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第23話

羊皮紙に走るペンの音が、重苦しい沈黙の中に響いていた。


 バルバロス卿の手元から万年筆が滑り落ち、机上に乾いた音を立てる。男の指は脂汗で濡れており、青ざめた唇は小刻みに震えていた。リゼが冷淡な手つきで回収した書類には、承認印が鮮明に刻まれている。


「……これで満足か」


 バルバロス卿が絞り出すような掠れ声で言った。かつての尊大さはどこにもない。


「ええ。スポンサーとしての初期手付金の支払いは確認いたしました。ですが、残りの巨額債務に関しましては……ご提示いただいた契約条項通り、彼ら冒険者個人の連帯責任として求償権を移転させます」


「当然だ! あいつらの無能のせいで私がこれ以上の私財を失ってたまるか! 全額、ガルドたち本人から毟り取ればいい!」


 男は吐き捨てるように叫ぶと、身の破滅を免れた安堵と取り巻きへの苛立ちを露わにしながら、逃げるように応接室を飛び出していった。扉が乱暴に閉まり、乾いた風が廊下を吹き抜ける。


 残されたのは、机を挟んで立つ俺とリゼ、そして扉の脇に控えていたギルドの立ち会い人たちだけだった。


「……見事な切り捨てっぷりだな」


「想定通りです。貴族とはそういう生き物ですから。これで、すべての請求は正式にあの四人へと回ります」


 リゼは事務的に書類を束ね、整然と揃えた。その瞳には一切の揺らぎがない。



 廊下の先にある別の小部屋へ移動すると、そこには満身創痍の四人が待たされていた。


 最深部から引きずり出されたばかりの彼らは、泥と血に汚れ、高級だったはずの装備も無残に破損している。椅子に腰掛けたガルドは、部屋に入ってきた俺を認めるなり、血走った眼を向けた。


「おい、アレン……! スポンサーの旦那は何て言ったんだ? 俺たちの報酬から引くにしても、限度があるだろうが!」


「バルバロス卿は、あんたたちへの出資を全額打ち切ったよ。ついでに、今回の救助費用にかかる残債の全額を、パーティメンバー各自へ均等に転嫁する書類にサインしていった」


 俺が淡々と告げると、室内の空気が凍りついた。


「は……? な、なんだと……?」


「つまり、あんたたち四人が個人として、あの額を背負うことになった。そういうことだ」


「ふざけるなッ!」


 ガルドが立ち上がり、机を叩いた。だが、その足元は微かにふらついている。飢餓と恐怖で削られた体力は、地上に戻ったからといってすぐに戻るものではない。


「俺たちは天下のSランクだぞ! 武力も実績もある一流の冒険者だ! たかが道案内ごときに、全財産を奪われるような理不尽が通るわけねえだろ! おいアレン、昔のよしみだ。少しは色を付けろ! ただ歩いただけの手間に、そんな法外な金が動くはずがねえ!」


 喚き散らすガルドを見据えながら、俺は小さく息を吐いた。


「ただ歩いただけ、か。あんたたちはその『ただ歩く』ことができずに、あの暗闇で死にかけていたんだぞ」


「ぐっ……」


「命の値段に妥協はしない。俺は確実に生きて帰るルートを提供し、あんたたちはその価値に対価を払うと合意した。ビジネスにおいて、感情論で帳尻を合わせる気はない」


 俺の言葉に、リゼが一歩前へ出て冷ややかな微笑を浮かべた。


「ガルド様。アレンさんの救助がなければ、皆様の命はあの場で灰になっていたのですよ? 命を救われておきながら値引きを要求するなど、商業ギルドの規約に照らし合わせても言語道断です。これ以上のごね得を試みるようであれば、不当遅延のペナルティとして年率十五パーセントの割増金を即座に適用いたしますが?」


 リゼが手に持った計算書を卓上に置く。そこに並ぶ数字の桁を見た瞬間、ガルドの喉から言葉が消えた。


「ひ、十五パーセント……? そんなの、一生働いても返せない……」


 魔術師のエルマが掠れた声で呟き、頭を抱えて座り込んだ。かつて冷静沈着を装い、俺を無能と切り捨てる計算を主導していた女の姿は、そこにはない。ただ現実の重圧に怯えるだけの、哀れな敗作者だった。


「おい、ザック……! お前からも何か言えよ! 斥候の技術があれば、こんな借金すぐに……」


 エルマが救いを求めるように隣のザックへ縋り付く。だが、ザックは虚ろな目で床を見つめたまま、びくびくと肩を震わせるだけだった。


「無理だ……。俺の技術なんて、迷宮の構造変化の前には何の役にも立たなかった……。あんな場所、二度と潜れるかよ……」


 最深部での恐怖が、ザックの冒険者としての誇りを完全にへし折っていた。頼みの綱だった技術も、一度の遭難で跡形もなく砕け散っている。



 部屋の隅で腕を組んでいたギルバードが、重い足取りで机へと歩み寄ってきた。


 大柄な盾役は、俺の顔をまっすぐに見つめると、深く頭を下げた。


「……アレン。悪かった。俺たちが間違っていたのは明白だ。お前の技術を軽んじ、自分たちの腕力だけで生きていけると驕っていた。その報いだ」


 ギルバードはリゼからペンを受け取ると、迷うことなく自身の個人債務承認書に署名を走らせた。その背中には、かつての傲慢さはなく、ただ自分の犯した過ちの重さを引き受ける覚悟だけが漂っていた。


「私は……鉱山労働でも瓦礫撤去でも何でもやる。命を拾わせてもらったんだ、その対価を払うのは当然だ」


 続いて、治癒士のミレーヌが静かに立ち上がった。彼女の目には涙が浮かんでいたが、その表情には奇妙な落ち着きがあった。


「アレンさん……本当にごめんなさい。そして、助けてくれてありがとうございました」


 彼女は深く頭を下げ、震える手でペンを握った。


「私、ずっと怖かったんです。あなたが理不尽に追い出されたとき、何も言えなかった……。あの暗闇の中で、自分がどれだけ愚かで罪深いかを思い知りました。生きて帰れただけで、奇跡です。どんな労働でも受け入れます」


 ミレーヌは流れる涙を拭おうともせず、きっちりと署名を終えた。地位も名誉も失い、底辺の労働者へと転落する現実を前にして、彼女の心にあったのは絶望ではなく、生還への感謝と贖罪だった。


 二人の署名が終わり、リゼが書類を手際よく回収する。残されたのは、青ざめたまま震えるエルマと、立ち尽くすガルドだけだった。


「エルマ様、次はお手前です」


 リゼが冷酷な笑みを浮かべ、ペンを突き出す。


「や、嫌よ……! 私がどうして鉱山や下水掃除なんて……! 私は王都の魔導学院を出たエリートなのよ! アレン、お願いよ、見逃して! 何でもするから……!」


 エルマは机にすがりつき、無様な命乞いを始めた。だが、俺は視線を逸らすこともなく、冷たく言い放った。


「あんたの学歴もプライドも、迷宮では何の役にも立たなかった。契約は契約だ」


 立ち会い人の大男たちが無言でエルマの両脇を固める。逃げ場がないことを悟ったエルマは、絶望の悲鳴を上げながら、力任せにペンを押し付けさせられた。



 そして、最後に残された男の前に、一枚の書類が差し出された。


 パーティリーダーとしての全責任と、個人の全財産差し押さえを命じる、最終執行書だ。邸宅、預金、これまでに手に入れた名誉の証や武具に至るまで、全てを没収した上で、残額を労働によって返済することを義務付ける内容が記されている。


「……ガルド様。あなたの番です」


 リゼの声が、死刑宣告のように部屋に響いた。


 ガルドは机の上の書類を凝視した。その目は血走り、唇は紫色に変色している。かつて力こそが正義だと信じ、他者の技術を無能と嘲笑った男のプライドが、音を立てて崩れ去っていく。


「俺が……この俺が、底辺の作業員になれっていうのか……? Sランクのリーダーだった俺が……」


「あんたがどう思おうと勝手だが、命の対価は払ってもらう」


 俺はガルドの目をまっすぐに見据えた。


「サインをしろ。それがあんたの生き残るための、唯一の安全な道だ」


 ガルドの指が、差し出されたペンへと伸びる。かつて巨大な大剣を軽々と振るっていたその腕は、まるで鉛でもぶら下げられたかのように重く、激しく震えていた。ペン先が羊皮紙に触れ、黒いインクがじわりと滲んでいく。

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