第26話 夏④
合宿二日目の朝は、スコッチエッグの匂いで始まった。
「早智さん、朝からすごいですね」
「昨日の残りの挽き肉があったので、作ってみました」
ダイニングテーブルには、こんがりと揚がったスコッチエッグが並んでいる。断面から覗く半熟の黄身が、朝の光を受けて輝いていた。
「志保ちゃん、ナイフとフォーク使ってくださいね」
「わかってる」
先生は朝が弱いからか不機嫌そうに返事をする。昨日の今日でわかったのだが、早智さんは先生の食事についてあれこれ心配しているらしい。もちろんアルコールについても。
「先生、食べさせてあげましょうか?」
「自分で食べれるから」
「ここ最近、先生が色々不器用なの、わかってきちゃいました」
「二十八年間、困ったことないけど」
そう言いながらも、スコッチエッグが皿の上でくるくる回っている。私はそんな先生を可愛く思いながら、自分の分を一口頂いた。サクサクの衣と、肉汁と、とろりとした黄身が舌に広がる。
「……美味しい」
「でしょう?」
早智さんが得意げに笑う。ぬかしーさんは眠そうな目をこすりながら、黙々と頬張っていた。夜型の人間に朝は厳しいらしい。
「さて」
先生がコーヒーカップを置いた。
「今日はみんなに見て欲しいものがあるの」
先生の声に、食卓の空気が変わった。
「昨夜、ぬかしーさんにデータを送ってもらって、一晩で組んでみた」
「え、寝てないんですか?」
「三時間は寝た」
先生は平然と言ってのけるが、目の下に薄いクマができている。
「リビングに移動しましょう」
食器を片付け、全員がソファに腰を下ろす。先生がスマートグラスを操作すると、私たちの視界が共有モードに切り替わった。
「これが、昨夜の成果」
先生の指が宙を滑る。
次の瞬間——リビングの空間に、小さな魚が一匹、現れた。
「あ、私が描いたやつだ」
ぬかしーさんが声を上げる。昨日スケッチしていた、あの魚。手のひらサイズの、丸っこくて愛嬌のあるデザイン。青い鱗が光を受けてきらきらと輝いている。
「可愛い……」
思わず手を伸ばす。魚は私の指先をすり抜けて、くるりと宙返りした。
「ここまでは従来の技術でもできる。問題は——」
先生が指を鳴らした。
魚が増えた。二匹、四匹、八匹。瞬く間に数十匹の群れになり、リビングを泳ぎ回る。
「わあ……」
早智さんが息を呑む。
魚たちは一匹一匹がバラバラに動いているのに、全体としてはひとつの生き物のように見えた。私が手を振ると、群れがさっと避ける。窓に近づくと、光に誘われるように集まってくる。
「すごい……本当に生きてるみたい」
「でも、ここが限界」
先生の声が、急に硬くなった。
指を動かすと、魚の数が増えていく。百、二百、三百——そして、動きが目に見えて鈍くなった。魚たちの軌道がカクつき、群れの滑らかさが失われていく。
「現状のシステムだと、三百体あたりで処理が追いつかなくなる。博覧会でやりたいのは、数万単位の群れ。今のままじゃ話にならない」
先生はスマートグラスを外し、私たちを見回した。
「だから——浦和に連絡した」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「連絡って……izanagiの?」
「ええ。3.0の正式な使用許可をもらった」
早智さんが目を丸くする。
「志保ちゃん、あれだけ断ってたのに……」
「復帰するわけじゃない。技術を借りるだけ」
先生は淡々と言った。けれど、その目には覚悟のようなものが滲んでいた。
「3.0の演算能力があれば、数万単位の個体制御ができる。個々の動きと群れ全体の動きを同時に処理して、観客一人ひとりに最適化された体験を届けられる」
「浦和さんは……何て?」
「『待ってました』だって。嬉しそうだったわよ、電話口で」
先生が肩をすくめる。その仕草に、少しだけ照れが混じっている気がした。
「ぬかしーさん」
「はい」
「魚のデザイン、もっと詰めてもらえる? 動きのバリエーションも増やしたい」
「もちろんっす。昨夜の打ち合わせで方向性は見えてるんで」
「早智は、浦和との窓口をお願い。技術的なやり取りは私がやるけど、事務手続きが発生するはずだから」
「了解です」
先生の視線が、最後に私を捉えた。
「姫乃」
「はい」
「曲、できそう?」
私は頷いた。
「……できます。絶対に」
「よし」
先生が、不敵に笑った。
「海をテーマにするなら——会場を丸ごと海の底に沈めてやりましょう」
◇◇◇
日中は、それぞれの作業に没頭した。
私はリビングの隅で、スマートグラスの作曲アプリと向き合っていた。メロディの断片を打ち込んでは消し、歌詞を書いては書き直す。テーマは決まっているのに、それを形にするのは簡単じゃない。
先生は地下の防音室にこもり、ぬかしーさんは自室でタブレットに向かい、早智さんはリビングのソファで資料を整理していた。時折、誰かがキッチンでコーヒーを淹れる音が聞こえる。それ以外は、静かだった。
昼食は早智さんが用意したサンドイッチを各自で摘まみ、夕方になる頃には、私の手元にメロディの骨格らしきものができていた。まだ荒削りだけど、方向性は見えてきた。
「姫乃ちゃん、そろそろ夕飯の準備手伝ってもらえますか?」
早智さんの声で、私は作業の手を止めた。窓の外を見ると、空が茜色に染まり始めている。
「はい、今行きます」
キッチンに向かうと、早智さんが冷蔵庫から食材を取り出しているところだった。今夜の夕食は私と早智さんの担当だ。
「志保ちゃんは?」
「まだ地下にいると思います。試したいことがあるからって」
「ぬかしーさんは?」
「さっき様子見に行ったら、私の昔の曲をヘビロテしてました。少しでも方向性を探りたいって」
つまり、キッチンには私と早智さんの二人だけ。
野菜を洗い、切り、鍋に入れていく。早智さんの手際は相変わらず鮮やかで、私は言われるままに下ごしらえを手伝った。
「姫乃ちゃん、包丁使えるんですね」
「これくらいはできますよ」
「偉いなあ。志保ちゃんなんて、包丁持たせたら指ごと落としそうで」
「……そんなにですか」
「そんなにです」
早智さんが苦笑する。
しばらく、野菜を切る音だけが響いた。
私は、ずっと聞きたかったことを、思い切って口にした。
「……早智さん」
「はい?」
「先生のこと、どう思ってますか」
早智さんの手が、一瞬だけ止まった。
「……急にどうしたんですか?」
「いえ、その……先生って、izanagiに戻るかもしれないじゃないですか。今朝だって浦和さんに連絡したって。他にもG社や華騰科技からもスカウトが来てるって聞きましたし」
早智さんは、白菜を鍋に入れながら、少し考えるような顔をした。
「……姫乃ちゃんは、志保ちゃんにどうしてほしいんですか?」
「私は——」
言葉に詰まった。
チーム・リラにいてほしい。私のそばにいてほしい。——それは私のエゴだ。先生には先生の人生がある。わかってる。でも。
「……チーム・リラに、いてほしいです」
結局、正直に言ってしまった。
「先生がどこか行っちゃうなんて有り得ないとは思ってますよ。だって、あの人が勝手に私の歌の買い手になるって言い出したんですから」
早智さんは黙って聞いている。
「でも、万が一にも、億が一にもチーム・リラをやめるって言われたら……私は嫌だって言います。先生のためじゃなくて、私のわがままです。わかってます。——早智さんも、同じですよね?」
早智さんの手が、止まった。
「先生がいなくなったら、チーム・リラは終わりですよね。早智さんだって、それは嫌なはずじゃ——」
「私はね、姫乃ちゃん」
早智さんが、穏やかな声で遮った。
「志保ちゃんが選んだ道を応援するだけですよ」
「……え?」
「志保ちゃんがizanagiに戻るなら、私は応援する。G社に行くなら、そっちも応援する。チーム・リラを続けるなら、変わらずここにいる。——志保ちゃんが選んだ幸せが、私の幸せだから」
早智さんは、鍋の火加減を調整しながら、淡々と続けた。
「チーム・リラじゃなきゃ嫌だ、なんて。私は思ったことないかも」
その言葉は、優しかった。志保先生への深い愛情が込められていることも、わかった。
——でも。私は違う。
私にとってチーム・リラは、志保先生と出会って、初めて「車椅子の歌姫」じゃない自分になれた場所だ。ここがなくなったら、私はまた——。
早智さんにとっては、そうじゃないんだ。
「……早智さんも、同じだと思ってました」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「姫乃ちゃん?」
「いえ。……私とは、違うんだなって」
早智さんが、困ったような顔をした。何か言おうとして、口を開きかけて、閉じる。
私たちは同じチームで、同じ場所にいて、同じ人を見ていたはずなのに。見ていたものが、全然違った。
「鍋、もうすぐ煮えますね。先生とぬかしーさん、呼んできます」
私は車椅子を翻し、キッチンを出た。
早智さんが何か言いかけた気がしたけど、振り返らなかった。
その夜の鍋は、何を話したか覚えていない。翌日の作業も、どこか上の空だった。
帰りのくろしおで、私と早智さんは別々の車両に座った。先生は何も聞かなかった。




