第15話 新曲②
新曲が、書けない。
研究室の隅、いつもの定位置で車椅子に座ったまま、私はもう何時間もスマートグラスの作曲アプリを睨み続けていた。メロディの断片はいくつも浮かぶ。歌詞のフレーズも、ノートには溢れている。でも、それらがひとつの「曲」として繋がらない。
志保先生に相談してみた。何度も。
「ねえ、このサビの展開なんですけど——」
「私に良し悪しが分かるわけないでしょ」
「じゃあ、こっちのバラード調と、アップテンポなのと——」
「だから、私に聞かないで。音楽はあなたの領域」
一点張りだった。冷たいわけじゃない。本当に分からないのだ、この人は。あれだけの視覚体験を作り上げておきながら、音楽に関しては素人を自称して譲らない。
だから、一人で作るしかなかった。
◇◇◇
深夜。寮の自室で、私はあの日のライブ映像をSNSで検索していた。
再生ボタンを押す。
画面の中で、世界が折り畳まれていく。パレ・ガルニエが紙片から立ち上がり、スカラ座が深紅に染まり、エピダウロスの石段が広がっていく。そして——ビッグバン。光が弾けて、新星が生まれる。
何度見ても、圧倒される。
でも、同時に分かってしまう。この映像では、あの日の体験の十分の一も伝わらない。コメント欄にも同じことが書かれていた。『現地で見たけど、映像じゃ全然伝わらない』『あの場にいないと分からない』——そう、これは「体験」であって「記録」じゃない。
じゃあ、私の歌は?
志保先生が作り上げる視覚の暴力に、私の声はどう立ち向かえばいい?
あの日、先生は言った。『君の歌なんて誰も覚えていない』と。それは事実だった。観客の記憶に残ったのは、折り紙の世界と、宇宙の誕生と、網膜を焼く光だけ。私の歌は、その土台でしかなかった。
でも今度は違う。先生は『歌で世界を刻み込め』と言った。矛盾してる。あの人の言ってることは、いつも矛盾してる。
——いや、違う。
矛盾しているのは、私の方だ。
◇◇◇
行き詰まると、私はいつもあの場所に向かう。
カラオケボックス。あの夜、志保先生と来た店。一人でドアを開け、いつもの部屋を取り、マイクを握る。
思いついたメロディを、片っ端から歌ってみる。
激しい曲。静かな曲。希望に満ちた曲。絶望を叫ぶ曲。
どれも、悪くない。技術的には問題ない。音程もリズムも、昔より確実に上達している。
でも——手に何も残らない。
あの日のライブと同じだ。スカラ座が消える瞬間、霧を掴もうとして消え去ったあの感覚。何かが足りない。決定的な何かが。
それが何なのか、分からないまま、私はまた別のメロディを試す。
◇◇◇
数日後。大学の食堂で昼食を取ろうとしていた時だった。
「あ、姫乃ちゃん。久しぶりー」
聞き覚えのある、甘い声。振り返ると——笠松舞が、トレイを持って立っていた。
新歓コンパの夜以来だ。あの駅での宣戦布告。それ以来、まともに話していない。というか、意図的に避けていた。
「隣、いい?」
私が答える前に、舞は当然のように隣の席に腰を下ろした。周囲の学生たちがざわめく。トップアイドルと元・車椅子の歌姫が並んで食事。格好のゴシップネタだろう。
「……何の用?」
「別にー。ただのランチだよ」
舞は無邪気な笑顔で、サラダをフォークで突いた。
しばらく、沈黙が続いた。私は黙々とうどんを啜り、舞はサラダを食べている。周囲の視線が痛い。早く食べ終わって逃げたい。
「ねえ、姫乃ちゃん」
舞が、唐突に口を開いた。
「あの変化球、満足してるの?」
「……変化球?」
「あのライブのこと。折り紙がどうとか、宇宙がどうとか」
舞の目が、一瞬だけ鋭くなった。アイドルの笑顔の奥に、別の何かが覗く。
「すごかったよ、あれ。マイも見てた。でもさ——」
舞はフォークを置き、私の方を向いた。
「あれって、姫乃ちゃんの歌じゃないよね」
心臓が、跳ねた。
「園田先生だっけ?あの人の技術がすごいだけでしょ。姫乃ちゃんは、その上で歌ってただけ。……ねえ、それで満足なの?」
言葉が出なかった。図星だったから。
「マイに売ってくれてたら、ちゃんと『歌』として評価してもらえたのに。姫乃ちゃんの才能を、正当に。……もったいないなー」
舞は、心底残念そうな顔をしてみせた。それが演技なのか本心なのか、私には分からなかった。
「……余計なお世話」
それだけ言って、私は残りのうどんを掻き込み、トレイを持って立ち上がった。
「あ、もう行っちゃうの?」
「用事があるから」
「そっかー。じゃあね、姫乃ちゃん。……また声かけるから」
背中に投げかけられた舞の声を振り払うように、私は食堂を後にした。
◇◇◇
自分の歌でしかできないことは、何か。
舞の言葉が、頭から離れなかった。
あいつの言っていることは、半分正しい。あのライブで評価されたのは、志保先生の技術だ。私の歌は、その引き立て役でしかなかった。
でも——それでいいのか?
私は、引き立て役になるために歌っているんじゃない。
じゃあ、何のために?
答えが出ないまま、日数だけが過ぎていく。
残り、十日。
◇◇◇
その日、志保先生と一緒にドームの内見に行くことになった。
タクシーを降り、関係者入口から中に入る。長い通路を抜け、フィールドに出た瞬間——息を呑んだ。
広い。とてつもなく、広い。
天井は遥か高く、客席は円形に何層にも重なり、フィールドの中央に立つと、自分がどれだけ小さい存在かを思い知らされる。
「ここが……四万人で埋まるんですか」
「そうよ。全席、あなたを見る」
志保先生は淡々と言った。けれど、その声にはどこか楽しそうな響きがあった。
私は車椅子でフィールドの中央まで進み、ぐるりと周囲を見回した。空っぽの客席が、無数の目のように私を見下ろしている。
ここで、歌う。四万人の前で。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。
◇◇◇
「園田さん、駒路さん。少しよろしいですか」
内見を終えて控室に戻ると、牛久会長が待っていた。その隣には、スーツ姿の中年男性——おそらく球団の担当者だろう——が立っている。
「実は、少し困ったことになりまして」
会長の声が、いつもより硬い。
「社内で、すでに代役のアーティストを探していた者がおりまして。その者から、今回の人選に異議が出ております」
担当者が、わざとらしく咳払いをした。
「会長、失礼ながら申し上げます。このような重要な式典に、実績のない方を起用するのは——」
「それでは」
志保先生が、担当者の言葉を遮った。
「一度、私たちの技術をご覧いただけませんか」
先生はスマートグラスを取り出し、会長と担当者に手渡した。
「簡易的なデモですが、我々が何をできるのか、ご理解いただけると思います」
指先が動く。次の瞬間——控室の壁が、折り畳まれ始めた。
あの演出だ。現実が紙のように変形し、幾何学的に収束していく。天井が三角形になり、床がめくれ上がり、すべてが白い虚空へと変わる。
「おお……!」
会長が、目を見開いた。担当者も、言葉を失っている。
白い空間の中に、金色の紙片が舞い始める。それは折り畳まれ、形を成し——パレ・ガルニエの柱が立ち上がる。黄金の装飾、天使の彫像、クリスタルのシャンデリア。
「これは……」
担当者の声が震えている。
やがて演出が終わり、控室が元の姿に戻った。会長は深く息を吐き、担当者は額の汗を拭っている。
「……やはり、素晴らしい」
会長が、静かに言った。
「これが、あなた方の技術ですか」
「いいえ」
志保先生が、首を横に振った。
「これは使いません」
「……え?」
担当者が、間の抜けた声を上げた。
「今お見せしたのは、一度やったことのある演出です。二番煎じは嫌いなので」
先生は、涼しい顔で続けた。
「今日は、担当者の方に少しでも我々のARを理解していただこうと思い、急遽準備しました。本番では——」
先生の目が、鋭く光った。
「このドームにふさわしい、ここでしか体験できないものを用意します」
沈黙が落ちた。会長は満足げに頷いている。けれど、担当者の表情は複雑だった。何か言いたそうに口を開き、閉じ、また開く。
「……しかし、ですね」
担当者が、粘りつくような声を出した。
「すでに私の方で、別のアーティストとも話を進めておりまして。バランスを考えますと、一度、両者を比較した上で——」
「構いませんよ」
志保先生が、あっさりと言った。
「比較していただいて構いません。それで、どちらが相応しいか判断してください」
担当者の目が、一瞬だけ光った。
「では……本番三日前のリハーサルで、両者のパフォーマンスを拝見し、最終決定とさせていただきます。よろしいですか、会長」
「……ふむ。まあ、公平を期すなら、それもいいだろう」
会長が、渋々といった様子で頷いた。
「それで、比較対象となるアーティストは誰だね?」
担当者が、わざとらしく書類をめくった。
「笠松舞さんです」
その名前を聞いた瞬間、私の頭が真っ白になった。
——笠松舞。
あいつが、ここに来る。私の邪魔をしに。
昼食の席で、舞は言っていた。『また声かけるから』と。あれは、こういう意味だったのか。私が志保先生に相談していることを、どこかで嗅ぎつけて——
「姫乃」
志保先生の声で、我に返った。
「行くわよ」
◇◇◇
帰りの車の中。私は、黙っていられなかった。
「先生」
「何?」
「あんなこと言って、良かったんですか」
声が震えていた。苛立ちと、焦りと、不安が混ざって、自分でもコントロールできない。
「『二番煎じは嫌い』とか、『ここでしか体験できないものを用意する』とか……。まだ何も決まってないじゃないですか。新曲だって、まだ——」
「姫乃」
「私、まだ曲が書けてないんですよ!?」
気づけば、叫んでいた。
「先生は『歌で世界を刻み込め』って言いましたよね。でも、あの日は『君の歌なんて誰も覚えていない』って——矛盾してるじゃないですか! 結局、どっちなんですか!?」
志保先生は、黙って私を見ていた。その目は、いつも通り冷静で、私の激昂を正面から受け止めている。
「私の歌に価値なんかないって、先生が言ったんですよ。なのに、今度は歌で刻み込めって……。そんなの、どうすればいいか分からないじゃないですか……!」
声が、掠れた。
結局、私は不甲斐ない自分に苛立っているだけだ。曲が書けない。方向性が見えない。舞に図星を突かれて、担当者に値踏みされて、三日後にはあいつと比較される。
それなのに、私には何もない。
「……姫乃」
志保先生が、静かに口を開いた。
「今、何を感じてる?」
「……え?」
「苛立ち?焦り?悔しさ?それとも、全部?」
私は、言葉に詰まった。
「全部……です。全部、ぐちゃぐちゃで、自分でも分からなくて……」
「——だったら、それを曲にしたらいいでしょ」
志保先生は、当たり前のことのように言った。
「音楽は非言語的コミュニケーションツール。そうでしょ?言葉にできない感情を、メロディに乗せて伝える。それが歌の本質」
先生は、窓の外を見た。流れる景色が、夕焼けに染まっている。
「君が今感じている矛盾も、苛立ちも、不甲斐なさも——全部、曲にすればいい。綺麗にまとめようとしなくていい。ぐちゃぐちゃのまま、そのまま歌にして」
「でも、それじゃ——」
「私が欲しいのは、完成された綺麗な曲じゃない」
志保先生が、私を見た。
「君の中にある、剥き出しの何か。それを、四万人の脳に刻み込んでほしいの」
車が、赤信号で止まった。沈黙の中で、私は先生の言葉を反芻していた。
——音楽は非言語的コミュニケーションツール。
あの夜、カラオケボックスで先生が言った言葉。私の不満や苛立ちが『痛いほど伝わってきた』と。
あの時、私は何を歌っていた?
技術でも、テクニックでもない。ただ、自分の中のドロドロした感情を、全部吐き出していただけだ。
——そうか。私は、ずっと間違っていたのかもしれない。
「……先生」
「何?」
「少し、時間をください。たぶん……書けそうな気がします」
志保先生は、小さく笑った。
「期待してる」
窓の外で、夕陽が沈んでいく。私は初めて、自分の中の「ぐちゃぐちゃ」と向き合う覚悟ができた気がした。




