第1話
王立学院の卒業パーティー会場は、これ以上ないほど光に満ちていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何千ものクリスタルをきらめかせ、貴族たちのドレスや装身具を虹色に縁取っている。
オーケストラが奏でる軽やかなワルツが耳をくすぐり、会場には最高級のシャンパンと、華やかな香水の香りが入り混じって漂っていた。
フェリシアは、会場の隅で静かに自分の胸元に手を当てた。微かに漂うのは、清涼感のある花の香り。かつてエドワードが「君のイメージにぴったりだ」と言って贈ってくれた、特別な香水だった。
ここ数ヶ月、エドワードの態度は明らかに冷たくなっていた。すれ違っても視線を合わせず、共に過ごす時間は目に見えて減り、時折向けられる言葉は刃のように鋭い。
それでも、フェリシアは自分に言い聞かせてきた。彼は次期国王としての重圧に押し潰されそうなのだと。今日の卒業という節目を迎えれば、また昔のような、ひだまりのように温かい微笑みを見せてくれるはずだと。
その期待は、大広間の重厚な扉が左右に開かれた瞬間に打ち砕かれた。
現れたエドワードは、フェリシアが知る彼ではなかった。
彼の隣には、見知らぬ女が寄り添っていた。自らを聖女と称し、最近王宮に出入りし始めたというリリアナだ。エドワードはその女の腰をこれ見よがしに抱き寄せ、唇を歪めて傲慢な笑みを浮かべている。
会場の視線が一斉に彼らに注がれ、そして次に、壁際に立ち尽くす正婚約者であるフェリシアへと向けられた。好奇と憐れみが混ざった視線が、針のように肌を刺す。
光に満ちた会場が、一瞬にして底知れぬ奈落の底に見えた。
エドワードの瞳は、まるで見たこともない氷の塊のように冷え切り、真っ直ぐにフェリシアを射抜いていた。そこには慈しみも、迷いも、欠片も存在していなかった。
震える足を一歩ずつ前へ出し、フェリシアは嘲笑の渦のなかを進んだ。
視界が滲みそうになるのを必死で堪え、エドワードの正面に立つ。
「エドワード様……何か、お疲れなのではありませんか。少しあちらで、お話を……」
縋るような想いで紡いだ言葉は、彼の冷淡な一言によって無惨に切り裂かれた。
「気安く寄るな。その貧相な香水の匂いで、気分が悪くなる」
フェリシアは言葉を失った。
この香りは、彼が初めての誕生日に「君に一番似合う花を、特別に調香させたんだ」と、愛おしげな瞳で贈ってくれたものだった。
それを、本人が「気分が悪い」と切り捨てる。
胸の奥が、氷の楔を打ち込まれたように鋭く痛んだ。
それでもフェリシアは、震える手で懐から小さな守り袋を取り出した。
夜を徹して、一針一針に彼の無事と国の安寧への祈りを込めて縫い上げたものだ。
「せめて、これだけでも……。エドワード様のために、私が……」
エドワードは無造作にその守り袋を奪い取ると、一瞥もせずに窓の外へと腕を振った。
王宮の回廊に沿って流れる冷たい水路へ、小さな布の塊が吸い込まれていく。
「下らぬ。こんな汚れた糸屑、王太子の身に付けられるものか」
かすかな水音だけが、静まり返った会場に響いた気がした。
フェリシアの心は、泥に汚れ、冷たく沈んでいくあの守り袋と同じ場所へと落ちていく。
目の前にいるのは、かつて共に未来を語り合った愛しい婚約者ではない。
名前と姿だけを借りた、血も涙もない別の生き物だった。
突然、エドワードの腕の中にいたリリアナが、ひどく苦しげな声を漏らした。
彼女の手からクリスタルのグラスが滑り落ち、大理石の床で砕け散る。
飛び散った赤いワインが、彼女の純白のドレスに不吉な染みを作っていった。
「リリアナ!どうした、しっかりしろ!」
エドワードが彼女を抱き留め、会場中に響き渡るような叫び声を上げた。
リリアナは青ざめた顔で、ガタガタと震える指をフェリシアへと向けた。
「フェリシア様が……私のグラスに、何かを……」
その一言で、会場の空気は完全に凍りついた。
次の瞬間、周囲の貴族たちから一斉に罵声と蔑みの視線が浴びせられる。
「なんて恐ろしい女だ」
「嫉妬に狂って聖女を毒殺しようとするなんて」
フェリシアは激しく首を横に振り、必死に声を絞り出した。
「違います……私は、何も、そのようなこと……!」
だが、エドワードは彼女の弁明を遮るように、これ以上ないほど残酷な言葉を突きつけた。
「黙れ。証拠は揃っている。貴様のような醜い心を持つ女、もはや王太子の婚約者として認めるわけにはいかない」
彼の瞳には、かつての慈しみなど一欠片も残っていなかった。
「フェリシア・エヴァレット。今この瞬間をもって、貴様との婚約を破棄する。さらに、王家暗殺未遂の罪により、即刻この国から追放する!」
あの日、夕暮れの庭園で「一生君を守る」と誓ってくれた優しい瞳は、もうどこにもなかった。
フェリシアの中で、何かが音を立てて崩れ去る。
彼への愛も、これまでの努力も、すべてが漆黒の絶望に飲み込まれていった。
屈強な衛兵たちに両腕を掴まれ、フェリシアは引きずられるようにして大広間を後にした。
背後からは、かつての友人や知人たちの嘲笑と、正義を振りかざす冷ややかな罵声が追いかけてくる。
だが、何よりも彼女の心を切り裂いたのは、最後まで一度もこちらを振り返らなかったエドワードの背中だった。
城の門を出ると、そこには一台の無骨な馬車が待機していた。
夜の冷気にさらされながら、フェリシアは獣の檻のように狭く冷たい車内へと押し込められる。
「出発だ。一刻も早く国境へ向かえ」
誰かの低い声が響き、馬車が激しく揺れながら走り出す。
石畳を無慈悲に叩く車輪の振動と蹄の音が、まるで彼女の心臓を打ち砕く金槌のように鼓膜を打った。
窓の外を流れていく見慣れた王都の街並みが、とめどなく溢れる涙で歪んで判別できない。
あの日、二人で歩いた並木道も、将来を語り合った噴水広場も、今はただの残酷な幻影に過ぎなかった。
ガタガタと震える体を抱きしめ、フェリシアは暗闇の中で声を殺して泣いた。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて涙が枯れ果てた頃、彼女の心の中に残ったのは、燃え尽きた灰のような酷く冷たい静寂だけだった。
彼を信じ、彼のために生きてきた自分は、もう死んだのだ。
あの守り袋と共に、泥の底へと沈んで永遠に失われた。
フェリシアは、窓の外に遠ざかっていく王宮の黒い影を見つめながら、静かに、そして深く息を吐き出した。
その声にはもう、熱を帯びた悲しみも、縋るような愛の残滓もない。
「あの冷酷な婚約者を私は一生許さない」
愛していたという記憶さえも、この国の冷たい土に埋めていく。
ただ一人、絶望という名の深い闇に抱かれながら、フェリシアは二度と戻ることのない夜の向こう側へと踏み出していった。












