第3話 春③
私は予備のスマートグラスを取り出し、姫乃に差し出した。
「……これを、かければいいんですか?」
「全然怪しくないから、安心して」
姫乃は少し警戒した目でグラスを受け取り、装着した。
私がシステムを起動させた瞬間——研究室が変貌した。
薄暗い壁が、クリーム色の漆喰に塗り替わる。サーバーラックは背の高い本棚になり、革張りの洋書がぎっしりと並ぶ。天井には優美なシャンデリア。窓の外には手入れされた庭園が広がり、午後の陽光が柔らかく差し込んでいる。
無機質な研究室は、ヨーロッパの古城を思わせる書斎へと姿を変えていた。
「……っ」
姫乃が息を呑む。車椅子の上で、きょろきょろと周囲を見回している。
「これが、あなたの研究……」
「の一部ね」
「……でも」
姫乃が眉をひそめた。
「こんなのVRと変わらないじゃないですか」
「そう思う?」
私はデスクの引き出しから使い捨てのプラスチックカップを取り出し、ポットからコーヒーを注いだ。それを姫乃の前に差し出す。
彼女の目には、金細工が施された豪奢なティーカップが映っているはずだ。
「コーヒーでもどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
姫乃が戸惑いながらカップを受け取る。
「メガネ、外してみて」
「え?」
「いいから」
姫乃がゆっくりとARグラスを外した。
彼女の手の中にあるのは、何の変哲もないプラスチックの使い捨てカップ。百均で売っているような、安っぽい白いやつだ。
「……え」
「こういうこともできるの」
姫乃がカップを見つめ、グラスをかけ直し、また外す。金のカップと、プラスチックのカップ。同じものが、まったく違って見える。
「VRは別の世界に連れていく。でもARは——」
「現実を、塗り替える……」
姫乃が呟いた。その目に、さっきまでとは違う光が宿っている。
——その時だった。
「ただいまー、コンビニ混んでて……」
扉が開き、早智がコンビニ袋を抱えて入ってきた。
彼女はARグラスをかけていない。だから、薄暗い研究室に車椅子の少女がいる光景だけが目に入ったはずだ。
「……え」
早智の動きが止まった。コンビニ袋が、だらんと下がる。
「駒路姫乃ちゃんだ! 本物だ!」
悲鳴に近い歓声。姫乃の顔が、一瞬で変わった。
「ファンの方ですか? ありがとうございます」
アイドルスマイル。声のトーンまで違う。さっきまでの棘はどこへやら、完璧な『車椅子の歌姫』がそこにいた。
「この子はここに居座ってる自称助手の高知早智」
私は早智を指差しながら、姫乃に言った。
「だから、……別に素でいいよ」
「素で話してますけど」
姫乃が笑顔のまま答える。完璧な猫かぶり。
「志保ちゃん志保ちゃん、なんで姫乃ちゃんがここに!?」
「鍵を届けに来てくれたの。今朝落としたやつ」
「え、見つかったんですか!?よかったですね!……って、姫乃ちゃん、私、ファンなんです!あ、そうだ志保ちゃん、この前姫乃ちゃんのラストライブの映像見せたじゃないですか。感動しますよねー」
早智が興奮気味にまくし立てる。姫乃の笑顔が、ほんの一瞬だけ強張った。
「ありがとうございます」
「志保ちゃんも感動したって言ってましたよね?」
「……言ってない」
私は首を横に振った。
「別に何とも思わなかったかな。ただ、違和感はあった」
「違和感……ですか?」
姫乃の声から、アイドルのトーンが少しだけ剥がれた。
「笑ってるのに、笑ってなかった」
私は姫乃を真っ直ぐに見た。
「歌ってるのに、歌ってなかった」
沈黙が落ちた。
早智が「え、何この空気」と戸惑っている。姫乃は笑顔を貼り付けたまま、でもその目だけが揺れていた。
そして——猫が、剥がれた。
「……あはっ」
姫乃が笑った。作り物の甘さが消えた、乾いた笑い。
「やっぱり、あなた面白い」
「え?」
「あのラストライブ、誰も気づかなかったんですよ。観客も、スタッフも、マネージャーも。みーんな『感動した』『頑張ってる』って。——当の本人が、もう辞めたくてしかたなかったのに」
姫乃の目が輝いていた。怒りでも悲しみでもない。何かを見つけた時の、純粋な興奮。
「なのに、あなたは見ただけで分かっちゃうんだ。しかも今朝、初対面で私の演技も見抜いた」
姫乃は車椅子を少し前に進め、研究室を見回した。
「……なんだろう。この薄暗くて怪しい部屋、意外と落ち着くかも」
「さっき、みすぼらしいって言ってなかった?」
「え?そんなこと言ってないですよ」
姫乃が私を見た。さっきまでの興奮が、少しだけ穏やかになっている。
「ここ落ち着くので、ちょくちょくお邪魔しますね」
許可を求める形ではなく、宣言だった。さっきまでのアイドルスマイルはどこへやら、図々しいほど自然な態度で居座る気満々だ。
「……ほら」
私は小さく笑った。
「そっちの方がいい」
◇◇◇
それから一週間。
姫乃は宣言通り、毎日のように研究室に顔を出すようになった。理由は単純だ。学内を歩けば写真を撮られ、声をかけられ、憐れまれる。——『車椅子の歌姫』という珍獣を見に来る野次馬から逃れるには、この薄暗い研究室が最適だったらしい。
ただ、姫乃という『新入生パンダ』への興味は、予想より早く薄れていった。もう一匹のパンダ——現役トップアイドルが同じ新入生にいたおかげで、野次馬の視線はそちらに吸い寄せられたらしい。
それでも、姫乃は講義が終わると決まって私の研究室に現れ、車椅子のまま隅の定位置に陣取る。静かに本を読んだり、ヘッドホンで音楽を聴いたりしている。私は私で、彼女を空気のように扱ってコードを叩き続ける。この無機質なサーバーラックの唸りが響く空間が、彼女にとっては唯一の、演技のいらない場所になっているようだった。
もちろん、たまに雑談もする。どんなきっかけだったかは覚えていない。いつの間にか彼女は私のことを「志保先生」と呼ぶようになっていた。最初は「園田准教授」と他人行儀だったはずなのに、気づけば語尾の角が取れ、自然と馴染んでいた。馴れ馴れしく呼ぶのは早智だけで十分なのだが、訂正するのも面倒で、私はそれを黙認している。
金曜日、正午。私は早智が買ってきたサンドイッチを片手に、姫乃と向かい合って遅めのランチを摂っていた。
その静寂を破ったのは、ノックもなしに開け放たれた扉の音だった。
「おやおや、園田准教授。またここに引きこもっているのか」
入ってきたのは、メディア工学部長の阿久津教授だった。最新型のスマートグラスを光らせ、仕立てのいいスーツを揺らして堂々と踏み込んでくる。
「阿久津教授。……何か御用ですか」
「今日は新入生歓迎コンパの日だ。君、また欠席するつもりだろう?さすがに参加してもらおうと思ってね。かつて『izanagi』の旗振り役として、国を挙げてのパーティーを渡り歩いた君なら、この程度の夜会など造作もないだろう」
izanagi。その名前が出た瞬間、早智が隣で息を呑むのがわかった。
私が心血を注ぎ、そして叩き出された国家プロジェクト。この男は、その後の利権を握って今の地位にいる。
阿久津はわざとらしく鼻を鳴らし、私のデスクに腰掛けた。
「しかし羨ましいよ。国家プロジェクトから身を引いた後、こうして我が校に天下りできる身分というのは。元・技術主任様は、その若さで老後の過ごし方を心得ているようだ」
私はキーボードから手を離さずに返した。
「……天下り?買い被りすぎですよ。私は単に、言うこと聞かなくてクビになっただけです。天下りって、もっと上手く媚びれた人がもらえるご褒美でしょ」
阿久津は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「相変わらず、言葉選びに品がないな。君が技術的良心と呼んで大事に抱えていたものは、我々からすればただの納期の遅延と予算の無駄遣いだった。それだけの話だ。その結果、君はここにいて、私はあそこにいる。……それが現実だよ」
阿久津はデスクを指先で叩き、思い出したように眉を上げた。
「そういえば、来月から『izanagi』のアップデートで、ようやくアイトラッキングによるユーザーの視覚情報の収集が正式に開始されることになってね。どの広告を何秒見たか、ユーザーは無意識に何を求めているか……すべてがデータとして可視化されるんだ。私の理論に基づいた、完璧なマーケティングの最適化だよ。……おっと、《《これは国家機密だったかな》》」
わざとらしく口元を抑え、肩をすくめる。この男は、私が追放されてから事あるごとにこのフレーズを口にする。自分が「選ばれた側の人間」だと確認するための、安っぽい儀式だ。
「……まあ、いい。とにかく新歓コンパには顔を出したまえ。かつてのスターがそこに座っているだけで、新入生へのいい客寄せになる」
阿久津は興味を失ったように私から視線を外し、傍らの姫乃へと目を向けた。二匹目のパンダを見つけた顔だった。
「おや、そこにいるのは噂の歌姫、駒路姫乃さんじゃないか。ちょうどいい、彼女も連れて出席したまえ。君たちが並んで出席すれば、我が学部の素晴らしい宣伝になる」
どちらも彼の学部には所属していないのだが、この男にとってはどうでもいいことらしい。
「さっきから参加が前提になってますけど、お断りします。ああいう場、苦手なので」
私が即答すると、阿久津は不敵な笑みを深くした。
「冷たいことを言わないでくれたまえ。君はともかく、彼女にとっては貴重な大学生活の第一歩だ。ねえ、駒路さん。美味しいものもたくさん出るし、みんな君を歓迎したくてたまらないんだよ」
私は姫乃に視線を送った。断っていいからね、と。
だが。
「……あの、新歓コンパって、何ですか?」
即座に断るかと思っていた姫乃の口から漏れたのは、予想外に弾んだ声だった。彼女は車椅子の上で少し身を乗り出し、膝に置いた手をぎゅっと握りしめている。
「……まさか」
「私、ずっと通信教育や個別レッスンばかりで……。学校の、その、みんなで集まって何かをするっていうのに、憧れてたんです。それって、友達ができたり、楽しいお話ができたりする場所なんですか?」
あまりにも無垢だった。彼女にとって「新歓コンパ」という言葉は、物語の中にしか存在しないキラキラした「青春のイベント」として響いているようだった。
「――素晴らしい。その純粋な好奇心こそ、我が学部が求めていたものだよ。皆、君という輝かしい新入生との交流を、心から楽しみにしているはずだ」
阿久津が我が意を得たりと声を大きくする。
「もちろん、志保先生も一緒に行ってくれるんですよね?」
期待に満ちた、真っ直ぐな視線が私を射抜く。 阿久津は「しめた」と言わんばかりに、私を追い詰めるような笑みを浮かべた。
「……姫乃が行きたいなら、仕方ないか」
「やった!」
「ただし、一時間で帰るからね」
私が吐き捨てるように言うと、阿久津は満足げに頷き、鼻歌交じりに研究室を後にした。
重い扉が閉まり、再び三人だけの静寂が戻る。すると、さっきまで身を乗り出していた姫乃が、ふう、と深く背もたれに体を預けた。
「……阿久津教授、あんなバレバレの演技を信じるなんて、意外と単純なんですね」
その声からは、さっきの弾んだ甘さが少しだけ引いて、年相応の落ち着いたトーンが戻っていた。予想通り、彼女は猫を被っていた。
姫乃はマグカップに残った冷めたコーヒーを一口啜り、私をじっと見つめる。
「新歓コンパなんて、本当はどうでもいいんです。赤の他人からの私の復帰を待ってるとか、宣伝になるとか、そういうのは聞き飽きましたから」
「……じゃあ、なんであんな反応したの。私まで巻き込んで」
「だって、先生。……私、先生とたまには『外』で食事がしてみたいなって思ったんです。この部屋、ずっとサーバーの音がしてて、なんだか落ち着かないし」
姫乃は無邪気な笑顔でそう言った。その瞳には、阿久津に向けた偽りの輝きではなく、ただ私だけを真っ直ぐに捉える、静かな光が宿っている。
「先生と私と二人きりで、普通に外を歩いて、ご飯を食べる。一時間だけでいいから、付き合ってくれませんか?」
「……。あんたね。勘違いしないでほしいんだけど、行くのは新歓コンパよ? 私と一対一で食事するわけじゃないんだから」
私が釘を刺すと、姫乃は一瞬だけきょとんとして、それから唇を尖らせて視線を逸らした。
「……わかってますよ。そんなの。でも、先生が隣にいてくれるなら、他の一人や二人が視界に入っても構いませんから」
「一人や二人どころじゃないんだけど……。はぁ、あんた意外と強引だよね」
「志保ちゃん、これはもう完全降伏ですね。しっかりエスコートしてあげてくださいよ」
早智が横で冷やかすのを、私は適当な資料を投げつけて黙らせた。




