第24話
羊皮紙に刻まれた黒い染みが、完全に乾ききるのを見届けてから、俺は書類を回収した。
サインを終えたガルドは、もはやかつての威容を完全に失っていた。大剣を支える力すら残っていないのか、丸めた背中を小刻みに震わせ、ただ床の一点を見つめている。ギルバードもミレーヌも、そして取り乱していたエルマも、各々の現実に押し潰されたように言葉を失っていた。
救助の対価として請求された莫大な負債。それらを返済するため、彼らには明日からギルドが斡旋する過酷な下層労働が割り当てられる。
「契約は成立しました」
リゼが極めて事務的な、しかし冷徹な響きを伴った声で告げ、書類を厳重な封筒へと収めた。
「それでは、これよりギルド本部へ手続きの完了報告に向かいます。お支払いが滞った場合の追加措置については、先ほどご説明した通りです。期日だけはお忘れなきよう」
慇懃な一礼を残し、俺たちは立ち尽くす元仲間たちに背を向けた。
翌朝、迷宮都市の空気は劇的に変わっていた。
都市の最高峰と謳われていた精鋭が最深部で立ち往生し、かつて無能として切り捨てられた元道案内の一手によってのみ生還を果たしたという事実は、瞬く間に市街全域へと知れ渡った。
かつて俺の地道な下調べや素材集めを「臆病者の無駄足」と嘲笑っていた者たちは、一様に口を閉ざした。迷宮の深層において、どれほど強力な剣技や高位の魔術よりも、確実に生きて戻るための知識と手順こそが生死を分かつ――その冷酷な現実を、ガルドたちの失脚が見せつけたからだ。
大通りに面した俺たちの事務所には、早朝から途切れることなく来客が押し寄せていた。
「頼む、うちの探索班が十層の亀裂地帯から戻らないんだ! 言い値で構わない、救助の予定を組んでくれ!」
「救出専門の契約書を取り交わしたい。専属契約の枠はまだ空いているか!?」
受付の扉が開くたびに、切羽詰まった声が事務所内に響く。
応接机の前には、中堅から上位クランの幹部、果ては迷宮探索に多額の投資を行っている商人たちまでが列をなしていた。かつては誰も見向きもしなかった「生還の請負」という業務が、都市で最も価値のある事業として認知された瞬間だった。
「順番にご案内いたしますので、まずはこちらの問診票へ現在の座標と物資の残量を正確にご記入ください。虚偽や誇張が発覚した場合、割増手数料が発生いたします」
リゼは青いインクのペンを淀みなく走らせながら、殺到する依頼人たちを淡々と捌いていた。相手がどんな大物商人であろうと、決して態度を崩さない。提示する金額にも、一切の迷いがなかった。
「アレンさん、こちらが午後からの捜索予定表です。第四層の崩落現場と、第八層の湿地帯。どちらも事前に割り出した迂回路で二時間以内に収容可能です」
「了解した。湿地帯の方は、乾燥した石灰石を多めに持参する。あの区画は酸性のガスが溜まりやすいからな。接触する前に中和の手順を踏む」
「手配しておきますね」
リゼが淀みなく認印を捺す横で、手伝いに入った赤毛の少女ノラが台帳の数字に目を輝かせた。
「すごいですよアレン社長! 今日だけでギルド公認の手付金が金貨百枚を超えました! あんなに偉そうにしてた大手クランの連中が、頭を下げて契約書にサインしていくなんて……!」
「浮かれるな、ノラ。救出作業は一件でも手順を間違えれば全員が共倒れになる。金が入ったからといって、迷宮の構造が甘くなるわけじゃない」
「は、はいっ! 気を引き締めます!」
ノラは居住まいを正しながらも、誇らしげに胸を張った。冒険者の過酷な現実を知る彼女にとって、感情に流されず対価をきっちり回収するこの事務所のやり方は、何よりも信頼できるものらしかった。
その日のすべての案件を処理し終えたのは、外の喧騒が引き、夜霧が石畳を濡らし始めた頃だった。
事務所の扉に『本日の受付終了』の札を掛け、鍵を下ろす。執務室のランプに灯を灯すと、柔らかな橙色の光が室内を満たした。
「お疲れ様でした、アレンさん」
リゼが棚から陶器の瓶とグラスを取り出し、机の上に並べた。迷宮都市の特産である果実酒の甘い香りが、微かに漂う。
「今日は少しだけ、お祝いをしましょう。ガルド様たちの案件に関するギルドへの清算手続きも、先ほど正式に完了通知が届きました。差し押さえた資材の売却益と委託労働の分配金、すべてこちらの口座へ順調に振り込まれています」
「ご苦労だったな。あんたの厳格な事務処理がなければ、途中でうやむやにされるところだった」
「当然の仕事をしたまでです。アレンさんの技術を安売りするような真似は、私が絶対に許しませんから」
リゼは小さく微笑み、グラスに琥珀色の液体を注いだ。
「乾杯ーっ! 事務所の繁盛と、特別手当に!」
ノラが真っ先にグラスを掲げ、リゼと俺もそれに続けた。冷えた果実酒が喉を通り、心地よい疲労感を解きほぐしていく。
かつて、俺は迷宮の中でただ見下されるだけの存在だった。背負い袋いっぱいに採取した雑草や石ころを「無駄な荷物」と蹴飛ばされ、歩行ペースが遅いと怒鳴られた。あの暗闇の中で感じていた無力感と孤立が、脳裏をかすめる。
だが、今は違う。
正しい手順を踏み、リスクを正確に見積もり、命の価値に応じた対価を受け取る。その当たり前の原則を貫くことで、俺は自らの技術の正当性を証明し、揺るぎない拠点を築き上げたのだ。
「……アレンさん、どうかされましたか?」
グラスを見つめたまま沈黙していた俺に、リゼが首を傾げた。
「いや。悪くない夜だと思っただけだ」
「ええ。先ほど領主府から、下層区域の迷宮保全を一括で委託したいと正式な諮問書が届きました」
リゼの言葉に、ノラが歓声を上げる。
着実に、道は開けている。積み上げてきた知識と周到な準備は、決して俺を裏切らなかった。その手応えだけは、確かに胸の中にあった。
ふと、執務室の窓ガラスに冷たい風が吹きつけた。
カタ、と微かな乾いた音が響く。
俺は何気なく、カーテンの隙間から階下の通りへと視線を向けた。
街灯の届かない路地の暗がり。石造りの建物の陰に、外套を深く被った人影がじっと佇んでいた。
こちらを見上げている。視線が合えばすぐに逸らすような素人ではない。微動だにせず、ただ事務所の明かりと室内の様子を値踏みするように観察していた。
ガルドたちを失脚させたことで、彼らを操り利権を貪っていた背後の存在――あの傲慢な後援者たちが、多額の損失をただ黙って受け入れるはずがない。
表の法と契約でねじ伏せられた者が次に頼るのは、いつだって路地裏の暴力だ。
俺は表情を変えぬまま、静かにカーテンを引いた。
「リゼ、明日の午前中の予定を少し変更する」
「はい? 何か不都合でもありましたか?」
「事務所の防犯機構を二重にする。それと、迷宮内で使う毒性攪乱用の粉末を、ここの保管庫にも補充しておく」
リゼは一瞬だけ目をしばたたかせたが、すぐに俺の意図を察したのか、引き締まった表情で小さく頷いた。
「……畏まりました。すぐに手配書を作成します」
平穏な日常の裏で、新たな澱みが確実に動き始めている。だが、どれほど厄介な悪意が迫ろうと、対処の手順は変わらない。リスクを洗い出し、退路を断ち、確実に処理するだけだ。




