第17話 戦場①
すべてが完成したのは、リハーサル当日の朝四時だった。
最後のコンパイルが終わり、エラーゼロの表示が画面に浮かんだ瞬間、私は椅子の背もたれに全体重を預けた。天井の蛍光灯が、やけに眩しい。
「……終わった」
声に出すと、現実味が増した。三日間の徹夜。七十二時間のコーディング地獄。何度かシステムがクラッシュして心臓が止まりかけたが、なんとか形になった。
それにしても——ぬかしーさんが化け物だった。
姫乃の新曲を聴いてから、コンセプトアート完成まで二十四時間。あの速度は人間業じゃない。彼女が送ってきたデータを見た瞬間、私は思わず声を上げた。
戦場。
荒野に立つ一人の少女。背後には燃え盛る炎と、崩れ落ちる城壁。空は血のように赤く、地平線には無数の影が蠢いている。少女の手には何も持たされていない。武器も、盾も、鎧も。あるのは、喉だけ。
——これは、歌で戦う者の絵だ。
野球チームの記念式典。勝利を祝う場。戦いの末に栄光を掴む者たちの祭典。
このコンセプトは、完璧だった。
私は仮眠を取るために、デスクの横に置いてある簡易ベッドに倒れ込んだ。目を閉じる。意識が落ちるまで、三秒もかからなかった。
◇◇◇
数時間後。ドームの関係者入口で、私は姫乃と早智と合流した。
「志保先生、顔色ひどいですよ」
姫乃が、心配そうな目を向けてくる。
「徹夜明けなんだから当然でしょ。それより、声の調子は?」
「万全です。昨日は早めに寝ましたし」
「よし。なら問題ない」
私たちは関係者通路を進み、控室エリアへと向かった。今日はリハーサル。笠松舞と私たちの、どちらが本番のステージに立つかを決める——事実上のオーディションだ。
控室の扉を開けると、そこには先客がいた。
「あ、来た来た」
笠松舞。今日も完璧にスタイリングされた姿で、ソファにゆったりと腰掛けている。その隣には、スーツ姿の女性——おそらくマネージャーだろう。
「挨拶に来たよ。今日はよろしくね、姫乃ちゃん」
舞が立ち上がり、姫乃の前に歩み寄る。その笑顔は、いつも通り甘く、そして底が見えない。
「……よろしく」
姫乃が、ぎこちなく返す。私は二人のやり取りを眺めながら、荷物をテーブルに置いた。
「園田先生も、お久しぶりです」
舞の視線が、私に向く。
「いいもの、できましたか?」
「ああ、おかげさまで」
私は肩をすくめた。
「この前も言ったけど、笠松さんのおかげで方向性が定まったよ。感謝してる」
舞が、一瞬だけ目を丸くした。それから、くすりと笑う。
「へえ。それは光栄ですね」
「……ちょっと待ってください」
姫乃の声が、低く割り込んできた。
「先生と舞って……知り合いだったんですか?」
私と舞が、同時に姫乃を見た。姫乃の目には、明らかな不信感が浮かんでいる。
「まあ、ちょっとね」
私は曖昧に答えた。それ以上、説明するつもりはない。
「……なんで教えてくれなかったんですか」
姫乃の声が、さらに硬くなった。
「私、この人に何度も嫌味言われてきたんですよ。それなのに、先生はこっそり連絡取り合ってたってことですか」
「姫乃、別にこっそりってわけじゃ——」
「敵じゃなかったんですか、この人」
姫乃が、真っ直ぐに私を睨む。その目には、裏切られたような色が滲んでいた。
「あらあら、嫌われちゃってるなあ」
舞が、わざとらしく肩をすくめた。その余裕たっぷりの態度が、姫乃の神経を逆撫でしているのは明らかだった。
「大人には大人の事情があるの。——今は、それだけ」
私は姫乃の視線を正面から受け止めて、短く言い切った。
「……納得できません」
「しなくていい。でも、今日やることは変わらないでしょ」
姫乃は唇を噛み、舞を睨みつけた。舞は涼しい顔で、その視線を受け流している。
「——それより、今日のリハーサル、楽しみにしてるからね。姫乃ちゃん」
舞が、甘い声で言った。挑発なのか、本心なのか。その笑顔の奥は、相変わらず読めない。
舞がマネージャーと共に控室を出ていく。その背中を、姫乃が鋭い目で見送っていた。
「……姫乃」
「分かってます」
姫乃は、深く息を吐いた。
「今は、リハーサルに集中します。……でも、後で絶対に説明してくださいね」
「気が向いたらね」
「先生!」
私は肩をすくめて、控室を出た。姫乃の不満そうな声を背中に受けながら、ステージへと続く通路を歩く。
——まあ、怒るのも無理はない。
でも、今は説明する時じゃない。すべてが終わった後なら、話してもいいかもしれないけど。
◇◇◇
舞のリハーサルは——完璧だった。
客席エリアの隅で、私たちは彼女のパフォーマンスを見守っていた。ステージの中央に立つ舞。バックダンサーはいない。バンドもいない。彼女一人だけが、スポットライトの中に立っている。
音楽が始まる。
アップテンポなポップス。舞の声が、ドームの空間を満たしていく。
——上手い。
悔しいけど、それは認めざるを得なかった。声量、音程、リズム感。すべてがプロフェッショナルの水準を軽々と超えている。表情の作り方、手の動き、視線の配り方。一挙手一投足が計算され尽くしていて、無駄がない。
何より——彼女は、楽しそうだった。
歌うことが好きで、ステージに立つことが好きで、人に見られることが好き。その気持ちが、全身から溢れ出している。私が「車椅子の歌姫」という記号に苦しんでいる間、この人はずっとステージの上で輝き続けてきたんだ。
曲が終わる。舞が深々とお辞儀をする。スタッフたちから、まばらだが確かな拍手が起きた。
「……上手いですね、あいつ」
思わず、口から漏れた。
「認めるんだ」
隣で、志保先生が意外そうな声を出す。
「嫌いなことと、実力を認めることは別です」
私は、ステージ上の舞を真っ直ぐに見つめた。
「だからこそ、負けたくない」
「……いい心がけね」
先生は腕を組んだまま、何か考えるようにステージを見つめていた。技術的なことを計算しているのかもしれない。この人は音楽のことはわからなくても、「体験」を作ることに関しては誰よりも貪欲だから。
「私たちも、やりましょう」
私は、車椅子の上で背筋を伸ばした。
「見せてやりましょうよ、先生。私たちの『戦場』を」
さっきまでの、先生への不信感は消えていた。今はそれどころじゃない。目の前にいるのは、倒すべき相手だ。
「……上等」
先生が、小さく笑った。
「行くわよ」




