第9話 すぐそばにいた人
第9話 すぐそばにいた人
「私を……ずっと想っている男性?」
エレノアは、リーサの言葉を何度も繰り返した。
「そんな人……」
しばらく考えてから、首を横に振る。
「思い当たりません」
「本当に?」
リーサは穏やかに尋ねた。
「ええ。私の人生には、アンドレしかいませんでしたから」
エレノアは、少し寂しそうに笑った。
リーサはテーブルの上にタロットを並べる。
「では、もう少しだけ見てみましょう」
一枚目。
『隠者』。
「静かな人……」
リーサがカードを見つめる。
「自分から前に出る人ではありません。遠くから誰かを見守るような人です」
二枚目。
『節制』。
「あなたのそばで、長い間あなたを支えてきた人」
三枚目。
『キング・オブ・カップス』。
「深い愛情を持っている男性です」
エレノアは困ったように笑った。
「そんな人がいたかしら……」
そのときだった。
「……先生」
エレノアが、ぽつりと呟いた。
「先生?」
ウサギが耳を立てる。
「私が教師をしていた頃……」
エレノアは遠い記憶をたどるように、海を見つめた。
「一人の同僚がいました」
「名前は?」
「……ヘンリー」
その名前を口にした瞬間、エレノアの表情が少し変わった。
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約65年前。
戦争が終わってから数年が経っていた。
エレノアは教師になっていた。
毎朝、子どもたちを迎え、授業をして、放課後には遅くまで教材を準備する。
その学校に、ヘンリーも教師として勤めていた。
「エレノア先生」
「何?」
「また昼食を忘れたでしょう」
「え?」
ヘンリーが自分の弁当を差し出した。
「よかったら半分どうぞ」
「でも、あなたの昼食がなくなるわ」
「大丈夫です。二つ持ってきましたから」
「どうして二つ?」
ヘンリーは少し困ったように笑った。
「……たまたまです」
エレノアは笑った。
「変なの」
「よく言われます」
二人は笑い合った。
けれどエレノアは知らなかった。
その弁当が、最初からエレノアのために用意されたものだったことを。
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雨の日。
「エレノアさん」
「何?」
「傘を持っていってください」
「でも、あなたは?」
「私は走ります」
「風邪をひくわよ」
「あなたよりは丈夫です」
「何それ」
エレノアは笑った。
ヘンリーはいつも、そんなふうにさりげなく彼女を気遣っていた。
けれど、エレノアの心には別の男性がいた。
アンドレ。
戦争が始まる前に結婚を約束した、大切な人。
エレノアは、彼がいつか帰ってくると信じていた。
だから、ヘンリーの優しさを恋だとは考えなかった。
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ある日の放課後。
エレノアが一人で教室を片づけていると、ヘンリーが入ってきた。
「まだ帰らないんですか?」
「明日の授業の準備が終わっていなくて」
「手伝います」
「いいわよ」
「遠慮しないでください」
二人で教材を整理する。
窓の外は夕焼けだった。
「エレノアさん」
「何?」
「あなたは……ずっと待っているんですね」
エレノアの手が止まった。
「……アンドレのこと?」
「はい」
「ええ」
エレノアは窓の外を見た。
「いつか帰ってくると思ってる」
ヘンリーはしばらく黙っていた。
「そうですか」
「どうして?」
「いえ……」
ヘンリーは笑った。
「あなたらしいと思っただけです」
それ以上は何も言わなかった。
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そして、現在。
90歳になったエレノアは、目を閉じていた。
「……そうだった」
小さく呟く。
「ヘンリーは、いつも私のそばにいた」
リーサが静かに尋ねる。
「他にも思い出せますか?」
「ええ……」
次々と記憶が蘇る。
忙しい日に、黙って手伝ってくれたこと。
体調を崩した日に、薬を届けてくれたこと。
教師を辞めるときには、
『あなたが教えた子どもたちは、きっとあなたのことを忘れません』
と言ってくれた。
そして最後に――。
『エレノアさんが幸せなら、それでいいんです』
そう言ったこと。
「……私」
エレノアの目に涙が浮かぶ。
「何も気づいていなかった」
リーサはルーンを一つ引いた。
出たのは――ゲボ。
「贈り物、支え合い、心を分かち合うことを表すルーンです」
「ヘンリー……」
エレノアは名前を呟いた。
「彼は、今どうしているの?」
リーサはカードをめくった。
『ソードの6』。
「長い移動」
もう一枚。
『星』。
「遠くにある希望」
そして最後に――。
『隠者』。
リーサは静かに言った。
「ヘンリーさんは、今も静かに暮らしています」
「どこに?」
「海の近くです」
エレノアの目が見開かれる。
「海……」
「小さな町です」
リーサは魔法を使った。
淡い光がテーブルの上に広がる。
そこに、一つの景色が浮かび上がった。
海の見える家。
小さな庭。
そして、一人の老人。
老人は庭のベンチに座り、古い写真を眺めていた。
写真に写っていたのは――。
若い頃のエレノアだった。
「……私」
エレノアの声が震える。
老人は写真を大切そうにしまった。
そして、誰もいない庭で静かに呟いた。
「元気でいてくれれば、それでいい」
魔法の映像が消える。
エレノアは両手で顔を覆った。
「まだ……持っていたのね」
「はい」
「私の写真を……」
涙が頬を伝う。
「私はアンドレばかり見ていた」
しばらくして、エレノアは顔を上げた。
「でも……」
涙を拭う。
「ヘンリーは、ずっと私を見ていてくれたのね」
リーサは微笑んだ。
「だから、もう一度占ってみましょう」
「何を?」
「ヘンリーさんの気持ちを」
エレノアは静かに頷いた。
リーサがカードをめくる。
そこに現れたのは――。
『カップの2』。
互いの心。
長い年月を越えても消えないつながり。
エレノアは、震える手でカードに触れた。
「……会いたい」
その言葉は、今までとは違っていた。
「ヘンリーに会いたい」
リーサが頷く。
「では、会いに行きましょう」
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翌朝。
エレノアは孫と一緒にCafe Lykkeを出た。
海へ向かう道を歩く。
約70年前。
彼女は駅のホームで、アンドレに言った。
『帰ってきて。待ってるから』
それから長い年月が過ぎた。
今度は――。
自分をずっと待っていたかもしれない男性のもとへ向かう。
「おばあちゃん」
孫が手を握る。
「緊張してる?」
「ええ」
エレノアは笑った。
「でも……会ってみたいの」
その先にある海の町で――。
ヘンリーもまた、何十年もの間、大切にしまっていた一枚の写真を手にしていた。
そして、まだ知らない。
明日、その写真の中の女性が、自分の前に現れることを。




