第16話
暗闇の中、魔物の息遣いだけが冷たく響き続けていた。
肩の深く抉られた傷口から、生温かい血が絶え間なく流れ落ちていく。大剣の柄を握る手は小刻みに震え、もはや立ち上がることすらできなかった。周囲を取り囲む魔物たちは、硬い外殻と鋭い牙を持ち、腐肉の臭いを撒き散らしながらじりじりと距離を詰めてくる。
「もう限界だ……」
背後で、ギルバードが感情のない声で言い放った。彼は巨大な盾を構え、自分の身を守ることに徹している。俺を庇う気配は微塵もない。
「お前の傲慢さがこの結果を招いたんだ。俺はもう、お前には従わない」
ギルバードの冷え切った視線が、俺の胸を鋭く突き刺す。かつて俺の背中を預けたベテランの目には、リーダーへの敬意など欠片も残っていなかった。彼は生き延びるためだけに、俺という囮を見捨てようとしている。
壁際では、ミレーヌが虚ろな目で宙を見つめ、ぶつぶつと譫言を繰り返している。
「アレンがいれば……こんなことには……アレン、ごめんなさい……助けて……」
彼女の壊れた呟きが、俺の苛立ちと絶望をさらに加速させる。
エルマは奪った古い手帳を握りしめ、「嘘よ、私の計算が狂うはずないわ! 完璧なはずだったのに!」と金切り声を上げていた。彼女の知的な面影は消え失せ、ただ死の恐怖に怯える哀れな女に成り下がっている。
俺は唇を強く噛み破った。鉄の味が口内に広がる。
俺の圧倒的な力が、こんな薄汚い獣どもに全く通じない。
俺は最強の冒険者として、歴史に名を残すはずだった。それなのに、こんな迷宮の底で、誰にも知られずに飢えと恐怖の中で死ぬというのか。
案内人を無能と見下し、追い出した報いがこれか。
底知れない無力感が、俺の心を黒く塗り潰していった。
◆ーーーー◆
時間は少し遡る。
冒険者ギルドの喧騒は、俺が扉を開けた瞬間に水を打ったように静まり返った。
俺の背後には、中層で遭難していた中堅パーティの面々が立っている。彼らは疲労困憊し、防具はボロボロだったが、その瞳には生還の喜びの涙が光っていた。
「信じられない……あの複雑な階層から、たった半日で生還させるなんて」
「しかも、誰一人欠けることなく……あんたは命の恩人だ」
周囲の冒険者たちが、驚愕と称賛の入り混じった視線を向けてくる。
「あいつ、本当に無能だったのか?」
「いや、あの最高位の集団が間違っていたんだ。あんな神業、誰にも真似できない」
他の業者やパーティが次々と二次遭難の憂き目に遭う中、俺だけが確実な帰還道を提示し、迅速に彼らを救出していた。
手元には、彼らから支払われた莫大な救助費用の証書がある。
命の対価としては妥当な額だ。俺は感情を交えず、淡々と書類を鞄にしまった。
その時、ギルドの扉が乱暴に開かれた。
「頼む! 誰か、彼らを助けてくれ!」
身なりは良いが、ひどく狼狽した初老の男が転がり込んでくる。
没落寸前の貴族、バルバロス。あのパーティの出資者だ。
彼は周囲の視線も気にせず、俺の前に這いつくばった。
「あの連中を失えば、我が家は終わりだ。これまでの投資が全て無駄になる……! 領地の資産を担保にする。報酬は言い値で構わない。だから、どうか!」
なりふり構わぬ懇願。彼の額からは脂汗が滲み、目は血走っている。
俺は冷ややかに彼を見下ろした。
ガルドたちを救出することは、俺の能力の価値を最大限に証明する機会となる。彼らがどれほど無力で、俺の知識がどれほど価値があるかを思い知らせるための、最高の舞台だ。
「わかりました。ただし、条件は私が決めます」
俺は最高位の魔法契約書を取り出し、法外な額を書き込んだ。
バルバロスは内容を確認する余裕すらなく、震える手で署名する。
これで準備は整った。俺は悠々と、迷宮の最深部へ向けて歩みを進めた。
粘り気のある空気が肌を撫で、腐敗臭と鉄の匂いが混ざり合った悪臭が鼻を突く。
最深部の環境は、中層とは比較にならないほど過酷だった。壁は不規則に脈打ち、まるで巨大な生物の胎内にいるような錯覚を覚えさせる。
俺は脳内の3Dマップを常に更新し、微細な環境変化から生還のための道筋を割り出していく。
獣たちの縄張りを正確に避け、罠の兆候を読み取る。道中、俺は壁に生える特定の苔や、足元に転がる特殊な鉱石を拾い集めた。かつてガルドたちが無意味な行動と嘲笑したこの採取が、最深部では生死を分ける重要な意味を持つ。
さらに進むと、ガルドたちの痕跡が点在し始めた。
砕けた防具の破片、乾いた血痕、そして無様に発動した罠の残骸。
彼らがどれほど無計画に、力任せに進んできたかが手に取るようにわかる。俺の警告なしでは、彼らはただの力自慢の集まりに過ぎない。
やがて、俺は巨大な広間の入り口に到達した。
奥の方で、微かな光と、絶望的な呻き声が聞こえる。
ガルドたちだ。
彼らは広間の中央で完全に孤立していた。
食料はとうに尽き、自慢の武力も意味をなさない。ただ死を待つだけの惨めな姿がそこにあった。
俺が一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!
足元から、腹の底を揺るがすような地鳴りが響いた。
迷宮の壁が脈打つように蠢き、天井から巨大な岩塊が次々と崩れ落ちてくる。
「なっ……!」
想定外の大規模な構造変動。
俺は咄嗟に後方に飛び退こうとしたが、背後の通路が轟音とともに完全に塞がれてしまった。
退路が断たれた。
粉塵が舞い上がり、視界が白く染まる。咳き込みながら目を凝らすと、広間の壁のあちこちに新たな大穴が開いているのが見えた。
そこから、無数の赤い眼光が覗いている。
地鳴りに呼び寄せられたのか、あるいは迷宮そのものが生み出したのか。
数え切れないほどの魔物の大群が、広間になだれ込んできた。
「嘘だろ……」
俺の喉から、かすれた声が漏れた。
戦闘力のない俺が、こんな大群のど真ん中に孤立してしまった。
視界の端で、ガルドたちが絶望の悲鳴を上げている。
俺の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックした。
自分の知識が通用せず、目の前で顧客が魔物に引き裂かれていく光景。
無力な自分が、ただ震えて見ているしかなかったあの日の恐怖。
胃の奥が急速に冷たくなり、足の感覚が消え失せる。
俺は、また同じ過ちを繰り返すのか。
直接的な武力がないという劣等感が、黒い泥のように全身にまとわりついてくる。
俺は必死に脳内のマップを回転させ、生還のための道筋を探った。
崩落した岩の配置、魔物の動き、残された空間。
あらゆる要素を計算し、シミュレーションを繰り返す。
右の通路は完全に塞がれ、左の迂回路は魔物の巣窟と化している。上層へ抜ける道は、崩落によって跡形もなくなっていた。
何度計算しても、導き出される答えは同じだった。
生存確率、ゼロ。
広間を埋め尽くす魔物たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
俺の呼吸は浅く、早くなっていた。
ガルドの自慢の大剣も、俺の緻密な計算も、ここでは何の意味も持たない。
圧倒的な暴力と死の気配が、ただ静かに俺たちを包み込んでいく。
どうやって、この絶望から抜け出せばいい。
答えのない問いだけが、暗闇の中で虚しく響き続けていた。




