夕餉(前編)
登場人物
夜崎夏芽
綺堂壱紀
波奈野目優子
ぎょろ眼の辰之助
唐沢たかね
夜崎春代
夜崎冬吉
由宇奇秋人
由宇奇秋男
由宇奇陽子
平沢利夫
佐々木麻奈
謎の着物姿の男
煙草屋の親父
序
あの味がどうしても忘れられない。
甘美な舌触り、朗らかな香り。
ああ、食べたい。
もう一度、食べたい。
一、
周囲が生臭い。梅雨真っ盛りの曇天の下、湿った地面はざわざわと騒々しく空気中の水分をかき乱す。風はない。草木はまるで生気を失ってしまったかのように黙っている。生物が呼吸をする音が聞こえない。鳥の鳴き声も、道端を駆ける猫の姿も、獲物を捕らえて蜷局を巻く蛇の影も、ここには無い。雲は太陽を隠蔽してしまった。光の差さない街は、死んでいるようだ。
物陰で何かが動いた。生物であるのか、そうでないのか判断が出来ない。太陽のない街は夜のように暗かった。
夏が迫っているというのに、肌寒ささえ感じる。その所為なのか、恐怖の所為なのか、鳥肌を帯びてぶわっと総毛立つ。気色の悪い空間は、暗闇のその奥にある不気味を妄想させる。
異変に気付いた夏芽は立ち止まった。教室まであと少し。しかし、平日の学校にしては、余りに静かすぎる。臨時休校だっただろうか。夏芽は慌てて、スクールバッグから予定表を取り出した。そんなことは、何処にも書いていない。
―――気の所為?
夏芽は近くの教室を覗き込む。誰も居ない。休校だとしても、誰も居ないのは流石に不自然である。部活動や、補習の生徒がいる筈だ。腕時計を見る。時計の針は、八時半を指している。決して、早く来過ぎたわけでは無い。寧ろ、丁度いい時間だ。
―――おかしいなあ……。
その時、時計の針がぐるりと回転を始めた。回転は徐々にスピードを上げる。
「え?」
夏芽は思わず声を上げた。回転は止まらない。磁場が狂った時のコンパスのように、夏芽の腕時計は急回転を続ける。夏芽はそこで初めて、現在自分が置かれている只ならぬ状況に恐怖を感じた。教室に飛び込み、時計を見上げる。やはり、どの時計も、針を急回転させている。
夏芽は奇妙な時計から目をそらすことが出来ないまま、震える手で、携帯電話を手に取った。親友のたかねに電話しよう。電話することでこの状況が打破できないとしても、一人心細くここに居るよりはマシだ。携帯電話の画面を見た。アンテナは“圏外”を表示している。通い始めて二年目になるが、この学校で圏外になったことなど一度もない。
異常な事態が起きている。そういえば、朝から何かがおかしかった。
夏芽は高校二年生。いつも登校時間ぎりぎりに起床し、五分で朝食を食べて、口にものが入ったまま走って登校する。今日は珍しく早めに起きて、きちんと朝食を済ませ、母、春代に「何かあったの」と心配されるくらい、“模範的”な行動をとった。早く家を出た夏芽は、少し探検しながら学校に向かおうと、冒険心と余裕を心に滲ませた。いつもすれ違う他校の生徒達や、近所のおばさんたちには出会わなかった。すれ違うのは、皆知らない人ばかり。早く家を出過ぎたからだろう。
夏芽は、一度通ってみたいと思っていた“八千代トンネル”を潜ってみることにした。電灯のない暗いトンネルで、『通行禁止』の看板がある為、いつも回り道をして学校まで通っていたのだが、今日はなんとなく、通ってみたくなった。
異常を感じ始めたのは、トンネルを過ぎた頃である。トンネルを抜けると、それまで晴れていた空は曇天に変わっていた。静かで、通学ラッシュの時間だというのに、人ひとりすれ違わなかった。
夏芽は慌てて教室を出ると、廊下を走った。何とかしてこの状況から脱さなければならない。先程上ったばかりの階段を駆け下りる。来るときは気付かなかったが、校舎の壁が、古臭い気がする。夏芽の通っている木沢高校は、建て替えられたばかりで、真新しい白い塗装の壁だ。しかし、今日は木造がむき出しになっている。
一番下まで下りると、そこに全身鏡があった。
―――こんなの、あったっけ?
全身鏡の前に、おかっぱ頭の少女が立っていた。夏芽もおかっぱに近い髪型だったが、この少女のように、後頭部を刈り上げる程短くはしていない。不安を感じながらも、学校に来て、いや、朝あのトンネルを出てから出会った唯一の人間である少女に、夏芽は声をかけた。
「あの、すみません」
「はーあい」
消え失せそうな声で少女は言った。少女の声は、妙に廊下に反響していた。
「今日、学校お休みだったりしますか?」
「いーいえ」
同じ調子で言う。
「でもこんな時間なのに人がひとりも居なくて。それに、学校の時計が狂ってるんです、私の時計も。気付きました?」
「いつものこと、でーすよ」
「いつもは、時計、ぐるぐるしてないですって。見てないでしょ?あなた」
「見てますよ、毎日時計はぐーるぐる、ですよ。“ここ”に時間なんてなーいもの」
この子は、天然ボケなのか。夏芽は少女に歩み寄った。
「そんな悠長なこと言っている場合じゃないですよ。あなた、一年生?」
「いいえ、六年生」
「こんな時に冗談はやめてくださいよ。高校は三年生までですよ」
「冗談じゃないでーすよ。あなた、見ない顔ですーね」
見ない顔、当たり前じゃないか。木沢高校は、長野県では有数のマンモス校なのだ。学年が違えば、見たことのない顔なんて幾らでもある。
「安心してくださーい。もう少ししたら、みんな来まーすよ」
「もう少ししたらって……さっき既に八時半だったんです。ホームルームに間に合わないんじゃ……」
「いいえー。間に合いまーすよ。あなたが早く来過ぎたんでーすよ。ざーんねん」
少しイラッとした。
「じゃあ、なんであなたも、この時間に学校にいるんですか?人の事言えませんよね?」
喧嘩腰に、夏芽は少女の肩を掴んで、無理やりにこちらを向かせた。少女は整った顔をしていた。かわいい、とか、美人、とか、そういう意味の整った顔ではない。あえて言うなら、“コケシ”。
「だって私は、ここに住んでるから。知らないの?座敷童」
はっとして、コケシ顔は、鼻をひくひくさせた。
「あれ、この臭いはもしかして」
それからにぃ、と歯を見せて笑った。全ての歯が、黒で塗りつぶされていた。
「あなた、人間?」
「ひぃ!」
夏芽は反射的にコケシ顔を突き飛ばして、下駄箱の方に駆け出した。コケシの顔が笑う時、紙芝居を捲るように、一瞬で表情が変化した。人間ではありえない動きだ。しかも彼女は自分を“座敷童”と呼んだ。座敷童。そんなものがこの世にいる筈ないではないか。
下駄箱からローファーを取り出して、夏芽は足をねじ込んだ。非常時だというのに、足がなかなか入らない。一年生から履いているローファーがきつくなり、新しいものを買ってもらおうと思っていたところだった。
―――もっと早くお母さんに言っておけばよかった。
今更後悔した。
夏芽の耳に、ざわめきが聞こえたのはその時だった。正面玄関の向こう側から、人々の話し声が聞こえる。生徒たちが登校してきたのだろうか。夏芽は靴を履く手を止めたまま、正面玄関を見つめた。
最初に顔を出したのは、髪の長い、美人で長身な少女だった。少女は長い前髪で、片目を隠していた。普通の人間だ。よかった、自称座敷童が言っていたことは、やはり冗談だったのだ。安堵の溜息を洩らした直後、その後ろを、一つ目の丸坊主が続いてきた。夏芽は息を呑んだ。
―――一つ目!
長身の少女は夏芽を見つけると、
「おや、座敷童、おはよう」
と言った。夏芽は何も返せない。
―――この人は私を座敷童と勘違いしている。という事は、やはり彼女は座敷童。
「どうしたんだ、座敷童」
今度は一つ目が言って、それからはっとしたように、夏芽に駆け寄った。
「おい!岩!こいつ、座敷童じゃない!」
「え?」
「私はこーこよ」
後ろから座敷童の声がした。夏芽は足がすくんで動けない。長身の少女は座敷童と夏芽を見比べて、首を傾げた。
「ホントだ、座敷童が二人いる」
その時、少女の前髪がはらり、と横に散った。覗いた半顔は、皮膚が焼け爛れ、目玉が飛び出ていた。眼球はそのままころりと床に落ちる。少女はそれを拾い上げると、
「おっといけない。まだ上手く扱えないんだったよ」
と笑った。
―――目が取れた!
血の気が引いていくのが分かった。それを見て、一つ目の少年は面白そうに笑った。
「岩!こいつ、人間だぜ!道理でいい臭いがすると思った」
「え?人間?そりゃ」
岩は前髪を態と退かして爛れた顔を見せつけた。
「懐かしいねえ」
ーーーーーーーーーーーーー!
夏芽は駆け出していた。正面玄関を飛び出すと、信じられない光景が広がっていた。首が異常に長い女、顔だけ熊の人間、大きな壁の様な真四角な何か……。そこに居たのは、童話や昔話で聞く“お化け”たちだった。
駆け出した足は止まらなかった。悲鳴も止まらない。夏芽は“地獄坂”を駆け下りながら、どうか、この夢が覚めますように、と願った。
前髪を元に戻した少女、岩は、夏芽の後姿を見送った。
「久々に化かしたねえ。お偉いさんたちに褒められるよ、あたし」
「あんたーなんかより、さーきに、わたしが褒めらーれるよ」
座敷童が鉄漿を見せて笑った。
「でも、驚きだねえ」
「何が?」
一つ目小僧が聞く。
「まだあたしたちを見て、驚いてくれる純粋な人間がいるなんてね」
岩の表情は少し切なげだった。
岩は、一昔前まで『東海道四谷怪談』の主人公として、怪談界の一躍を担っていた妖怪だった。岩の怪談を聞くものは皆岩を恐れ、涙し、それが岩の喜びであった。
しかし近年、岩の話はすとんと無くなってしまった。
「すべてはあいつ、貞子って奴の所為さ」
岩は肩を落とした。
「あたしは忘れられちまった」
「何言ってんだ、ここにいるやちゃ、みんな同じじゃないか」
一つ目小僧は岩の背中に手を回した。
「俺だって、今や笑いの種だぜ」
「あーたしも」
座敷童も寂しそうに肩を落とした。
「だーから今日、みーんなここに、あーつまるんだもの」
夏芽は転がるように坂道を下った。沢山の“妖怪”とすれ違ったが、恐怖のあまり、顔も見ることが出来なかった。妖怪たちにぶつからないように身をひるがえしながら、地獄坂の一番下に到達する。ここまで来ると、“登校する妖怪”の数は少なくなっていた。きっと今が妖怪たちの登校ラッシュだったのだ。冷静さを取り戻した夏芽の脳味噌は、そんなことを考えた。
それからどのくらい歩いただろうか。行くべき場所もわからないまま、夏芽はただ街中を歩きまわっていた。登校、通勤ラッシュが終わり、人っ子一人、いや、妖怪っ子一人居ない街。歩いては壁にぶつかり、歩いては壁にぶつかり……繰り返すうちに夏芽はとある公園に辿り着いていた。古びたベンチに腰を沈める。木製のベンチは夏芽の体重を感じてみしり、と軋んだ。
今の夏芽の脳内には、これからどうすべきか、それしかなかった。妖怪は怖かった。だからこそ、ここから出なければいけない。しかし、今自分がどこにいるのかもわからない。夏芽は両手に顔を埋めた。
―――もう帰れないのかな……。
涙がこぼれる。絶望が夏芽の背中に覆いかぶさる。ベンチが再びみしりみしりと軋んだ。夏芽は妖怪たちに怯えながら、声を殺して泣いた。
その時、頭上から声が降ってきた。
「おや、あんた、迷子かい」
反射的に見上げる。そこには如何にも“普通そうな”、真赤な着物姿のきれいな女性が立っていた。夏芽は問いに答えることが出来ないまま、彼女を見つめた。たっぷりとした長い黒髪が緩く結われて右側に垂れている。目は二個ある。首も座っている。顔も爛れていない。足もある。
「どうしたんだい。木霊に、声とられたかい?」
女性は心配そうに夏芽を覗き込む。夏芽は我に返って答えた。
「私、迷子になってしまって」
女性は笑顔を浮かべた。
「うんうん、そうだろうねえ。見りゃ、誰でもわかることさ。あんた、人間だろ?しかも、“向こう”の」
“向こう”ってなんだろう、と思いながら、夏芽は首を傾げた。
「何が起きたのかわからないんです。突然、ここに来ていて……学校に行ったら時計は狂っているし、お化けがいっぱい出てくるし……」
「お化けってあんた、そりゃそうだよ、ここはあんたの言う、“お化けの世界”なんだから」
ああ、やはりここは、夏芽が住んでいた世界では無いのだ。夏芽は項垂れた。先程の奇怪な生き物たちが脳裏に甦る。妄想だと良い、夢だと良い、そう思っていたことが、彼女の言葉によって“現実です”とあっけなく証明されてしまったのだ。
暗い表情になった夏芽を見て、女性は優しい微笑みを浮かべた。
「安心おしよ」
夏芽は顔を上げる。
「あんたは、ちゃあんと、帰れるからねえ」
女性は夏芽の肩を抱いた。
「あたしにお任せよ」
「ホントですか」
ああ、神様。夏芽は再び流れる涙を止めることが出来なかった。
―――私、帰れるんだ。
「よろしくお願いします」
夏芽は頭を下げた。その時、女性が不気味に舌なめずりをしたことに、夏芽は気付かなかった。
「あたしね、波奈野目優子。優子ってお呼びね」
「私、夜崎夏芽です。よろしくお願いします」
優子は夏芽に手を差し伸べた。夏芽はためらいなくその手を取って、立ち上がった。
「ついておいで」
「はい」
この人なら信用できる。この人は、きっと人間なのだ。温かい手を握りながら、夏芽は思った。
「ところで」
優子は振り返った。
「あんた、どうやってここに来たんだい?“何の変哲もない向こうの人間”が来るなんて、なかなかない話だよ」
「いえ、それが、分からないんです。気付いたらここに」
「ああ、そういう事もあるか」
優子は曇天を見上げて、少し懐かしそうに言った。
「そう言えばあのヒトも、そんなこと言っていたっけ」
「あのヒト?私以外にもこの世界に迷い込んだ人がいたんですか?」
「ああ」
優子は少し寂しそうだった。
「もう何年も前の話さ」
暫く歩いた。もともと生臭かったこの“世界”だが、歩くたびに臭いが増していた。夏芽は優子に握られていないもう片方の手で、鼻を押さえる。
「あんた、運が良かったよ」
「運が良かった?」
「そうさ。あたしゃ、この世界じゃ、お人よしで通ってる。この世界はね、広いんだ。迷い込んだら最後、一生出られない奴もいる。けれど、あんたは、この“お人よし”に出会った。幸運の持ち主だよ」
夏芽は鼻をつまみながら、
「ありがとうございます」
とぎこちなく言った。先程から、少しだけ嫌な予感がする。優子は歩くペースを緩めると、
「まあ、あたしも、ただのお人よしじゃあ、ないんだけどねえ」
と呟くように言った。
手を引かれて進んで行く。やはり段々、生臭さが増している様だ。今までよりも更に増して薄暗い、不気味な場所へ向かっているように思われた。火事に遭って焼けてしまったような煤けた屋根、そして何より、生肉を腐らせたようなこのひどい臭い……。ところどころに丸い大きな果実が落ちていて、虫のようなものがたくさん群がっていた。夏芽は思わず顔を背ける。
「あたしも、最初は嫌な臭いだと思ったけどね、慣れちまえば平気さ」
前を行く優子は言った。夏芽は、その声が先程よりもワントーン低い気がして、眉を顰める。
「あの、私の世界に帰るには、こんな気持ち悪い道を通らないといけないんですか?」
優子は不意に立ち止まった。夏芽は距離を置きたい気持ちだったが、手を握られていて動けない。先程は感じなかった不気味なオーラが、優子を包んでいる気がした。
突然、優子はくっく、と笑い出した。
「あたしゃ、お人よしだ。あんたに道を教えてあげるんだから。でもね、ちょっとくらいは対価が欲しいんだ。うん、ほんの、ちょっとでいいからね」
心臓が冷えて行くのが分かった。夏芽は優子から逃れようと必死に手を引っ張るが、彼女は中々手を放してくれない。
優子は振り向いた。笑っていた。不気味な笑顔だった。
「そう、一本でいいのさ」
「一本?」
夏芽は慌てて、
「あ、私、何も持ってなくて、筆記用具くらいしか、しかも使い古した奴で、だから、家に帰って新しいの持ってくるんで、それじゃだめですか?」
「違う!」
早口で言う夏芽を、優子は一喝した。恐ろしい声である。目の前に在る美しい顔からは想像も出来ないような、耳をつんざく、悍ましい声である。夏芽の背中に、悪寒が走った。優子は再びくっくと笑うと、掴んでいた腕をぐい、と引っ張った。
「ほら、あんた、二本も持っているじゃないか。一本くらいおくれよ」
夏芽は優子の目から逃れられない。
「二本……。私、何も持ってません……」
「いいや、持っている」
―――知らない人について行っちゃだめよ。
母の言葉が今更夏芽の脳内を駆け巡った。
―――遅いよ、お母さん……。
優子は舌なめずりをした。
「あんたの、二本ある腕、一本おくれよ」
夏芽の脳内からさーっと血が抜けていくのが分かった。この女は、夏芽の腕を“捕ろう”としている。
夏芽は優子に掴まれている腕を振りほどこうと暴れた。
「嫌よ!誰があんたなんかにやるもんですか!」
「何を言っているんだい。あんたを、元の世界へ返してあげるって言っているんだ。その為なら、腕の一本や二本、惜しくないだろ?」
「惜しいです!」
夏芽はやっと優子の手から逃れ、その反動で地面にしりもちをついた。それから、ふと、隣に落ちている巨大な果実に目を落とし、それが何かを悟って悲鳴を上げた。夏芽が果実だと思っていたものは、その様なかわいらしいものではなかった。見開かれた目、鼻、唇。紛れもなくそれは、人間の頭部であった。
逃れようとする夏芽に詰め寄りながら、優子は言った。
「頭って、美味しくないのよ」
美味しいとか美味しくないとかそう言う話ではない。人間を食べる時点で、どうかしている。
「いいじゃあないか、一本くらい」
優子は赤い鼻緒の下駄で、一歩一歩夏芽に詰め寄る。夏芽は辺りに転がる無数の生首を避けながら、這うようにして優子から必死で遠ざかろうとする。
「若い女の腕は美味しいんだよ。死に立てのやつは特にね。だから、生きているあんたの腕はさぞ美味いに違いない」
夏芽は建物の角に追い詰められた。もう逃げ場はない。
その時、誰かが優子を突き飛ばした。優子はバランスを崩してその場に倒れ込む。唖然としていると、何者かが夏芽の右手を掴んだ。
「走るぞ」
男性の声だった。驚いている暇などない。夏芽はただ引かれるままに立ち上がり、駆け出した。背後で女の悔しがる声が聞こえる。夏芽の手を引く紺色の後ろ姿は、決して振り返ることもしないで、全速力で走り続けた。夏芽も必死で足を動かす。
気が付くと、先程の公園まで戻ってきていた。
夏芽は、握られていない方の手を膝に置き、荒い息を早急に整えようとした。しかし、運動が苦手な夏芽の呼吸は、なかなかまとまらない。
「危ないところだったな」
最初に言葉を発したのは、男の方だった。
「君は、とんでもない女について行ったね」
紺色の着物姿に短い髪、懐から扇子を取り出して仰ぎながら、男は細い目で夏芽を見下ろしていた。
「ありゃ、“人喰い女”だ。あそこに死んだばかりの死体を集めて、毎日毎日むさぼっている、とんでもない女だよ」
「ひ……人喰い女!」
夏芽は悲鳴を上げた。無数に転がっていた頭たちは、皆、人喰い女に食い殺された残骸だったのだ。
「人喰い女はお人よしだ。だから頼みごとをすれば何でも聞いてくれる。その代り、大切なものを持っていく。それが、あいつの本性さ」
「私、腕をくれって言われました」
「腕か。マシな方だよ。命や心を取られる奴だっているんだから。次会ったら、終わりだと思っておいた方が良い」
男は涼しげな表情で言った。
「君、“向こう”の人間だね」
「はい……」
夏芽は最初から気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。
「“向こうの人間”ってことは、こっちにも人間はいるんですか?」
男はきょとんとした顔をしてから、突然笑い出した。
「当たり前じゃないか。僕だって人間だ」
「人間?本当に?」
「本当さ。首だって取れないし、人を食べたりもしない」
夏芽は安堵でそのまま座り込んでしまった。
「よかった……やっとまともな人に会えた……」
座り込む夏芽に、男は急に厳しい表情になった。
「ところで君、どうやってここまで来たんだい」
「えっと、それが、気付いたらここに来てしまっていて」
夏芽は朝からの状況を伝えた。
「それで、今に至るんです」
「そうか。人間というものは、規則性無く生きるものだ。突然規則性を持った君の本能が、この秩序保たれた規則正しい世界への入口へと無意識に君を誘ったのだろう。そういう事は、たまにある」
男は溜息をついた。
「何度と無く訪れる“向こうの人間”を、この世界の住民たちは優しい目と心を持って追い返してきたのだが……僕自身がこうやって参加するのは初めてだ」
「優しい目と心を持ってって……でも妖怪ですよね?ここに居るひとたち、みんな、お化けですよね?優しくないです、怖いです」
ははは、と男は笑う。
「いいかい、妖怪とかお化けってのは、人を驚かせて何ぼなんだ。人を驚かさない妖怪なんて存在意義がなくなって消滅してしまう。人間だって、息をしない人間はいないだろう?息が出来なくなったら死んでしまう。それと同じさ。妖怪は人を驚かせるために生まれてきたんだ。だからこの世界に人間が迷い込んだら、驚かせて、まあ、優しく、向こうの世界へ戻してやる。それがこの世界の秩序を守る規則みたいなものさ。都市伝説や神隠しなんて話があるだろう?あれはほとんどが、そうやって成り立っている。迷い込んだ人間は、“怖い思い”をして元の世界に戻るわけだ。それが口伝に伝わって行って、人間世界の恐怖のひとつになる。人喰い女もそのつもりだったはずだ。腕さえ渡せばね」
最後の一言に悪寒がした。確かに、怖くない妖怪なんて、居ないに違いない。男の言う事には一理ある。
「さて」
男は夏芽の手を離さないまま、立ち上がることを促した。
「君もそろそろ帰ろう。これ以上いると、また“人喰い女”みたいに厄介なのに出会いかねない」
夏芽はその手に目を落とす。男は人喰い女から逃げた時からずっと、夏芽の手を離さない。
「あの、私、一人で立てますから、手、放してもらえませんか?」
「それは出来ない」
男は冷たく言った。
「人間には臭いがある。独特の臭いだ。それは妖怪たちを呼び寄せる。君はまだこの世界に来て浅いから、臭いが強い。僕から離れたら、忽ち人喰い女が再登場さ」
「でも、あなたも人間なんですよね?」
「ああ。でも君とは違う。人間と妖怪の間の子なんだ」
「半妖!」
「何とでも呼びたまえ。でも、君が僕の手を放したら最後。奴はここへ来るよ。もう顔も見たくないだろう」
夏芽は男と、人喰い女、どちらがマシか、頭を巡らせた。それから、背の高い――身の丈百八十センチメートルくらいだろうか――男を上目づかいで見ながら、
「私の事、食べませんよね?」
「ははは、人肉は美味いと聞くから興味はあるけど、生憎僕にそんな趣味は無いよ」
男は言うと、
「さあ、行こう」
と、夏芽の手を引いた。夏芽は半信半疑で立ち上がる。男は鼻で笑った。
「まだ、疑っているようだね」
夏芽は答えられずに顔を背けた。男は歩き出し、夏芽は仕方なく、それに続いた。
「正直だなあ。じゃあ、信用を得るために、人喰い女に出会った時の対処法を教えよう」
男は夏芽に微笑みかける。
「そんなものがあるんですか?」
「ああ、いくつかあるよ。でも決して言ってはいけないことがある。それは、人喰い女の交換条件を飲むことだ。人喰い女はお人よしだが、貪欲だ。交換条件が飲まれ契約が成立してしまうと、なんとしてでもその条件を満たそうとする。どんな無理難題でもだ。君の場合、既に“元の世界に戻る”ことの交換条件として“腕”を提示された。勿論君は納得していないね?お人よしの人喰い女は無理やり君の腕を取ることはしない。でも、代わりに他のものを求めてくるはずだよ。だから決して、人喰い女に頼みごとをしないことだ」
人喰い女が“お人よし”というのはまるで標語のようだ。しかし、あの時夏芽に迫ってきた女の顔は、決してお人よしのものでは無かった。夏芽は思い返す。
―――ちゃんと頼んだわけじゃないけど、“よろしくお願いします”って言っちゃったなあ。
「けれど、人喰い女にも欠点がある。奴は、自分が人を食べることを“醜いことだ”と自覚している。だからああやって辺鄙で陰気な気持ち悪いところにひとりで住んでいるのさ。そして、自分の正体を知っている者の前には決して現れない。お人よしで恥ずかしがりだからね。次会ったときは奴に面と向かって”醜い人喰い女め”と言ってやればいいのさ。そうすれば、奴は自らの行いに羞恥し、君から逃げていくはずだよ」
歩きながら、夏芽は辺りを見回した。信号もない、横断歩道もない。人―――いや、妖怪か―――の気配もない。皆寝静まっているかのようだ。
「登校する“生徒”たち以外は、まだ寝ている時間だ。妖怪は夜になると動き出す生き物だからね」
男は説明した。
突然、立ち止まる。目の前には、朝通った八千代トンネルがあった。
「たぶん、ここから来たんじゃないかな?」
「きっと!そうです!」
夏芽は目を輝かせた。
「ありがとうございます!よかった、これで帰れる!」
涙が浮かんだ。父、母、親友のたかね、学校の皆、沢山の人の顔が脳裏を巡る。夏芽は、不安から解放された安堵で、思いが溢れた。
男を見る。この人のおかげで、助かった。命の恩人だ。
「ここはね、この世界と“向こう”をつなぐトンネルだ。今は通行禁止になっているし、幽霊や妖怪を信じない人間が増え、この世界に迷い込む者は少なくなってきた。久々の来客で妖怪たちもさぞ喜んだろう。朝だったからよかったものの、夜に来ていたらさらに大歓迎されていたに違いない」
にっこりと笑う男は、容赦なく夏芽の恐怖を煽った。
「君は怖がりなんだね。もう来ちゃだめだよ」
夏芽は頷いた。
「さあ、行きなさい。トンネルを通っている間、決して振り向いてはいけないよ」
「どうしてですか?」
「日本神話でも、西洋の神話でも、昔から語り継がれていることだ。振り向くと、見てはいけないものを見てしまうからだとか、情念がその場所に残ってしまうからだとか、また引き戻されてしまうからだとか、様々な説がある。しかし僕は、これは形式的な、儀式的なものだと考えている。子供から大人へ成長するときの通過儀礼のように、この世界から違う世界へ旅立つ通過儀礼。だから特に意味はない。けれど、何が起こるかわからないから、決して振り返ってはいけない」
男は手を放した。
「さあ、今言ったことを心に留めて。決して振り返らず、進むんだよ」
夏芽は最後に、男を見て言った。
「お名前を、助けて下さった方のお名前を知りたいです」
男は懐から扇子を出すと、仰ぎながら言った。
「僕の名前は綺堂壱紀。さよなら、夏芽さん」
夏芽は綺堂に肩を押されて、トンネルの中へ進んだ。トンネルは薄暗く、気味が悪かった。明かりが見える。あの先に、元の世界はあるのだろうか。
トンネルを抜けると、夏芽を太陽の光が照らした。懐かしい温もりだ。登校ラッシュの人混みが、少し遠くに見える。戻ってきたのだ。“私の世界”に。
その時、夏芽ははっとして振り返った。
「綺堂さん、なんで私の名前を知っているの!」
しかし、トンネルの奥に、綺堂壱紀の姿はもう無かった。
「なーつめ!おはよ!」
突然背中を押され、夏芽は前のめりになった。振り向くと、親友の唐沢たかねが立っていた。
「どうしたの?狐に化かされたみたいな顔して。顔色悪いよ?」
たかねの顔を見た途端、夏芽は涙を止めることが出来なくなった。
「たかねぇぇぇぇぇ」
夏芽はたかねに縋る。
「ちょっと、なにがあったのよ」
たかねは笑いながら、それでも夏芽を抱きしめて、頭を撫でた。
黒髪短髪で背の低い夏芽とは正反対で、たかねは長身で茶髪、ロングヘア。二人は正反対のルックスであり、性格だったが、だからこそなのか、仲が良かった。
「たかねぇ、怖かったんだよぉ。お化けがたくさん居たの」
「うんうん、怖い夢を見たんだねぇ」
「違うよぉ。夢じゃないんだよぉ。夢だったかもしれないんだけどぉ」
「そうそう、じゃあ、歩きながらゆっくり聞くよ」
二人は歩き出して、登校ラッシュの波に呑まれて行った。
「で、お化けがどうしたの?」
「うん、朝気付いたら、妖怪の世界に居てね、人喰い女ってのに襲われたの。人間を食べるのよ。私の腕を、二本あるから一本くれとか言い出してね」
「何それ!怖!」
「その所為で遅刻……あれ?」
夏芽は時計の針を見た。八時十五分を指している。
「遅刻なんて、なーに言ってんの。寧ろ夏芽が、私より先に居たんだからびっくりしちゃったよ」
たかねは笑う。毎日ブルーの髪飾りを付けていて、それを触りながら喋るのがたかねの癖だ。
「でも私、妖怪の世界に二時間くらいはいたと思うんだけど……」
「だーかーら、夢だったんだって。それより、今日の放課後、野球部の練習見に行くの、覚えてる?」
夏芽はあの狂った針を思い出していた。ぐるぐるとまわり続ける、時計の針。まるで時間など存在しないように……。
「なーつーめ!」
はっとして、
「も、勿論!」
と慌てて答えた。
「キャッチャーの土田先輩見るために、お化けの世界逃げてきたようなもんだもの」
「えー!絶対宮本先輩でしょ!ピッチャーでしょ!」
「私は土田先輩派なの」
学校に着く。靴箱にはきちんといつものように、沢山落書きされたスリッパが並んでいる。元の世界に戻ってきた。“普通”の日常を取り戻した。夏芽はほっとした。あの恐ろしい世界も、綺堂壱紀という名前も、脳裏で少しずつ薄れていく。
これは、とある普通の少女が体験した、ひと夏の奇妙な物語である。
二、
夏芽が奇妙な体験をしてから一週間が経とうとしていた。あれは夢だったのだ、そう思い始めたのも束の間、夏芽の脳裏を揺さぶる恐ろしい事件が、現実世界では起きていた。
『新たに被害者が出てしまいました』
ニュースキャスターがマイクに向かって言う。事件現場は夏芽の住む町の隣町、被害者は、夏芽の学校の生徒だった。
―――人喰い惨殺通り魔事件―――
世間はこの事件をそう呼ぶ。何故なら、見つかる遺体には、まるで獣に襲われたかのような歯形が残っているのだ。見つからない部位もあるという。歯形の大きさから考えて、やはり人間の犯行らしいのだが、だとしたら犯人は、被害者を襲って“食べている”ことになる。
「怖いわねえ」
夏芽の母、春代が言った。
「学校、お休みにしてくれないかしら。もう二人も襲われているのよ」
「多分、今日から休みになるよ」
夏芽は朝食のパンをちぎって口に入れながら言った。
「流石に、怖いよね」
「なっちゃん、気をつけて帰ってくるのよ?被害者の子に、なっちゃんの知り合いはいないわよね?」
幸い、知り合いは皆無事だった。
「でもなっちゃんの学校の生徒が二人も襲われるなんて。やっぱり、なっちゃんを学校に行かせるの、お母さん嫌だわ」
春代は夏芽に抱きついた。
「大事ななっちゃんが怖い目にでもあったら」
「やめてよお母さん、私、大丈夫だから。それに、多分今日は学校早めに終わると思うからさ」
夏芽は春代を押しのけて、
「じゃ、行ってくる」
とスクールバッグを手に玄関に走った。
「あ、おかあさん、新しいローファー買っといて」
家を出る間際に、夏芽は思い出したように言った。
「はいはい。気をつけてね」
最後まで聞かず、夏芽は学校へ急いだ。
暫く走ると、たかねの後ろ姿が見えた。
「たかね!」
夏芽の声に振り向くと、
「あ、夏芽、おはよ」
いつも通りにたかねは笑った。
「たかね、また襲われたってね!」
「人喰い事件でしょ?あれ、ほんとに人なのかなあ?でっかい熊とか、そういうのにやられたんじゃない?ほら、この街、に森に囲まれてるじゃん」
「違うよ、私、犯人は“人喰い女”だと思うの!」
一瞬間を開けて、たかねは腹を抱えて笑った。
「もう、夏芽はほんとに“オカルト”が大好きだね。そんなの居るわけないじゃん」
「居るのよ!居たの!私会ったって、この前言ったじゃん!」
「あれは夢だよ。あ、もしかしたらこのことを予見してたんじゃない?そうだとしたら夏芽、サイキックだよ!預言者!そっちの方が凄い!」
「違うって!」
「それにね、お化けなんてこの世にいないの。知ってる?口裂け女の話。あれはね、子供が夕方出歩かないように、保護者が考えた作り話なんだよ。だから口裂け女は、夕方とか夜しか出ないの」
「それとこれとはまた話が違うじゃない」
二人はなんとなく言い合いながら、地獄坂を上る。すると、後ろから、
「おい、二人とも」
聞ききなれた声がした。担任の教師、平沢利夫だ。
「あ、先生おはようございます」
「利やーん」
たかねは平沢に抱きついた。
「ちょ、ちょっと唐沢君……」
平沢は顔を赤くして、慌ててたかねを引き離した。
「通学路で、ほら、みんな見てるじゃないか。ああ、恥ずかしい。それに、そのネックレス。校則違反だぞ」
たかねの首元に、エメラルドのネックレスが緑色に光っていた。先日“彼氏”からもらったのだそうだ。どうやら他校の生徒の様で、夏芽はたかねの“彼氏”に会ったことが無かった。
「すみません、先生、たかね、ちょっと頭のねじ落としてきちゃったんです」
夏芽は慌てて謝る。たかねは悪びれる様子もなく、
「利やん隙だらけだからあ。それにこのネックレスは、命よりも大事なものだからたかねの首から離れないのですう」
と笑った。
平沢利夫は国語の教師で、夏芽のクラスの担任だ。身長一七五センチメートル位の細身で、整った七三分け、眼鏡をかけている。歳は三十五くらいだろうか。トレードマークは緑の背広。夏でも欠かさず、着ている。優しい性格に、気の利いた面白い授業。生徒達からの評価はかなり高かった。
「担任教師に抱きついて、保護者に苦情が行ったらどうするんだ」
「ええ、そんなこと気にしてたの?利やん、ダサー」
「たかね!」
夏芽は一喝した。
「そんなことより先生」
夏芽は二人の間に割って入ると、平沢を見上げた。
「昨日もひとり、亡くなったみたいですね?」
「ああ。三年生でね、頭もよくて進路も決まっていたんだが……残念だよ」
色白の肌をさらに青くして、平沢は眼鏡のフチに手をかけた。
「犯人が許せないね」
「二人とも、ここの生徒だって」
「ああ。先生も知っている生徒たちだったから、非常に、残念だ」
平沢は悔しがっているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない表情を曇らせた。
「昨日の夜、臨時で職員会議があってね、今日は全校集会だけ行って、下校することになったよ」
「そりゃそうですよね……」
最もだ。この学校の生徒が二人も襲われ、死んでいる。三人目がいつ出てもおかしくない。少なくともこの地域の周辺の人物が狙われているのは確かだ。まだ二人だから断定はできないが、この学校の生徒“のみ”を標的に犯行を行っている可能性だってある。
「利やん、利やんはどんな人が犯人だと思う?」
たかねは夏芽を挟んで顔をのぞかせた。
「そうだな……」
平沢は眼鏡を曇らせて、拳に顎を乗せた。
「異常で、残忍な性格のやつじゃないかな。兎に角、許されないことだ」
いつになく、怖い顔だった。それだけ生徒思いの先生なのだ。夏芽は改めて、良い担任を持ったことを誇りに思った。
張りつめた空気を壊すように、たかねが明るい調子で言った。
「夏芽ったらね、妖怪が犯人だって言ってるんだよ!」
「た、たかね……」
「妖怪?」
平沢は目を見開いて、それから少し笑った。
「まあ、確かに、こんな残虐な犯罪を犯す奴は、最早人間なんて呼べない、妖怪と呼んだ方がいいかもしれないね」
「利やん、うまくまとめたね!」
玄関までつくと、平沢は教員用入口の方へ去って行った。
「やっぱ、利やん、頭いい」
「そりゃ先生だもん」
夏芽とたかねは上履きのスリッパに履き替え、教室へ向かった。
九時になると、平沢は教室に現れ、全員をまとめて体育館へ向かった。全校生徒が集められた体育館は、蒸し風呂のように暑かった。校長の長話を聞く。いつもは退屈な話でほとんど耳を貸さないが、今日は“殺人事件”がテーマという事で、皆興味津々だった。
亡くなった生徒の友人たちのすすり泣く声も聞こえる。夏芽はざわざわと楽しげに騒ぐ生徒たちと、悲しみに打ちひしがれる生徒たちの狭間で、複雑な思いを抱えていた。
夏芽は犯人を知っている。犯人は確実に、人喰い女”波奈野目優子”だ。あの日、夏芽が人間世界に戻ってきたのを機に、ついてきてしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、この事件の発端は夏芽にある。途端、罪悪感で心臓が握りつぶされるような感覚に陥った。
いつの間にか校長の話は終わり、夏芽たちは平沢に先導されて教室に戻った。皆が席に着いたのを見ると、平沢は廊下側から、プリントを配布する。
「みんな、落ち着いて聞いてくれ」
歩きながら、平沢は言う。
「昨日被害に遭った生徒も、三日前に被害に遭った生徒も、先生の教え子だ。先生は今回の事件で、これ以上被害者を出したくない。君たちは特に、先生の大事なクラスメイトだ。だから絶対に、こんな目に遭わないように、危ない行動は控えること、夜ひとりで出歩かないこと。約束してほしい。君たちに何かあったら、親御さんだけでなく、ここに居る全員が悲しむという事、忘れないでくれ。いいね?」
平沢がこんなに熱血的に喋るのを聞くのは初めてだった。いつも温和で優しい発言しかしない平沢が、怒りに燃えている。ただ事ではないんだ。生徒たちは改めて、今回の事件の重大性を思い知った。
「これでホームルームは終わり。犯人が逮捕されるまで、学校は休校。でも」
少し間を置いて、平沢は突然、いつものように笑った。
「その分宿題はあるからね?」
平沢の冗談に、生徒たちは線が切れたように一気に「えー」とか「そんなー」とか言って騒ぎ始めた。張りつめた生徒たちの空気を、優しくほぐす。これも平沢の出来る“技”だった。
「先生ってすごいな」
「何が?」
夏芽の呟きを聞いて、たかねが言った。
「だって、さっきまであんなに怒ってるように見えたのに、今じゃこんなに生徒たちを和ませてる」
「利やんだもん」
たかねは何故か、鼻が高そうに笑った。
ホームルームが終わり、学校を出て地獄坂を下る。学校中の生徒が一気に下校するため、地獄坂は満員電車のように混雑していた。地獄坂の一番下で、体育教師の鷲島が竹刀を持って、生徒一人一人にさよならを言いながら見送っている。
「利やんに比べて鷲島って、あの風貌にしては人望がないよね」
「言えてる」
二人はひそかに笑った。
夏芽は家から徒歩で通学だが、たかねは途中からバスだった。今日のバスは混雑していそうで、気の毒だ。
「夏芽、先帰っていいよ。私、次の次のバスくらいに乗るや。混んでるの嫌だし」
「分かった」
夏芽は言うと、たかねに手を振った。
「変質者に襲われないように、気をつけてね」
「お互いに」
帰宅すると、春代がキッチンから飛んで出てきた。
「なっちゃん!無事でよかったー!」
夏芽を抱きしめる。春代は、過保護にも程があるのだ。
「お母さん、大丈夫だから。それより、ローファー新しいの買っといてくれた?」
「そんな時間なかったわよ。それになっちゃんが心配で、ずっとテレビ見てたから」
嘘つけ。買いに行くのが面倒だっただけだ。夏芽は溜息をついた。
「まあいいや。犯人が捕まるまで、安全策を取って休校だって」
「そう!それはよかった」
春代は安堵しているようだった。
「さて、お昼作らなくちゃね」
春代は夏芽をやっと放すと、キッチンへ向かった。やれやれ。ローファーは通販で買うとしよう。
その夜の事だった。
「ただいまー」
父の冬吉が帰宅する。
「おお、夏芽、無事だったか」
「何よ、襲われた方が良かった?」
「そんなこと言って無いだろ」
ははは、と冬吉が笑った。
夜崎一家は名前が面白い。母は春代、父は冬吉。だから最初に生まれてくる子は、男の子だったら秋に矢と書いてシュウヤ、女の子だったら夏芽にしようと決めていたそうだ。何とも安直な名前の付け方であるが、そもそも、春と冬の名前を持つ者同士がカップルという時点で奇妙で面白い。
―――結局一人っ子だから、私も秋の名前の付く人と結婚したりして……。
夏芽はふとそんなことを考えてぞっとした。
その時、夏芽の携帯電話がぴりり、と音を立てた。たかねだ。夏芽は通話ボタンを押すと、明るく、
「もしもーし」
と言った。
『夏芽っ』
その声はいつもの、お調子者のたかねでは無かった。
「どうしたの?」
『私……』
たかねは声を潜めて喋っているようだった。状況が読めない。
『私、見ちゃったの』
「何を?」
『……人喰い女』
「えっ?」
全身に痺れが走るのを感じた。
「人喰い女を見たって、もしかしてたかね、まだ家に帰ってないの?」
『今……帰宅途中……』
「何やってんのバカ!近くに交番か何かないの?」
『ないよ。てか、私は、大丈夫、たぶん。でも……』
「でも?」
『食べられてたの、二組の麻奈ちゃんだった』
夏芽は言葉を失った。二人は三組。二組は隣だった。佐々木麻奈とは選択体育のバドミントンで一緒で、夏芽もたかねも仲が良かった。
「そんな……どうして……」
佐々木麻奈は明るい性格で、クラスにも、他クラスにも友人が大勢いた。彼女の死を悼む人は、数知れないだろう。
「たかね、とりあえず、警察に言おう、人喰い女の事」
『警察には通報した。でも、ダメだよ、夏芽。人喰い女の事は言えない。だって、妖怪だよ?私の目の前で、ふわって、浮いたの。絶対に、人じゃなかった。お化けだった。そんなこと、警察に言っても信じてもらえるわけない。でも、夏芽なら……信じてくれると思って』
たかねは泣きながら、
『私、どうしたらいいんだろう……麻奈ちゃん、麻奈ちゃんが食べられているのに怖くて近寄れなくて、助けてあげられなかった……』
「たかね、そんなの、誰だって同じだよ、仕方ないよ。悪いのはたかねじゃない。悪いのは……」
―――波奈野目優子―――
夏芽は拳を握った。
「たかね、すぐに警察に保護してもらって、親に迎えに来てもらうんだよ!私が、私が犯人を捕まえて、この事件を終わらせてみせるから!」
『何言ってんの?夏芽。私はそんなつもりで夏芽に電話したんじゃ……』
「ううん、私、馬鹿だった、逃げてた。犯人が人喰い女だって知ってて、知ってて逃げてた。妖怪だから、私には何もできないって、自分に言い聞かせてた。でもその所為で、私が放置したせいで、私の友達は、死んでしまった」
『……夏芽』
「いいね?たかね。私、たかねまで失いたくない」
『何か、アテがあるのね?』
「……うん」
あの人なら、助けてくれる。そんな気がした。
―――綺堂壱紀―――
夏芽は電話を切ると、駆け出した。春代と冬吉が、驚いた様子で夏芽を見る。
「なっちゃん!何処へ行くの!」
「夏芽!こんな時間に、危ないじゃないか」
二人の声が後ろから聞こえてくる。しかし、それどころではない。一刻も早く、“あの場所”へ行かなければいけない。夏芽は玄関で靴を履くと、そのまま家を飛び出した。冬吉と春代が夏芽を追うように家から飛び出してくる。夏芽は振り返ることなく、八千代トンネルにめがけて走った。暗闇の中、あの日夏芽を暗黒の世界に誘ったトンネルが、不気味に口を開けている。夏芽はスピードを緩めることなく飛び込むと、向こう側にかすかに見える光に向かって駆けた。
トンネルを抜けた。
―――――――――。
そこは、以前来た時とは別世界のようであった。至る所に提燈が吊られており、道の両脇に屋台が広がっていた。“街”は人や妖怪で賑わっている。恐怖というよりも、幻想的な美を感じた。
暫く立ち尽くしていた夏芽は、はっとここに来た目的を思い出した。
―――綺堂壱紀を探さなきゃ。
人混みの中、歩き出す。屋台には、様々なものが並べられていた。地べたに着物を置いて売っている者もいる。カエルやトカゲの干物を串刺しにして並べている者もいる。
「御嬢さん御嬢さん」
声をかけられた。
「あんた、人間だね?どうだい、食べると妖怪……の気分になれる飴玉だよ。人間のアカと蛇の心臓で出来ているんだ。三十分だけ、妖怪になれるよ」
「……いえ、間に合ってますから」
妖怪になんかなりたくもないし、なりたかったとしても今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。夏芽は先を急いだ。
夏芽が通るたび、屋台や周りの“人々”が盛り上がる。
「人間の臭いだ!」
「妖怪の世界へようこそ」
今や、然程怖いと思わなかった。祭りで賑わっている所為だろう。夏芽はあの日とは違って、堂々と祭り街道を歩き続けた。その内、妖怪たちの夏芽への興味も無くなってきた。夏芽は街道を進みながら、あの紺色の着物姿を探した。
―――居ないなあ。
その時、不意に右手を引っ張られ、夏芽は立ち止まった。振り返ると、夏芽の肩位の身長の、小学生か中学生くらいの丸刈りの男の子が、にっこりと笑って夏芽を見ていた。
「お姉さん、誰かお探しですかい」
愛想のいい笑顔に、夏芽は思わず頷く。それから先日の恐ろしい体験を思い出し、慌てて少年の手を振り払った。
「あ、いえ、別に」
「そんなに警戒しないでくださあ」
少年は笑った。
「お姉さん、誰かお探しなんでしょう?」
夏芽は迷った。人喰い女は頼みごとをすると対価を求めてくる。他の妖怪もそうだったらどうしよう。しかし、このだだっ広い異世界の空間で、闇雲に綺堂壱紀を探したところで、見つかる可能性はミジンコ以下だ。
思惑に思惑を重ねた挙句、夏芽は思い切って頷いた。
「はい……」
「はい、なんて、敬語は使わないでくださあ。おいら、姉さんの肩までしか背がないんですぜい」
「あ、じゃあ、うん……」
「で、誰をお探しなんでえ」
「あの、紺色の着物を着ていて、背が、そうだなあ、百八十センチメートル位あって、黒髪で……」
「へ?それって、綺堂の旦那の事じゃないですかい?」
「そ、そうです!綺堂壱紀さん」
少年は肩をすくめた。
「なあんだ。綺堂の旦那なら今日は家に籠りっきりでさあ」
「そうなの?こんなに皆……お祭りで楽しそうに騒いでいるのに」
「綺堂の旦那は祭りが大の嫌いでね。年の内の三百日が祭りだってのに、祭りの日は家から一歩も出ないんでさあ」
「三百日間お祭り!」
「俺ら妖怪は、祭りが大好きなんでさあ」
少年はにっこり笑った。
「あの、じゃあ、今日は綺堂さんに、会えない?」
不安そうに眉を歪める夏芽を見て、少年は腕を組んだ。
「うーん、会える可能性は、低いでしょうねえ」
「そうかあ……」
「でも、お姉さん美人だし、おいら、綺堂の旦那の一の子分なんでさあ。だから二人で頼み込めば、会えるかもしれやせん」
美人、と言われて夏芽は少し顔を赤らめた。
「どうしやす?行ってみやすか?」
夏芽は頷いた。
「ちょっとでも可能性があるなら。凄く重大な用事なんだ。だから、行ってみる。もしだめなら、また違う日に来ればいいし」
少年は微笑んだ。それから、
「おっと、いけねえ、自己紹介が遅れやした。あっしぁ、“ぎょろ眼の辰之助”。綺堂の旦那はぎょろ眼って呼びます。辰之助でもなんでも、好きなようにお呼び下せえ」
「じゃあ、辰之助くんって呼ぶね。私は、夜崎夏芽。よろしくね」
「よろしくお願いしまさあ、夏芽姉さん。そいじゃ、行きやしょうか」
辰之助は夏芽の手を取って歩き始めた。いい子に出会えてよかった。そう思った矢先、夏芽は辰之助の後頭部を見てぎょっとした。
辰之助の後頭部には、拳一個分くらいの大きな“ぎょろ眼”がついていた。
夏芽は心の中に悲鳴を隠した。仕方がない、この世界は”妖怪”の世界なのだ。一々驚いてはいられない。夏芽はぎょろぎょろと動く辰之助の後頭部の眼と視線が合わないように、ずっと先の方を向いて歩いた。冷や汗が頬を伝った。
暫く歩いた。祭りの賑やかな灯篭や人々が灯す提燈は、何処まで行っても途絶えることがない。本当に、街中が祭りなのだ。いや、世界中が、祭りなのだ。
突然、辰之助が立ち止まった。明かりの中に、一か所だけ、屋台が並んでいない路地に、ぽつりと民家が在った。二階建ての立派な民家で、瓦屋根で戸はガラスの引き戸だった。“田舎のおばあちゃんの家”を連想させる。
辰之助は二階を見上げて、叫んだ。
「旦那―!旦那―!綺堂の旦那―!」
返ってくる声はない。今度は辰之助はガラスの引き戸に近寄ると、思い切りそれを叩き始めた。
「旦那―!旦那―!綺堂の旦那―!」
尚も返答はない。辰之助は諦める様子もなく、ガラス戸を叩きながら叫び続ける。
「旦那―!旦那―!綺堂の」
「五月蝿――――――――い!」
ガラン、と勢いよく二階の窓が開いた。綺堂壱紀は項垂れた様子で、右手で額を押さえていた。
「五月蝿い五月蝿い五月蝿い!五月蝿いぞ、ぎょろ眼!僕は五月蝿いのと祭りとお前が大嫌いなんだ!ああ、なんて厄日だ、災難だ。一年の内三百日が祭りだって?ふざけるな!僕の安息はいつになったら訪れるんだ!」
綺堂は明らかに機嫌が悪そうだった。辰之助はそんなことなど気にも留めない様子で、
「旦那あ、今日はお客さんをお連れしたんでさあ」
「客だと?ふざけるな!こんな不快な日に不快なものをよこすんじゃない!」
綺堂は怒鳴って、辰之助を見た後、夏芽の存在に気付き目を見開いた。
「……おや?君は」
「どうも。綺堂さん」
夏芽は頭を下げた。少し間を開けて、綺堂はあの時のように、ははは、と笑った。
「なんだ、客だというから、またあの不快なルポライターやら何やらが来たのかと思ったよ。夏芽さんなら、大歓迎だ。ささ、中に入り賜え」
綺堂がそう言うと、辰之助は「へい」と言って、勝手に引き戸を開けて中に入った。
「綺堂の旦那が祭りの日に客人を家に入れるなんて、夏芽姉さん、相当綺堂の旦那に気に入られてるんですねえ。うらやましいでさあ」
辰之助は振り返りながら言った。綺堂が階段を下りてくる音がする。夏芽は玄関をくぐりながら、線香の懐かしい匂いにうっとりとした。やはり、おばあちゃんの家、みたいだ。
「夏芽さん、さあ、遠慮なく上がり賜え」
言われて夏芽は、慌てて靴を脱いで、家の中へ入った。床は畳張りの綺麗な作りで、壁の色は黒に近い茶色をしていた。客間の真ん中に、大きめの卓袱台がある。綺堂と、辰之助も既にそこに座っていた。
「お、お邪魔します」
「どうぞ」
言ってから、綺堂はキッと辰之助を睨み付けた。
「お客さんに茶を出せ。気の利かん奴だ」
「へい、すいやせん!」
辰之助は立ち上がり、台所へ向かった。
「夏芽さん、もう来ちゃだめだよって、言ったじゃないか」
綺堂は言った。
「ここは君みたいな、普通の女の子が来るところじゃないんだよ。妖怪の世界だ。それに君は……」
綺堂は鼻をひくひくさせてから、おや、と顔を歪めた。
「人間の臭いがほとんど消えているね?まだここに来るのは二回目のはずだろう?」
「人間の臭いが消えている?」
夏芽は困惑した。
「じゃあ、もう人間の世界に帰れないんですか?」
「いや、別にそう言うわけじゃない。君がこの世界に馴染んだ、というだけのことだ。だが……」
綺堂は腕を組んだ。
「余りに早すぎる」
辰之助が冷えた麦茶をお盆にのせて戻ってきた。
「君は何か、“特異”な体質なのかもしれないな。霊力が強い、とか。興味深い」
「そんなことより、夏芽姉さんは、何で旦那を探してたんでさあ」
麦茶を夏芽の目の前に置きながら、辰之助は言った。
「その前に、旦那の事を、なんで知ってたんでさあ」
夏芽は麦茶を一口飲むと、言った。
「あのね、一週間くらい前にね、ここに迷い込んだの。そこで人喰い女っていうお化けに襲われてる私を、綺堂さんが助けてくれたんだよ」
「人喰い女?」
辰之助は惚けた顔をした。
「人喰い女が人を襲うなんざ聞いたことありやせんぜ?ねえ、旦那」
「まあ、そうだな」
「え?でもあの時綺堂さん、人喰い女は危険だって」
「だって人喰い女はお人よしなんですぜ?それに、人喰い女の主食は“死肉”。生きている人間なんか喰いやせんぜ」
「でも……」
「まあ、あの時は」
綺堂は目を閉じた。
「あの時はいろいろとあったからな」
二人とも、何のことを言っているのかわからない。
「でも私……」
それから思い出したように夏芽は立ち上がった。
「私、綺堂さんに相談が合って、今日来たんです。実は、人間世界で、人喰い女が暴れてるんです」
二人が同時に夏芽を見た。それから顔を見合わせて、ははは、と声をあげて笑った。
「何を言っているんだ、夏芽さん。人喰い女はね、この世界から出られないよ。ただでさえあの辺鄙で気持ちの悪い“自宅”から出られない引きこもりなんだ。そんな人喰い女が、人間世界に出て、しかも暴れるなんて信じられない」
「でも、もう二人も犠牲者が出てるんです。いや……三人。みんな体に食いちぎられたような歯形がついていて、どう考えても人間が食べたとしか思えないっていう警察の見分が出てるんです。人喰い女がやったとしか思えません」
「夏芽さん、辰之助が言った通り、人喰い女は死人しか食べない。しかも、“本当に食べているのかどうかは分からない”んだよ。妖怪って言うのはね、人間の妄想や幻想からつくられるんだ。人喰い女が誕生した謂れは、昔、戦場で死人の肉をあさる女を誰かが目撃した、という証言。当時は飢饉なんかで貧しかったから、本当に死人を食べていたのかもしれないし、追剥をしていただけかもしれない。もしかしたら木の影が揺らめくのがそう見えてしまっただけかもしれない。人喰い女って言うのは“虚像”なんだ。妖怪ってものはみんな、人間が作り出した“虚像”。わかりやすく言えば、人間の想像でしかない。実態を持たない“あれ”が、人間世界に出て実際に人を喰らうなんて、不可能だよ」
「でも、目撃情報だってあるんです。私の親友が、人喰い女が人を食べているのを見たって、そう言ったんですよ!」
「だとしたら、虚言だよ。妖怪たちは人間を驚かすことしかできない」
綺堂は懐から扇子を取り出し、仰いだ。
「人間というものは、恐ろしいものだ。なんでも作ってしまう能力を神から授けられた。そして、要らなくなったら容赦なく捨てる。生があるモノでさえ捨ててしまうのだから、そうでないモノは勿論、容赦なく暗黒に放り込んでしまう。人間が勝手に妄想で作り上げた妖怪たちが、この世界に住んで生活している。この世界はね、向こうの世界で人間が必要ないと判断したモノたちが集まる、虚像の世界なんだよ」
辰之助が続けた。
「あっしも、昔はお金持ちの御曹司のお気に入りのおもちゃでした。でもある日、この後ろに“ぎょろ眼”を書かれて、それを気味悪がった親が、あっしを燃やしちまったんでさあ」
切なげだった。
「夏芽さん、人間ほど、怖いものはないんだよ」
綺堂は念を押すように言った。
「でも……でも!」
夏芽は拳を握った。
「友達が、殺されたんです。それを見てしまった親友も、いつやられるかわかりません。人喰い女が犯人じゃないって言うんなら、私、どうすればいいんですか……折角、怖い思いまでしてここまで来たのに」
夏芽の目から涙がこぼれた。
「また、友達を救えないかもしれない……」
「夏芽さん」
綺堂は扇子を閉じて、カタン、と卓袱台に置いた。
「君が泣くなんて、余程大事な友達だったんだろうね」
夏芽は袖で涙を拭った。最初から、間違っていたのだ。妖怪なんて、いる筈がない。その妖怪が、犯人の筈ない。ホラー映画の見過ぎだ。夏芽は自分を責めた。
少し間を置いて、綺堂は言った。
「確かめに、行ってみるかい?」
「え?」
「人喰い女のところに」
辰之助がうれしそうに立ち上がった。
「旦那あ、そう来なくっちゃ!」
「女性の涙をただ見ていられる綺堂じゃない。君がそんなに親友を思うのなら、真実を追求したいのなら、人喰い女に会うのも一つの手かもしれない。人間世界で、しかも君が迷い込んだすぐ後に、事件は起きているのだろう?もしかしたら、その事件、人喰い女が一枚かんでいるかもしれないしね。それに、あの日は“異常”だったんだ。それは人喰い女に会ってから話すことにするけれど」
綺堂は笑った。
「さあ、そうと決まったら、支度だ」
立ち上がる。それから夏芽の肩に手をかけると、力強く言った。
「君を泣かせたこの事件、僕が解決してみせよう」
三、
綺堂、夏芽、辰之助の三人は、祭りで賑わう街の中央通りを歩いていた。人間の臭いが薄れてしまった夏芽に目をくれる妖怪は最早居ない。綺堂は終始、扇子で顔を隠しながら歩いていた。眉間に皺が寄っている。祭りが余程嫌いなのだろう。夏芽は辰之助に、
「綺堂さん、お祭り相当嫌いなんだね」
「旦那は生まれてきたときから祭りが嫌いなんでさあ。誰も理由は知りやせん。聞いても、教えてくれないんでさあ」
辰之助は残念そうに肩をすくめた。
「姉さんは祭りは好きですかい?」
「うん!大好きだよ!お祭り、毎日行きたいくらい!賑やかだし、楽しいし」
夏芽は目を輝かせた。
「私の街には、お祭りが年に三回しかないの。夏祭りと、秋の収穫祭と、冬の霜月祭り。だからその百倍もお祭りがあるこの街が羨ましいよ」
「じゃあ姉さん、今度綺堂の旦那に内緒で、二人で祭り行やしょうよ」
「夏芽さん」
唐突に綺堂が言った。
「妖怪というものはね、人間を驚かすために人間が作り出した幻想だ。それ故に、向こうの世界で人間を驚かすことは出来ても、自ら手を下すことは出来ない、それは先ほど言ったね?でも、妖怪が現れることで、人間世界に“影響”を及ぼすことはある。僕はそれを懸念している」
「影響って、例えばどんなですか?」
「それは、今君が感じているようなことさ」
「私が?」
「ああ。妖怪がやったと思い込んで、本物の犯人を野放しにしてしまうことがあったとしたら、それほど恐ろしいことはないだろう。人間は今まで、何かと妖怪や神の所為にして生きてきたのだから。まあ、人喰い女が本当に人間世界で人を殺していたとしたら、話は解決するがね」
言ってから夏芽の見えないところで、綺堂は辰之助の耳を引っ張った。
「旦那!痛いですってい!」
「いいか、夏芽さんにちょっかい出すことは僕が許さない」
「へ、へい、すいやせん、そんなつもりじゃ」
夏芽は物欲しそうに、綿飴屋を見ていた。綺堂はその横顔に気付くと、綿飴屋の娘に、
「綿飴二つ」
「お兄―さんありがーとう。三文だーよ」
おかっぱ頭の娘は、綺堂に綿飴を二つ手渡した。よく見ると、先日“あの学校”で出会った“座敷童”である
―――アルバイトかなあ?
座敷童は夏芽を見ると、
「あー。あの時の人間だー」
と言ってにっこり笑った。
「夏芽さん」
綺堂は綿飴を二つ差し出すと、
「君にあげるよ」
「旦那、旦那、あっしの分!」
「ぎょろ眼の分は無い」
ぶっきらぼうに言ってそっぽを向く綺堂。夏芽は苦笑しながら、綿飴を一つ辰之助に渡した。
「夏芽姉さん……恩にきりますぜい」
「いや、綺堂さんも、最初から辰之助くんにあげるつもりで二個買ったんだと思うよ」
夏芽は笑った。きっと、綺堂は照れ屋なのだ。特に、辰之助に対して。綿飴を口に運びながら、綺堂にもそんな可愛らしい一面があるのだと思うと、夏芽は微笑まずにいられなかった。
綿飴を頬張りながら、突然夏芽の胸に切なさがこみあげてきた。この世界の住人は皆、人間の世界で不要とされて捨てられたものたちなのだ。今会った座敷童も、昔はよく怪談話に出てきたのだろうけれど、今は殆ど聞かなくなった。
「私、この世界の人たちに申し訳ないです」
綿飴を口に運ぶのをやめて、夏芽は下を向いた。
「私たち人間の身勝手な行いの所為で捨てられたものたち。その人たちが、行き場を失ってこの世界に来たんですよね?思い出したりしないんでしょうか。辛くないんでしょうか」
「夏芽さんがそんなこと心配する必要は無いよ」
綺堂は扇子で一仰ぎした。
「見てわかるとおり、この世界はこんなにも華やかで、賑やかで、楽しい―――まあ、僕は楽しくないが。捨てられたことを気に病んでいる妖怪なんて、一人も居やしないさ、人間を恨んでいる奴もね。寧ろ、この世界に満足している。奴らは奴らなりに、僕らは僕らなりに充実した生活を送っている。人間が、この世界の住人の事を思い出してくれるとしたら、勿論それが奴らの本望って奴だろうが、そうでなくても決して奴らは不幸じゃないんだよ。見てごらん、この祭りを。これが答えさ。笑っていないモノは一人も居ない。皆、ここでの生活を楽しんでいる。“セカイ”は平等に作られているんだね」
夏芽は、祭りで賑わう街並みを見回した。確かに、綺堂の言うとおりだ。向こうの世界の人間と同じように、いやそれ以上に、ここに居る妖怪たちの笑顔は美しい。穢れのない笑顔だ。
「さて」
綺堂は立ち止まった。
「もうすぐ人喰い女の家だ」
気付けば祭りの賑やかな雰囲気は何処かへ消え去っていた。辺りは薄暗く、生臭さが漂っている。夏芽は思わず鼻をつまむ。この臭いには覚えがあった。この場所は、あの時、人喰い女に連れ込まれた路地だ。夏芽は恐怖を思い出し、身震いする。地べたに無数の人間の頭部が転がる。吐き気がする、
「大丈夫ですかい?姉さん」
「うん……私、妖怪さんたちと違って、こういう、なんていうか、グロテスクなのやつ見慣れてないから……」
「グロテスク?」
言ってから辰之助は目の前に転がる頭を拾い上げてみせた。
「これですかい?」
思わず口を押える。辰之助は、死んだ人間の頭部を触っても平気なのだろうか。
ははは、と綺堂が笑った。
「夏芽さん、これは“人型”だよ。マネキン」
え?
思わず近寄って、よく見てみる。整った顔、首のキレイな断面、艶のない髪……。
「本当だ……」
「妖怪ってのはね、“イメージ”が大事さ。人喰い女は人を食べなければいけないだろう?口裂け女は口が裂けてなければいけない。ろくろ首は首が長くなければいけないし、座敷童は子供じゃなきゃいけない。これは人喰い女が人喰い女である為の演出だよ」
気味の悪い演出である。しかし、それがこの世界なのだ。綺堂はマネキンを蹴とばした。
「さあ、行こう」
転がるマネキンを見て、夏芽は、やはり気味が悪いことに変わりはない、と青ざめるのであった。
三人は歩みを進めた。暫く行った所に、この陰気で辺鄙な雰囲気とはあまりに異なる、豪華で立派な邸宅があった。赤色の屋根、庭には様々な種類の花たちが咲いている。レンガ造りのその家は、“人喰い女”という妖怪が住んでいるとは思えないほど、優雅であり、可憐な豪邸だった。
人喰い女の家には、綺堂の家とは違って、インターホンがついていた。この世界にもインターホンがあるんだ、そんなことを思っていると、綺堂はそれに目もくれず、ドンドン、と勢いよくドアを叩き始めた。
「おい!人喰い女!居るんだろう!出て来い!」
ドンドン、と尚も叩き続ける。
「おい!聞こえないのかこの人喰いめ!」
「き、綺堂さん、人喰い女に“人喰い女”は禁句なんじゃ……」
「ああ、あれは“虚言”だよ」
「へ?」
ドンドン、綺堂は夏芽の質問に答えながら、ドアを叩き続けた。西洋式の立派なドアだが、いつ綺堂に破壊されてしまうかわからない。
「おい!人喰い女!」
「うるっさいね!」
家の中から、金切り声が聞こえた。綺堂が一歩後ろに引くのと同時に、物凄い勢いでドアが開いた。
「綺堂壱紀!あんたね!こんな真夜中に五月蝿いんだよ!それも人喰い人喰いって、あたしゃその呼ばれ方が大嫌いなんだ!わかって言っているだろう!ええ?それにインターホンが付いているのが見えないのかい!あんたの目は節穴か!」
波奈野目優子は目を吊り上げて、そこまで一気に言い終えると、綺堂の後ろで待機していた夏芽と辰之助の存在に気付き、目を見開いた。
「おや、辰之助。どうしたんだい、こんな時間に、それに……」
夏芽を見て舌なめずりをする。
「あたしに晩飯でも用意しに来てくれたのかい?」
夏芽は後ずさる。
「この前逃した、あたしの獲物、今更返してくれるってのかい?綺堂の坊や」
恐怖が甦る。
『あんたの二本ある腕、一本おくれよ』
「優子さん、ひさしぶりでさあ」
辰之助が優子に微笑んだ。
「中々外に出て来てくんねえんで、あっしぁあ心配してやしたよ」
「人喰い、入るぞ」
綺堂は優子を押しのけて、玄関へ入った。
「なんだい!礼儀知らずだね」
優子は不快そうだったが、辰之助と夏芽を見て、
「こんな所まで来たってことは、あたしに大事な用があるんだろう?入りな。お茶くらい出してやるからさ」
と二人を招き入れた。まだ優子への恐怖を払拭しきれていない夏芽は、辰之助に肩を押されるようにして綺堂の後に続く。優子はそれを、不機嫌そうに見ていた。
優子の家の中は整理整頓されていた。路地の陰気な雰囲気や腐った臭いは全く感じられない。西洋式の螺旋階段、リビングの中央にある丸テーブルには白いレースのテーブルクロスが敷かれている。薔薇の香りが部屋中を包み込み、お洒落な化粧品屋にでも来たようだ。
優子に案内され、三人はリビングのテーブルに腰を掛けた。夏芽は通ってきた路地の様子と室内の雰囲気の違いに戸惑いながら、これから人喰い女と話すのだ、と緊張を隠しきれず、手の平を太腿の上にこすり付けてそわそわしていた。
もし優子が犯人だったら、夏芽も食べられてしまうのだろうか。しかし、綺堂は、『人喰い女は本当は人を食べない』と言っていた。いや、『食べないかもしれない』というようなニュアンスだったかもしれない。かもしれない、だとしたら、食べるかもしれないではないか。
脳内で夏芽の不安は増幅する。恐ろしい、悪夢だ。綺堂壱紀、彼だって、どこまで信用していいことやら。先程、人喰い女の対処法として以前夏芽に教えた事を、平気で『虚言』と言った。人間―――妖怪と人間の間の子―――でありながら、こちらの世界に住み、こちらの人間として生きている。夏芽と人喰い女、味方するなら、同類である人喰い女の方であろう。
優子はキッチンの方から、湯気の立つコーヒーカップをトレーに乗せて現れた。赤の着物姿で右側にたっぷりと結われた髪。人喰い女、という恐ろしい名前を連想させない、優雅で魅力的な姿だ。
ほっそりとした白い手は、爪が伸びていた。赤いマニキュアが光る。優子はコーヒーを一人一人に配り終えると、自分も椅子を引き、横向きに座った。
「西洋風の家に、着物姿で住むとは、この変人め。しかももうすぐ夏だぞ、こんな熱いコーヒー誰が飲めるか。気の遣えない女だ」
「坊や、口が達者になったもんだねえ。でも、これから人にものを頼もうってのに、その態度は無いだろう」
優子はふう、と息をついた。
「何か、話があるんだろう?あたしに」
それから夏芽を見る。
「そのお嬢ちゃんのことで」
夏芽は冷や汗をなんとか拭うと、小さく、震えながら頷いた。
綺堂は夏芽を見ながら、ゆっくりと頷いた。自分で話せ、と無言のうちに促しているのだ。夏芽は震える手をぎゅっと握りしめて、声を絞り出した。
「実は今、向こうの、あの、人間世界で、人が襲われて食べられるという殺人事件が連続で起こっていまして……。さっき、友達が襲われたのを、親友が目撃してしまって、親友曰く、あなたがやったんじゃないかって……あなたが人を食べているのを見たって、そう、言うんです……」
汗が顎まで流れて、ポツリ、とテーブルの上へ滴り落ちた。
「人喰い女さん、あなたが、犯人なら……もうこんなこと、やめてほしいなって、その……思って……今日、綺堂さんにここまで連れて来てもらったんです」
静寂が訪れた。カタカタ、とコーヒーカップが震える音がする。人喰い女が怒っているのだ。自分の“犯行”を暴かれて、激怒しているのだ。夏芽は人喰い女を直視出来ないまま、思わず身構えた。
「くくくくくく……ははははははは!」
思わず顔を上げる。人喰い女はコーヒーカップを手に取って、笑っていた。
「お嬢ちゃん、なんてったっけ?名前」
「な、夏芽です。夜崎夏芽」
「夏芽ちゃん。あんたね、とんでもない勘違いだよ。あたしゃ、死肉は食べても、人は殺さないっていうテイストの妖怪でね。人喰いなんていう紛らわしい名でこの街じゃ呼ばれてるけど、元々は“死人喰らい”とか“死人荒らし”とか呼ばれてた類の妖怪なんだ。そんなあたしが、人を殺す能力なんざ、持ち合わせているわけないじゃないか。もし、持ち合わせていたとしても、この世界でそんなことをするのは“禁忌”。綺堂の坊やに教わらなかったかい?あたしたちゃ人間に作られた存在なんだ。それを越えるようなこと―――例えば殺すこと、そんなことはできやしない。それがあたしたち、この街の妖怪なんだよ」
「でも、親友が、あなたを見たって言っているんですよ?ふわって浮いて、確実に人間じゃなかったって」
「それはきっと、怖くてそう見えただけさ。夏芽ちゃんだって、夜道を歩いていて、誰かにつけられているような気がして振り向くと誰も居ない、なんてことがあるだろう?人間は時に勘違いをして、在りもしない、あたしたち妖怪を妄想するんだよ。それに、その子、あたしを見たことがあるのかい?」
優子はコーヒーを啜った。
「でも!」
夏芽はテーブルを叩いて立ち上がる。テーブルが揺れて、コーヒーが波打つ。
「あの日、あなた、私を襲おうとしたじゃない!食べようとしたじゃない!それが何よりの証拠よ。誰がなんと言おうと、あの日のあなたのことを、私はちゃんと覚えてるんだから!」
「夏芽さん」
綺堂が夏芽の腕を優しく掴んだ。
「君の記憶に人喰い女が残っているのは、君を襲ったのが人喰い女だけだったからだ。本当はもっと大勢の妖怪で君を襲って、君を恐怖に陥れてから人間世界に帰すのが、ここのしきたり。でも、言っただろう、あの日は“異常”だったんだ」
綺堂はあんなに文句を言っていたのに、忘れたかのようにコーヒーに手を伸ばすと口に運んだ。
「あの日は所謂“審査”の日でね。人間世界の方からお偉い方が、妖怪たちを見に来る日だったんだよ」
「お偉い方?」
「まあ、所謂“ホラー作家”たちだ。ホラー作家にもいろいろいてね。自分でホラーを創作してしまって―――またこの世界に新しい仲間を作り上げる―――作家も居れば、この世界の中から面白そうな妖怪や怪奇を見つけてそれを作品にする作家もいる。後者に見いだされれば、その妖怪や怪奇は“いらなくなった”存在から脱し、元の、“向こう”の世界に帰ることが出来るんだよ。それは、妖怪たちには名誉なことでね。それ故に、年に六十五日しか開かない学校が開いて、妖怪たちはこぞって学校に赴いたのさ」
そうか、だからあの日、人気がなかったのか。綺堂は「妖怪たちは夜にならないと活動しない」と言っていたが、妖怪たちが学校に行っている時点で、いや、この世界の時計が狂っている―――時間を持たない―――時点で、その発言は矛盾していたのだ。
「嘘を吐いてすまなかったね」
綺堂は言った。
「僕は口から生まれてきたとよく言われるからね。あの日言ったことは殆ど嘘だから忘れてくれたまえ」
夏芽は肩をすくめた。本当にこの男は、信用に値する人間なのだろうか。少し不安になった。
「普段は、人間がひとり迷い込むだけで、妖怪たちは大喜びで脅かしに回って、二度とその人間がこの世界に迷い込まないように“優しく”元の世界へ帰してあげるんだけど、その日はそんな時間も余裕もなくてね。だから人喰い女のしたことが、本来であれば寧ろ正しいことだったんだ。人喰い女はね、いつも通り、夏芽さんを脅かしただけだったんだよ。でも、その日は違った。“いつも”じゃなかった。なのにこの馬鹿女は」
優子は顔を背けた。
「仕方ないだろう。あたしゃ引きこもりなんだ。そんな大事な日だったなんて、知らなかったんだよ」
「その日はね、その“お偉い方”のため“だけ“の“接待”の日だったんだ。だから他の一般人が紛れ込んでいるなんて知れたら、お偉い方、怒って帰ってしまうかもしれない。折角人間世界に戻れる妖怪が出るかもしれないというのに、台無しになってしまう。だから、いつも通りにゆっくり恐怖を夏芽さんに植え付けて……っていう作業をしているこいつから夏芽さんを奪って、迅速に元の世界へ導いたんだよ」
「じゃあ、あの日手を離さなかったのは、妖怪から私を守る為じゃなくて?」
「うん。“お偉い方”に君の存在を悟られないようにするためさ。君には悪いことをしたけれど、妖怪たちの未来がかかっていたからね。僕は奴らの思いを、誰よりもわかっている。救いのない人生ほど、しかも妖怪は死なないから終わりすら見えない、そんな人生ほど詰まらなく、苦しいものはない。唯一の光なんだ、奴らにとってのね」
「じゃあ、あの日、綺堂さんが言ったことは、全部嘘?」
ははは、と綺堂が笑った。
「殆ど嘘。人喰い女は対価なんか求めないし、この世界に時間なんてないから、妖怪は夜にならないと動き出さないってのも、嘘。妖怪がいなかったのは、みんな学校に行っていたから。人を驚かさない妖怪は消えてしまうというのも、嘘。そんなことを言ったら、この世界にいる殆どの妖怪たちが、消えてしまうことになるからね。悪かったと思っているよ。でも本当の事もある。人喰い女に『人喰い女』って言うと逃げていくって言っただろう?嘘と言ったら嘘だ、だってさっきから僕が人喰い人喰いと呼び続けても、こいつは逃げない。でも本当と言ったら本当。何故ならこいつは」
優子はもう黙っていられない、というようにテーブルを叩いた。
「あたしゃね、“人喰い女”って呼ばれるのが大嫌いなんだ!」
ははは、と綺堂が笑う。
「ほら、本当だろう?」
「坊や、コーヒー顔にぶちまけられたいかい」
夏芽は気が抜けてしまって、再び椅子にもたれ掛かった。綺堂壱紀は自分を守るために人喰い女から命がけで救ってくれた勇者だと思っていた。それが少し嬉しかった自分がいる。しかし、実際は夏芽ではなく、妖怪を守るための行動だった。しかも、あの日綺堂が夏芽に言ったことの殆どが嘘だった。夏芽はなんだか失恋をしたときの様な切なさで、胸が締め付けられた。
「そうですよね……見ず知らずの人間を助けるなんて、普通しないもの」
呟くように言う。綺堂はその様子を見ると、扇子を懐から取り出して、口元を隠した。
「んーまあ、でも夏芽さんが今日、僕の所に尋ねて来てくれた時はうれしかったよ」
夏芽は綺堂を見る。綺堂は目を左上にそらしながら、
「運命、を感じずにはいられなかったね」
「おや、珍しくご執心じゃあないかい」
優子はにやり、と笑った。それから夏芽を見ると、
「綺堂の坊やを“オトす”なんて、夏芽ちゃん、隅に置けないねえ」
「え?」
「おい、“人喰い”。そんなことより、何か情報はないのか。人間世界で、“人を喰らう”なんて、お前みたいな真似をする奴が出て来ている。余りに異常だ、奇異だ。お前が関係しているというのなら、素直に白状しろ」
綺堂は話を遮るように言った。
「人間が人間を喰らうなんて、小説でもあるまいし。しかも、夏芽さんの親友とやらが目撃しているんだ。もしかしたら、お前を模した何者かによる犯行かもしれん」
「あたしを模した?」
優子は吹き出す。
「有り得ないよ。あたしを模したとしても、だったら死人を喰らう筈だ。それに、もう何百年も、人肉は食べていない」
優子はリビングにある、螺旋階段を見上げる。天井にはシャンデリア、二階はテラスのように、このリビングを見下ろせる作りになっている。
思い出すような口調で、優子は語り始めた。
「あたしゃ、昔はね、人を怖がらせるために、戦場の跡地や墓地―――昔は土葬だったからね―――に現れて、死人をあさっていた。腐敗した臭い、脅える人間の悲鳴。快感だったよ。これがあたしが生み出された理由。人を怖がらせるためにあたしは生まれてきたんだ、そう思ったね。だから、毎日のように死人をあさった。でもある日、そんなあたしに、怖がることもなく近づいてきた人がいたんだ。その人はね、あたしの汚れた唇を指で拭って、そして抱きしめてくれた。あたしの正体はね、飢饉で飢え、苦しみの中餓鬼と化した、人間そのものだったんだよ。その人はあたしを抱きしめたまま、怖がらなくていい、と何度も言った後、人を喰らう事の醜さと悲しさを、あたしに説いたんだ。当時、人が人を喰らうなんて、あんたたちじゃ考えられないくらい、当たり前の事だったんだよ。でもその人は、それは間違っていると、あたしに教えてくれた。あたしはね、初めて“温もり”ってやつを感じた。この、生気のない妖怪として生まれて、初めて。その日から、あたしは死人を喰らうのをやめたのさ。人の前から姿を消したあたしは、だんだん人々の記憶から消えて行った。それで今、こうして、ここに居るんだよ」
「人喰い女という名を持ちながら、人を喰らわない妖怪。それがこいつ、波奈野目優子だ」
綺堂は腕を組んだ。
「優子さん……」
夏芽は感極まって、
「今の優子さんは、餓鬼なんかじゃない、醜くない、綺麗です」
「ありゃ、そりゃうれしいこと言ってくれるね」
優子は笑った。
「でも、今の話で分かったろう?あたしゃ、あんたたちの力にはなれないよ」
「夏芽さん、人喰いの言うとおりだ」
「だからその“人喰い”ってのおよしよ。しかもあたしゃ、あんたより何百年も年上なんだよ?“さん”くらい……」
「この事件の犯人は」
綺堂は優子を遮って言った。
「頭のいかれた人間さ」
―――人間……。
夏芽は頭痛を感じた。人が人を食い殺している。想像しただけで気持ちが悪い。吐き気がする。そんなことを平気でする人間がいるとしたら、妖怪なんかよりも性質が悪い。悪魔だ。
「夏芽ちゃん」
優子が夏芽の震える手を取った。
「あんたの親友、その子、『人喰い女を見た』って言ったんだね?」
「……はい」
「じゃあ、犯人は女かい」
それから顎に手を置くと、
「あたしゃ、その子が心配だよ、夏芽ちゃん」
と言った。
「見たってことは、近くにいたってことだ。近くにいたってことは、犯人の方も、その子の存在に気付いているかもしれない」
夏芽ははっとした。
「そうだ!たかね、確かまだ帰宅途中だって……」
「そりゃ、危ないんじゃないのかい」
優子は険しい顔で言った。
「人間ってのは、妖怪なんかよりも恐ろしい生き物だよ。何をしでかすかわからない。一人食い殺して満足しなかった犯人が、あんたの親友を狙っているかもしれない……」
「そんな!どうしよう、こうしている間にも、たかねが……」
立ち上がろうとする夏芽の手を、優子はもう一度握った。
「安心おしよ。この世界の時間は止まっている。帰る時も夏芽ちゃんがこの世界に来た時間と全く同じはずだよ」
「そうですか……」
そういえば、両親が夏芽を追って来ていた。心配しているだろうか、と心の片隅で思っていたが、時間が止まっているのならば安心だ。夏芽は動悸を落ち着けようと、コーヒーを一気に飲み干した。コーヒーは冷めてぬるくなっていた。
「あの、優子さん、疑ってすみませんでした」
夏芽は頭を下げる。
「いいよ。誤解もとけてよかった」
「“優子さん”だなんて、夏芽さんは律儀にも程がある。僕は“それ”を、名前で、しかも“さん”までつけて呼んだことは一度もないよ」
「“それ”とはなんだい。全く、頭にくる小僧だよ、この子は」
そんなことを言いながら、優子は「いつもの事だ」というように笑った。夏芽は、自分が同じ立場に置かれたら、きっと激怒するだろう、と、優子の寛大さに感服した。
「そろそろ行こうか、夏芽さん」
綺堂はコーヒーを飲み終えると、立ち上がった。夏芽と辰之助も続けて立ち上がる。そう言えば、優子の家に入ってから辰之助は一度も口を開かなかった。夏芽は広いリビングを歩きながら、辰之助に、
「辰之助くん、元気ないね」
と声をかける。辰之助は肩をすくめて、
「あっしぁ、コーヒーが苦手なんでさあ。でも優子さんとこにくると、いつもコーヒーが出てくるんでい。優子さんに嫌われたくなくて中々言い出せないんですが、今日も言えなかったなあ」
そんなことか!夏芽は拍子抜けしてしまった。妖怪とは全くもって繊細なものだ。
優子は玄関まで見送りに出ると、
「みんな、また遊びにおいでよ。あたしゃ人見知りでね、中々外を歩けない。だからこうやって、たまにでいいから遊びに来てくれるとうれしいよ。特に、夏芽ちゃん」
「もちろん!また来ます。コーヒー、ありがとうございました。でも……」
夏芽は辰之助の方をちらりと見てから、
「たまにはお紅茶とか、飲んでみたいな。優子さん、紅茶の趣味もよさそうだから」
「わかったよ。今度、とっておきのハーブティを用意して待っているからね」
辰之助は夏芽を見上げる。夏芽はそんな辰之助にウインクした。
優子と別れ、再び不気味な通路を通る。この奥に、あんな豪邸があるなんて、誰も想像できないだろう。綺堂は腕を組みながら、眉を寄せて難しそうな顔をしていた。
「綺堂さん、どうかしたんですか?」
夏芽が覗き込む。生臭い匂いも、ただの演出だと分かってしまえば、気持ち悪くもなんともない。綺堂は地面に転がるマネキンの生首を不愉快そうに避けながら、
「あの女、何か隠している」
と言った。
「え?そんな風には見えませんでしたけど」
「いつもの優子さんでしたぜい」
「いつもの”奴”が、自分の過去なんか語るか」
「それは、事情が事情だったから」
「いつもの”奴”が、あんなにぺらぺら喋るか」
「確かに、いつもの優子さんは無口でやすが」
綺堂は扇子を懐から取り出して開いた。
「兎にも角にも、奴が僕たちに言えない何かを隠していることは確かだ」
「えっ、じゃあ、やっぱり優子さんが犯人なんですか?」
「いや、それは、無い」
綺堂は扇子を閉じた。
「確実にだ」
「じゃあ、何を隠しているんです?」
「それは、現段階ではわからない。だが、奴は、“それ”を自分の口から言えないがために、僕たちにあんな長話を聞かせたんだよ」
「長話って、あの昔話の事ですか?」
「ああ、あれにはあっしも驚きやしたぜ。優子さん、見た目若いから、そんなに歳くってるなんて思いやせんでした」
「奴は、僕たちにあの昔話を聞かせることで、“自分は歴史がある妖怪なんだ”ということと“人間に救われた過去”があることを示した。僕はどうもそれが引っ掛かってね。態とその話を聞かせたようにしか聞こえなかった。奴は、自分ではどうにもできない“何か”に巻き込まれている可能性がある。それが人間世界で起きている事件と関わりがあるかどうかはまだ何とも言えないが……」
綺堂は顔を上げた。
「家に帰って調べてみる」
綺堂は歩く速度を上げた。
「調べるって、どうやって調べるんです?」
はぐれないように小走りしながら、夏芽は言った。すると辰之助が、
「旦那の家は図書館みたいに本でいっぱいなんでさあ。本も、人間に必要とされなくなったり、燃やされたりしたら、こっちの世界に来る。旦那はそれを集めてるんでさあ」
「ぎょろ眼、僕を古本オタクみたいに言うのはやめてくれないか」
「ええ、違うんですかい」
「僕は先人の知識を得るために、本を読んでいるんだ。本ほど有益な知識を得られるものはない。それに、本を読んでいると心が穏やかになり、脳も活性化される。健康的にもいい」
そう言っている割には、綺堂の顔は白く、不健康そうだった。
「綺堂さんって、勉強家なんですね」
「勉強家というより、本を読むのは、僕の宿命みたいなもんでね。一応、古本屋もしている。夏芽さんも、何か読みたい本があったら家に来ると良い。夏芽さんなら特別に、好きなものを譲ってあげてもいいよ」
夏芽は生憎、本を読むのは苦手だった。活字の羅列を見ていると、頭がくらくらしてきて、どうしても内容が頭に入ってこない。
「ありがとうございます」
一応礼を言ったが、夏芽は、漫画の古本があればいいのに、と思った。
あっと言って、綺堂は立ち止まった。
「そんなことより、夏芽さん、君はそろそろ家に帰った方が良い」
「え、でもこの世界の時間は止まっているんですよね?」
「時間は止まっているが日は変わる。日が変われば、向こうも同時に日が変わる」
そうか、三百日お祭りだとか、残り六十五日が休みだとか、暦が人間世界と同じなのにはそう言う理由があったのだ。
「日が変わる前に、早く」
綺堂は夏芽の手を取った。あの日のように早足で、夏芽の手を引いて歩く。
「旦那あ、あっしは」
「ぎょろ眼は家で待っていろ」
振り返らずに綺堂は言った。
賑わう祭りの人混みの中、はぐれないように繋がれた手。夏芽は、同じような体験をしたことがある気がした。
泣いている夏芽に手を差し伸べる少年。顔が思い出せない。少年は夏芽の手を取って……。
いつの間にか、トンネルの前に来ていた。
「多分、まだ日は変わっていない筈だ」
綺堂は言った。
「夏芽さん、向こうの世界には、恐ろしい殺人鬼がいる。僕が家まで送ろう」
「あ、いえ、大丈夫です」
夏芽は言った。
「実は、慌てて家を飛び出してきちゃったんで、両親が追いかけて来てて……。多分、トンネル出たら、会えると思うので」
「そうか。少し残念だが、まだご両親にあいさつするのは早すぎる気がするから、ここでお別れにしよう。夏芽さんくれぐれも、気をつけるんだよ。この事件、ただ事では無い、そんな気がする。だが、僕が絡んだからにはもう大丈夫だ。数日のうちに、この事件を解決に導く。約束するよ」
「ありがとうございます。私、明日、また来てもいいですか?」
「勿論だ。さあ、日が変わる。急いでトンネルを渡って。渡る時、決して振り返ってはいけないよ、いいね?」
「はい、綺堂さん」
夏芽は綺堂の手から離れると、トンネルを進んだ。後ろで、賑やかな祭りの音が聞こえる。それもだんだん遠のいていく。
綺堂は、まるで探偵のようだ、と夏芽は思った。綺堂に任せれば、この事件も解決されるかもしれない。夏芽は今日の綺堂と、優子と、辰之助とのやり取りを思い浮かべながら、根拠のない期待を胸に膨らませた。
トンネルを抜ける。夏芽ははっとして、またあの時のように振り返った。
「ご両親へのあいさつは“まだ”早いって、どういうこと!」
「なっちゃん!」
聞きなれた声に振り向くと、夏芽の身体は突然温もりに包まれた。
「突然飛び出して……心配するじゃないの!」
春代は夏芽を抱きしめながら言った。春代の後ろから冬吉が顔をのぞかせる。
「物騒な事件が起きている最中なんだ。親の気持ちにもなってみなさい」
夏芽は肩をすくめた。
「ふたりとも、心配かけてごめんなさい」
「分かればいいのよ。それより、どうして突然飛び出したりしたの?」
夏芽は言われてはっとした。たかねが危ない。
夏芽はポケットから携帯電話を取り出すと、たかねにかけた。呼び出し音の後に、たかねの声がする。
『もしもし、夏芽?』
「たかね?たかね今何処?大丈夫?」
『うん、今、親に迎えに来てもらって、これから警察の事情聴取うけるところ。一応、第一発見者だから』
「よかった……。無事なのね」
夏芽は安堵した。
『人喰い女のことは……言わないつもり。信じてもらえないだろうから』
「そっか……。でもね、犯人、人喰い女じゃなかったよ」
『どういうこと?』
「兎に角、たかねは暫く家で安静にしてて。もしかしたら、犯人に顔、見られてるかもしれないでしょ」
『そ……そうだよね。夏芽、ありがとう』
「家から出ちゃだめだよ。それじゃ、切るよ」
『うん。夏芽、それとね、ひとつだけ、お願いがあるの』
「何?」
少し間を置いて、たかねは言った。
『旭町には、近づかないで。特に、旭中央公園……』
「どうして?」
『あと、休校の間は、学校にも近寄らないで』
「え、それって、学校関係者に犯人がいるかもしれないってこと?たかね、本当は、顔見たんじゃないの?」
『見てない!見てない。でも、ほら、なんとなく、嫌な予感が、するから……』
たかねは最後、言葉を濁した。
『兎に角、約束して。絶対にだよ』
「……わかった」
親友の発言に違和感を感じながら、夏芽は電話を切った。
「たかねちゃん?どうしたの?」
春代が言う。
「三人目の犠牲者が出てね……たかねが第一発見者なんだ」
「なんてこと!」
春代が悲鳴を上げた。
「あなたの知り合いじゃないでしょうね?」
「それが……今回は仲のいい友達でさ」
ああ、と春代が項垂れた。冬吉がそれを支える。
「ふたりとも、こんな所でつっ立っている場合じゃあない。もしかしたら、近くに犯人がいるかもしれないんだ。早く、家に帰ろう。夏芽も、辛いだろう」
夏芽は肩を落とした。麻奈ちゃん……。一瞬涙が目に浮かぶ。しかし、
「でも、まあ、襲ってきたらお父さんが守ってやるから安心しろ!」
冬吉は拳を振り上げて威勢よく言った。
「お父さん、素敵!」
春代は黄色い声を上げる。夫婦仲がいいのは結構だが、仲が良すぎるのもいかがなものか。
いちゃつく両親を見て、なんだか悲しみも何処かへ飛んで行ってしまった。夏芽は二人を置いて、先に歩き出した。
「待って、なっちゃん!一人じゃ危ないわ」
「夏芽、待ちなさい。お父さんが守ってあげるから」
娘の友達が死んで、親友が第一発見者となって、夏芽の心は混乱しているというのに、この親たちは。
はあ。
夏芽の溜息が暗い夜の街に響いた。
三人が去った後、優子は息をついてリビングに戻った。綺堂壱紀、彼は勘が鋭い。きっと優子が出した“サイン”に気付いたに違いない。
優子は赤い着物の裾を持ち上げながら螺旋階段を上がると、寝室に向かった。白いベッドは、まるでついさっきベッドメイキングされたように、皺ひとつなく整っている。優子は寝室に入ると、ベッドの隣の引き出しから、そっと何かを取り出した。手紙であった。
―――信じられないこともあるものだね。
優子は手紙に目を落としながら、“あの日”の出来事を思い出していた。
―――もう一度、出会うことが出来るなんて。
しかし、それが向こうの世界の歯車をおかしくしてしまったのだとしたら、優子の大切なものを、壊してしまったのだとしたら……。
―――神様。
優子は手紙を抱いて祈った。
―――どうか、お救いください。
四、
翌日テレビは『人喰い惨殺通り魔事件』の話でもちきりだった。昨日たかねが言った通り、三人目の被害者である佐々木麻奈は、隣町の旭町の公園近くで発見されたらしい。詳しくは報道されなかったが、第一発見者は同じ高校の生徒―――たかねだ―――で、しかも血まみれで被害者に縋って泣いているところを発見されたらしい。若干高校生にして、人の血を浴びるなんて、きっと心に深い傷を負ったに違いない。夏芽は朝十時くらいになってから、やはり心配になって、たかねに電話をした。
心配していた通り、たかねの声に力は無かった。余程ショックだったのだろう。
「たかね、今からそっち行こうか?」
『ほんとに?来てくれるとうれしい。でも、通り魔事件のことがあるから、危ないし……』
「大丈夫。お母さんが送ってくれるから。何時なら行っていい?」
少し間を置いて、たかねは、
『いつでもいいよ。実は、今親居ないから。心細くて』
「そっか。じゃあ、すぐ行くよ」
夏芽は電話を切った。
「お母さん」
皿洗いをしていた春代が振り向く。
「なあに、なっちゃん」
「ちょっと、たかねの家に行きたいんだけど、送ってくれない?」
「行きたいんだけどって、たかねちゃん、大丈夫なの?」
「うん……。今親が家にいなくて心細いんだって。だから、ケーキでも買って行って元気づけてあげようと思ってさ」
春代は微笑んで、それから夏芽を抱き寄せた。
「なっちゃんはいい子ね。優しい子に育って、お母さん、本当に幸せよ」
「もう高校生なんだから、子ども扱いしないでよ、お母さん」
照れくさくなって、頬を膨らめる。しかし、褒められて、夏芽は少し嬉しかった。
二人で家を出て、車に乗る。途中で行きつけのケーキ屋で二人分のケーキを買うと、再び車を走らせる。
「夕方には迎えに来るからね」
春代は、たかねの家の前で夏芽を降ろすと、窓を開けて言った。
「うん」
「しっかり励ましてあげるのよ」
夏芽はインターホンを押す。すぐにドアが開いた。たかねは、昨日とは比べ物にならないくらい、落ち窪んだ目をしていた。きっと、ショックと恐怖で寝られなかったのだ。夏芽はたかねを抱きしめた。
「たかね、大丈夫。もう大丈夫だからね」
「ありがとう、夏芽」
たかねもすがるように、強く夏芽を抱き寄せた。それから夏芽は、
「たかねが元気出ればいいと思って、ケーキ買ってきた!」
「わー夏芽、流石親友、わかってるぅ」
二人は元気よく家の中へ入っていった。
居間で、たかねの祖母が茶を飲んでいた。
「あ、おばあちゃん、お久しぶりです」
「夏芽ちゃんかい。去年の冬以来だねえ。わざわざ、今日は、たかねのために来てくれたんだろう?ありがとねえ」
「いえいえ、そんな」
「おばあちゃん、私たち、二階にいるから」
たかねは祖母の返答を聞く前に、夏芽の手を引いて階段を上り始めた。祖母が茶をすする音が聞こえる。たかねは小さい声で、
「おばあちゃん、ちょっとボケちゃってるの。それに、あんまり心配かけたくないしさ」
と言った。
部屋に着くと、早速ケーキの箱を開けた。
「じゃーん、たかねの大好きな、チョコレートケーキ」
「わー!うれしい」
二人でケーキを食べていると、たかねの方から、昨日の事件の事を話し始めた。
「初めて、あんな怖いものを見たよ」
たかねは遠くを見るように言った。
「絶対に、人間じゃなかった、と思う」
「……そうだよね」
妖怪は人間に手を出せないんだよ、ということを夏芽が力説しても、何の説得力もないし、何よりたかねの気持ちを思うと、言い出せなかった。
「幽霊って、お化けって、本当に居るんだね……」
たかねはなんとなく上の空だった。
「夏芽の言ってたこと、信じておけばよかった」
「そ、それがね」
夏芽は気まずくなって切り出した。
「私の勘違いだったみたい。お化けなんて、やっぱりこの世には存在しないよ」
歪な笑顔は、たかねに勘付かれないだろうか。しかし、綺堂の話した内容を切り出しても、たかねには―――通常の人間には―――理解できるはずがない。夏芽だって、あの世界に入っていなければこんなこと信じられなかった。
しかしたかねは大きく首を振って、
「いや、本当に見たのよ」
力強く言った。
「あれは、まさしく妖怪だったわ」
「たかね……」
現実を受け入れられないのだろう。目の前で、友人を失ったのだ。
「私ね」
たかねは続けた。
「人喰い女が麻奈ちゃんを散々食べ散らかした後、居ても立っても居られなくて、どうしようもなくて、麻奈ちゃんに駆け寄って抱き上げたの。そしたらね、麻奈ちゃん、まだ生きてた。息があった。私、麻奈ちゃんに声をかけながら、急いで救急車を呼んだ。でも、麻奈ちゃん、私の腕の中で、動かなくなった」
たかねの肩が震えていた。
「人って、こんなにあっけなく死んじゃうんだね。私、何もできなかったよ。人工呼吸とか、すればよかったのかな。でも、声をかけるのに、それだけに必死で、私、何もできなかった。その所為で麻奈ちゃんは」
「違うよ、たかねの所為じゃない。それに麻奈ちゃんは……」
予想だが、たかねが何をしようと、麻奈は出血多量で死んでいただろう。きっと、たかねが駆け寄った時には既に虫の息だったに違いない。
夏芽はたかねの肩に手を置いた。
「麻奈ちゃんはきっと天国に行ったよ。今、私たちに出来ることは、犯人が逮捕されることを願う事だけ。それに」
夏芽は肩をすくめた。
「私、心の中で思っちゃった、襲われたのが、たかねじゃなくてよかったって。麻奈ちゃんで、よかったって。私、酷い人間だよね」
「夏芽え」
たかねは夏芽に抱きついた。
「そう思ってくれる親友がいるだけで、私は幸せだよ」
夏芽はたかねの頭を撫でた。いつもと逆の立場に、歯がゆさを感じる。しかし、少しでも親友の力になれているのだ、そう思うことが出来ただけで、夏芽は嬉しかった。
「それよりたかね、彼氏には連絡したの?」
「ああ、彼氏?まあ、ね」
たかねは彼氏からもらったエメラルドのネックレスに触れながら、
「すごく、心配してくれた」
と言った。
「でも、彼、旭町に住んでるから、家から出られなくて」
「そっか。会えなくて、寂しくない?」
たかねは、ううん、と少し悩んでから、笑顔で、
「ぜんぜん!」
と言った。
「私たちはね、心で繋がってるの。だからほんの二、三日会えないくらいじゃ、どうってことないよ」
「そっか」
夏芽は笑った。
「それより、夏芽、最近いいヒト出来た?」
「え?何を言うの突然」
「なんか最近、顔つき変わってきたなって。朝寝坊もしなくなったし、寝癖もないし……彼氏でも出来たんじゃないの?」
「彼氏だなんて!べ、別にそう言う関係じゃ!」
「あ!やっぱり思い当たる人いるんだ」
たかねはにやりとした。親友の幸福を祝っての笑みでは無い、たかねはただ、恋愛経験のない夏芽をついにからかう日が来たことを喜んでいるのだ。
「で、どんな人なの」
「だから、好きとか、気になっているとか、そういうのじゃないよ。ただ、最近お世話になっているって言うだけでね」
「うんうん」
「背は、そうだなあ、百八十センチくらい?で黒髪で色白で、いつも着物姿でね、あ、凄く優しい。頭が凄く良くてね、実はこの事件の相談も、その人にしているの」
「褒め殺しじゃん」
「でも、そういうのじゃないって。だって、多分すごく年上なんだ。二十代後半?もっと上かな?三十代位?」
「意外!夏芽って年上派なんだね」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
笑い声で満ちた部屋は、いつも通りのように思われた。たかねは、まるで昨日の事件などなかったかのように明るい様子だ。夏芽は安心した。たかねの笑顔がもう一度見られただけで、夏芽は幸せだった。
正午を知らせる鐘が鳴る。
「あ、夏芽来るって言うから、おばあちゃん、張り切って昼食作っるって言ってたよ!」
「わ、楽しみ」
たかねの祖母は元定食屋の“おばちゃん”らしく、彼女の作る料理はまさに絶品であった。
「今日はオムライスって言ってたっけ」
たかねは、「持ってくるね」と言って階段を駆け下りて言った。その時、誰かに見られたような気がして振り向く。しかし、後ろには押し入れがあるだけで、何もない。
少しして、たかねがオムライスと麦茶をトレーに乗せて部屋に入ってきた。
「おかえり。あ、やっぱりおばあちゃんのオムライス、すごくおいしそう」
「でしょう?私も楽しみ。いただきまーす」
「いただきます」
手を合わせて、二人はオムライスを口に運んだ。柔らかな卵とトマトソースで味付けられたライス、それにデミグラスの香ばしさが二人の舌を唸らせる。たかねの祖母は料理に関しては文句の付けどころがない。春代にも見習ってほしいものだ。
食べながら夏芽は、
「そう言えばこの家、いつまでたっても変わらない安心感あるよね」
「うん、座敷童が住んでるからね」
夏芽は一瞬、オムライスをのどに詰まらせて咳込んだ。
「大丈夫?」
「う、うん。へ、へえ、今どき座敷童なんて、珍しい家もあるんだね」
「うちは旧家だからね。今でも年に一回、座敷童に感謝するお祀りみたいなものをやっているんだよ。お父さんの会社の成功も、そのおかげだっておばあちゃんは言ってた。まあ、あたしや他の家族は半信半疑だったけど、実際に良いこと尽くしだし、私も今は座敷童って本当に居るんじゃないかなって思ってるんだ」
居ます。と夏芽は心の中で呟いた。おかっぱ頭で、後ろの髪は耳まで刈り上げ。背は低くて、夜には綿飴屋さんでバイトをやっている。それが、座敷童だ。
「夏芽、信じてないでしょ」
たかねが夏芽を覗き込む。夏芽は慌てて、
「い、いや、居るかもね」
と言った。
たかねの父は、祖父の代から大きな会社を引き継いでいて、所謂お金持ちだ。それなのに家を建て替えずに、ここに住み続ける理由が分かった気がした。座敷童は古い家に住みつくという。全ては座敷童の恩恵に肖るためだったのだ。
「妖怪なんて信じないって言ってたくせに、たかねだって、座敷童の存在は信じてるじゃん」
夏芽は言う。
「まあね。だって、本当に居たら、素敵でしょ。きっと可愛い子供だよ」
確かに、かわいい。夏芽はふと視線を感じて、再び押し入れの方を見た。夏芽は驚愕した。押し入れの引き出しを少し開けて、昨日見たおかっぱ頭の少女が、ちらりと顔を出して二人に微笑んでいた。
―――可愛いけど、やっぱり不気味!
夏芽の頬を冷や汗が伝った。
「どうしたの夏芽?」
たかねが押し入れの方を向く。
「あ、やだ、また閉め忘れた」
たかねが振り向いたと同時に、座敷童はすっと押し入れの奥の暗闇に消えて行った。そう言えば、座敷童は家主に見られてはいけないと聞いたことがある。家主に見られた座敷童は、新たな家を探し住みつき、そして座敷童が離れた家は没落する。だから、たかねには見えないようにしているのだ、と夏芽は思った。
それにしても奇妙だ。“向こうの世界”、つまり妖怪の世界は、人間に捨てられた思想やモノが妖怪となって集まる場所だと綺堂から説明を受けた。しかし、座敷童は現にこちらの世界にもいる。どういうことだろうか。こちらの世界とあちらの世界を、行き来しているのだろうか。今日会う時に、綺堂に聞いてみよう、夏芽はひそかに思った。
その時、夏芽の携帯電話が鳴った。自宅からだった。
「もしもし、お母さん?」
『もしもしなっちゃん?実はね、ご縁のあるおじいちゃんが亡くなってね、お父さんとお母さん、急遽青森まで行かなきゃいけなくなっちゃったのよ』
「えっ!青森?」
『うん。なっちゃんも連れて行こうか迷ったんだけど、学校がいつ始まるかもわからないし、親戚でもないから、気まずいだろうしと思って、どう?ついてきたいならついてきてもいいし、お留守番でも勿論構わないわよ』
両親と共に青森に行ってしまっては、綺堂の元へ行って、事件解決の手助けが出来なくなってしまう。
「私、留守番するよ。宿題いっぱいあるし」
夏芽は言った。
『そう……心配ね。でもわかったわ。今から迎えに行くけど、大丈夫?』
夏芽はたかねを見てから、
「うん、平気」
『じゃあ、十分くらいで着くから、待ってなさいね』
電話が切れた。
「お母さん、どうしたの?」
たかねが聞く。
「お父さんとお母さんのご縁のあるおじいさんが亡くなったんだって。でも、私の知らない人だから、留守番することになって、今からお母さん迎えに来るって」
「あ、そうなんだ。ご愁傷様だね」
「よりによって、こんなときにね」
不幸は続くものだというが、夏芽の周りでこんなにも人が死に続けると、次は自分では無いかという恐怖すら生まれる。
「お母さん、今から迎えに来るって」
「そっか、わかった。もっと話したかったけど、残念」
たかねは肩を落とした。
「あ、そうだ!」
思い出したように、たかねは廊下を駆けて行った。どうしたのだろうか、と思っていると、たかねはまた走って戻ってきて、夏芽に緑のブローチを手渡した。
「これね、この前、グアムに旅行に行ってね、その時に買ったブローチなんだけど、マラカイトって言う石で出来てるの。夏芽に、お土産」
「嘘!こんな高そうなの、受け取れないよ」
「グアムだよ?旅行先で、そんな高価なもの買う筈ないじゃん。とりあえず、受け取りなって。私からの、愛のプレゼント。それから、お守りとしてさ。毎日つけて」
夏芽はたかねからブローチを受け取った。緑の優しい色をしている。
「マラカイトにはね、“魔除け”の意味があるんだよ」
「魔除け?」
「うん。人喰い女避けに使って」
「ありがとう、たかね」
その場で胸につけてみせると、
「どう?似合う?」
「うん、私の見立て通りね」
たかねは嬉しそうに笑った。
十分後、玄関のチャイムが鳴り、黒の喪服に身を包んだ春代が、夏芽を迎えに来た。
「たかねちゃん、夏芽と遊んでくれてありがとね。それと、あんまり気を落とさないで。これ、私たちからの気持ち」
春代は熊のぬいぐるみを手渡した。
「お母さん!ぬいぐるみって……」
「女の子はね、いつまでたっても乙女なの。泣きたい時は、このぬいぐるみに顔を埋めて泣きなさい」
夏芽は絶句する。春代はやはり、頭がぶっ飛んでいる。しかし、たかねも同じ部類だ。
「夏芽のお母さん、ありがとう」
「たかねちゃん、いいのよ」
二人は抱き合う。夏芽は思わず苦笑いを浮かべた。
帰宅すると、既に喪服に着替えた冬吉が、二人を待っていた。
「よりによってこんな時に、秋男さん、亡くなっちまうとはな」
「そのおじいさんって、どんな人なの?」
「私たちの仲人さんよ」
「そっか。でも親戚でもないなら、お母さんたちも行く必要ないんじゃないの?」
思わず夏芽は溢した。
「そう思うでしょ。でもね、とってもお世話になった人だから、行かなきゃいけないのよ」
「そういう事だ。夏芽、本当に行かなくていいのか?」
夏芽は目を泳がせながら、
「だって行ったら……」
綺堂に会えなくなってしまう……。
「……私、留守番、良い子にしてるから、安心して」
「外に出ちゃだめよ。三日で帰ってくるけど、絶対に家から出ちゃだめよ」
「……わかった」
夏芽は頷いた。
「じゃあ、お父さんたち、行ってくるから」
二人を見送った夏芽は、玄関にカギをかけ、リビングに向かった。今日も勿論“向こうの世界”へ行く予定だが、まだ午後一時。バタバタしたあとだ。少しのんびりくつろぐ時間が欲しかった。
夏芽はリビングのソファに腰を掛けると、テレビのリモコンを付けた。ふぁ、と音が鳴って、光が付く。こんな平日の昼間からやっている番組は、詰まらないワイドショーやニュース番組ばかりだ。しかし、夏芽としては、『人喰い惨殺通り魔事件』の捜査がどう進展しているのか、知りたかった。
綺堂は、「自分が解決してみせる」と言っていたが、所詮彼は“向こう”の人間。人間世界担当は、夏芽だ。少しでも綺堂の為になる情報を仕入れたい。
画面の右上に『恐ろしき人食い魔』と表示されている。
『本当に人を食べているんですかね』
『それがですね、安西さん、御遺体には、かじりつかれた歯形が残っており、その部分が何処からも発見されていないというんですよ』
『犯人の演出ではないですかね。しかし、それにしても、まだ未来ある少女ばかりが襲われているという事で、怒りと憤りを感じずにはいられませんね』
『今日はゲストで、ルポライターの由宇奇秋人さんをお呼びしました』
拍手がされる。由宇奇と呼ばれたルポライターは、不服そうな表情で、ゲスト席に座っていた。茶色の背広に無精髭。無造作にはねた、光に当たると緑色にも見える茶髪。“ゲスト”にしては余りに“みすぼらしい”。
『由宇奇さんは、犯罪心理専門の記者さんという事で』
『あ、記者じゃないです、ルポライター』
『……失礼しました、犯罪心理専門のルポライターということで、今回お招きしたんですが、今回の事件、どのように考えておられますか?』
『んーまあ、その内犯人は捕まるでしょう』
『そりゃあ、捕まらないと困りますが……』
『いいですか、人を食ってるってことは、異常者です、異常者。兎に角、異常なの。人ってふつう食べないでしょ、それを食べてんだからね。死体は道端に転がってるっつったね。てことはね、衝動的な犯行な訳。急遽脳内の信号がね“人食べたい”って言って、それで食べてるの。犯行を犯してるっていう意識は、食べてるときは無いんだろうね。だって君たちもそうだろ?ハンバーガー食べたくてハンバーガーショップに行くじゃん、その時、“嗚呼この牛肉はこんなに粉砕されるまでは生きていて将来の希望を持って草食べてたんだ、俺はなんて酷い奴なんだ”なんて思わないでしょ。これやってる犯人はね、人食う事を異常だって思ってやってないんだよねー』
態度の悪い“ゲスト”だなあ、と夏芽は思った。
『……では、由宇奇さんは、犯人は異常者で、衝動的に、罪悪感も持たずに犯行に及んでいると』
『いやだから、罪悪感がないのは“食べてるときだけ”。食べ終わったら、罪悪感あるよ。無かったら、最後まで食べつくすでしょ?骨の髄まで喰らい尽くすでしょ?途中でやめて逃げてんだよこの犯人さんは。つーまーり、“俺やベーことしちゃった”って今頃なってるから、その内捕まるよ。事件が起きてる場所も近いとこばっかだしね。だいじょーぶ。家さえ出なければ何も心配はいりませーん』
『……はい、由宇奇さん、ありがとうございました』
アナウンサーは打ち切るように言った。
ヒトを食べることに罪悪感がない人間が犯人……。夏芽は悪寒を感じた。しかし、あのルポライター曰く、犯人は、犯行を終えた後は、罪悪感を感じているらしい。
「ほんとに、その内捕まるのかなあ」
夏芽はチャンネルを変えた。瞬間、衝撃的な映像が飛び込んできた。それは、被害者宅に押し寄せる、報道陣の群れだった。開かないドアの前で、女性アナウンサーが画面越しに言った。
『こちらが、昨日殺害された、佐々木麻奈さんのご自宅です。ご両親にお話をお伺いしようと、大勢の報道陣が集まっています』
―――なんてこと!
女性はインターホンを押して、
『佐々木さん、娘さんを失った悲しみと、犯人への怒り、お察しします。犯人へひとこと、お願いできないでしょうか』
『……』
インターホンからは何も返ってこない。
『佐々木さん、お気持ちを』
『……』
『娘さんを亡くされたお気持ちを、是非ひとこと、お願いします』
―――――――――。
夏芽は思わず立ち上がった。昨日の母の抱擁を思い出す。親が子供を愛する気持ち、それは万国共通のものだ。佐々木麻奈の両親は、昨夜、一番大切なものを亡くした。今頃、悔しさと、憤りと、悲しみと、怒りと……抑えきれない感情の渦の中、泣き腫らしているに違いない。それをこのアナウンサーは、佐々木麻奈の家族の感情に追い打ちをかけるように、容赦なくインターホンを押し続けている。
『佐々木さん、佐々木さん!』
「やめてあげて!」
夏芽は叫んでいた。テレビを消す。佐々木麻奈の笑顔が脳裏を過る。夏芽の頬を、涙が伝った。
「酷い……酷過ぎる……」
被害者は、被害者家族は見世物では無い。佐々木麻奈は昨日まで生きて、笑っていたのだ。
「娘を亡くした気持ちを言えって?」
夏芽は怒りでソファのクッションをテレビに投げつけた。
「そんなの、考えれば誰でもわかるでしょ!馬鹿!」
『夏芽ちゃん、たかねちゃん、私たちとダブルスしない?』
『えー!また、麻奈ちゃんたちとー?麻奈ちゃん元バド部でしょう?絶対、私たちが勝てないの分かってて言ってる!』
『違うよー!ふたりってね、とっても素敵なチームだと思うの。だから、ふたりとやってると楽しいんだあ』
『とかなんとか言っちゃってえ。でも、今日は負けないんだからね!』
『うふふ、ありがと、いつも一緒にやってくれて』
『こちらこそ』
夏芽は拳を固く握った。佐々木麻奈の死を弄ぶような報道陣が許せなかった。そして、何よりも一番許せないのは犯人だ。
―――絶対捕まえてやる。
夏芽はいつの間にか疲れも忘れて、家を飛び出していた。向かうのは、あのトンネルだ。綺堂壱紀は何か掴めただろうか。いや、彼ならきっと、この許せない犯罪の波を止めてくれる。
トンネルはいつものようにぽっかりと口を開けている。夏芽は迷わず飛び込むと、異世界に身を投じた。
*
「由宇奇さん、今日はありがとうございました。由宇奇さんの毒舌っぷり、反響がありましたよ。また是非番組に」
「あ、急いでるんで、詳しい話はあとで電話ください」
生放送のワイドショーが終了すると、ルポラーターの由宇奇は即座に席を立ち、会場を後にした。
「はい!連絡させていただきます!」
後ろから番組製作者の声が聞こえる。全く、なんて日だ。由宇奇は溜息をついた。つまらないワイドショーに出演オファーがかかり、カネが貰える上に好きなように意見を言えるというから来てみれば、カンペを渡され、『こんな内容で喋れ』と指示され、服装や髪形まで弄られそうになった。
「人形じゃねえんだよ。二度と出てやるか、こんな糞番組」
由宇奇はカンペをくしゃくしゃに握りつぶすと、後ろへ放った。何が異常犯罪者だ、この野郎。人間なんて、みんな異常なんだよ。特に犯罪を犯している奴は、その時点で、異常だ。人が人を殺した時点で既に異常だ。
「全く。妖怪の世界じゃ“妖怪殺し”なんてねえっての」
溜息をつきながらテレビ局を出ると、目の前に停まっているタクシーに乗り込んだ。
「えっと、青森まで」
「はい?」
「行けねえの?じゃあ、新幹線の停まってるとこまで良いや」
「……わかりました」
タクシーが走りだす。窓の外を見る。東京っていうとこは、どうしてこうもごちゃごちゃしているのか。由宇奇はタクシーが信号につかまるたびに、苛々して貧乏ゆすりをした。由宇奇のただならぬ様子を見て、タクシーの運転手が気を利かせる。
「随分と、ごきげんななめの様ですね。何かあったんです?」
「ああ。嫌なことだらけだ」
「人生、嫌なことだらけですよ。それに、仕事してれば誰だって嫌になる時はあります。そんなに気を焦らせないで、このタクシーに乗っているときくらいは、もう少しまったりとしてみてはいかがです?座っているだけでいいんですからね」
「ああ」
穏やかな声音に、少しだけ怒りが和らいだ。
「駅まで大分ありますし、お話お聞きしましょうか?」
「ああ、それがよう、糞つまんねえテレビのワイドショーなんかに出てきたとこでよ。自由に喋れって言われたから来てやったのにカンペ出してきやがった。だからカンペを裏返して番組に出てやったよ。アナウンサー、焦ってたな」
「あなたもしかして、さっきの番組に出てた記者さん?」
「ルポライター」
「ああ、失礼しました。ルポライターさん。確か、変わった名字でしたよね」
「ああ。由宇奇ってんだ」
「テレビ番組に出た後に、青森に行くなんて、ルポライターさんもお忙しいんですね」
「いや、今回は仕事は関係ねえんだ」
由宇奇は遠くを見るような目で言った。
「糞じじいが、死にやがった」




