第4話 新歓コンパ①
会場の重厚な扉が開いた瞬間、冷房の効いた空気と共に、甘いシャンパンと高価な香水の入り混じった香りが押し寄せてきた。
中之島の川沿いに建つ、歴史あるホールの最上階。高い天井から吊り下げられたクリスタルのシャンデリアが、床一面のテラゾーを宝石箱のように照らし出している。大きなガラス窓の向こうには、ライトアップされた中央公会堂と、水面に揺れるビル群のネオン。
そこは、大学の新歓コンパという言葉から連想される泥臭さとは無縁の、洗練された大人の社交場だった。
「……随分と気取った場所ね。新入生を歓迎するっていうより、寄付金を募るパーティに見えてきた」
私は普段の白衣を脱ぎ捨て、タイトな濃紺のスラックスにシルクのブラウスという装いで、車椅子のハンドルを握っている。足元のピンヒールが、硬い床を小気味よく叩いた。
「いいじゃないですか、先生。せっかくお洒落したんですから、今は難しいこと忘れて楽しみましょうよ」
車椅子の上で、姫乃がふわりと微笑む。
今日の彼女は、透き通るような銀砂色のカクテルドレスを纏っていた。ふんわりとしたチュールの裾が車椅子のフレームを優しく覆い、彼女を月光から零れ落ちた妖精のように見せている。
入り口のホログラム・パネルに表示されたQRコードを仕方なく視線でスキャンする。私のスマートグラスに専用の演出パッチがインストールされた瞬間、網膜にはシャンパングラスの泡が弾けるような光の粒子が舞い、空気の震えに合わせて光の粒が音楽を奏でる。
現実の華やかさを何倍にも増幅させるその「虚飾」は、いかにも阿久津教授が好みそうな仕掛けだった。
「先生、あの噴水。水が光の蝶に変わってます」
姫乃の視線の先を追う。確かに、噴水から飛沫が舞い上がるたびに、青白い蝶へと姿を変えて夜空に溶けていく。
「……綺麗だけど、驚きはないわね」
「素直に綺麗って言えばいいのに」
周囲の学生たちが、歌姫の登場にざわめいている。けれど、姫乃はそんな喧騒を意に介さない。その目は、テーブルを彩る料理に釘付けだった。
「このオードブル、お花が乗ってる。エディブルフラワーってやつですよね。どんな味がするんだろう」
「……意外と詳しいのね」
「歌手時代、パーティーには散々連れ回されましたから」
姫乃は肩をすくめた。でも、その目はきらきらと輝いている。
「でも、こうやって自分の意思で来るのは初めてです。……先生と一緒に、っていうのも」
「……」
「ね、先生。あのローストビーフ、取ってきてもらえませんか。私、今日はお姫様なので」
悪戯っぽく笑う姫乃に、私はため息をついた。
「……甘えるのも大概にしなさい」
「先生がエスコートしてくれるって言ったんですよ?」
上目遣いで、少しだけ悪戯っぽく唇を尖らせる姫乃。呆れながらも、私がウェイトレイから受け取った乾杯用のシャンパングラスを彼女に手渡そうとした、その時だった。
会場の照明がゆっくりと落ち、正面のステージに一本の鋭いスポットライトが落ちる。現れたのは、仕立てのいいスーツのボタンを一つだけ留め、余裕たっぷりの足取りでマイクの前に立つ男――阿久津教授だった。
「新入生の諸君、改めて歓迎しよう。ようこそ西日本大学へ、そして我々が創り出す『新しい時代』の最先端へ」
阿久津の朗々とした声が、スピーカーを通じてホールの隅々まで響き渡る。彼は教壇の上で両手を広げ、まるでこの場の空気すべてを支配しているかのような、尊大な、それでいて計算され尽くした笑みを浮かべていた。
「現在、我々が主導するARインフラ――『izanagi』は視覚情報の最適化によって、もはやこの世から不便という言葉を消し去った。だが、諸君が今見ている景色は、私が描く完成図のまだ数パーセントに過ぎない。この技術が次にどこへ向かい、世界をどう塗り替えるのか。その真の答えを、私はすでに持っている」
自信に満ちたその断言に、会場の学生たちは水を打ったように静まり返った。阿久津は一度言葉を切り、手にしたシャンパングラスを高く掲げ、ライトの光を反射させる。そのキラキラとした視覚効果すら、計算された演出の一部のようだった。
「そこで、だ。今度の日曜日、十四時から我が校のメインホールで、私の基調講演を行う」
ようやく本題、といった風に彼は声を一段張り上げた。歓迎の挨拶という名目を借りた、臆面もない自らの独演会の告知。
「新入生の諸君には、未来を創る側の人間にしか見えない景色というものを、特等席で教えてあげよう。君たちがこの大学で最初に行うべき『学び』は、教科書には載っていない。私の言葉を、その目と耳で直接受け取ることだ。期待してくれたまえ。日曜日に、また会おう」
会場からは、まだ乾杯もしていないというのに嵐のような拍手が巻き起こった。学生たちがその甘美な「未来予想図」に息を呑み、盲目的な熱狂に包まれる中、阿久津は満足げに会場を見渡し――そして、壁際にいる私たちを見つけた。
「そうそう、今日のこの佳き日を祝うために、特別なゲストも駆けつけてくれている。……そこにいるのは、かつて日本中の視線を釘付けにした『車椅子の歌姫』、駒路姫乃さんだ。現在は不運にもステージを退いているが、彼女もまた、我が校の大事な一員だ。……さあ、拍手を」
阿久津がその名を口にした瞬間、私の隣にいた姫乃を、純白のスポットライトが貫いた。会場中の視線が一斉に、熱を帯びた好奇心となって姫乃に集中する。暗闇の中で白く浮かび上がる車椅子と、銀砂色のドレス。学生たちの間から「本物だ」「初めて見た」という、無神経なさざ波が広がる。
私の差し出したグラスを受け取ろうとしていた姫乃の手が、空中で止まった。彼女の瞳から、さっきまでの柔らかな光が急速に失われていく。
「……先生。私、まだ一口も飲んでないんですけど」
低く、地這うようなその声。彼女の指先が、グラスの脚ではなく、膝の上のドレスをぎゅっと握り締めていた。
阿久津はそんな彼女の心情など知る由もなく、さらに言葉を続けた。
「彼女のような『境遇』でも、我々のAR技術があれば、何不自由なく輝くことができる。……さあ、駒路さん。ぜひ、新入生代表として一言、挨拶してくれないだろうか」
阿久津が指を鳴らした瞬間、姫乃を捉えるスポットライトの光量が跳ね上がった。同時に、会場中のARグラスが強制的にリンクされ、「姫乃の過去」が溢れ出す。
一面に踊り狂うのは、眩いステージを両脚で躍動していた全盛期の彼女。そして、それ以上に大きく投影されたのは、彼女を「車椅子の歌姫」として世間に知らしめた、あの映像だった。
ライブの最中、バランスを崩して車椅子から転倒し、地面に這いつくばりながらも、震える手でマイクを握り歌おうとする姿。無様に投げ出された脚と、それでも何かを希求するように歪んだ表情が、現在の車椅子の姿を包囲するようにホログラムで再生される。
それは「励まし」という名の、公開処刑だった。
「……っ」
姫乃の呼吸が、短く止まる。この男は、彼女を「一人の学生」としてではなく、自分の技術を宣伝するための「展示品」として扱っているのだ。
会場中の視線が、期待と好奇に焼かれながら姫乃に突き刺さる。阿久津は「さあ、可哀想な君の再起を語ってみせろ」と言わんばかりの笑みを浮かべて待っている。
私の中で、何かが焼き切れた。今すぐ彼女を連れ出してやりたい。阿久津の顔にこのグラスの中身をぶちまけてやりたい。
衝動のままに身体が動きそうになった、その時だった。
「……わかりました。一言だけですよ、阿久津教授」
姫乃が、ふっとこちらを向いた。私だけに聞こえるような小さな声で、いたずらっぽく囁く。
「挨拶が終わったら、ご褒美としてローストビーフ食べさせてくださいね、先生」
そこにあったのは、さっきまでの怒りでも絶望でもない。ただの、純粋で――そして私を共犯者に仕立て上げる、傲慢な意思だった。
彼女は私の手から、まだ一口も飲んでいないシャンパングラスをひょいと奪い取った。そして、車椅子の上で背筋をピンと伸ばし、会場中の視線を支配する。
「皆さん、こんばんは。商学部一年の駒路姫乃です。……あ、拍手は結構ですよ。時間がもったいないので」
スピーカーを通さない生の声。それなのに、ホールのざわめきが一瞬で静まり返った。何百もの視線を浴びるのではなく、彼女がその声で会場を支配したのだ。
「教授、過分なご紹介ありがとうございます。でも、その『izanagi』とかいう技術が私を救ってくれるだなんて、自惚れが過ぎますよ。……私が元の生活に戻ることはありません。機械はせいぜい、私がこうして美味しいものを食べに来るための、道案内にでもなってくれれば十分です」
姫乃はステージ上の阿久津へ、一瞬だけ完璧な営業スマイルを向けた。
「せっかくのパーティです。皆さんも、こんな退屈なお話に付き合うより、目の前の素晴らしいお料理を楽しみませんか?過去の映像より、今この瞬間のローストビーフの方が、よっぽど価値があると私は思いますけど」
彼女は優雅な所作でグラスを高く掲げ、隣の私をチラリと見て、悪戯っぽく瞳を細めた。
「以上、駒路姫乃でした。……さあ、冷めないうちに。乾杯!」
有無を言わせぬ「乾杯」の号令。あまりに鮮やかで、あまりに身勝手。阿久津が心血を注いだ「感動の再起ストーリー」を、彼女は「食べ物のついで」としてゴミ箱に放り捨ててみせたのだ。
阿久津が屈辱で顔を歪めるよりも早く、学生たちは魔法をかけられたように、一斉にグラスを掲げた。主導権は完全に、壇上の教授から、車椅子の上のお姫様へと移っていた。
姫乃はそのままシャンパンを一口だけ喉に流し込むと、グラスをテーブルに置くのももどかしそうに、私の服の裾をぐいぐいと引っ張った。
「先生、今の完璧でしたよね? はい、ノルマ達成! ローストビーフ、早く!」
「……あんたね。あんな喧嘩腰の挨拶して、よくそんなすぐ切り替えられるわね」
私は呆れながら、けれど胸のすくような思いで彼女の車椅子をビュッフェテーブルへと押し出した。阿久津の顔は見なかった。見る必要も感じなかった。
「はい、先生。約束ですよ。食べさせてください」
姫乃がテーブルの前で車椅子を止め、ローストビーフの皿を指差す。私はため息をつきながら、フォークで一切れを取り上げた。
「……本当に食べさせるの?自分でできるでしょ」
「できますけど、今日は先生にやってほしいんです。ご褒美なので」
悪びれもせずにそう言って、姫乃は小さく口を開けた。周囲の視線が気になったが、彼女の方は一切気にしていない様子だった。
「……はいはい」
私は観念して、フォークを彼女の口元へ運んだ。姫乃はそれを嬉しそうに頬張り、目を細めた。
「んー、美味しい……。先生も食べてください。あーん」
「自分で食べるから」
「えー、つまんない」
姫乃は頬を膨らませたが、すぐに次の料理へと意識を向けた。私も自分の皿にいくつか取り分け、ようやく落ち着いて食事ができる、と肩の力を抜いた。
そう思った、次の瞬間だった。
「さっすが姫乃ちゃん。座ってても、やっぱりオーラが違うなぁ」
背後から響いたのは、甘く、よく通る声だった。
笠松舞。せっかく取り戻したはずの静寂を、さらに下品な熱狂で塗りつぶそうとする不協和音が、そこにいた。




