造り、しかし立派な表紙、読めない字。相当古い文献のようだ。
「この部分を見たまえ」
綺堂は蚯蚓文字の羅列を指さした。
「いや……あの……綺堂さん、読めないです」
「読めない?夏芽さんは高校生だろう?古文をやらないのかい」
「いや、勿論、古文はやりますけど、こういう、なんていうか、象形文字?みたいな文字は勉強しません」
「象形文字じゃないくずし字だ」
綺堂は溜息をついた。
「全く、最近は教育がなっていない。古語を読めてこそ、初めて当時の状況や文献の美を掌握することが出来るというのに。先人の知恵あってこその今だ。現代社会の教育を一から見直す必要があるようだね」
「あ、あの……兎に角、読めないので、読んでもらってもいいですか?」
項垂れる綺堂に夏芽は言った。綺堂は夏芽を見、姿勢を正すと、読み始めた。
「シビトクライ、ノバカニテ、アラハル。ヨノキコヘ、シンジツナレバ、ゲニ、オソロシキカナ。シビトクライ、シビトクライシトコロ、ミシモノ、シビトクラワザレバ、ナラヌ、トキク。ウツロハヌウチ、コレニカキトメオク」
古文の授業、ちゃんと受けておけばよかった、と夏芽は頭を押さえた。さっぱり意味が解らない。夏芽の様子を察したのか、綺堂は言った。
「『死人喰らいが墓場で出た。噂が本当なら、本当に恐ろしい。死人喰らいが死人を喰らっているところを見たものは、死人を喰らわなければいけない、と聞いている。心変わりしない内に、ここに書き留めておく』と書いてある」
「つまり、死人喰らい、人喰い女を見た人間は、人を食べなきゃなんねえってことですかい?旦那あ」
いつの間にか隣にいた辰之助が言った。
「でも、そんなこと言ったら、私だって人食べなきゃいけないことに」
夏芽は慌てた。綺堂が一喝する。
「ぎょろ眼、お前は馬鹿か。ここにはな、『死人喰らいを見たら、死人を食べたくなってしまうから、そうなる前に、正常なうちにここに書いておこう』と書いてあるんだ。それに、『ハカバニテアラハル』の時点で、『墓場で食人していたところ』を、この作者は見たのだろう。『噂で言っていることが本当ならば』、とね。人喰い女は暫く、何百年も人を食っていない。だから、その所為で人間が人を食べているという事はまず否定される」
「えっと、つまり?」
「“人を食べているところ”を見ていない夏芽さんは大丈夫だよ」
綺堂は笑顔を浮かべた。夏芽はほっと胸をなでおろした。
書物に目を落とすと、刺し絵が描かれていた。髪の長い女が、死者にむさぼりついている絵である。
「これ、人喰い女さんですかね」
美しい優子からは想像できない絵だった。
「まあ、この人間は想像で描いているからな。おどろおどろしく描いているのだろう」
「想像?」
「ああ。まあ、女である点と気色が悪い点は同じだ」
綺堂は懐から扇子を取り出した。綺堂は口悪くそう言うが、夏芽は優子程の美人は見たことが無かった。
「もしあの女が、死人を喰らっていて、それを人間が見てしまったとしたら、そいつが犯人の可能性がある。まあ、この書にも“噂だ”と書かれているから何処まで真実かは未知数だが、人喰い女が人を喰らっているところを見てしまうと、その人間も死人を喰らうようになるようだ。だが、人喰い女は数百年もの長い間、人を食っていないと言い張っていた。あの時の女の様子は、どうもおかしくてね、調べて正解だった。あの時その話を、人喰い女の方から持ち出したのは、僕に、この故事を探させるためだったんだよ」
「でも、優子さんが人を食べてない以上、“人を食べる人間”ができるはずないですよね?」
「そうさ」
「じゃあ、綺堂さんは、優子さんが嘘を吐いている、そう思っているんですか?」
「いや、そうは思わない。そうだったらあの女は、わざわざ僕にこんな話はしなかっただろう。それに、“人喰い女はお人よし”だ。嘘を吐くことが出来ない。でも、自分からはどうしても言い出せない用件だった。だから、“言ってはいけない単語”を除いて、僕にこの故事を探させるよう仕向けたのさ」
「でも、優子さんが人を食べてないなら、どうして綺堂さんは、優子さんが人間世界の事件と関わっているって思っているんですか?」
綺堂は腕を組んだ。
「それは、夏芽さん、君が初めてこの街に迷い込んだあの日に関係している」
「あの日?ああ、お偉い方たちが来た日ですね」
「ああ。僕は君を人間世界に返すのに必死で、見逃していたんだが、どうやらあの日、君以外にもこの世界に迷い込んでいた人間が“やはり”居たらしい」
「やはり?やはりって、綺堂さん、気付いてたんですか?」
「ああ、臭いがね、二つしたんだよ。どちらにせよ人喰い女の方からしたから向かったんだが、そこで君を見つけてね。僕はとりあえず、君を人間世界に送り戻すことを優先した。そして公園まで走った後、もう一度臭いを確認してみたんだが……そうしたら、消えていたんだよ。あんなにもはっきりと、二つの違う匂いがしていたのに、消えていたんだ。だから僕は、上手く帰ったのだと思っていた。いや、思い込もうとしていた。嫌な予感という奴はね、的中する。きっとあの日この世界に迷い込んだもう一人の人間も“人喰い女”に会っていたんだよ」
「じゃあ、それで、優子さんが脅かそうと、人を食べる真似をしたとか」
「あり得る」
綺堂は言った。
「人間というものはね、非常に恐ろしい存在だ。この世で最もと言っていい。何故なら、人間は巨大な“脳味噌”を持っている。巨大な脳味噌は、あらゆるものを作り出し、あらゆるものを壊す、恐ろしい兵器だ。もし人喰い女が意図せずその人間の脳味噌に隠れていた潜在意識“人を食べたい”というものを呼び起こしてしまったのだとしたら、勿論、人喰い女は妖怪だから、悪意などないだろうが、その人間は“人を食べる”ことに興味を持ったり、美を感じたりしてしまったかもしれない。そうして、脳味噌はその人間を“壊す側”に仕立て上げた。人を殺して喰らう魔物に、ね。人間は脳味噌の十パーセントしか使っていない。普段はね。しかし感化された脳味噌は開花し、普段は発揮しない能力や、恐ろしい思想を生み出すことがある。使われていない十一パーセント目が現れた時、人間は幻覚や妄想に取りつかれるんだ。“人は美味い”“人を食べろ”十一パーセント目が人間にそう命じた時、その人間は、自らの脳味噌であるにもかかわらず、その指令に背くことが出来ない」
「人喰い女さんに出会ってしまった所為で、人間の方が壊れちゃったってことですか?」
「壊れた、という解釈は芳しくない。寧ろ“本人にとって”は、“開花”したんだよ」
綺堂は、辰之助が運んできた麦茶をずずっと啜った。
「その人間はきっと、ずっと“人を食べたかったんだろう”」
人間が人間を食べるなんて、狂っている。夏芽は血の気が引いて行って、意識が遠くなるような気がした。綺堂は倒れそうになる夏芽を支える。
「大丈夫かい、夏芽さん」
「す、すみません」
夏芽は冷や汗を拭いながら、
「余りにも衝撃的な話だったので……」
「僕も、こんな奇話は初めてだよ。まあ、あくまでも僕の推測だけどね」
綺堂は扇子で仰いだ。
「それから、更に興味深い文献を発見したんだよ」
綺堂は今度は緑色の、同じような古書を取り出した。ぺらぺらとページを捲る。
「確かこの辺に……あった。“シビトクライ、ミシトキ、アオキホノオ、アガリテ、ワレヲ、タスケン”この本は、人喰い女を実際に目撃した人物が書き留めたもののようだ。“死人喰らいを見た時、青い炎が上がって、私を助けた”と書いてある」
「青い炎?」
「何があったかはわからないが、確かに、人喰い女の家に“青”は無い。屋根は赤、カーペットも、赤だっただろう?」
優子の豪邸を思い出す。確かに、庭に咲いていた花たちも、赤いものだらけだったような気がする。
「人喰い女は“赤”が好きだ。血の色だからね。だがそれに反した色、青が苦手な節がある」
「じゃあ、犯人も、青が苦手なんですかね?」
「その可能性もあるし、その反対の可能性もある」
「反対の可能性?どうしてですか?」
「君は、人を食べることが良いことだと思うかい?」
「え?」
夏芽は思わず聞き返した。
「いいわけないじゃないですか。道徳に、人道に反したことです」
「犯人も、そう思っている可能性がある、そうは思わないかい?」
「でも、三人も殺してるんですよ?」
「三人、とわかっているということは、死体が上がっているということだ。死体の損壊状況は、君から聞いた通りだと“歯形が付いている”とわかっているくらいだから、少なくとも人喰い女のように、首以外全てを食べたりはしていないだろう。つまり、犯人は犯行を行ってから、間もなく逃げている」
夏芽はたかねの言葉を思い出した。
「そう言えば、私の親友、犯人が逃げた後、被害者の女の子を抱き寄せたらしいんですけど、まだ生きてたって言ってました」
「ああ、やはりそうか。犯人は、衝動的に人を食べて、そして正気に戻り、人を食べた自分に恐怖し、嫌悪し、それで逃げているんだ」
「捕まりたくないからとかじゃないんですか?」
「勿論、それもあるだろう。犯人はね、僕が推理するに」
「罪悪感を持って犯行を行っている……」
「……その通りだ夏芽さん」
綺堂は言った。夏芽は、綺堂の言葉を遮ってしまったことに気付いて、慌てて、
「いや、さっき、テレビ見てたら、変な格好のルポライターさんが出てて、その人がそんなことを言ってたんです」
と言った。
「ルポライター?」
「犯罪心理の専門とか」
綺堂は拳に顎を乗せて、考えるポーズをとった。
「ううん、まあ、いい。そいつの事は置いておいて、まあ、そういう事だ。犯人は罪悪感を持ってそれと戦っているはずだ。だから、もう少しすれば、自首するだろう。この事件、放っておいても解決するよ」
「そ、それはそうですけど……」
警察も本格的に動いている。事件現場周辺に包囲網が敷かれ、目撃情報も多数出ているという事だ。
「そう簡単に、行くかなあ」
夏芽は呟いた。
「だって、三人も被害者が出てるってことは、三人も被害者が出るまで犯人を捕まえられなかったってことですよね。まだ、犯行は続くかもしれない……」
「それよりも、犯行がおさまって、犯人が捕まらない方が、僕は怖いね」
「それも怖いですけど、何でですか?」
「人肉の味は、一度食べたら忘れられないというからね」
白い顔が不気味に笑った。夏芽は背筋を凍らせる。少し間を開けて、綺堂は笑った。
「冗談だよ、夏芽さん。犯人は捕まる。そして、僕の推理通りなら、犯人は“青色”の何かを身に着けている人物だ」
「青色?だって、青色は人喰い女の苦手な色なんでしょ?」
「だからさ。自分の犯行を抑えるために、青色の何かを、常に身に着けている人物、それが犯人だ」
夏芽は思考を巡らせた。
「まあ、君の知り合いに、犯人がいないことを願おう」
綺堂は言った。それから立ち上がると、
「人喰い女は、“またいつでも来い”と言っていたな。行って、確かめてみようか」
「そうですね!それが一番手っ取り早い気がします」
夏芽も立ち上がった。
「あっしぁ旦那の行くとこにゃ何処でもついていきやすぜい」
辰之助も立ち上がる。綺堂は辰之助を見下ろすと、
「いや、お前はいい。邪魔だ」
「そんなあ、旦那あ、ひどいですぜい」
辰之助は綺堂の着物の袖を掴んで揺さぶった。
二人のやり取りを見て、夏芽は思わず笑ってしまった。なんだかんだ、この二人は仲がいいのだ。たかねの事を思い出す。たかねと夏芽も、こんな風に見えているのだろうか。
綺堂の家を出て、三人はまた賑わう街並みを歩いていた。綺堂はやはり気分悪そうに、終始扇子で口元を覆っていた。
「あと二八九日。祭りが続くと思うと、吐き気がする」
「ちゃんと数えてるんですね」
「当たり前だよ。早く終わってほしいからね」
「終わってほしいなんて、まるで夏休みを待っている小学生みたいですね」
夏芽は苦笑した。
「あ、綺堂さん、質問があるんですけど」
「なんだい?」
「座敷童って、向こうの世界とこっちの世界、行き来して生活してるんですか?さっき、親友の家で、こっちで見た座敷童とそっくりの座敷童を見たんです」
「夏芽さん、考えてもみたまえ」
綺堂は眉を寄せた。
「世界中に家は何件あると思う?その何件かに、座敷童が住んでいる、とされている。一人の座敷童が、全部の家を行き来できるわけがないだろう?」
「えっ、じゃあ、座敷童っていっぱいいるんですか」
「そうだなあ、数百、いや、数千……数えきれないなあ」
夏芽は想像した。無数の座敷童が同じ顔で笑っている。ぞっと背筋を悪寒が走るのが分かった。
突然、綺堂は咳込んだ。
「ところで、夏芽さん、君は、高校生だから勿論、独身だね?」
「え?あ、はい、そりゃ勿論」
「想い人は……」
綺堂には珍しく小さな声だった。思わず聞き返すと、綺堂はもう一度咳をして、
「想い人は、居たりするのかな?」
「想い人!」
夏芽は言ってから赤面した。想い人って、今日はそんな話ばかりだ。先程も、たかねの家で、しかも隣にいる綺堂の話をしてきたばかりだというのに。
「いません、いません。いるわけないです。あー今日は一段と暑いなあ」
「夏芽姉さん、この世界は、天気はいつも一緒なんですぜい、一段と暑い筈が」
「あ、歩いたからかな」
夏芽は笑って誤魔化した。綺堂の事が好きな訳では無い。勿論、そんな筈はない。
夏芽の返答を聞くと、綺堂は満足げに笑った。
「そうか、それはよかった」
「はい」
言ってから、
「よかったって?」
「夏芽さん、人喰い女の家に着いたよ」
気付くと、あの豪邸の前にいた。夏芽ははぐらかされたような気がして、心がもやっとしたまま、赤い屋根を見上げた。
「悪臭にも、慣れたようだね」
綺堂は微笑んだ。確かに、今回は優子の家に入る路地での生臭さを感じなかった。原因は分かっている。
―――綺堂さんが、変なことを言うから……。
綺堂は昨日と同じように、優子の家のドアを強くたたいた。
「おい、人喰い、今日も来たぞ」
「あいよ、待ってたよ」
綺堂が一歩引くのと同時にドアが開いた。
「坊や、人喰いっての、やめておくれって、何度言えば分るんだい」
「入るぞ」
「人の話を聞かんかい」
綺堂は優子を押しのけて、家の中へ入っていった。優子は夏芽を見ると、
「夏芽ちゃん、こんな男とは、絶対に結婚しちゃだめだよ。まず礼儀がなってないからね」
「あ、あの、いえ、はい」
夏芽はお辞儀をしながら、赤面を隠した。
「辰之助も夏芽ちゃんも、お入り。今日はね、夏芽ちゃんの要望通り、とっておきのハーブティを用意したんだよ」
優子は笑顔で言った。
「ありがとうございます!楽しみです」
夏芽はお礼を言いながら、招き入れられるまま家に入る。辰之助もそれに続く。
やはり、いつみても―――昨日初めて見たのだが―――豪邸だ。そして綺堂の言った通り“赤”が多い。
優子は暫くキッチンの方で鼻歌を歌いながら、ハーブティを入れているようだった。夏芽は小声で、
「辰之助くんの好きな味だと良いね」
「へい。姉さんのお蔭でさあ。何とお礼を言っていいやら」
辰之助はテーブルに頭を付けた。
「お礼なんていいよ。私も、ハーブティ、楽しみなんだ」
キッチンの方から優子が歩いて来る。着物の擦れる音がなんとも風流だ。
「ローズヒップティだよ」
赤い色の紅茶だった。
「あ、私、これ、大好きなんです」
夏芽は配られたティーカップを見て頬を緩めた。優子が笑う。
「それはよかった。夏芽ちゃんが気に入ってくれたんなら、あたしも嬉しいよ」
辰之助は、少し戸惑いながら、ティーカップを口に運んだ。それから顔を輝かせて、
「甘酸っぱくて美味しいでさあ」
と言った。
「辰之助も気に入ってくれたかい。よかった」
「人喰い」
綺堂は突然口を挟んだ。
「紅茶まで赤いとはな」
楽しい会話を邪魔されて、優子は不満げに言った。
「そりゃ、あたしゃ、人喰い女。血の色が好きな妖怪さ。着物も赤、家の屋根も、カーペットも赤。紅茶も赤で何が悪いのさ」
「お前、青は苦手か?」
「苦手ってわけじゃないけど、そんなに好きじゃあないね」
優子は紅茶を口に運んだ。
「あたしのローズヒップティに、何か不満かい?」
「いや、僕が不満なのは、お前が夏芽さんとぎょろ眼の為に、わざわざ苦手な外にまで出向いて屋台で手に入れた、この特別なローズヒップティじゃない。お前が隠してる、“あの日”の“もう一人の来客”の事だよ」
「隠してる?隠してるつもりはなかったよ。ただ、聞かれなかったから言わなかったのさ。聞かれたらなんでもこたえるよ。あたしゃ、お人よしなんだから」
「じゃあ聞こう」
綺堂は鋭い眼光で優子を捉えた。優子はティーカップを持つ手を止める。一瞬の静寂が訪れた。夏芽はごくりと息を呑んだ。
「あの日、何があった」
優子は表情を変えないまま、ティーカップをテーブルに置いた。
「綺堂の坊やが夏芽ちゃんを連れ去った後、あたしの元に、もう一人“来客”が来た」
「来客?ということは、知り合いか」
「ああ。以前、一度会った事があってね。だから、怖がらせるのは諦めて、この家に招き入れたのさ」
「そうか、だからあの日、突然人間の臭いが消えたのか」
優子は頷いた。
「その子と初めて会ったのは、十年くらい前だったか。夏芽ちゃんみたいにね、突然、街に現れたんだよ。妖怪を怖がるような子じゃなくてね。寧ろ、妖怪に会えた、と喜んでいた。一週間くらい、こっちの世界にいたよ。お祭りを堪能して、それで、決まってあたしの家に泊まった。あたしが誘ったんじゃないよ。あっちから来たのさ。なんとなく、ここが良い匂いがするからって。迷惑な話さ」
辰之助が紅茶を啜る音が広い家内に響く。
「一週間すると、そろそろ親や、友達が心配するころだろうから帰るって言ってね。妖怪みんな、寂しがったさ。珍しい人間だったし、妖怪の事を怖がらないのも、妖怪としては、“ウケた”んだろうね。そいで、出て行くその日、その子はね、あたしに手紙を残してくれた。“またいつか、あなたに会えたら、私は幸せです”ってね」
優子は懐から封筒を取り出した。白かったであろう封筒は、長い年月をかけて薄茶色に色褪せていた。机の上にそれを置く。
「あの子がもう一度、ここに来てくれた時、あたしゃすごくうれしくてね。あの頃とは別人のように大人っぽくなっていて。人間って、こんな短期間で、こんなに変わるものなんだね。感動したよ。暫く、話した。他愛もないことばかりさ。人間世界はどうだ、とか、妖怪世界の祭りが久々に見れてうれしい、とか。あの子はね、夏芽ちゃんと違って、自分から妖怪の世界に入ることが出来ないんだよ。大抵の人間はそうだけどね、きっと夏芽ちゃんは特異体質なんだろうね。あの子は、この世界が大好きだった。どうしても帰らなければいけない、と言って帰ってしまったけれど、もし夏芽ちゃんのように、自由にこちらの世界と向こうの世界を行き来できる人間がいると知ったら、さぞうらやましがるだろうね」
それから、すっと、肩を落とした。
「あの子が、犯人、なのかい」
「その可能性が高い」
綺堂は間髪入れずに言った。
「だとしたら、あたしの所為だね」
「いや、それは違う」
珍しく、優子を擁護した。
「お前はただ、その人間と会って、楽しく会話をしただけだ。何百年も前に人喰いをやめたお前に、人間に人喰いをさせる妖力が残っているとは思えない。現に、夏芽さんも正常だ。異常なのは、犯罪を犯した、“そいつ”だ。お前が気にすることじゃない」
「でも……」
言いかけて、優子は口を閉じた。
「優子さんは、悪くないですよ。私、優子さん、いい人だって知ってます。それに、綺堂さんの言う妖力?ってやつ、感じないし。あ、これって失礼に値したらすみません。でも、やっぱり優子さんは悪くないと思います」
夏芽は言った。
「だって、優子さん、ただでさえ外に出るのが苦手なのに、私と辰之助くんの為に、このハーブティ、買ってきてくれたんですよね?こんないい人に出会って、人を食べてみたいなんて、思いません、普通」
「そうだ。異常なのは、人間の方だ。人喰い、お前が気にすることじゃない」
綺堂は扇子を開いた。
「先人が言った。“世の奇妙は人である。世の異常は人である。”と」
妖怪は、人間に手を出すことが出来ない。影響を及ぼすことはできたとしても、優子の場合はその人間と、会話をしただけだ。脅かしたわけでは無い。つまり、影響が及ぼされたのならば、その人間がそれを“望んだ”からだ。人を食べることを、人喰い女になることを、自ら望んだのだ。
「あたしゃ、存在自体がまちがいだったのかねえ」
優子は遠くを見るように言った。
「人を不幸にして、人生を狂わせて。それが嫌でこの世界に来たのに、あたしゃまた、繰り返すのかねえ」
「繰り返させないさ、人喰い」
綺堂は言った。
「そのための、僕だ」
「どういうことですか?」
夏芽が問う。
「僕は、人間と妖怪の間の子。半妖半人。君のようにこの世界と向こうの世界を自在に行き来することが出来るうえ、向こうの世界で妖力を使うことが出来る、数少ない存在だ」
「え?妖力って、綺堂さん、何が出来るんですか?」
「それは秘密だ」
あっけなく言う。
「そのうち分かる。そんなことより」
綺堂は人喰い女が机に置いた、色褪せた手紙を手に取った。
「この事件、僕が解決する。それが人喰い、お前の為だ」
「ああ」
優子は寂しそうな顔をした。
「頼んだよ、坊や」
*
優子の家を出た後、夏芽は三人で並んで歩きながら、優子の切なげな表情を思い出した。きっと、余程思い入れのある人物なのだ。その人物が、人間世界で、もしかしたら自分の所為で犯罪を犯しているかもしれない。優しい優子は、今頃途方に暮れている事だろう。それを思うと、夏芽は悲しくなった。勿論、佐々木麻奈を含め、三人の犠牲者を出したこの事件の犯人を許すことは出来ない。しかし、犯人を逮捕したところで、死刑は確実だ。優子の思いは届かない。誰も幸せになれない。
「夏芽さん」
不意に、綺堂が言った。
「君に危害が及ばないように、忠告しておく。青色のものを身に着け、そして帰宅したら、家から決して出てはいけない。わかったね?犯人は、今日、僕が捕まえる。必ず。約束する。だから、僕とのこの約束、必ず守ってくれ」
夏芽は頷く。
「分かりました。私、綺堂さんの事、信じてますから」
綺堂は笑った。
「ありがとう。僕は早速、事件解決の為に、自宅で準備を進める。君は、自分で家に帰れるね?」
「はい。もう、道は覚えました」
「よかった。それじゃあ、くれぐれも気をつけて。そして、決して、特にブルーのものを身に着けている人間には近づいちゃあいけないよ。決してだ」
「分かりました」
「夏芽姉さん、綺堂の旦那あ、やるって決めたらとことんやるお方でさあ。安心していてくだせえ」
辰之助が笑う。
「うん。ありがとう」
二人と別れて、賑わう祭り街道を歩く。優子が言っていた“あの子”も、この騒がしい雰囲気を好んでいた。夏芽はその気持ちがわかる気がした。この世界は、“向こう”には無い安らぎがある。嘘偽りのない、外見や思想への偏見がない、美しい世界。
ふと、目の前を獅子舞が通っていった。人間世界の獅子舞とはだいぶ違う。スケールもそうだが、透き通っていて、空中を舞うように街を練っている。綺麗な光景だった。心が癒されていく。
―――綺堂さんと二人で見たかったなあ。
夏芽は顔を赤らめた。そんなこと、思ってしまうなんて。
その時、夏芽の肩に衝撃が走った。
「おっと、すまねえ」
ぶつかってきたのは、顔の右半分を包帯で覆った、髪の長い男だった。赤、紫、黄色の派手な着物を、胸が見えるまで肌蹴させて、良く言えば色っぽく、悪く言えばだらしなく着こなしていた。
「あ、いえ、こちらこそ。獅子舞が素敵すぎて、見入ってしまって」
そこまで言うと、男は、夏芽の顔を興味深そうに、探るような目で見た。
「あんた、どっかで会った事あるっけ?」
「いえ……ないと思いますけど」
こんなに派手な男、一度会ったら忘れるはずがない。
男は暫く夏芽をじろじろ見た後、ふと言った。
「青い、髪飾り」
「え?」
夏芽は聞き返す。すると男は微笑を洩らして、
「青い、髪飾り」
ともう一度言った。それから、夏芽の肩に手を置くと、
「んじゃ、失礼するよ、“お嬢ちゃん”」
と言って去っていった。
「青い、髪飾り?」
夏芽は首を傾げた。何の事だろう。青い髪飾りが似合うよ、とか、そういう意味だろうか。
いや……。
ふと、夏芽の脳裏に閃光が走った。
「青い、髪飾り……」
まさか……。
夏芽は振り返ったが、男はもう居なかった。夏芽は立ち止まったまま、ここ一週間を回想する。
「青い、髪飾り……」
たかねは毎日、青い髪飾りを付けていた。喋る時にそれを触るのが、たかねの癖だった。
あの日、初めて夏芽がこの世界に迷い込んだ日、真っ先にたかねは夏芽を見つけた。奇妙な話である。八千代トンネルは、通学路から少し離れた路地にあるのだ。
人喰い女を見た、と言った夏芽に、“妖怪なんている筈ない”と言ったくせに、今日、たかねは夏芽に座敷童の話をした。
そして彼女は、佐々木麻奈の第一発見者だ。
「うそ……」
夏芽の脳内で、全てが繋がった気がした。そもそも、佐々木麻奈をたかねが見つけられるはずがない。何故ならば、彼女が発見されたのはたかねの通学路と反対側の、旭町。たかねが通る筈がないのだ。
「うそ……うそよ……」
脳内で、たかねの笑顔が崩れていく。
『妖怪の事を怖がらないのも、妖怪としては、“ウケた”んだろうね。』
自宅に座敷童がいるのだから、怖がるはずがない。
『あの頃とは別人のように大人っぽくなっていて。人間って、こんな短期間で、こんなに変わるものなんだね。感動したよ。』
人間、十年も経てば見た目も変わる。特にたかねが十年前に迷い込んだのだとしたら、その時はまだ六歳か七歳の、幼女の筈だ。
『先人が言った。“世の奇妙は人である。世の異常は人である。”と』
たかねがやったのだとしたら……。
『僕は、人間と妖怪の間の子。半妖半人。君のようにこの世界と向こうの世界を自在に行き来することが出来るうえ、向こうの世界で妖力を使うことが出来る、数少ない存在だ』
綺堂さん、たかねを襲撃するつもりだ!
夏芽は駆け出した。妖怪たちにぶつかるたび、文句の声が聞こえる。しかし、そんなことにかまっていられない。たかねが犯人だというならば、それならば親友である夏芽が、止めてやらなければならない。
たかねの笑顔が脳裏で歪む。
―――やめて!歪めないで!
『ありがとう、夏芽』
水面に滴が落ちたように、たかねの顔が消えて行く。電波を失ったラジオのように、たかねの声が遠のいていく。
夏芽はいつの間にか八千代トンネルを駆け抜けていた。太陽がまぶしい。こちらの世界の時間は、一分たりとも進んでいないようだ。
夏芽は携帯電話を取り出した。このまま放っておいたら、たかねは。
きっと、まだ、間に合う。
呼び出し音が鳴って、たかねが出た。
『どうしたの?今の今じゃん』
「たかね、私、犯人分かったの」
『え……?本当?』
「今すぐ、学校来れる?」
たかねは少し沈黙してから、
『わかった』
と言った。
『でも、その代わり、今日あげたブローチ、絶対つけてきて』
「なんで?」
『友情の証でしょ』
たかねが電話の向こうで微笑んだのが分かった。夏芽は電話を切ると、そのまま学校へ向かった。たかねからもらったブローチは、勿論胸につけていた。
―――だって、友情の証だもん。
夏芽は歩きながら、こぼれる涙を抑えきれなかった。
*
家に着いた綺堂は、早速守り刀の短刀を腰に差すと、優子から拝借した手紙を開いた。綺麗な文字である。差出人の名前も、しっかり記されている。これだけで、証拠は十分だ。あとは本人の良心に任せるだけである。
その時、額をはじかれたような、嫌な妖気を感じた。以前、感じたことのある妖気である。綺堂は額を押さえた。
「旦那?どうしたんでさあ?」
辰之助が心配そうに尋ねる。
―――気の所為か?
綺堂の脳裏に、ある情景が映った。投げつけられる無数の石、少年を守ろうと、必死に庇う少女……。
この事件とは関係ないだろう。しかし、引っ掛かる、引っ掛かる。
夏芽の泣き顔が脳裏を過った。
―――夏芽さんに、何かあったのか?
嫌な映像を払拭するように、綺堂は頭を掻いた。夏芽が心配である。彼女は、何かを守るために自分を犠牲にしてしまう節がある。今回の件で、それが良くわかった。
「ぎょろ眼、行ってくる」
「へ?もう行くんでい?」
「ああ。なんだか嫌な予感がする」
当たらなければ良いのだが。
綺堂は早足で家を発った。急がなければならない。
六、
見慣れた景色、見慣れた窓、見慣れた机、見慣れた黒板。母も通ったこの高校に、夏芽は愛情さえ抱いていた。街の丘の上に位置するこの場所から眺める景色は、まさに絶景である。趣のある街並みや、駅の向こう側の林檎並木。さらに向こうの、頂点がまだ白い山々まで、この地域すべてを一望できる。
夏芽は窓に手を当てて、深く息を吸った。これから起こる、いや、自ら起こす出来事は、きっと今まであった、そしてこれからあるだろう、どんな出来事よりも、辛いに違いない。
教室のドアが静かに開くのがわかる。しかし夏芽は、それに気付かないふりをして、窓の外を見続けた。最後くらい、いつものように、笑顔でたかねと会いたい。夏芽は唇を噛んで、涙で晴れた目をなんとか乾かそうと、何度も瞬きをしていた。
「わっ」
後ろから、たかねの手が夏芽の肩をがっしりと掴む。夏芽は態と大げさに驚いてみせた。たかねが笑う。
「夏芽ったら、大げさすぎ!」
暫く、二人の笑い声が、静かな教室に響き続けた。平日だというのに、学校からは二人の声しかしない。かの恐ろしい殺人事件が、この場所から生徒たちを奪ったことは明確だった。
「ねえ、たかね」
夏芽は静かに言った。
「何よ、夏芽、顔が怖いよ」
「私、犯人、分かったの」
夏芽はもう一度、諭すように言った。
「犯人、分かっちゃったの」
たかねは、夏芽の目を見ると、悲しそうに微笑んだ。
「そっか、分かっちゃったか」
たかねはブルーの髪飾りに触れながら、窓ガラスにもたれ掛かった。
「私、嘘、下手だったかな」
「ううん、上手だったよ」
夏芽は下を向いた。
「私が、綺堂さんに会わなかったら、きっと、気付かなかった」
「その綺堂さんって人が、夏芽の言ってた好きな人?」
「す、好きとかそういうんじゃないよ、ていうか」
少し間を置いて、
「今は、そういう話じゃないでしょ」
「そうだね」
たかねは微笑した。
「何処から、気付いてた?いつ、わかったの?」
「分かったのは、今日。ほんの、さっき」
「なんで、分かっちゃった?」
「その、ブルーの髪飾り」
「え?これ?」
たかねは驚いた声で言った。夏芽は続ける。
「“シビトクライ、ミシトキ、アオキホノオ、アガリテ、ワレヲ、タスケン”人喰い女はね、青が苦手なの。何でかってそれは、大好きな血の色と反対の色だから。“人喰い惨殺通り魔事件”の犯人はね、罪悪感を持って犯行に及んでる。だから、麻奈ちゃんを襲った時、逃げなかったんだよね、たかね。青色が、自分の犯行を防いでくれるって、そう思って、その髪飾り、つけてたんだね。でも、もう手遅れだった。たかねの心は、真赤に蝕まれてたんだ」
「夏芽、何言ってんの」
たかねは暗い声で言った。
「あたし、やってないよ」
「たかね、そう思いたいのは分かるけど」
「違うの、夏芽、本当にやってないの」
たかねは夏芽の目を見た。
「もしかして夏芽、勘違いして、それで私をここに?だとしたら、やばいよ、どうしよう、逃げなきゃ」
たかねは突然慌てだした。
「たかね、違うって、どういう事?たかね、もしかして、犯人、知ってるんじゃ……」
ガタン。
突然、教室のドアが音を立てて開いた。夏芽とたかねは同時に目を向ける。立っていたのは、担任の平沢利夫だった。
「利やん……」
「なんだ、先生か、脅かさないでくださいよ」
平沢利夫は目を細めた。
「君たち、今日は学校は休みだよ。物騒な事件が起きている最中なんだから、こんな危ない所に来ちゃダメだろ」
「利やん!」
たかねが夏芽の前に出た。
「今すぐ、今すぐ帰るから、ね、何でもないから、利やん、ほら、これ」
たかねは首元のエメラルドを持ち上げてみせた。
「落ち着いて?利やん」
「たかね、退きなさい。先生の言いつけを守れない生徒には、罰則を与えないといけないんだ」
平沢利夫の右手がきらりと光った。大きな裁ちばさみが握られていた。
「たかね、もしかして、犯人って……」
*
「おう、旦那あ、今日も包帯が一段と色っぽいねえ」
タバコ屋の親父が言う。
「うっせえ、じじい。それよりいつものちょーだい」
「へい、葉巻」
「ありがとねえ」
「そういや、噂で聞いたけどよ、あっちの世界じゃ、物騒な事件が起きてんだって?なんだって言ったっけか」
「ああ、バラバラにして人喰う事件だね」
「人が人喰うなんて、気色悪い話だねえ」
「俺ら妖怪に言えたこっちゃねえや」
「そりゃそうだけど、俺たちゃ、妖怪同士で食い合いはしないさ」
「確かにねえ」
「妖怪世界も、人間世界も、平和が一番だ」
派手な着物で長髪、右顔面に包帯を巻いた男は、ふう、と葉巻をふかした。
「いや、残念だが俺あ退屈が一番嫌いでねえ」
「退屈?」
「今日一粒種を蒔いてきちまったよ」
くくくく、と不気味に笑う。
「既に三人、食われたらしいけど」
もう一度葉巻をふかすと、愉快そうに言った。
「今日、もう一人、死ぬよ」
*
久々の人間世界は、明るすぎて性に合わない。綺堂は目を細めた。自動車の走行音、繁華街のざわめき。妖怪世界の祭りと然程変わりがない。人間世界に住むのも悪くないと思った時期もあったが、こんなに空気が悪く、明るく、しかも五月蝿い世界では、三日と持たず死んでしまうだろう、と綺堂は思った。
道を進もうとすると、隣にいた老人が、慌てて綺堂を止めた。
「お兄さん、信号が赤ですよ」
そうか、この世界には信号機というものがあるのだった。
「すまない、感謝する」
危うく命を失うところだった。綺堂は老人に礼を言うと、老人はにっこりと笑って、
「この信号、なかなか青にならんので有名なんです。通学する高校生たちはね、この信号を渡れるか渡れないかで、遅刻するかしないかが決まるんですよ。まあ、今は、そんな高校生たちも家に籠ってしまって、老人しかいない寂しい街になってしまいました。あんな、恐ろしい事件が起きるもんだから。怖いですな、世の中、何があるかわかりません」
老人が言い終えたところで、信号が“青”になった。それを見て、綺堂ははっとした。自分は、なんという単純な“ミス”を犯していたのだろうか。ずっと頭に引っ掛かっていたのは、このことだったのか。夏芽の安否が妙に心配だったのは、この所為だったのだ。
綺堂は駆け出した。夏芽はきっと、あそこにいる。そして今、恐ろしい事態に陥っているに違いない……。
―――間に合ってくれ。
綺堂は願った。
*
「利やん!目を覚まして!」
たかねが叫ぶ。
「夏芽にだけは、手を出さないで!」
「たかね、もしかして、人喰い事件の犯人って……」
たかねは震えながら小さく頷いた。
「利やんなの。人を殺して、食べるのは、でも、病気の所為なの。利やんは病気なの。だから悪くないの。でも!」
たかねは両手を広げた。
「夏芽にだけは、絶対に手を出させない!親友だもの、分かって、利やん」
「たかね、愛しているよ。でもだめだ、悪い生徒には罰を下さなければならない。それに今、とってもお腹が空いているんだ。たかね、退いておくれ、僕に、その美味しそうな餌を、おくれ」
「夏芽逃げて!」
たかねは夏芽の背を押して、廊下へ突き出した。
「た、たかね……」
恐怖と驚愕のあまり、夏芽は逃げ出せない。
「バカ!早く!走って!」
言われて夏芽は駆け出した。後ろから、平沢利夫の重低音が聞こえる。
―――そんな……!先生だったなんて!
夏芽は廊下の突き当たりまで走ると、階段を駆け上がった。それから目の前の科学室を開けて、何処か隠れられる場所は無いか、と探した。目についたのは掃除ロッカーだった。
―――あそこだ!
夏芽はロッカーに入り込むと、扉を閉めた。足音が近づいてくる。階段を上がって、廊下を進んで行くようだ。
「人はあ、どこだあ……」
平沢利夫の声がする。いつもの優しい“先生”の声では無い。妖怪だ。“人喰い女”だ。
「臭いがする……人の、臭いがする……」
教室のドアが開いたのが分かった。夏芽は身を凍らせた。
―――人の臭いがわかるの!
夏芽はできるだけ息が漏れないように、鼻と口を手で覆った。息をひそめる。妖怪の気配が遠のいていく。
―――見つけた―――
ガタン。
ロッカーの扉を破って、夏芽の目の前に、裁ちばさみの刃が突き立てられていた。夏芽は恐怖で声も出ない。ゆっくりとロッカーが開く。平沢利夫が立っていた。じゅるり、と舌なめずりをする。
「ああ、良い臭いだ。若い女は格段に美味い。今日は邪魔が入らない。ゆっくりと完食できそうだ」
「せ……先生……」
のどが詰まったように声が出ない。平沢利夫は裁ちばさみを夏芽に向けて振り上げた。夏芽は目を閉じる。おわりだ……。
その時、
「夏芽!」
たかねの声がして、それからがさり、と音がした。恐る恐る目を開ける。夏芽の足元で、たかねが血まみれで横たわっていた。
「たかね!」
「たかね!」
夏芽が叫ぶのとほぼ同時に、平沢利夫が叫んだ。
「ああ、たかね、たかね、許しておくれ」
たかねの腹部に、裁ちばさみが突き刺さっていた。平沢利夫はたかねを大事そうに抱きかかえると、何度も名前を呼んで、揺さぶった。
「たかね!すまない、すまなかった、目を、目を開けてくれ……」
たかねは目を開かない。腹部から、血が溢れだす。
「ああ、どうしよう、血が止まらない……」
平沢利夫は焦った様子で、両手に顔を埋めた。
「たかねが、死んでしまう……私の所為で……いや……」
平沢利夫は振り返ると、瞳孔の開いた目で夏芽を見た。
「全部、お前の所為だ!」
たかねの腹部から裁ちばさみを抜くと、平沢利夫は再び夏芽に向かって襲いかかってきた。夏芽は避けながら、早くこの状況を打破して、救急車を呼ばなければいけない、と思った。
「先生、目を覚まして!」
「五月蝿い。私は最初から目を覚ましている。寧ろ今日は冴えている方だ」
「先生は、たかねを刺したんですよ」
「違う!お前の所為だ!」
「人の所為にしないで!ちゃんと現実を見て!先生はたかねを……愛してるんでしょ?たかねを見なさいよ!血があんなに出てる!先生が刺したんだよ!」
「五月蝿い五月蝿い!だまれだまれ!」
「早く救急車呼ばないと、たかね、死んじゃうよ!愛する人が死んでもいいの?ねえ、平沢先生!」
そう言った直後、夏芽は椅子に躓いて転んでしまった。しめた、というように、平沢利夫が迫る。
「追いかけっこは、終わりにしよう、夜崎さん」
冷たい声だ。夏芽は死を覚悟しながら、言った。
「先生、優子さんに会ったんだね?波奈野目優子、通称、人喰い女。優子さん、先生の事、覚えてたよ」
「……」
平沢利夫は動きを止めた。
「先生がこんなことをしてしまっているのは、自分の所為だって、責めてたよ」
静かな空気が、辺りに広がる。
「優子さんはね、確かにとても魅力的な人。先生が魅了されるのも、わかるし、先生も、魅力的な人、だから優子さん、先生のこと忘れずに、ずっと待ってたんだと思うよ。でもね、今は違うでしょ?たかねがいるでしょ?こっちの世界に、守るべきものが出来たでしょ?だから、先生、目を覚まして」
悪魔の目から涙がこぼれた。
「もう、遅い」
平沢利夫は、裁ちばさみを大きく振り上げた。
「もう遅いんだ―――――――――!」
夏芽は目を閉じた。しかし、いつまでたっても衝撃は襲ってこない。夏芽は恐る恐る目を開ける。目の前には、紺の着物に黒髪。綺堂壱紀が立っていた。
「綺堂さん!」
涙がこぼれた。もうだめかと思った。生きている。夏芽は震える自分を抱きしめた。
「待たせたね、夏芽さん。怖い思いをさせてすまなかった」
「邪魔をするな」
平沢利夫は再び腕に力をこめようとする。しかし、綺堂の力で止められて、一寸たりとも動かない。よく見ると、綺堂の左腕から青色の光が放たれていた。綺堂の言っていた“妖力”とは、このことだったのか。
「僕の“大切な夏芽さん”に傷を負わせようとするとは、君もなかなか頭がおかしいらしい。教師というのはみんなそうなのかな?挙句、自分の恋人にまで傷を負わせて、全く、情けない男だ、平沢利夫」
「だまれだまれだまれ!」
平沢利夫が怒鳴った。
「お前に、僕の何がわかる!」
「分かるさ、全て見える。君が恋人の唐沢たかねにプレゼントした、あの首飾り、エメラルドという宝石がはめられているね。何故エメラルドなのか。それは、たかねくんの前で正気を失ってしまった時に、元に戻る為だ。僕はね、“シビトクライ、ミシトキ、アオキホノオ、アガリテ、ワレヲ、タスケン”のアオを、ブルーの事だと勘違いしていた。夏芽さんもきっとそうだ。だから唐沢たかねを、この学校に呼んだのだろう。だが、日本人は昔、緑の事を“アオ”と呼んでいたんだ。人喰い女から、人を救う色、それはブルーでは無く、緑だったのだよ」
平沢利夫の歯ぎしりが聞こえる。
「本当は、止めたかったのだろう。だから君は、恋人に、エメラルドをプレゼントした」
綺堂の身体から緑色の光が発された。閃光の如く、グリーンの光が強く瞬く。
「君は、人間だ」
石はわずかに光を放った。
「帰ってこい、平沢利夫」
からん。
裁ちばさみが落下する音が教室に響いた。それから少し遅れて、平沢はその場に崩れ落ちた。弱弱しい、ただの人間がそこに居た。
「……先生……」
平沢は両手で顔を覆った。
「すまない、すまない……本当は……本当はやめたかった。やめたくてやめたくて、でもそれでも、知らない内に身体が動いていたんだ。どうしようもなかった。どうすることもできなかった……」
平沢の嗚咽が響いた。綺堂はそれを、先程とは違った冷ややかな目で見降ろしていた。
「言えばいい、いつまでも、すまないと、言いつづけるがいい。泣けばいい、いつまでも、泣き続ければいい。それで死人が帰ってくるというのならば、それでお前の恋人の傷が癒えるというのなら、お前を待ち続け、思い続けた優子の心が癒えるというのなら、いつまでも、そうして泣いていろ。お前は過ちを犯したんだ。もう二度と、取り返しのつかない過ちを」
平沢利夫は、人間に戻った。
綺堂は振り返ると、立ち上がれないでいる夏芽に手を差し伸べた。
「さあ、夏芽さんの親友を救わないとね」
その後、平沢利夫はそのまま、殺人未遂罪で現行犯逮捕された。たかねはすぐさま病院に搬送され、どうやら傷も浅く、幸い大したことは無いようだった。心に負った、闇のように深い傷に比べれば。
*
佐々木麻奈が殺害された日、たかねはバスに乗って、そのまま帰宅することはしなかった。たかねは隣町、旭町に住む恋人、平沢利夫に会いに行く予定であったからだ。
たかねと平沢利夫が付き合い始めて、丁度一年目である今日を祝おうと、二人は以前から会う約束をしていた。
教師と生徒の禁じられた愛。色物語のように聞こえるが、二人の愛は、愛というよりも恋、純恋だった。
待ち合わせ場所は、旭町の中央公園。去年の夏、二人で人目を凌ぎながら、ブランコに揺られて遊んだのを思い出す。たかねに無理やりブランコを押されて笑う平沢利夫は、まるで子供の様だった。
三時を知らせる鐘が鳴ったころだろうか、たかねは時計を見て、それにしても平沢利夫の到着が遅いことに疑問を感じた。メールはしながらだが、遅れる、遅れる、と彼是一時間は待っている。物騒な事件が起きている最中であるし、ただでさえ心配性の平沢利夫が、こんな時間までたかねを待たせるなんて不思議だ。単純な脳味噌しか持たないたかねでさえも、違和感を覚えずにはいられなかった。
その時、けたたましい悲鳴にたかねは振り向いた。思わず身を固める。ただ事では無い、異常を知らせる悲鳴だった。
まるで、断末魔の叫びの様な。
たかねは辺りを見回し、悲鳴の発生源を探した。しかし、悲鳴は常軌を逸していたにもかかわらず、一度しか上がらなかった。もがくような音も、叫びまわるような音も聞こえない。
―――なんだろう……嫌な予感。
“人喰い惨殺通り魔事件”が頭をよぎる。今から思い返してみれば、事件現場は二回とも、この付近である……。
たかねは恐怖に怯えた。
―――利やん、早く来て!
ぐちゃり、ぐちゃり……。
背後で、不気味な音がするのが聞こえた。たかねは再び、身を固める。動くことが出来ない。冷や汗が滝のように流れ落ちる。たかねは恐怖に耐えながら、ゆっくりと振り向いた。花壇の物陰に、誰かいる。あの後ろ姿は……。
「利やん?」
近づいて、平沢利夫だと確信した。緑色の背広、幅狭の肩。
「利やんだ」
どうしたの、と言おうとして、たかねは立ち止まり口に手を当てた。平沢利夫は、とある女生徒に縋って泣いているようだった。顔に見覚えがあった。二組の、佐々木麻奈だ。
―――麻奈ちゃん!
「まさか、麻奈ちゃん!やばいじゃん!警察に、警察に連絡しなきゃ……」
平沢利夫が振り向いた。その顔を見て、たかねは言葉を失った。
平沢利夫の口元は、血で真っ赤に染まっていた。
泣いているのだと思ったのだ。通り魔に襲われた女生徒を助けようとして、女生徒に縋っているのだと思ったのだ。違った。平沢利夫は再び、まだうめき声を上げている女生徒に向き直ると、首元にくらいついて肉を引きちぎった。佐々木麻奈は痙攣していた。白目をむいている。たかねは恐怖に、ただ立ちすくむことしかできなかった。
暫くの間、誰も居ない公園に、平沢利夫の咀嚼音が響いていた。
ぐちゃり、ぐちゃり……。
不意に嗚咽がこみあげてくる。たかねは我慢できず、その場で吐いた。同時に、堪えきれずに涙があふれ出た。悪魔と化した平沢利夫を見ている事しかできない自分が、辛くて仕方がなかった。
「……っこれは!」
突然、平沢利夫は正気を取り戻したかのように、飛びのいた。まだ痙攣を続ける佐々木麻奈。平沢利夫は、動転していた。
「どうしよう、僕はまた、人を食べてしまったのか……!」
「……利やん、もしかして、無意識に、食べてたの?」
平沢利夫はたかねを見た。顔中血まみれだった。目からは滝のように涙が流れていた。
「僕は……僕は……」
愛する人が、泣いている。たかねはしゃがみこみ、平沢利夫を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫よ、利やんは、悪くないからね」
「僕は……悪魔なんだ……悪魔だ……」
「違うよ。利やんは、人間だよ。もうこんなことしないよね。たかねが見ててあげる。だから、もう大丈夫」
たかねは自分でも驚くくらいに冷静だった。スクールバッグからハンカチを取り出すと、
「ほら、口拭いて、誰にも見られないように、逃げて。あとは、私が何とかするから」
「……たかね」
「いいから、早く!誰か来る前に、早く!」
平沢利夫は顔を拭うと、それをたかねに返し、そのまま走って逃げた。たかねはそれを見送ると、佐々木麻奈に駆け寄る。
「麻奈ちゃん、大丈夫?しっかりして!」
平沢利夫が顔を拭いたハンカチで、麻奈の傷口を押さえる。佐々木麻奈は、最早意識もなく、ただ痙攣するだけだった。たかねは慌てて携帯電話を取り出し、通報する。
「ひとが、襲われて……」
その時初めて、自分が血だまりの中にいるのだと悟った。佐々木麻奈から溢れる血液は、留まることなく流れ続ける。地面を覆い尽くす。たかねを、血の色に染めていく……。
警察が来て、救急車も到着したころにはすでに、佐々木麻奈は息を引き取っていた。幸せの中死ねなかったこと、恐怖に苦しみながら死んでいったことを思うと、居た堪れなかった。しかし、たかねには重大な使命があった。それは、愛する恋人、平沢利夫を守ることである。警察に嘘を吐くことしか出来なかった。犯人は見ていない、そう証言することしかできなかった。
『人喰い女』
夏芽の声が脳裏を過った。この悲しくも恐ろしい事件を、妖怪の所為に出来たらどんなにか楽だろうか。
無意識のうちに、たかねは夏芽の携帯電話に電話していた。
「私、見ちゃったの」
『何を?』
「……人喰い女」
たかねは血まみれの自分を抱きしめた。平沢利夫を、今すぐにでも、抱きしめてやりたかった。でも、できない。だからその代わりに、きつく、きつく、自分を抱きしめた。
どうしても、守りたかった。
愛するものを、守りたかった―――。
血に濡れたエメラルドが、きらり、と光った。
*
「ちっ」
長い髪をかきあげて、男は舌打ちした。
「旦那、どうしたんで」
機嫌が悪そうに葉巻をふかす着物男は、
「折角俺が結んだ糸を、誰かが引っぺがしやがったみたいでねえ」
「へえ、糸かい」
「人間ってのは、儚ねえもんよ。ちいっと手を加えてやりゃあ、面白い方に転がっていく。ころころころころと、俺の好きな方にねえ」
「妖怪はちがうのかい」
「妖怪ってのは、秩序通りに動いてる。あいつらを動かすのは難しい。秩序や規律に反したことは、金出してお願いしたって断られるのがオチよ」
「へえ、旦那は、こっちにいるってことは妖怪ってことですもんね。人間を転がすのが専門の妖怪なんですかい」
「俺あ単なる妖怪じゃねえんだね」
「へえ、半妖半人、ってやつですかい」
「近いが、違うな。人間の肉体に、妖怪の能力が詰まりに詰まっちまって」
男はゆっくりと包帯をはがした。隠していた顔半分は爛れ、まぶたが無かった。
「ここにこうやって、溢れちまった」
煙草屋の親父は、自分も妖怪だからそんな見た目の事は気にもしない。いつものように笑いながら、
「へえ、そうですかい。生身の人間なのに、芯は妖怪ってのは、半妖半人とはまた違って、面白い種類ですな」
「親父、さっきから言ってる、半妖半人ってのは、ほんとにいんの」
「そりゃあ、居ますよ」
「ほう、何人居るの」
「大勢いますが、名前を知ってるのは一人ですね」
「誰だ、名前を言ってみてよ」
「綺堂壱紀っていう旦那でね、人間と妖怪の間の子なんでい」
「綺堂壱紀」
「近くに住んでやすぜい、もしかしたら似た者同士、気が合うかもしれませんね」
「いや、それはない。そいつの事は、そいつが生まれた時から知っているけど」
―――最悪な男だよ―――
「そんなことありやせんぜ。祭りや賑やかなのは嫌いだが、頼み事は聞いてくれるし、頭は切れるし、気前のいい……」
振り向くと、そこには葉巻の吸い殻だけが残っていた。煙草屋の親父は苦笑いする。
「また、無銭喫煙ですかい。まあ、年末にまとめてくれりゃあ、それでいいけどね」
吸い殻からはまだ煙が上がっていた。
*
事件から数日後、たかねは目を覚ました。一報を受けた夏芽は、真っ先にたかねの病室を訪れていた。
「夏芽、来てくれたんだね」
たかねは穏やかに、しかし悲しげに笑っていた。夏芽もなんとか笑おうと試みる。しかし、どうしても歪な笑顔しか作れない。
夏芽はパイプ椅子を出して、たかねの横に座った。
「たかねの恋人って、平沢先生だったんだね」
「うん。イケメンでしょ」
たかねの胸元では、エメラルドが悲しく光っていた。
「高価な、エメラルドのネックレスをあげるくらいだもん。平沢先生も、本当にたかねの事、好きだったんだね」
「相思相愛だったんだよ。先生と生徒の禁断の恋ってやつ。燃えるでしょ」
たかねは天井を見上げた。
「でもね、昨日フラれちゃった」
「え」
「手紙が届いた。僕は一生刑務所から出られないから、君とは一緒にいられないって、言われちゃった。私、それでもよかったのにな。ずっと待ってて、良かったのにな」
平沢利夫は、今や連続惨殺事件の容疑者だ。三人の女子学生を殺しておいて、刑務所から出ることは、叶わないだろう。
「……そっか」
夏芽は気の利いた言葉が思い浮かばず、呟くように言った。内心、ほっとしていた。平沢利夫と付き合い続けたら、たかねは一生傷を負ったまま、生きていかなければいけない。平沢利夫の亡霊にしがみついて生きていくよりも、いっそ自由になって、今まで以上に明るく生きていってほしい。平沢利夫もそれを望んでいる筈だ。
「でもね」
たかねは笑った。
「私、利やんのこと、絶対忘れないんだ。世の中の人がなんと言おうと、利やんは優しくて、いい人だった。ただ、勝てなかっただけ。自分の中に生まれてしまった妖怪に、勝てなかっただけ」
「たかねは強いね」
夏芽は言った。たかねの心の中にある悲しみはきっと計り知れないだろう。しかし今、彼女は若干十七歳で、それを乗り越えようとしている。
「流石、私の親友。私の見る目に狂いはなかったよ」
たかねの手を握る。たかねは弱弱しく手を握り返すと、ほろり、と涙をこぼした。
「夏芽、嘘ついて、ごめんね。人喰い女を見たなんて、嘘ついて、ごめん。巻き込んで、ごめん。怖い思いさせて、ごめん。人喰い女が罪をかぶってくれたら、この事件が都市伝説になってくれたらなんて、そんなズルいこと考えてた。でも、そんなの許されない。佐々木麻奈ちゃんの死に顔がね、まだ私の頭の中にいるんだ。亡くなった三人は、怖くて、苦しくて、死んでいったの。だから、利やんは向き合わなきゃいけない。私も、向き合わなきゃいけない。重くて、辛い罪に。そして、罰を受けなきゃいけない。それが三人への手向け。そして」
たかねは嗚咽を漏らした。
「壊れてしまった利やんを助ける、唯一の方法」
夏芽はたかねを抱きしめた。二人は、人目をはばからず、声をあげて泣いた。
「たかね、たかねは悪くない。悪くないんだよ、大切な人を、守ろうとしただけなんだよ」
「ありがとう、夏芽。夏芽のお蔭で、利やん、人間に戻れた。人間のまま、死ねるんだ」
残酷な結末に燈る唯一の光、それは、かけがえのない友情だった。
病室の外の白い壁にもたれ掛かりながら、綺堂はふっと笑った。人間とは、実に奇妙だ。そして、実に、素敵な生き物だ。
*
由宇奇秋男の通夜は、賑やかなものだった。親族が集い、酒をかわすのも、今の時代、通夜か結婚式位だ。
「秋人君の結婚式の方が先だと思ってたのにね」
春代は、涙ぐみながら言った。
「まだ若いのに、残念だわ」
「突然だったもんな」
由宇奇秋男の息子であり、喪主の由宇奇秋人は、ちびりと酒を飲みながら、
「糞じじい」
と、小さく悪態をついた。昔から、厳しい人だった。由宇奇が家を出たのも、秋男から逃げるためのようなものだった。
「折角テレビに出るくれえになったってのに、初番組観る前に死ぬなんてな。相当俺の事が嫌いだったんだな。俺も嫌いだよ、糞じじい。何で俺がお前の喪主なんかやらなきゃなんねえんだ」
「秋人、口が悪いわよ」
由宇奇の母、陽子が言った。
「お父さんはね、あなたを立派な“人”にしたかったの。妖怪の心に負けない、立派な人にね」
「おかあ、妖怪の事勘違いしてるぜ。妖怪ほど、綺麗なもんはねえ。人間に捨てられた思想だってのに、人間を恨むことなく、秩序を守って規則正しく生きている。俺のじっちゃんも、立派な」
「だからこそよ。人間は恐ろしいもの。恐ろしいことを考えてしまうもの。あなたが妖怪の力を、人間の心で悪用しないようにって、お父さんはいつも恐れてた。心配してた。それくらいあなたの事を」
「言われなくてもわかってるよ。だから言ってんだよ、糞じじいって」
由宇奇はくいっと酒を飲みほした。
「俺がちゃんと、別れを言う前に死んじまって、馬鹿野郎ってな」
夕餉
夕暮れ時のオレンジが街を包む。夏芽は、綺堂と共に異世界の街はずれを歩いていた。ここに屋台は並んでいない。静かだ。遠くで太鼓の音が聞こえる。
「たかね、先生と別れちゃったみたいです」
夏芽は言った。綺堂は頷く。
「それが、彼らの為だろう」
いつものように扇子を開くと、ふわり、と顔を煽いだ。
「十年前、若干二十歳の少年、平沢利夫は、偶然この異世界に迷い込んだ。当時大学生で、古典や民俗学に知識が深かった彼は、妖怪を恐れることなく、人間でありながら気さくに妖怪たちに接していたそうだ。人間を驚かせるのが妖怪なのだから、妖怪たちは最初は残念がってね。しかし、その内、平沢利夫の人柄に触れ、皆彼になつくようになった。人喰い女の優子もその一人だ。いや、特に優子は、平沢利夫に、特別な感情を抱いていたようだ」
「特別な感情?」
「まあ、恋ってやつだね」
「優子さんが、恋!」
「あいつが人間世界を去り、この世界でひっそりと暮らしているのは、数百年前、ある人間から人を喰らう事の醜さを説かれたからだと言っていただろう?それだけでは無い。優子は、その人間に恋してしまったんだよ。だから、死人と言えど、人間を喰らうことが出来なくなった。故に使い物にならなくなり、こちらの世界に来たんだ。奴が平沢利夫と出会った時も、同じ感情に陥ったのだろう。平沢利夫が、その“想い人”に、似ていたのかもしれない。手紙によればだが、平沢利夫も、奴の事を想っていたようだ。だから“またいつか、あなたに会えたら、私は幸せです”と手紙を残して、去っていったんだよ。奴にもう一度会える日を夢見てね」
綺堂は手紙を差し出して、夏芽に見せた。
「最初から夏芽さんに見せていれば、要らぬ勘違いを起させなかったのだが……申し訳なかった」
そこには、綺堂が見せてくれた古本にあった様なくずし字が、すらすらと書かれていた。
「こんな文字、十年前だったら七歳の子供が、書ける筈ないものな」
くずし字で書かれた文章の横に、名前が記されていた。なんとなく、平沢利夫、と書かれているのがわかった。
「私、“青”の話聞いて、それでたかねを疑っちゃったんです。親友なのに、馬鹿ですよね」
「いや、馬鹿なのは僕の方だ。“アオ”がブルーだと思い込んでいたこと、そして、この手紙を君に見せなかったこと。平沢利夫が、担任の教師が犯人だと知ったら君がショックを受けてしまうと思って、言い出せなかったんだ。今思えば、言っておくべきだった。どうせ、分かることなのだからね」
綺堂は手紙をしまった。
「でもどうして、平沢先生は人を食べるようになったんでしょうか。優子さんは、もう人は食べないのに」
「夏芽さんは、好きな人の全てを知りたいと思うかい?」
突然綺堂は言った。
「え、いや、そりゃあ、ちょっとは知りたいですけど」
「平沢利夫も同じさ。愛する優子の事を、知りたいと思った。そして、調べたんだ、僕がしたのと同じように、人喰い女について。調べている内に、次第に興味が湧いたんだろう、人肉とはどんな味なのか、あの美しい優子が食べていたくらいだ、さぞ美味いに違いないだろう、とね。しかし、奴はそれを心の内に閉じ込めた。人肉を喰らうなんていかれている。正常な脳味噌が、彼にそう言ったんだよ。そして彼には新しい恋人、唐沢たかねが出来た。人喰い女の事を、次第に忘れて行った。ところが、あの日、お偉い方の集まりに“惑わされて”、再びこの世界に紛れ込んでしまった。そして、二人は再会してしまった。お互いに忘れかけていたのに、ね。出会ってはいけない二人が、再び会ってしまったことで、人間世界の秩序が乱れた。平沢利夫は優子を見て、思い出してしまったんだ、人肉を食したいと思ってしまった過去の事を。以前言ったね、人間は脳味噌の十パーセントしか使っていない。平沢利夫は、十一パーセント目に閉じ込めておいた人肉への欲望を、呼び覚ましてしまった。人喰い女への“愛”を、“人喰いの欲望”として、復活させてしまったんだよ」
―――シビトクライ、シビトクライシトコロ、ミシモノ、シビトクラワザレバ、ナラヌ、トキク。
「優子さんは、悪くないですよね」
夏芽は小さな声で、呟くように言った。
「勿論だ」
綺堂は即答した。
「妖怪は人間によって作り出された。人喰い女を見て、恐ろしさを感じたり、人を喰らいたくなるのは、作り出した本人たちの勝手だ。人喰い女が望まなくても、人間が望めば、そうなる。人喰い女は、ただそこに居て、“生きている”だけだ」
「優子さん、傷ついてますよね、きっと」
「ああ、そうだろう。だが、奴は最後まで、平沢利夫を、愛する男を守ろうとした。罪を暴くことでだ。これは同じ妖怪界に住むものとして、誇りに思う。奴はよくやった。自分の出来ることを、最大限にね」
「お人よしですもんね」
「ああ」
綺堂は微笑んだ。
「人喰い女は、お人よしだからな」
夏芽も笑った。
風が吹く。
綺堂はこほん、と咳込んで、
「夏芽さん、ところで、この前人喰い女が言っていたことだが」
「何か言ってましたか」
「僕と、結婚するか、しないか、という話だ」
「え!そんな話、しましたっけ」
「覚えていないのか。僕は結構傷ついたというのに」
綺堂は態と項垂れてみせた。思い返してみれば、確かに、言ったかも、しれない。
「そんな、あれは、ほらだって、私高校生だし」
綺堂は笑った。
「そうか、そんな理由か。夏芽さんも人が悪い。そうだね、君はまだ高校生だからね、大丈夫だ、僕はいつまでも待つつもりでいるよ、安心したまえ」
「はい。って、え?」
「何かおかしなことでも言ったかな」
夏芽が抗議しようとしたとき、
「旦那あ!夏芽姉さん!」
辰之助が賑やかな祭り街道から抜けて駆けてくるのが見えた。
「酷いですぜい、二人でぬけがけなんて。あっしにも教えてくださあ、事件の話」
「ああ、五月蝿い奴が来た。しかもまた邪魔をされた。お前は空気を台無しにする。排気ガスと一緒だ」
「そんなあ、酷いでさあ」
辰之助は涙目で言った。夏芽はほっとしたような、少し惜しい様な気もしながら、
「辰之助くん、久しぶり。会いたかったよ」
と笑った。
「夏芽姉さんは優しいでさあ」
辰之助はうれしそうだった。
その時、祭り街道を、すうっと、派手な着物姿が通った気がした。
「あっ」
『青い、髪飾り』
「綺堂さん」
夏芽は思い出したように言った。
「私がたかねを犯人なんじゃないかって思ったのは、綺堂さんの所為じゃないです」
「どういうことだい?」
「あの日、帰り道、お祭りの道で変な人に会って……その人に言われたんです。『青い、髪飾り』って。青いものを身に着けてるってだけだったら、私、たかねが犯人だって思わなかったと思います。あの人に、『髪飾り』って言われたから、それで……」
「それは、妖怪か?」
綺堂は腕を組んだ。
「わかりません。見た目は人間でしたけど。長髪で、顔の片方を包帯でぐるぐる巻きにしていて、すっごく派手な着物を着てる男の人でした。なんか、怖い目をしてたな、今思えば、ですけど」
「成る程、夏芽さんはそいつに、誤った情報を吹き込まれたわけだ。つまりそいつは、僕と同じ能力を持っている、ということになる」
「綺堂さんの能力?って、あの、青い光の奴ですか」
「いや、僕の能力は、少し先の未来を見ることが出来る、能力だよ」
「あの青い光は?」
「あれはオマケだ。因みに、先の未来を見ることが出来る能力を“先詠み”と言ってね、半妖半人ならだれでも持っている能力だ」
「じゃあ、つまりその人も、綺堂さんと同じ?」
「妖怪と人間の間の子ということになる」
綺堂は顔をしかめた。
「あの時の“嫌な予感”というのは、これだったのか……」
「綺堂さん、その人の事は詠めなかったんですか?」
「ああ。何故だろうか。不思議だ。だが、そいつが“ヨカラヌモノ”だということだけは分かる」
扇子を広げる。
「今後の人間世界に影響しなければいいが……」
「旦那あ、姉さん」
辰之助が綺堂の袖を引っ張った。
「あっし、腹が減ったでさあ」
そう言えば、夏芽も朝から何も食べていなかった。
「そうだな。ぎょろ眼は屋台で、まあ、好きなものを買ってやろう。夏芽さんは、そろそろ家に帰ると良い」
日が変わる刻が近づいているようだ。
「分かりました」
祭り街道を歩く。綺堂に買ってもらった綿飴を頬張りながら、夏芽は微笑む。三つの影が並んで、夕焼けの元に伸びる。
「この世界にも、夕焼けがあるんですね」
「不思議だろう。太陽は無いのに、偶にこうやって、夕焼けの様なオレンジが差すんだ。謎は解明されていない。僕の宿題さ」
綺堂が言う。
「奇妙だけど素敵」
夏芽はオレンジの光に包まれながら、呟くように言った。綺堂はそれを見て微笑む。それからはっとしたように、夏芽は言った。
「そういえば綺堂さん、どうして私の名前、知ってたんですか?確か自己紹介もしてなかったのに」
「ああ、それは、僕にもわからないんだ」
「え?」
「ただ、君には昔、会った事があるような気がしてね」
「それだけで名前を思いついたんですか?」
「なんとなく、覚えていたみたいだ、僕の脳味噌の、十一パーセント目がね」
「それこそ、この世の奇妙じゃないですか」
「はは、全くだ」
綺堂は笑った。それから続けて、
「夏芽さん、君の世界では、そろそろ、夏休み、というものに入るんじゃないかい?」
「あ、はい、そうですね。私部活も入ってないんで、長期休暇ってヒマで、苦手なんですよね」
「じゃあ、毎日こっちに遊びに来ればいいじゃないですかい」
辰之助が目を輝かせた。
「うん。毎日……は無理かもしれないけど、でも頻繁に来ちゃうかも。遊んでね」
「待っているよ、夏芽さん。それに、忘れないでほしい、僕たちは住んでいる世界が違うけれど、いつでも君のそばにいる。何かあったら、必ず駆けつけるよ」
「ありがとうございます、綺堂さん。綺堂さんがそばにいてくれるんなら、私、何でもがんばれちゃう気がします」
「姉さん、姉さん、あっしを忘れてやす」
辰之助が自分を指さしながら言った。
「勿論、辰之助くんも」
夏芽が言うと、辰之助は満足そうに笑った。
「それじゃあ、夏芽さん、日が変わらない内に、帰りたまえ。お父さんとお母さんも心配するだろうからね」
綺堂は夏芽の肩に手を置いて言った。
「はい。じゃあ、今日はこれで」
「次来るときは、僕の家に泊まっていくと良い。ご両親に許可が取れたらの話だけれどね」
「わあ、それ素敵。辰之助くんも一緒に、ね」
夏芽がそういうと、綺堂は少し不服そうに眉を寄せた。
「まあ、ぎょろ眼がいた方が、夏芽さんも退屈しないだろう」
「やったあ、旦那あ、感謝しやすぜ」
「それじゃ、ふたりとも、またね」
夏芽は手を振ると、トンネルに足を踏み出した。決して振り返ってはいけない、薄暗いトンネルである。
「気をつけて帰りたまえ。それと、ご両親には、もう挨拶してあるからね」
綺堂の声が後ろから聞こえた。綺堂さんたら、最後まで声をかけてくれるなんて、優しいんだから……。
暫く歩いてトンネルを抜けてから、夏芽ははっとして振り返った。
「ご、ご両親に、あ、挨拶って……」
しかし、そこに在るのは、赤紫に染まったただの空間だけであった。
近くの民家から、味噌汁の良い臭いが漂ってくる。夏芽は自分の腹がぐう、と鳴るのを聞いた。先程、綿飴を食べたばかりだというのに、おかしな話だ。
まあ、いいか。
―――今日の夕食は何かな。
夏芽は静かな期待を胸に、帰路についた。
夕餉……夕食の意味を表す古語。現在はあまり使われていない。




