第15話
窓から差し込む朝の光が、ひび割れた水晶を無機質に照らしていた。
「アレン……」
私が震える声で呟いた直後だった。
事務所の重厚な扉が、ガチャリと無造作に開かれた。
「悪い、リゼ。深層の魔力干渉で水晶がイカれたらしい。予備を請求しておいてくれ」
平然とした声と共に現れたのは、煤だらけのコートを羽織ったアレンだった。その後ろには、先日遭難の報が入っていた中堅パーティの面々が、涙ぐみながら続いている。
「アレン! 無事だったんですね……!」
「当然だ。安全が確保できないルートは通らない」
彼は淡々と告げ、救助した冒険者たちから差し出された分厚い金貨の袋を受け取った。
「命の対価としては妥当な額だ。ギルドへの報告を頼む」
周囲の喧騒が事務所の外からも聞こえてくる。次々と遭難者を確実なルートで生還させるアレンの手腕に、当初は半信半疑だった冒険者たちも今や彼を救世主と称賛し始めていた。彼の真の実力が、莫大な富と名声という形で証明されつつある。
私は胸を撫で下ろし、ひび割れた水晶をそっと引き出しにしまった。
◆ーーーー◆
「チッ……なんだこのふざけた仕掛けは!」
俺は苛立ちに任せて、目の前の石壁を大剣の柄で殴りつけた。鈍い音が響くだけで、分厚い壁は微動だにしない。
ここは迷宮の最深部。息をするだけで肺が焼けつくような瘴気が立ち込め、視界は常に薄暗い。
「エルマ! てめえ、この道で合ってると言ったよな!」
俺の怒鳴り声に、少し離れた場所でうずくまるエルマが肩をビクッと震わせた。彼女の手には、あの案内人から奪い取った古い手帳が握られている。
「わ、私の計算では間違っていなかったわ……! 手帳の記述通りに進んだのに、地形が変化しているなんて……!」
知的な余裕を気取っていた彼女の顔は、今や恐怖と焦燥で醜く歪んでいた。想定外の事態に直面し、完全にパニックを起こしている。
先ほど、エルマの指示通りに進んだ通路で突如として床が抜け、巨大な鉄柵が降りてきた。そのせいで俺たちは分断され、元の道に戻ることもできなくなっている。
「ふざけるな! てめえの頭が足りねえからこんなことになってるんだろうが!」
「あ、アレンのせいよ! あいつがわざと古い情報を残していったんだわ!」
「うるせえ!」
俺は舌打ちをし、周囲を見渡した。
壁際に倒れ込んでいるザックは、右足を不自然な方向に曲げて呻いている。罠の解除に失敗し、仕掛けられていた毒矢と落石をまともに食らったのだ。
「クソッ……クソッ! なんで俺がこんな目に……全部あの案内人のせいだ! あいつがちゃんと案内しないから……!」
ザックは痛みに顔を歪めながら、虚ろな目でブツブツと恨み言を吐き続けている。自分の失敗を認められず、責任を押し付ける相手を探しているだけの惨めな姿だ。
「ミレーヌ! さっさとザックの足を治せ! 足手まといを増やしてどうする気だ!」
俺が怒鳴りつけると、杖を抱え込むようにして震えていたミレーヌが、ビクビクと顔を上げた。
「む、無理です……もう、魔力が……ポーションも、とっくに尽きて……」
彼女の顔色は土気色で、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。飢えと渇き、そして絶え間ない魔物の襲撃による恐怖で、完全に衰弱しきっていた。
「アレンが……アレンがいれば、こんなことには……」
ミレーヌの口から漏れたその名前に、俺の頭の中で何かがブチッと切れた。
「あいつの名前を出すな!」
俺はミレーヌの胸ぐらを掴み、強引に引き寄せた。
「俺たちはSランクパーティだぞ! あんな後ろで震えてるだけの臆病者がいなくたって、俺の力で最深部を制覇できるんだよ!」
「ひっ……ご、ごめんなさい……!」
「ガルド、やめておけ。これ以上体力を無駄にするな」
低い声が響き、俺の手首を分厚いガントレットが掴んだ。ギルバードだ。
彼の重鎧は無数の傷と魔物の返り血で汚れ、息も絶え絶えだが、その瞳だけは冷たく俺を見据えていた。
「てめえ、俺に指図する気か?」
「現実を見ろ。物資は尽き、退路も絶たれた。お前の自慢の大剣で、この飢えと地形の変化をどうにかできるのか?」
ギルバードの言葉は、俺の最も触れられたくない部分を容赦なく抉ってきた。
一瞬、指先が止まる。俺は何も言い返せず、ただギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「俺は……俺は最強だ! 力こそが全てだ! あんな裏方の小細工なんて必要ねえんだよ!」
俺はギルバードの手を振り払い、大剣を構えた。
だが、ギルバードは呆れたように首を振り、ゆっくりと壁際に座り込んだ。
「……俺は降りる。お前の傲慢さには、もう付き合いきれん」
「なんだと……?」
「契約はここまでだ。あとは勝手に野垂れ死ね」
ベテランの盾役からの明確な決別宣言。それは、パーティの完全な崩壊を意味していた。
なぜだ。なぜ俺の力が通用しない。俺はSランクのリーダーだ。最強の冒険者のはずだ。
それなのに、なぜこんな薄暗い穴ぐらで、誰にも知られずに惨めな思いをしているんだ。
胃の腑が冷たく重い鉛で満たされていくような、得体の知れない恐怖が俺の足を竦ませていた。
◆ーーーー◆
「……というわけで、これがバルバロス卿からの正式な依頼書だ」
ギルドの応接室。分厚い羊皮紙を机に置いたのは、顔色の悪いギルドの職員だった。
俺は向かいのソファに深く腰掛け、その依頼書を一瞥した。
「救出依頼。報酬は……空欄か」
「あ、ああ。バルバロス卿は彼らに巨額の投資をしている。ここでパーティを失えば、家の威信も投資も全てパーだ。だから、領地の資産を担保にしてでも言い値でいいと……」
職員は額の汗を拭いながら、すがるような視線を俺に向けてきた。
「アレン、お前しかいないんだ。最深部まで確実に到達し、彼らを連れ戻せるのは……」
俺は手元の紅茶を一口啜り、ゆっくりとカップを置いた。
「引き受けよう」
「ほ、本当か!」
「ただし、報酬は俺が後で書き込む。ギルドの最高位魔法契約書を使用することが条件だ」
職員は一瞬息を呑んだが、すぐに何度も頷いた。
俺は立ち上がり、事務所の窓から遠くに見える迷宮の入り口を見下ろした。
ガルド。お前は自分の武力だけで全てを解決できると信じていた。目に見えない裏方の努力を嘲笑い、俺を切り捨てた。
だが、迷宮は力だけでは生き残れない。
お前たちが今、どれほどの絶望を味わっているか。そして、俺の能力がどれほどの価値を持っているか。
それを、お前たちの全財産と引き換えに教えてやる。
「リゼ、出発の準備だ。最深部まで、確実なルートをゆっくりと進む」
俺は振り返り、待機していたリゼに指示を出した。
「はい。物資の準備はすでに完了しています」
俺は赤い羊皮紙を懐に収め、悠々と迷宮へと歩き出した。
◆ーーーー◆
「ガァァァァッ!」と、天井に張り付いていた魔物が鋭い爪を振り下ろしてきた。
耳障りな咆哮が、狭い通路に反響した。
「クソッ……次から次へと……!」
俺は大剣を振り回し、迫り来る四つん這いの魔物を両断した。だが、斬っても斬っても、暗闇の奥から無数の赤い眼光が湧き出してくる。
「ガルド! 右からも来てるわ!」
エルマの悲鳴じみた声が響く。
「わかってる! ザック、援護しろ!」
「む、無理だ……足が……痛くて……」
ザックは壁際にうずくまったまま、武器を取ろうともしない。
「ミレーヌ! 回復魔法だ!」
「ひっ……いや、来ないで……!」
ミレーヌは完全に心を壊し、頭を抱えて震えるだけだった。
ギルバードは無言で盾を構え、自分の身を守ることに徹している。俺を援護する気は微塵もないらしい。
「てめえら……ふざけるな! 俺はSランクだぞ!」
俺は怒りに任せて大剣を振り下ろすが、疲労と空腹で腕に力が入らない。刃は魔物の硬い外殻に弾かれ、逆に俺の体勢が崩れた。
その隙を突かれ、別の魔物の爪が俺の肩を深く抉った。
「ガッ……!」
激痛に顔を歪め、俺は膝をついた。
周囲を完全に包囲され、逃げ場はない。
俺の自慢の武力が、全く通じない。
俺はここで、誰にも知られずに、惨めに野垂れ死ぬのか。
迫り来る無数の牙を前に、俺の心に広がっていたのは、怒りでも闘志でもなく——ただ静かで、底知れない無力感だけだった。
暗闇の中、魔物の息遣いだけが冷たく響き続けていた。




