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『海を望むCafe Lykke(カフェ・リッケ)』 魔法使いの店主と、ちょっと頼りない名探偵たち。  作者: 雨宮ぐみ


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第10話 九十年目の春

第10話 九十年目の春


 海の見える小さな町。


 白い家が並ぶ坂道を、エレノアは孫と一緒に歩いていた。


「この先です」


 孫が古い住所を確認する。


 エレノアは胸元に手を当てた。


「……緊張するわ」


「無理しなくていいよ」


「いいえ」


 エレノアは首を横に振った。


「会いたいの」


 九十歳になった今。


 こんな気持ちになるなんて、自分でも不思議だった。


---


 やがて、一軒の小さな家が見えてきた。


 庭には花が咲いている。


 そして――。


 ベンチに、一人の老人が座っていた。


 白い髪。


 細くなった体。


 穏やかな横顔。


 エレノアの足が止まった。


「……ヘンリー」


 老人が顔を上げた。


「……え?」


 ゆっくり立ち上がる。


 そして、エレノアを見つめる。


「……エレノア?」


 その瞬間。


 二人とも言葉を失った。


 長い年月が、一気に押し寄せてきた。


 学校の職員室。


 子どもたちの笑い声。


 雨の日。


 昼食を忘れた日の弁当。


 そして――。


 若かった二人の姿。


「……本当に、あなたなの?」


 ヘンリーの声が震えた。


「ええ」


 エレノアは笑った。


「私よ」


 ヘンリーは、しばらく彼女を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「ずいぶん……年を取りましたね」


「あなたもよ」


 二人は顔を見合わせる。


 そして――。


 笑った。


---


「どうして、ここに?」


 ヘンリーが尋ねた。


「あなたを探していたの」


「私を?」


「ええ」


 エレノアは頷いた。


「Cafe Lykkeという不思議なカフェで、あなたのことを見つけてもらったの」


「Cafe Lykke……」


 ヘンリーは少し驚いた。


「そんな場所があるんですね」


「ええ。とても不思議な場所よ」


 エレノアは笑った。


「それで……聞きたいことがあるの」


「何でしょう?」


「あなたは……」


 エレノアは言葉を止めた。


「私のことを、ずっと待っていたの?」


 ヘンリーは黙った。


 そして海を見た。


「待っていた……というより」


 静かに答える。


「あなたが幸せに暮らしていることを、ずっと願っていました」


「……どうして?」


「あなたには、心に決めた人がいたでしょう」


 エレノアは目を伏せる。


「アンドレ……」


「ええ」


 ヘンリーは微笑んだ。


「あなたが彼を大切に想っていることを知っていました」


「だから、何も言わなかったの?」


「はい」


「ずっと?」


「ずっと」


 エレノアの目から涙が落ちた。


「馬鹿ね……」


「え?」


「私も馬鹿だわ」


 涙を拭いながら笑う。


「どうして、気づかなかったんだろう」


---


 ヘンリーは立ち上がり、家の中へ入った。


 しばらくして戻ってくる。


 手には、小さな古い箱。


「これを見てください」


 箱の中には、一枚の写真が入っていた。


 若い頃のエレノア。


 そして――。


「あなた……」


 写真の裏には、小さな文字が書かれていた。


『いつか、彼女が笑顔になれますように』


 エレノアは言葉を失った。


「ずっと……持っていたの?」


「ええ」


「七十年近く?」


「写真は古くなりましたけどね」


 ヘンリーが笑う。


「捨てられませんでした」


 エレノアは写真を胸に抱いた。


「私、ずっとアンドレを待っていた」


「知っています」


「彼が帰ってくると信じて……」


「はい」


「でも、彼には彼の人生があった」


「……そうですね」


「そして私は、自分のすぐそばにいた人の気持ちに気づかなかった」


 ヘンリーは何も言わない。


 エレノアが顔を上げる。


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも……」


「私は、あなたを責めたことなんて一度もありません」


 その言葉に、エレノアは泣いた。


---


 その日の午後。


 二人は庭のベンチに並んで座った。


 目の前には、青い海。


「学校を辞めてから、どうしていたの?」


「小さな町に移って、ずっと教師をしていました」


「あなたらしいわ」


「エレノアさんもでしょう?」


「ええ。私もずっと教師だった」


 二人は昔の話をした。


 教え子のこと。


 学校で起きた失敗。


 笑ったこと。


 泣いたこと。


 そして、何十年も話していなかったのに、不思議なくらい会話が続いた。


 夕方。


 エレノアが海を見ながら言った。


「ねえ、ヘンリー」


「はい?」


「私たち……これからは、もっと話をしてもいいかしら?」


 ヘンリーは笑った。


「もちろんです」


「昔は、あなたがいつも私のそばにいたのに、私は全然気づかなかった」


「では、今度はちゃんと気づいてもらえるようにします」


「ふふ」


 エレノアは笑った。


「じゃあ……これからは、私の隣にいて」


 ヘンリーは少し驚いた。


 そして――。


「喜んで」


 二人は静かに笑った。


---


 数日後。


 Cafe Lykke。


 エレノアがリーサの前に座っていた。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「あなたに探してもらわなかったら、私は一生気づかなかったと思う」


「でも、最後に決めたのはエレノアさん自身ですよ」


「そうね」


 エレノアは窓の外を見る。


 海がきらきらと輝いている。


「私はずっと、昔の約束を守ることばかり考えていた」


 そして微笑んだ。


「でも、人生には……新しい約束を作る時間も残っているのね」


 リーサは頷いた。


「ええ」


 そのとき。


「リーサ!」


 クマが厨房から飛び出してきた。


「大変だ!」


「どうしたの?」


「俺も新しい約束を作った!」


「誰と?」


「ケーキと!」


 全員が黙った。


「毎日三個食べるって約束した!」


 猫がため息をつく。


「それは約束じゃなくて、ただの食べ過ぎ」


「なんでだよ!」


 ウサギが笑い、犬も呆れながら笑った。


 エレノアも声を上げて笑った。


 その笑顔を見て、リーサはそっと微笑む。


 九十歳。


 人生は、もう終わりに近づいているのかもしれない。


 けれど――。


 新しい出会いに、遅すぎるということはない。


 長い間待ち続けた恋が終わったその先に。


 ずっと自分のそばにあった、もう一つの愛が待っていた。


 窓の外では、春の海が優しく輝いていた。


 そしてエレノアは――。


 九十年目の春を、初めて誰かと並んで歩き始めた。

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