第13話 パトロン③
「……怪物、か」
牛久会長は、指先を組んだまま肩を揺らして笑った。声は小さい。けれど、部屋の空気が一段だけ軽くなる。
「いいね。君の"怪物"は、もうこの老いぼれの目にも入っている」
銀縁のスマートグラスを、会長は机の上で軽く転がした。カチ、と乾いた音。
「講演会でね。私は"芸"を見に行ったつもりだった」
会長の視線が、窓の外の街並みへと流れる。
「だが、見せられたのは芸じゃなかった。あれは……体験そのものが、こちらに噛みついてきた。帰りの車の中で、まだ手が震えていたよ」
老紳士が、自分の手のひらを見つめる仕草。それが演技でないことは、私にも分かった。
会長は再び志保先生を見た。
「君が今、自ら《《怪物》》と口にした時点で、商談の半分は終わっている。……ふふ。相変わらず、欲が深い」
「何事も欲深い方が、楽しいですから」
志保先生が平然と返すと、会長はまた笑った。今度は、愉快そうに。
「よし。では本題だ」
会長は椅子に深く腰を沈め、指を組み直した。
「年間の出資額として――三億を想定している」
三億。
数字が言葉として空間を転がるだけで、内臓がせり上がるような圧迫感がある。私の手が、無意識に車椅子のアームレストを掴んでいた。
けれど、会長はそこで手のひらをひらりと翻してみせた。
「――ただし、今は出せない」
志保先生は眉ひとつ動かさなかった。予想済みという顔だ。
「ただし、条件次第では飲む。君が《《怪物》》を、本物として世間に噛みつかせられるなら、な」
会長は身体を少しだけ前に乗り出した。穏やかな笑みのまま、目の奥だけが鋭くなる。
「二週間後だ。うちの会社が筆頭スポンサーを務めている球団の――記念式典がある」
球団。式典。言葉がつながった瞬間、私の背中に冷たい汗が走った。
「場所は、ドーム」
「……ドーム?」
思わず声が漏れた。会長は穏やかに頷く。
「そう。四万人が入る、あの"箱"だ。球団オーナー、スポンサー企業、メディア、地元の名士たち――すべてが揃う」
会長は窓の外を見た。街の向こう、視界には入らないはずの"箱"を想像するように。
「本来は著名なアーティストを呼ぶ予定だったのだが――」
会長は肩をすくめる。
「コンプライアンス違反があったらしい。偶然、席が空いた」
志保先生は一瞬で理解したようだった。
「そこに君たちを差し込む。出来が良ければ、年三億。出来が悪ければ……まあ、君はここから出禁だ」
あまりに軽い口調で、とんでもないカードを切ってくる。
私の指先が、膝の上で硬くこわばった。
ドーム。式典。四万人。
私は、たった二〇〇人のホールでさえ、歌い終わった後に何が起きていたのか理解できなかった。なのに。
隣を見ると、志保先生は――笑っていた。緊張の色なんて、どこにもない。
「……エビで鯛を釣ろうと思ってたら」
先生は会長に向けるでもなく、私にだけ聞こえる音量で笑った。
「ドームが釣れちゃったな」
「先生……っ」
声が震える。志保先生は私の方を見て、悪戯が成功した子供のような目で囁いた。
「最高じゃない。姫乃の復帰ライブが――いきなりドームなんだから」
会長が、そのやりとりを面白がるように目尻を下げた。
「怖いかね、駒路さん」
私は答えられなかった。怖い。けれど――逃げたい、とは違う。
志保先生の言葉を思い出す。「何が起きても歌い切れ」と。
私は、車椅子のハンドリムを強く握った。自分の身体の一部みたいに。
「……会長」
ようやく声を絞り出す。
「そのドームで、私は……歌うんですか」
会長は、うん、と穏やかに頷いた。
「君が“演者”だろう。怪物を呼ぶ笛は、君の歌だ」
「私の歌……」
志保先生が、間髪入れずに答えた。
「やります。二週間で仕上げます」
「いい返事だ」
会長は満足げに笑い、手を叩いて言った。
「では、契約――じゃなかった。試験だ。ドームで君たちの怪物を見せてください」
そう言って差し出された手を、志保先生は迷わず握った。
部屋の窓の外、街は何も知らないまま、午後の光に沈んでいる。
その中で私は、二週間後に待っている"箱"の大きさだけを想像して、息を止めた。
◇◇◇
秘書に案内され、重い絨毯の廊下を歩く。
エレベーターが音もなく閉まると、さっきまでの会長室の空気も、真空パックされたみたいに遠のいた。降りていくほどに、現実の重力が戻ってくる。
一階へ到着。扉が開いた瞬間に流れ込んできた滝の音が、ようやく私を日常に引き戻した。
「お疲れ様でした。お車、お呼びしておきます」
受付の女性が、事務的に、けれど丁寧に告げる。
数分後、車寄せに白いミニバンが滑り込んできた。UDタクシー。乗り慣れたアルミのスロープを上がり、床にタイヤを固定するラチェットの「カチ、カチ」という音。その規則正しさが、今はやけにせっかちに聞こえた。
志保先生が隣の折り畳みシートに腰を下ろす。運転手が行き先を確認している間、私は黙っていられなくなった。
「……先生」
「何?」
「さっきの、三億って……本当に必要なんですか」
ドームの四万人より、三億という数字の方が、生々しく私の胃を締め付ける。
「必要よ」
志保先生は、窓の外を流れる景色を見つめたまま答えた。
「ARの演出プログラムを組むには、専用のサーバーが要る。レンダリング用の計算資源も、リアルタイム処理のためのGPUクラスタも、全部お金。それから、音響と映像の同期システム、観客全員のデバイスを制御する通信インフラ……」
先生は指を折りながら、淡々と列挙していく。
「それに、今回みたいな大規模イベントがやりたいなら、安全確保のための冗長系も必要。万が一システムが落ちたら、四万人が真っ暗闇の中に放り出される」
「……そんなに」
「これでも少ない方よ。うちは零細研究室だからね。本来なら、国家予算レベルでジャブジャブ使いたいくらい」
先生はそこまで言うと、肩をすくめて窓の外に視線を流した。まるで三億という数字が、ちょっとした買い物の話みたいに。
車が大通りに出た。景色が流れる速度が上がった。
「……そういえば、この車ってどこに向かってるんですか?大学とは逆方向ですけど」
「これから、協力者に会いに行く」
「協力者?」
「ぬかしーさんって人」
志保先生はスマートグラスを操作し、私の視界に検索結果を送ってきた。
画面に表示されたのは――イラストレーターのプロフィールページ。すごく可愛い女の子の絵が、ずらりと並んでいる。キラキラした瞳、透き通るような髪、繊細な色使い。
「……絵、ですか?もしかして、私にVtuberみたいなことやらせようとしてます!?」
思わず声が上ずった。
「無理無理、無理ですよ!私が雑談配信とかゲーム実況とかできるわけないじゃないですか。そもそも私、トークとか全然――」
「姫乃」
志保先生が、呆れたような声で割り込んできた。
「一人で盛り上がってるところ悪いんだけど、そっち方面の話じゃないから」
「……え?」
「確かに今でも、可愛いアバター被って配信してる人はいる。でもそれは君の仕事じゃない。……まあ、早智あたりが『姫乃ちゃんのアバター作りましょうよー』とか言い出しそうだけど」
先生は、少しだけ楽しそうに付け加えた。
「界隈で言うところの"絵師"、ぬかしーさんには、背景イラストと演出面での手助けをしてもらうの」
「背景イラスト……ですか?」
疑問符が浮かぶ。あの折り紙みたいなAR演出と、絵がどう繋がるのか分からない。
志保先生は、スワイプして別の画像を表示させた。
今度は――一枚の背景イラストだった。
廃墟になった遊園地。錆びついた観覧車が、夕焼けの空に溶けている。その下で、一人の少女が振り返る構図。色彩は鮮やかなのに、どこか儚い。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
「でしょ。この人、背景イラストと演出設計の天才なのよ」
志保先生が、珍しく嬉しそうに言った。
「……先生がそこまで言うなんて、珍しいですね」
「だって、本当にそうなんだもの」
先生は、イラストをもう一度見つめた。
「正直に言うとね。この前のライブ――あのパレ・ガルニエもスカラ座も、私が一人で組んだものは、所詮は素人仕事なの」
「……え?」
私は思わず声を上げた。あの圧倒的な体験が、素人仕事?
「技術的には完璧だったわ。ARシステムの制御も、レンダリングのタイミングも。そこは自画自賛する。でも――」
志保先生は、自嘲気味に笑った。
「私の専門はAR開発であって、アーティストじゃない。『パレ・ガルニエってこんな感じだったよね』『スカラ座は赤くて馬蹄形』って、既存の劇場を《《再現》》することしかできなかった」
先生の指が、画面の中のイラストをなぞる。
「でも、ドームでやるのは再現じゃ足りない。いうなれば、創造。誰も見たことのない世界を、ゼロから作り上げる。そのためには……本物のプロの力が必要なの」
志保先生は、私を見た。
「ぬかしーさんは、何もないところから世界を生み出せる人。色彩の選び方、光の使い方、空間の構成……全部が計算され尽くしてる。彼女が描く"世界観"があれば、私はそれを完璧にARで再現できる。それに――」
「それに?」
「姫乃のとの相乗効果も期待してるから」
相乗効果。その言葉が、胸の奥でじんわりと温かく広がった。
私の歌と、見知らぬ絵師の世界観。それが重なったら、どんな景色が生まれるんだろう。ふと顔を上げると、車窓の景色が変わり始めていた。オフィス街の無機質なビルが減り、代わりに原色の看板やアニメキャラクターの等身大パネルが目に飛び込んでくる。
日本橋。大阪が誇るオタクの聖地。
「……先生。絵師さんって、こんなところにいるんですか?」
「いるのよ。というか、棲息してるって言った方が正しいかな」
志保先生は楽しそうに笑いながら、窓の外を指差した。その先には、けばけばしいネオンを纏った古びたゲームセンターが見えていた。




