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第24話 夏②

 大阪の喧騒を離れ、特急くろしおに揺られて数時間。


 早智さんが「ちょっと実家の持ち物で、面白い場所があるんですよ」と笑って提案してきたのは、和歌山の切り立った断崖の隙間に隠された、地図にも載っていないようなプライベートビーチだった。


 もちろん、この合宿の目標が決まるまでには、ひと悶着あった。志保先生と私の間で。結果として先生が折れてくれたのに、まだ不満があるらしい。


「私は、遊びに行くわけじゃないから」


 車窓を流れる紀伊半島の緑を背景に、志保先生が腕を組んで言い放った。


「またその話ですか。せっかくのプライベートビーチなんですよ?」


「早智たちも、遊んでいいのは今日一日だけだからね」


「先生も水着持ってきてますよね?」


「持ってきてないが」


「姫乃ちゃん、安心して。私が持ってきてあげたから」


「早智さん、さすがです!」


「そういう親切心、ほんとに迷惑だから」


 先生が窓の外に視線を逃がす。その横顔に諦めの色が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。出発前の攻防で、既に勝敗は決していたのだ。


「というか、姫乃は泳げるの?いまさら聞くのもなんだけど」


「泳げますよ。リハビリも兼ねて、普段からプールで泳いでますから」


「へえ」


「足は動かなくても、腕だけでけっこう進めるんです」


 先生が少しだけ興味を示した顔になる。


「海は初めてですけど。車椅子だと、なかなか機会がなくて」


「……そう」


 先生はそれだけ言って、また窓の外を向いた。何か考えているような横顔だった。


「ぬかしーさんは泳ぐんですか?」


 早智さんが、隣のボックス席で爆睡中のぬかしーさんに目を向けた。イヤホンをつけたまま、口を半開きにして熟睡している。昨夜は締め切り前だったらしく、乗車して五分で意識を手放していた。


「どうだろ。誘ってはみるけど、あの人アウトドア向きじゃなさそうだよね」


「日焼けとか気にしそうですもんね、すっごく肌白いし」


 車窓の向こうで、一瞬だけ海が見えた。青い水平線が、トンネルに吸い込まれて消える。


「先生」


「何」


「楽しみですね、海」


「……そうね」


 予想外の肯定。窓に映るその口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


 白浜駅からタクシーで三十分。断崖沿いの細い道を抜けた先に、早智さんの別荘はあった。


 高台に建つ白い建物。リビングの大窓からは、紺碧の海が一望できる。潮風が白いカーテンを揺らし、遠くで波の砕ける音が聞こえる。全館バリアフリー設計、Wi-Fi完備、地下には簡易防音室まである。


「早智さん、実家の持ち物って言ってましたけど……」


「これは流石に、桁が違うわね」


 どう見ても庶民の持ち物ではない。当の早智さんは、「おじいちゃんが趣味で買っちゃったらしいです」と気にもしていない様子だった。金銭感覚が違う。


 荷解きを終え、着替えを済ませてリビングに戻ると、先生が仏頂面で立っていた。


 黒のビキニ。


 シンプルなデザインが、彼女のすらりとした身体を引き立てている。普段は白衣で隠れている鎖骨のライン、引き締まったウエスト、すんなりと伸びた脚。先生自身は居心地悪そうに腕を組んでいるが、眼福以外の何物でもない。


「わー!志保ちゃん、やっぱりスタイルいい」


「ねえ、早智。なんで私のスリーサイズぴったりの水着が用意できるの?ちょっと怖いんだけど」


「ほら、先生、むかし言ってたじゃないですか。今の時代は視覚情報から何でもわかるって」


「おい」


「早智さん、グッジョブ!」


「あんたたち結託してるでしょ」


「してないですよ。素直な感想です」


「水着以上の重大インシデントが発生して、ビキニがどうとか言う気も失せたわ」


 ちなみに私はというと、白と赤の競泳水着。遊び用ではなく、泳ぐことを前提としたデザインだ。


「姫乃は競泳水着なのね」


「これが一番動きやすいんです。それで、先生」


 私は窓の外の砂浜を見た。視線の意味は、言わなくても伝わるはずだ。


「……わかってる」


 砂浜は車椅子の天敵だ。タイヤが砂にめり込んで、まともに進めない。波打ち際まで行くには、誰かに運んでもらうしかない。


 先生が私の車椅子の前にしゃがみ込んだ。


「おぶるから、腕を——」


「お姫様だっこがいいです」


「……何言ってるの」


「だって私、お姫様なので」


 真顔で言ってみた。先生の眉間にしわが寄る。


「却下。チーム・リラの怪物担当が何言ってるの」


「ひどーい。さすがに、こういうときも怪物扱いはデリカシーなさすぎですよー」


「ほら、早く」


 先生が背中を向ける。これ以上の交渉は無駄だと悟り、私は諦めて腕を回した。


「……仕方ないですね」


「何が不満なの」


「次の機会には、絶対お姫様だっこしてもらいますから」


「次なんてない」


 先生が立ち上がる。背中に預けた体重を、彼女はしっかりと受け止めてくれた。見た目より力がある。


 砂浜を歩く。先生の足が砂にめり込むたび、私の身体が小さく揺れる。潮の匂いが濃くなる。波の音が近づいてくる。


「先生」


「何」


「私もあとでスリーサイズ計っていいですか?」


「メガネは置いてきなさい」


 ◇◇◇


 海に到着した後は、思い切り遊んだ。


 シュノーケリングでは、透明度の高い海の底に色とりどりの魚が泳いでいるのが見えた。早智さんが持ってきた浮き輪で波に揺られながら、三人でぼんやりと空を眺める時間もあった。


「気持ちいいですね」


「まあ、悪くないわね」


 先生が珍しく素直に認める。水に浮かんでいるときの彼女は、どこか力が抜けて見えた。普段のクールな先生は海水に溶けてしまってたらしい。


「あ、そういえば」


 早智さんが不意に声を上げた。


「お昼の準備、何もしてなかったです。別荘に戻って用意してきますね」


「手伝おうか?」


「いいですいいです。志保ちゃんは姫乃ちゃんと遊んでてください。すぐ戻りますから」


 早智さんは手をひらひらと振りながら、さっさと浜に向かって泳ぎ始めた。その背中を見送りながら、先生が小さく呟く。


「……絶対わざとでしょ、あれ」


「何がですか?」


「何でもない」


 二人きりになった海は、急に静かになった気がした。波の音と、遠くで鳴くカモメの声だけが響いている。


 浮き輪に身体を預けながら、私はぼんやりと水面を眺めていた。透明度が高くて、底の方まで見える。白い砂と、揺れる光の模様。


 ——あ。


 視界の端を、青い影がよぎった。


「先生、見てください。あそこ」


「ん?」


「魚。すごく綺麗な青色の——」


 身を乗り出した瞬間、浮き輪が傾いた。


 あ、まずい。


 そう思ったときには遅かった。不意に来た波に煽られて、視界が反転する。水中で一回転、二回転。上下の感覚がなくなる。足が動かないと、こういうとき立て直しが難しい。


 腕を動かそうとした瞬間、誰かの手が私の身体を掴んだ。


 引き上げられる。水面を突き破る。プハァーと息を吐き、目を開けると、先生の顔がすぐ近くにあった。


「大丈夫?」


 珍しく焦った声。


「あ、はい……大丈夫、です」


「ちょっと、いきなり、ひっくり返るから——」


 先生の腕が、私の背中と膝の下に回っていた。いわゆる、お姫様だっこの形。さっき却下されたはずの体勢だ。


「……あの、先生」


「何」


「これ、お姫様だっこですよね」


 先生の動きが止まった。自分が何をしているか、今さら気づいたらしい。


「……成り行きよ」


「さっきは却下したのに」


「緊急事態だったの。文句ある?」


「ないです。ただ——」


 私は先生の首に腕を回しながら、少しだけ視線を逸らした。


「ちょっと恥ずかしいです……それに意外と筋肉あるんだなって」


「は?」


「だって、こういうの憧れてたので。いざされると、その……心の準備が」


 先生が怪訝な顔をした。


「あれだけお姫様だっこしろって言ってたくせに?」


「いざ、してもらうと思ってたのと違うというか」


「……意味がわからない」


 そう言いながらも、先生は私を下ろそうとしなかった。代わりに、そのまま浅瀬に向かって歩き始める。


「あ、先生。もう大丈夫ですよ?下ろしてもらって——」


「いい。このまま戻る」


「え」


「恥ずかしがる姫乃、面白いから」


 先生の口元が、いたずらっぽく緩んでいた。


 普段のクールな彼女からは想像できない、子供みたいな笑み。夏の日差しと、潮風と、開放感。そういうものが、先生の中の何かを緩めているのかもしれない。


 そのまま、私はされるがままパラソルの下まで運ばれた。


「……何イチャイチャしてるんですか?」


「してないけど」


「どう見てもお姫様だっこなんですけど」


「緊急避難」


「それなら仕方ないですね。……いや仕方なくないですけど」


 先生は私をやさしくベンチに降ろすと、自分のタオルで長い黒髪を乱暴に拭き始めた。耳が少し赤い気がするのは、日焼けのせいだろうか。


「ぬかしーさんは泳がないんですか?」


 話題を変えようとしたらしい先生の問いに、ぬかしーさんは首を横に振った。


「いやー、私はいいっす。日焼けは敵なんで」


「ずっとそこにいるの?」


「ここで十分楽しんでるんで。ほら、見てくださいよこれ」


 ぬかしーさんがスマートグラスを外そうとして——やめた。何かを思い出したように、慌てて視線を逸らす。


「……やっぱ何でもないっす」


「何見てるの」


「いや、ほんと何でもないです。作業っす、作業」


 怪しい。あからさまに怪しい。


 先生が自分のスマートグラスを手に取った。


「ちょっと、園田さん!?何する気ですか!?」


「別に。ぬかしーさんの作業進捗を確認しようかと」


「プライバシー!プライバシーモードかけてますから!」


「私、このシステムの設計者なんだけど」


「横暴!権力の乱用!」


 ぬかしーさんの抵抗も虚しく、先生の指がスマートグラスを操作した。管理者権限による強制アクセス。数秒の沈黙。


 そして——先生の動きが止まった。


「…………」


「…………」


 波の音だけが響く。


「……ごめん。見なかったことにする」


「違うんです!これはキャラクターの動作確認で!」


「うん。わかった」


「その目!その『理解した』って目やめてください!」


「何も言ってないでしょ」


「だから資料なんですって!キャラの表情研究!たまたま推したちが水着だっただけで!」


 私はようやく理解した。ぬかしーさんは自分の描いたキャラクターを、先生のシステムで立体化して眺めていたのだ。


 ……気になる。


 パラソルの下に置いてあった自分のスマートグラスを手に取り、装着した。先生が共有設定をオンにしたままだったらしく、私の視界にも同じ映像が飛び込んできた。


「ひ、姫乃ちゃん!?見ないで!」


 ぬかしーさんの悲鳴。でも遅い。


 視界には、水着姿の美少女たちが何人も浮かんでいた。際どいデザイン。艶やかな肌。こちらに向かって微笑んだり、恥じらったり。


「……エッチで可愛いですね」


「——っ!」


 ぬかしーさんが崩れ落ちた。


「……そっとしておいてあげよう」


「そうですね」


 私と先生の意見が一致した。


 夏の日差しの下、パラソルの影でうずくまるぬかしーさんを残して、私たちは別荘へと引き上げることにした

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