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第30話 広げる④

 五万人が集まる国際展示場の一角。


 円形のステージ中央に車椅子を止めると、視界いっぱいに観客が広がっていた。スマートグラスをかけた無数の顔が、私を見つめている。


 ドームの四万人とは、空気が違う。


 あの時は野球を見に来た人たちの「ついで」だった。でも、ここにいるのは——AR技術を見るためだけに来た人たち。業界関係者。熱心なマニア。技術の目利きたち。


 誤魔化しは利かない。


 私は深く息を吸い込んだ。マイクを握る指先が、微かに震えている。


 イヤモニから、早智さんの声が聞こえた。


「姫乃ちゃん。始めるよ」


「……はい」


 あの日、私は折り紙の世界で歌った。ある時は、女王として戦士たちを鼓舞した。


 今日は、世界を相手にする。


 先生は、テーマ変更を申し出た私に、何も聞かなかった。ただ「わかった」と頷いて、演出を組み直してくれた。


 だから、私も応えなければならない。


 カウントダウンが始まる。


 5、4、3、2、1。


 照明が落ちた。


 静寂。観客の息遣いだけが、暗闇の中に溶けている。


 そして——リラの音色が、響き始めた。


 最初は、ほんの微かな音だった。古代ギリシャの竪琴を模した電子音。甘く、柔らかく、どこか切ない旋律が、会場を満たしていく。


 それは誘いだった。


 セイレーンの歌。船乗りを海へと誘い、二度と帰さない、魅惑の調べ。


 足元が、揺らいだ。


 最初は錯覚かと思った。会場の床に、さざ波のような模様が走った。いや、模様ではない。水面みなもだ。コンクリートの床が、深い青色に染まっていく。波紋が広がり、光が屈折し、足元に海が生まれていく。


 悲鳴が上がる暇もなかった。


 水面が割れた。観客たちの身体が、一人、また一人と、海の中へ沈んでいく。


 私は歌い始めた。


◇◇◇


 青い光が、全身を包み込んでいた。


 水面から差し込む陽光が、ゆらゆらと揺れながら私を照らしている。遠くには珊瑚礁が見え、色とりどりの魚が泳いでいる。


 リハーサルで見た光景だ。でも、何度見ても息を呑む。


 これはARだ。本物の海じゃない。なのに、肌に水の冷たさを感じる気がする。頬を撫でる海流を感じる気がする。


 そして——私の目の前に、一匹の魚が現れた。


 手のひらサイズの、丸っこくて愛嬌のあるデザイン。青い鱗がきらきらと光を反射している。ぬかしーさんが合宿で描いてくれた、あの魚だ。


 魚は、私の顔の前でくるりと一回転した。まるで「こんにちは」と言っているみたいに。


 思わず、手を伸ばした。


 魚は、私の指先から逃げた。すい、と身を翻して、少し離れた場所で止まる。でも、離れすぎることはない。私が手を引っ込めると、また近づいてくる。


 この魚は、観客一人ひとりの前にも現れている。それぞれの個性豊かな「相棒」として。


 ——それだけじゃない。


 世界同時配信を見ている人たち。ARグラスを持つすべての視聴者のもとにも、この瞬間、魚が現れているはずだ。先生の技術が、それを可能にしている。


 私は小さく微笑んで、歌い続けた。


 穏やかな旋律が、海中に溶けていく。珊瑚礁を抜け、魚たちが踊り、光が揺れる。


 ——でも、これで終わりじゃない。


 曲調が、変わった。


 リラの音色が、長調から短調へ。明るさが翳り、海の色が深くなっていく。


 沈んでいく。


 水面が遠ざかる。陽光が薄れ、青が濃くなっていく。珊瑚礁は消え、色とりどりの魚たちも姿を消した。相棒の魚だけが、私の傍らで光を放っている。


 深く、深く。


 光が届かなくなった。周囲は藍色の闇に包まれ、自分の手すら見えなくなる。相棒の魚が放つ微かな光だけが、唯一の道標。


 水圧が増していく——ような錯覚。肌が圧迫される感覚。耳の奥で、ごうごうと水の唸りが聞こえる。


 これは視覚情報だ。脳はそれを理解している。


 なのに、身体は水の中にいると錯覚していた。息を止めなければと本能が叫ぶ。でも、私の歌が聞こえている限り、彼らは溺れない。私が、彼らを守っている。


 水温が下がっていく——ような錯覚。指先が痺れる。吐く息が白くなる気がする。ありえない。温度などない。



 私の歌が、また変わる。


 低く。重く。警告するような旋律。


 ——来る。


 闇の底から、何かが浮かび上がってきた。


 最初は影だった。巨大な、途方もなく巨大な影。相棒の魚の光を遮り、闇そのものが形を成していくような——。


 触腕しょくわん


 一本が、闇の中からうねりながら伸びてきた。


 太さは電柱ほどもある。表面には無数の吸盤が並び、その一つ一つが、人の頭ほどの大きさで脈打っている。二本目。三本目。数えきれない触腕が、四方八方から観客たちを取り囲んでいく。


 怪物。


 深海に棲む、巨大なタコ。いや、それは概念だった。欲望の塊。奪い、呑み込み、二度と返さない、底なしの飢餓。


 ——私だ。


 私の中にある、どうしようもない独占欲。先生を奪おうとする者を、許せない。許したくない。全部呑み込んで、誰にも渡したくない。


 その醜い感情が、今、目の前で形を成している。


 怪物が、咆哮した。


 身体の芯を揺さぶる振動が、内臓を圧迫する。吐き気がする。逃げ出したくなる。それほどの、圧倒的な存在感。


 触腕が動いた。


 一人の観客に向かって、吸盤を開きながら伸びていく。捕らえようとしている。呑み込もうとしている。


 ——逃げられない。


 その瞬間、青色の光が動いた。


  相棒の魚が、触腕に向かって突進した。小さな身体で、巨大な触腕に体当たりする。弾き飛ばされる。でも、また向かっていく。


 すると、二匹目が続いた。三匹目が。十匹が。百匹が。


 ——足りない。


 会場にいる全ての魚たちが立ち向かう。しかし、その魚たちだけでは、怪物は揺らぎもしなかった。触腕の一本が、魚の群れを薙ぎ払う。光が散り、闇に呑まれていく。


 その時だった。


 闇の向こうから、光が近づいてきた。


 一つ。二つ。十。百。千。


 数えきれない魚たちが、深海の彼方から押し寄せてくる。


 ——世界中から。


 配信を見ているすべての人たち。そのもとにいた魚たちが、この深海に集まってきていた。


 五百が、五千に。五千が、五万に。五万が、何百万に。


 光の奔流が、触腕に群がっていく。一匹一匹は小さい。吸盤一つにも満たない。でも、世界中の想いが、一点に集まっていく。闇を押し返すように、光の濁流が怪物を包み込んでいく。



 怪物の咆哮と、魚たちの輝き。二つの旋律が絡み合い、ぶつかり合う。私の中にある矛盾。独占欲と、純粋な想い。奪いたい気持ちと、守りたい気持ち。


 魚たちが、押し返していく。


 小さな想いの集積。一つ一つは微かでも、集まれば巨大な力になる。


 怪物が、後退し始めた。


 触腕が縮んでいく。巨大な体が、闇の奥へと沈んでいく。深海の、さらに深い場所へ。


 その瞬間、海が動いた。


 下から上へ。巨大な流れが生まれていた。怪物が沈んでいくことで生まれた、上昇流。魚たちが作り出した、脱出の道。


 身体が、浮き上がっていく。


 抗えない。抗う必要もない。私は歌いながら、その流れに身を任せた。観客たちも同じだ。光の粒子に包まれながら、一人、また一人と、水面へ向かって上昇していく。


 振り返ると、魚たちはまだ怪物を押さえつけていた。


 銀色の光が、深海の闇に呑まれていく。私たちを逃がすために。自分たちが犠牲になってでも。


 ——待って。


 でも、声は届かない。流れは止まらない。私は浮上していく。彼らを置いて。


 私は歌い続けた。


 怪物を鎮める歌。自分の中の醜い感情を、海の底へと沈めていく歌。


 それは、手放す歌だった。


 ——私だけのものじゃない。


 暗い深海から、光の方へ。私の歌が、彼らを導いていく。青が薄くなっていく。水温が上がっていく——ような錯覚。指先の感覚が戻ってくる。


 水面を、突き破った。


 そこに広がっていたのは、凪だった。


 波一つない、鏡のような海面。空は夕焼けに染まり、オレンジと紫のグラデーションが、水面に溶け込んでいる。


 静寂。


 風の音すら聞こえない。世界が、息を止めている。


 しかし、——相棒がいない。


 あの小さな青の光を放つ存在は、どこにもいない。怪物を押し返すために、全ての力を使い果たしたのか。自分たちを守るために、犠牲になったのか。


 観客たちの顔に、喪失感が浮かんでいるのがわかる。たった数分間、一緒にいただけの存在。名前も知らない、小さな魚。でも、確かにそこにいた。確かに、守ってくれた。


 私は、最後の歌を紡いだ。


 静かな、子守唄のような旋律。失ったものへの鎮魂歌。


 ——ありがとう。さようなら。


 その想いを込めて、最後の音を伸ばした。


 そして——。


 ぴちゃん。


 背後から、小さな水音が聞こえた。


 観客たちが、振り返る。私も、歌いながら、視線だけを動かした。


 青色の鱗が、夕陽を反射して輝いていた。


 一匹の魚が、水面から顔を出していた。小さな尾鰭で水を叩き、ぴちゃん、ぴちゃんと跳ねている。


 また一匹。また一匹。


 水面のあちこちから、色とりどりの光が顔を出していく。十匹。百匹。数えきれない魚たちが、観客一人一人のもとに戻ってきていた。


 消えたと思った想いは、消えていなかった。


 手放したと思ったものは、失われていなかった。


 私の歌は、ここにある。


 これからも、ずっと。


 私は、最後の音を紡ぎ終えた。


 凪の海が、ゆっくりと消えていく。夕焼けが薄れ、水面が下がり、観客たちの足元に会場の床が戻ってくる。魚たちは最後まで寄り添い続けていた。


 静寂。


 全員が、呆然と立ち尽くしていた。


 ——そして、爆発した。


 拍手。歓声。立ち上がる観客たち。怒号のような喝采が、会場を揺るがした。


 私は、その全てを受け止めながら、舞台袖を見た。

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