第16話 新曲③
志保先生が学会出張でいない日の午後。研究室には私と早智さんの二人だけだった。
サーバーラックの低い唸りが、やけに大きく響く。いつもなら心地よいホワイトノイズなのに、今日は焦りを煽る秒針の音に聞こえた。
スマートグラスの作曲アプリを睨む。メロディの断片。歌詞のフレーズ。素材は揃っている。でも、それを「曲」として束ねる軸が見えない。
——ぐちゃぐちゃのまま、曲にすればいい。
志保先生の言葉は分かった。でも、「ぐちゃぐちゃ」をそのまま形にするって、具体的にどうすればいいんだろう。
「姫乃ちゃん、根詰めすぎじゃないですか?」
早智さんが、コーヒーを差し出しながら声をかけてきた。
「少し休憩したらどうです? 煮詰まってる時って、離れた方がいいって言いますし」
「……そうかもしれないですね」
私はスマートグラスを外し、マグカップを受け取った。湯気の向こうに、早智さんの心配そうな顔が見える。
「早智さん」
「はい?」
「志保先生のこと、もっと教えてもらえませんか」
早智さんの手が、一瞬だけ止まった。
「……どうして、急に」
「先生と一緒にいると、時々分からなくなるんです。あの人が何を見ていて、何と戦っているのか」
私はコーヒーを一口すすり、続けた。
「私の歌を『利用する』って言ったり、『価値がない』って言ったり、かと思えば『刻み込め』って言ったり。……先生の中では全部繋がってるんでしょうけど、私には見えなくて」
早智さんは、しばらく黙っていた。窓の外を見て、また私を見て。やがて、小さくため息をついた。
「……志保ちゃんに怒られるかもしれないけど。姫乃ちゃんには、知っておいてほしいかな」
早智さんは、自分のコーヒーを手に取り、向かいの椅子に腰を下ろした。
「志保ちゃんはね——元々、『izanagi』の中核メンバーだったんですよ」
「……izanagi?」
その名前は、何度か耳にしていた。阿久津教授が自慢げに口にする、国家プロジェクト。日本中のARインフラを支える基盤システム。
「立ち上げ当初から参加してて、技術主任を務めてたんです。まだ二十代半ばだったのに」
早智さんの目が、どこか遠くを見ている。
「私が志保ちゃんと出会ったのは、ちょうどその頃。高校生だった私が、たまたま彼女の講演を聴きに行って——もう、衝撃でしたよ。こんなにすごい人がいるんだって」
「講演……」
「ARが人間の認知をどう変えるか、みたいな内容だったんですけど。他の研究者が『技術的にこれができます』って話をする中で、志保ちゃんだけが『これは人間の脳に何をするのか』って視点で語ってて。……痺れましたね」
早智さんは、少し照れくさそうに笑った。
「それで押しかけ弟子みたいになって、気づいたらずっとそばにいるんですけど」
「……でも、今の先生は大学の准教授ですよね。izanagiからは——」
「追い出されたんです」
早智さんの声が、急に硬くなった。
「理由は、簡単に言えば『大規模障害の責任を取らされた』。でも、実際は違う」
早智さんは、コーヒーカップを両手で包み込むように持った。
「志保ちゃんはずっと異議を唱えてたんです。日本のAR開発は米中大手の後追いばかりで新規性がない、って。このままじゃ永遠に二番煎じだ、って」
「二番煎じ……」
先生がよく口にする言葉だ。あの人の中では、ずっと前から一貫していたんだ。
「それだけじゃなくて、izanagiの収益モデルにも反対してました。ユーザーの視覚情報を収集して、広告収入に繋げる方針。志保ちゃんは『ARを広告の配信装置にするな』って、会議のたびに噛みついてたらしいです」
新歓コンパの夜、阿久津教授が言っていたことを思い出す。『アイトラッキングによるユーザーの視覚情報の収集が正式に開始される』——あれは、志保先生がずっと反対していたことだったのか。
「当然、上の人たちからは煙たがられますよね。技術力は認めてるけど、扱いにくい——そんな空気が漂い始めた頃に」
早智さんの声が、低くなった。
「izanagiの大規模障害が起きたんです」
「……大規模障害」
「全国規模でシステムがダウンして、数時間、ARインフラが完全に止まった。当時は大ニュースになりましたよ。……で、その責任者として名前が挙がったのが」
「志保先生、だったんですね」
「志保ちゃんが担当してた部分とは関係ない障害だったのに。でも、上にとっては都合が良かったんでしょうね。ずっと目障りだった人間を、大義名分を持って切り捨てられる」
早智さんの声が、静かな怒りを帯びた。
「スケープゴートですよ。志保ちゃんは、組織の保身のために差し出された生贄だったんです」
沈黙が落ちた。サーバーの唸りだけが、変わらず続いている。
「その後、izanagiは志保ちゃんの懸念を無視したまま本格稼働を始めた。広告収入モデルも、視覚情報の収集も、全部そのまま。そして、功績は全部——」
「阿久津教授が、持っていった」
「……そうです」
早智さんは苦々しげに頷いた。
「志保ちゃんが追い出された後、阿久津教授がプロジェクトの『顔』になった。今じゃizanagiの生みの親みたいな顔してますけど、あの人は志保ちゃんたちが作った土台の上に乗っかっただけですよ」
新歓コンパでの阿久津教授の得意げな顔が脳裏をよぎる。『私の理論に基づいた、完璧なマーケティングの最適化だよ』——あの言葉が、急に薄っぺらく響いた。
「志保ちゃんはね、izanagiを憎んでるわけじゃないんですよ」
早智さんが、ぽつりと言った。
「自分が作りたかったものを、歪められたことが悔しいんだと思います。ARは人を幸せにできる技術なのに、今のizanagiは人を管理するための道具になってしまった、って」
——だから、あの人は。
私の中で、点と点が繋がり始めた。
志保先生があのライブを作った理由。既存のizanagiを使いながら、その枠組みを超えようとしている理由。私の歌を『利用する』と言った、その意味。
「私たちがやっていることって——」
声に出すと、その言葉は思ったより重かった。
「izanagiへの、戦いなんですね」
早智さんが、静かに頷いた。
「たぶん、そうです。志保ちゃんは絶対にそんな大層な言い方しないでしょうけど」
戦い。
その言葉が、胸の奥で熱を持った。
私は同情されることと戦ってきた。自分を「車椅子の歌姫」という記号に押し込める世界と。
志保先生は、自分の理想を歪められたことと戦っている。ARを管理の道具にしようとする力と。
舞は——あいつは、何と戦っているんだろう。それとも、何とも戦っていないのか。
でも、今は関係ない。
私には、私の戦いがある。
「早智さん」
「はい」
「ありがとうございます。……なんか、見えてきた気がします」
私はスマートグラスを手に取り、再び装着した。
作曲アプリを開く。散らばっていたメロディの断片が、今度は違う形で見えた。
——戦い。これがテーマだ。
私の中の「ぐちゃぐちゃ」は、戦いの歌だったんだ。
同情されることへの抵抗。境遇に押し潰されることへの拒絶。そして——自分を正当に評価しなかった世界への、宣戦布告。
指が動き始めた。今度は迷いがない。
激しいドラムのビートが頭の中で鳴り響く。そこに乗せるメロディが、次々と湧き上がってくる。
歌詞が浮かぶ。
私は同情なんかいらない。憐れみなんかいらない。お前たちの「感動」の消費材になるつもりはない。
見せてやる。これが、駒路姫乃の歌だ。
◇◇◇
三日後。研究室に、全員が揃っていた。
私、早智、ぬかしーさん。そして——車椅子の上で、緊張した面持ちの姫乃。
「それじゃ、聴かせて」
私は腕を組み、姫乃を促した。姫乃は深呼吸をひとつ。スマートグラスを操作し、スピーカーから音を流し始めた。
最初の一音で、空気が変わった。
重いドラムのビート。地の底から響くような低音。それが加速していく。徐々に、徐々に、押し寄せる波のように。
そこに姫乃の声が乗る。
——叫びだった。
でも、あのカラオケボックスでの叫びとは違う。あの時は「吐き出す」だけだった。今は違う。「叩きつける」声だ。明確な意志を持って、聴く者の鼓膜を、脳を、心を撃ち抜こうとする声。
歌詞が耳に入る。同情への拒絶。境遇への反抗。そして——自分自身への宣戦布告。
曲が終わった。沈黙が落ちる。
「……どう、ですか」
姫乃が、不安そうな目でこちらを見ている。
私は、肩をすくめた。
「いいんじゃない」
「……それだけ、ですか?」
「それだけって何よ。『いい』って言ったでしょ。私が音楽を褒めるなんて滅多にないんだから、喜びなさい」
姫乃の顔が、ぱっと明るくなった。
「これはテンション上がりますねー」
ぬかしーさんが、目を輝かせて身を乗り出した。
「特に最初のドラムからの加速感。ここ、絶対に視覚演出でも加速させたいです。あと、サビに入る直前の溜め——ここで一回、世界を畳んで、サビで一気に展開させる、みたいな」
彼女はすでにスマートグラスで何かをメモし始めている。
「戦いっていうテーマ、最高です。これをもとにアートコンセプト仕上げちゃいますんで」
「どれくらいかかる?」
「二日……いや、一日半。徹夜すれば」
ぬかしーさんは立ち上がり、荷物を掴んだ。
「出来上がったらすぐ連絡します。あ、園田さん、レンダリング用のサーバー、空けといてくださいね」
言うが早いか、彼女は研究室を飛び出していった。嵐のような退場だった。
「……行っちゃいましたね」
早智が、呆気に取られた顔で扉を見つめている。
「あの人、いつもああなの?」
「スイッチ入ると止まらないタイプみたいですね……」
私はため息をついた。
姫乃の新曲は完成した。ぬかしーさんのアートコンセプトは一日半で上がる。
リハーサルまで、残り三日。
私の側のAR演出プログラムは——正直に言って、まだ骨組みしかできていない。
「志保ちゃん、大丈夫ですか?」
早智が、心配そうな目を向けてくる。
「何が?」
「いや、その……納期的に」
私は窓の外を見た。夕暮れの空が、不穏な赤に染まっている。
「やばいわね」
「えっ」
「普通にやばい。徹夜確定」
私は白衣の袖をまくり、デスクに向かった。
キーボードに指を置く。画面には、まだ空白だらけのコードが並んでいる。
三日。七十二時間。
——やるしかない。




