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第23話 夏①

 スマートグラスの端に表示された気温は38.7℃。


 タンパク質が出歩いていい温度じゃない。


 体感ではそれ以上だ。大阪の夏は、人間という名の有機体を淘汰しにかかっているとしか思えない。


 世界AR博覧会OSAKA2032。会場となるのは、舞洲に新設された国際展示場。二度目の大阪万博を機に再開発されたこの人工島には、AR時代に対応した最新鋭の設備を誇る巨大施設が立ち並ぶ。その下見のために、私たちは灼熱の埋め立て地を歩いていた。


「先生、大丈夫ですか?いつものクールな顔が溶けかけてますよ」


 姫乃が車椅子の上から、心配そうに——いや、半分は面白がっているような顔で私を見上げている。彼女の頭上には日傘が広がり、車椅子には小型の冷却ファンまで取り付けられていた。


「……あんた、随分と装備が充実してるわね」


「車椅子ユーザーの夏は、準備が命なんです。先生も日傘くらい持ってきたらよかったのに」


「ほんと、なんで私は白衣なんか着て来たんだか」


「それ、逆に熱こもりません?」


 正論だった。白衣の下のブラウスが、既に背中に張り付いている。


 浦和に『イメージ戦略も兼ねてるので白衣で来てください』なんて言われたから深く考えずに応じたが、冷静に考えれば会場で着替えればいい話だった。判断力が暑さで溶けている。


 ようやく展示場のエントランスに辿り着き、自動ドアが開いた瞬間——冷気が全身を包み込んだ。


「……生き返る」


「大げさですね」


「大げさじゃないわよ。外と中で二十度近く違うんだから」


 私たちは受付で来場者パスを受け取り、izanagiブースが割り当てられたホールへと向かった。


 館内は博覧会の準備で慌ただしく動いていた。各企業のスタッフが資材を運び、巨大なディスプレイが次々と設置されていく。天井は吹き抜けで十メートル以上の高さがあり、壁面には無数のセンサーとプロジェクターが埋め込まれている。AR演出のための最新インフラだ。


「こっちです」


 エントランスで私たちを待っていた浦和の案内で、私たちはホールの一角に足を踏み入れた。


 izanagiブースの予定地。今はまだ床にテープで区画が示されているだけの、がらんとした空間だ。けれど、その広さは——。


「……思ったより、広いわね」


「会場全体で五万人は収容できるそうです」


 ドームよりも多い。ただ、今回は来場者だけじゃない。ネット配信もされる。延べ100万人の目に止まる可能性があるのだ。


「それじゃ、表示するわね」


 私はスマートグラスを操作し、阿久津から送られてきた設計データを読み込んだ。


 次の瞬間——空っぽのスペースに、巨大な構造物が立ち上がった。


 半透明のホログラムで描かれた、ブースの完成予想図。流線型の外壁に、中央には円形のメインステージ。観客席は放射状に配置され、天井からは無数のライトリグが吊り下げられている。


「すごい……」


 姫乃が息を呑む。


「でも、ドームとは性質が違うわ」


 私は指先でホログラムを回転させながら続けた。


「ドームは野球を見に来た人たちの『ついで』だった。でも、ここに来るのは——」


「AR技術を見るためだけに来る人たち、ですよね」


「そう。全員が業界関係者か、熱心なマニア。誤魔化しは利かない」


 ホログラムの中を歩いてみる。ステージの高さ、観客席との距離、音響の反射角度——すべてが、これから私たちが設計し直さなければならない要素だ。


「コンセプトは任せる、って阿久津教授は言ってました。予算と機材は用意するから、好きにしろ、と」


 浦和がメモを読み上げる。


「……太っ腹ですね。それだけ志保ちゃんを勧誘したいんですかね」


「そんな魂胆じゃ痛い目見ることになるけどね」


「先生言ってましたもんね、国家予算をジャブジャブ使いたいって」


「お手柔らかにお願いしますよ、先輩」


 浦和が苦笑いを浮かべた、その時だった。


「——おや。これはこれは」


 背後から響いた声に、浦和の顔が強張った。


 私も振り返る。そこには、仕立てのいいスーツを纏った初老の男が立っていた。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥で細い目を光らせている。


 その隣には——阿久津教授がいた。


 いつもの尊大な態度が、嘘のように消えている。背筋を伸ばし、半歩後ろに控えるその姿は、まるで従者のようだった。


「鷲尾会長。お待たせして申し訳ありません」


 阿久津の声が、微かに震えている。


「構わんよ、阿久津くん。——それより」


 鷲尾と呼ばれた男の視線が、私を捉えた。品定めをするような、爬虫類じみた目。


「久しぶりだね、園田くん。元気そうで何よりだ」


「……お久しぶりです。鷲尾会長」


 私は、自分の声が平坦に保たれていることを確認した。


 鷲尾誠一郎。国内最大手の広告代理店——電楽堂の会長。izanagiの商業化を裏で主導し、私が反対していた「視線情報収集による広告最適化」を推し進めた張本人。


 そして——私をプロジェクトから追い出すことを、阿久津に「提案」した男。


「君の余興、評判だったようじゃないか」


 鷲尾は、ゆっくりと私たちの方へ歩み寄ってきた。


「野球場で四万人を沸かせたそうだね。SNSでも随分話題になっていた。——正直、驚いたよ。追い出された後も、君がこれほどの成果を上げるとは思わなかった」


 追い出された。その言葉を、彼は何の感慨もなく口にした。


「阿久津くんから、今度の博覧会で君がizanagiブースの演出を担当すると聞いた時は、渡りに船だと思ったよ」


「……渡りに船?」


「ああ。君の技術は、もっと大きな舞台で活かされるべきだ。野球場の前座で消費するには、あまりにも惜しい」


 鷲尾の目が、品定めをするように私を捉えた。


「どうだね、園田くん。これを機に、正式にizanagiへ戻る気はないかね。君の才能を——正当に評価できる場所がある」


 正当に評価。その言葉の裏に、金の匂いがプンプンする。この男にとって「評価」とは、すなわち「値札をつける」ことだ。


「その件は、既にお断りしたはずですが」


「浦和くんにはそう答えたようだな。だが、彼女はあくまで技術者だ。——条件面の交渉は、私の領分だよ」


 鷲尾は薄く笑った。


「彼女が提示できる範囲と、私が用意できる範囲は、桁が違う」


 露骨な金の話。この男らしいと言えばらしい。


「答えは変わりません」


「即答か。相変わらずだな」


 鷲尾は薄く笑った。拒絶を想定していた顔だ。


「まあ、いい。今回の博覧会で、君の力を見せてくれ。五万人収容、ネット配信で延べ百万人。——なかなかの舞台だ」


 鷲尾が、完成予想図のホログラムに目を向けた。


「ただ、忘れないでほしい。これはビジネスだ。君の自己満足のための舞台じゃない。izanagiの価値を示し、スポンサーを納得させ、数字を出す」


 その目が、一瞬だけ鋭くなった。


「結果を出せば、私も考えを改める用意がある」


 鷲尾は一度言葉を切り、こちらの反応を確かめるように間を置いた。


「君がizanagiを追われた時——視線情報の収集に反対していたな。『技術は開かれたものであるべきだ』と」


「……ええ」


「あの時は却下した。だが、今なら——君の主張を、取り入れる余地があるかもしれない」


 私は黙って鷲尾の目を見返した。


「izanagiの方向性を見直す。そのための研究予算と、開発チームの指揮権。——君に与えてもいい」


 その言葉の重みを、私は理解していた。


 予算の制約なく、自分の理想とするARを作れる。世界中のユーザーに届けられる。私が追放される前に夢見ていたすべてが、目の前にぶら下がっている。


「……先生?」


 隣で、姫乃の声が震えた。不安そうな視線が、私の横顔に突き刺さる。


「悪い話ではないはずだ、園田くん。——君にとっても、世界にとっても」


「私の答えは変わりませんよ」


「そうか。まあ、いい。頭の片隅にでも留めておいてくれ」


 鷲尾は、含みのある笑みを浮かべた。


「では、健闘を祈っているよ、園田くん」


 それだけ言い残して、鷲尾は踵を返した。阿久津が慌ててその後を追う。


 二人の姿が見えなくなるまで、私たちは誰も口を開かなかった。


 ◇◇◇


「あの人、何者なんですか?阿久津教授より偉そうでしたけど」


「……鷲尾誠一郎。電楽堂の会長」


「電楽堂って、あの広告代理店の?」


「そう。izanagiの商業化を主導した人物。……っていうか、今の収益モデルを作らせた張本人」


 姫乃が首を傾げる。


「広告代理店の人が、なんでAR博覧会の下見に?」


「さあ。izanagiの利権に絡んでるから、顔を出しただけじゃない?」


 私は肩をすくめた。正直、あの男が何を考えているのかはわからない。


「先生、嫌いなんですね。あの人のこと」


「……顔に出てた?」


「めちゃくちゃ出てました」


「まあ、考え方が合わないのよ。私は技術って誰でも使える開かれたものだと思ってる。でも鷲尾は——」


 言葉を切る。愚痴になりそうだった。


「——技術は囲い込んで、お金に変えるものだって考える人ですよね」


 早智が、さらりと補足した。


「izanagiの収益モデル——ユーザーの視覚情報を収集して広告に使うっていうの、あれを主導したのが鷲尾会長なんです。志保ちゃんはずっーと反対してたんですけど」


「早智、それ以上は——」


「姫乃ちゃんには知っておいてほしいので」


 早智は珍しく引かなかった。


「志保ちゃんがizanagiを追い出されたのも、突き詰めれば鷲尾会長との対立が原因みたいなものですから」


 姫乃が息を呑む気配がした。


「……まあ、昔の話だよ。今さら蒸し返しても仕方ない」


「でも、その人が志保先生の復帰を望んでるんですよね」


 姫乃の声が、少しだけ硬くなっていた。


「何か仕掛けてくるってことは、ないんですか?」


「さあ。あの男が何を考えてるかなんて、私にはわからない」


 私は肩をすくめた。考えても仕方のないことだ。


「——とにかく、今は目の前のことに集中。博覧会まで一ヶ月。やることは山積みなんだからね」

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