第14話
迷宮の最深部に到達した俺は、冷たい静寂の中で足を止めた。
足元に転がる真紅のマントの切れ端と、分厚い鋼の大剣の破片。べっとりとこびりついた赤黒い血が、ここで起きた惨劇の生々しさを物語る。
俺は周囲の地面に目を凝らした。微かに残る足跡が、彼らの末路を雄弁に語りかけてくる。
乱れた歩幅と、何かを引きずったような痕跡。治癒士ミレーヌのものだろう。追放を止められなかった自己嫌悪を抱え、飢えと魔物の恐怖によって完全に衰弱しきったことが読み取れる。彼女の足跡は、途中で何度も膝をつき、這いつくばるようにして進んでいた。
そして、盾役ギルバードの重いブーツの跡は、ガルドの足跡とは全く別の方向へと向かっていた。極限状態の中で、彼はついにリーダーを見限る決意を固め、離反したのだ。強固な結束を誇っていたはずの彼らが、いとも容易くバラバラになっている。
かつて俺を見下していた傲慢な最高位の武力を誇る彼らは、案内人の不在という絶望を味わい、最深部の地獄で無惨に崩壊していた。
俺は懐の契約書に触れた。
かつて俺が所属していたパーティの支援者である没落寸前の貴族、バルバロス。彼からギルドに舞い込んだのは、領地の資産をすべて担保にするという、法外な報酬での救出依頼だった。投資対象を失えば家の威信も財産もすべて失う彼にとって、俺の言い値に縋るしかなかった究極の依頼。
俺は自らの能力の価値を最大限に証明する機会としてこれを受注し、悠々と最深部へ向けて出発したはずだった。
だが、この異常な瘴気と変貌する迷宮は、俺の計算を根底から覆そうとしている。
腰に下げた定時連絡用の魔法具が、ジリジリと不快なノイズを鳴らし始めた。
「……リゼ、聞こえるか」
応答はない。空間の歪みが、外部との通信すらも遮断し始めている。
俺は砕けた大剣の破片を捨て、さらに深い暗闇へと足を踏み出した。
◆ーーーー◆
夜の迷宮都市。冷たい風が吹き抜ける路地裏を、私は足早に歩いていた。
「リゼ先輩、こっちです! 情報屋のオヤジ、裏口から逃げようとしてましたけど捕まえました!」
赤毛のポニーテールを揺らしながら、ノラが路地の奥から手を振る。彼女の足元には、小太りの男がロープで縛られ転がっていた。
「ご苦労様、ノラ。助かりました」
私は丁寧な口調で労いながら、男を見下ろした。
アレンが最深部へ向かった直後、ギルドの監査官が私たちの事務所に乗り込んできた。難癖をつけて営業停止処分を下し、アレンの救助ビジネスを根底から潰そうとする不当な圧力。
私はそれを覆すため、夜の街を奔走していた。
「さて。あなたが監査官に流した偽造書類の出所について、詳しくお聞かせ願いましょうか」
「ひっ……し、知らねえよ! 俺はただ頼まれただけで……」
「嘘をつくなら、割増料金をいただきますよ。私たちの業務を妨害した損害賠償として、あなたの全財産を差し押さえる手続きに入りますが、よろしいですか?」
冷酷な笑顔を向けると、男は顔を青ざめさせてすべてを吐いた。
監査官は、ガルドの支援者であるバルバロス周辺の貴族たちと裏で手を結んでいた。バルバロスがアレンに提示した究極の依頼。その法外な報酬を支払うのを免れるため、アレンが最深部で遭難したと同時に事務所を潰し、契約そのものを無効化しようという魂胆だった。
「裏方は誰でもいい、ですか。……本当に、浅はかな人たちですね」
私は吐き捨てるように呟いた。
かつて所属していた組織で、正当な評価を受けられず使い潰されそうになった記憶が蘇る。戦闘員ではないというだけで、どれほど緻密な計算と交渉を重ねても、価値が低いと見なされる理不尽。
私は情報屋の自白を羊皮紙に書き留め、ノラに合図を送った。
その後、私たちはかつてアレンが救助した格上の冒険者たちの酒場を回った。
「アレンの事務所が潰されるだと? ふざけるな!」
隻眼のベテラン剣士が、ジョッキを叩きつけて立ち上がった。彼の顔には、迷宮で負った生々しい傷跡が残っている。
「他の連中が次々と遭難する中、あいつだけが確実な帰還経路で俺たちを救い出してくれたんだ。莫大な費用を払う価値は十分にあった。あいつはギルドの救世主だぞ!」
「そうだ! アレンがいなけりゃ、俺たちはとっくに魔物の餌になってた!」
周囲の冒険者たちも次々と賛同の声を上げる。アレンの知識と迅速な救出劇は、すでに迷宮都市で確固たる評価を築いていた。彼らの署名と証言は、監査官の不当な圧力を跳ね返す最強の盾となる。
「皆様、ご協力感謝いたします。アレンの決めた料金体系と契約内容は、私が必ず守り抜いてみせます」
私は深く頭を下げ、集めた証拠書類を胸に抱きしめた。この重みこそが、私たちが築き上げてきた信頼の証だ。
翌朝。
再び事務所を訪れた監査官は、ふんぞり返ってソファに座っていた。彼の背後には、護衛らしき屈強な男が二人控えている。
「荷物はまとまったかね、事務員くん。君のような小娘が、身の丈に合わないビジネスに手を出した結果だ。大人しく営業停止を受け入れたまえ」
監査官は薄笑いを浮かべ、私を見下ろした。女の事務員など、少し脅せばすぐに屈すると思い込んでいるのだろう。
私は無言のまま、分厚い書類の束をテーブルに叩きつけた。ドサリという重い音が、室内に響き渡る。
「これは……?」
「監査官殿と、バルバロス家周辺の貴族との間で交わされた不正な資金移動の記録。そして、アレンによって救助された全三十四組の冒険者からの、当事務所の適正な業務を証明する嘆願書です」
監査官の顔から、スッと血の気が引いた。薄笑いが凍りつき、額に脂汗が浮かぶ。
「な、なんだこれは! 偽造だ、こんなもの!」
「偽造かどうか、本部の査問委員会で確認していただきましょうか。お客様がアレンを侮辱し、不当な圧力をかけた事実もすべて記録してあります。感情論での無償救助は引き受けませんが、悪意ある妨害に対しては、徹底的なペナルティを課すのが当事務所のルールですので」
私は慇懃無礼な笑みを浮かべ、相手の逃げ道を完全に塞いだ。完璧な論理と容赦のない追及の前に、監査官は反論の言葉を失う。護衛の男たちも、事態の深刻さを悟ったのか、気まずそうに視線を逸らした。
「……覚えていろよ」
捨て台詞を吐き、監査官は逃げるように事務所から転がり出ていった。
「やりましたね、リゼ先輩!」
ノラが歓声を上げ、奥から顔を出したティオも安堵の息をつく。
「ええ。これで事務所の危機は去りました。あとは、アレンが帰ってくるのを待つだけです」
私は窓の外、巨大な迷宮の入り口へと視線を向けた。
彼なら必ず、あの傲慢な元仲間たちから全財産を搾取し、悠々と帰還するはずだ。私の居場所は、彼が帰ってくるこの場所にあるのだから。
しかし、その直後だった。
執務机の上に置かれていた、アレンとの定時連絡用の魔法具。
それが突如として、鼓膜を劈くような不吉なノイズを発した。
『……ジ……ザザッ……』
「アレン? アレンですか!」
私は慌てて魔法具に駆け寄り、魔力を流し込んだ。いつもなら、彼の冷静な声が返ってくるはずだった。
だが、ノイズはさらに激しくなり、やがて——パキン、と乾いた音を立てて、魔法具の核となる水晶がひび割れた。
完全に、沈黙した。
「嘘……」
ノラが息を呑む音が、静まり返った事務所に響いた。
迷宮の最深部で、通信の要である魔法具が破壊されることの意味。それは、絶対的な計算を誇るアレンが、未知の脅威に飲み込まれたことを示している。
私の手から、血の気が引いていくのがわかった。胃の奥に、冷たく重い鉛が落ちていく。
アレンの身に、一体何が起きたのか。
窓から差し込む朝の光が、ひび割れた水晶を無機質に照らしていた。




