第20話 評価①
忙しい日々を過ごしていると、メールの確認が杜撰になる。
これは園田志保という人間の、昔からの悪癖だ。未読の山が積み上がり、重要な連絡が埋もれ、気づいた時には手遅れ——そんな失敗を、何度繰り返してきたことか。
七月最初の月曜日。私は溜まりに溜まった未読メールを処理しながら、深いため息をついていた。
「……なにこれ」
パソコンに表示された差出人の名前を、私は二度見した。
G社。
世界最大手のIT企業。検索エンジンからクラウド、AI開発まで、デジタル世界のあらゆる領域を支配する巨人。そのAPAC部門から、私宛にメールが届いていた。
件名は『Career Opportunity』。
本文を開く。英語と日本語が併記された丁寧な文面。要約すると——「園田志保氏を弊社のAR開発部門に迎えたい。ポジションと報酬については、直接お会いして相談させていただきたい」。
日付を見て、血の気が引いた。二週間前だ。
「嘘でしょ……」
慌ててスクロールする。返信期限は——とっくに過ぎている。
私は額を押さえた。G社からのスカウトを二週間も放置していたなんて、冗談にもならない。
けれど、驚きはそれだけでは終わらなかった。
未読フォルダをさらに漁ると、見慣れない中国語の差出人名が目に入った。
華騰科技。
中国最大手のテクノロジー企業。AR・VR分野では世界トップクラスのシェアを誇る巨大企業だ。こちらも件名は英語で『Executive Position Offer』。
本文を開く。翻訳をかけると——「園田志保氏を弊社の主席技術顧問として招聘したい。待遇は貴殿の希望に最大限応じる用意がある」。
日付は、十日前。
「…………」
私は椅子の背もたれに深く沈み込んだ。
世界の二大巨頭が、私個人を欲しがっている。それを、私は未読フォルダの底に埋もれさせていた。
「志保ちゃん、どうかしました? 顔色悪いですよ」
早智が心配そうに覗き込んでくる。私は無言でメール画面を彼女に共有した。
「…………え」
早智の目が、みるみる大きくなっていく。
「ちょっと待ってください。これ、G社ですよね?あのG社?」
「そのG社」
「で、こっちは……華騰科技?中国最大手の?」
「そう」
「志保ちゃんをスカウトしてるんですか!?」
「そういうことになるわね」
「なんで放置してるんですか!」
「忙しかったから……」
「忙しかったからじゃないでしょ!」
早智が珍しく声を荒げる。私は言い訳のしようもなく、ただ項垂れるしかなかった。
「とにかく、今すぐ返信してください!まだ間に合うかもしれないじゃないですか!」
「……そうね」
私は重い腰を上げ、返信文を考え始めた。
そのときだった。
——バン。
研究室の扉が、ノックもなしに開け放たれた。
「園田准教授。少しいいかね」
阿久津教授だった。
仕立てのいいスーツに、磨き上げられた革靴。相変わらず、不快なほど自信に満ちた笑顔。
けれど今日は、彼の後ろにもう一人、見覚えのある顔があった。
「……浦和?」
私は思わず立ち上がっていた。
浦和アキ。
かつてizanagiプロジェクトで、私の下についていた後輩。私が追い出された後、彼女は残り——今では、プロジェクトの技術責任者を務めていると聞いている。
「お久しぶりです、園田先輩」
浦和は、私の顔を見た瞬間、表情を歪めた。懐かしさと、苛立ちと、何か別の感情が混ざったような——複雑な顔だった。
「……何の用?」
私の声が、自分でも驚くほど硬くなる。阿久津が、わざとらしく咳払いをした。
「まあまあ、そう警戒しないでくれたまえ。今日は、君にとって悪くない話を持ってきたつもりだよ」
「悪くない話?」
「ああ。——izanagiへの復帰の話だ」
時間が、一瞬だけ止まった気がした。
——追い出した側が、よく言う。




