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第12話 パトロン②

 研究棟の裏手、配送車が出入りする脇の車寄せで待っていると、白いミニバンが静かに滑り込んできた。車体の側面に「UD TAXI」と小さく表示がある。いわゆる福祉タクシーじゃない。一般のタクシー会社が出している、車椅子のまま乗れるタイプだ。


 運転席から降りてきた運転手が、慣れた手つきで後部スライドドアを開けた。床が少しだけ低く、格納されたアルミのスロープが顔を出す。


「車椅子のまま、でよろしいですか?固定しますので、ブレーキだけお願いします」


「はい」


 私はブレーキを強く握り、カチリと音がするまで押し込む。運転手は膝をつき、スロープの角度を指先で確かめてから、ゆっくりと誘導した。ガタつきのない速度。ここが雑だと、車椅子は一瞬で“段差”に呑まれる。


 上がりきったところで、今度は床から伸びる固定ベルトが四点、タイヤのフレームに掛けられた。カチカチ、とラチェットが締まっていく音がして、車椅子が“車内の一部”になる。最後に、私の身体にシートベルトが回される。胸の前でバックルがはまったとき、私はようやく息を吐いた。


 ――こういう手続きって、安心と引き換えに、少しだけ屈辱が混ざる。けれど今日は、それを噛み砕いている余裕がなかった。


 志保先生は助手席ではなく、私の横の折り畳みシートに座った。白衣ではない。あの日のパーティみたいに気取ってもいない。いつもの、仕事着のまま。けれど視線だけが異様に冴えている。


「行き先ってどこなんですか?」


「なんだっけ、あの、大っきいビル」


「……?」


 私は思わず声が裏返った。


「先生、住所、知らないんですか」


「そういえば知らないな。いつも向こうから車用意してくれるから。ほら」


 志保先生はスマートグラスを外し、私の膝の上に置いた。そこには、短いやりとりが表示されていた。件名だけで胃が縮む。


『【面談】独占交渉権の件』


 本文は、もっとひどい。


 園田:独占交渉権、売ってあげる。

 牛久:あいかわらずですね。まずはお茶でも飲みに来ませんか。


 たった二行。なのに、お金の匂いがプンプンする。


「……独占交渉権って、何ですか?」


「私と姫乃の“次”に対する権利。今後のスポンサー候補は山ほど湧くけど、最初の一社が“誰か”で、方向性が決まるから」


「方向性……」


「大事なことだよ。変なとこ掴まされると、後が全部腐る。だから最初は、こっちで選ぼうと思って」


 志保先生はさらっと言った。まるで、実験器具を選ぶみたいに。


 運転手が「目的地は、こちらで?」とバックミラー越しに確認すると、志保先生はビルの通称名を短く告げた。町の人が“あのビル”と呼ぶような、巨大なやつだった。


 車が動き出す。固定された車椅子の足元から、小さな振動が上がってくる。窓の外は、日が傾きかけていた。何も変わらない日常のはずなのに、私だけが現実から半歩浮いているみたいだった。


「先生」


「なに?」


「その……牛久さんって」


「牛久玄蔵。会社の会長だね。今は表に出ないけど、金と顔はまだ現役」


「なんで先生が会えるんですか」


「向こうが会いたいから?」


 その答えが一番怖い。志保先生は、私の不安を楽しむみたいに口角を少しだけ上げた。


 ビルが見えてきた瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 ガラスと鋼で組まれた巨大な塔が、雲の下から空までをまっすぐ貫いている。広告も看板もほとんどないのに、存在感だけで「ここが中心だ」と言い張ってくる建物だった。車寄せの前には黒塗りの車が並び、制服姿の警備員が無言で導線を作っている。


 タクシーが滑るように停車すると、運転手が後部ドアを開け、固定ベルトを外し始めた。カチ、カチ、と緊張が解けていく音。


「スロープ出しますね。ゆっくり降りてください」


 金属の板が伸び、私はブレーキを握ったまま、重力の向きを確かめる。車椅子がスロープを下りるときの微妙な傾き――その一瞬、足が動かないことがやけに現実味を増す。


 地面にタイヤが触れたところで、志保先生が後ろに回り、ハンドルを掴んだ。


「行くよ」


「……はい」


 私が返事をするより早く、先生は躊躇なくガラスの回転扉へ向かった。


 こういう場所には、普通は一瞬だけ立ち止まるものだ。自分の服装や姿勢を確かめて、場の空気に馴染む準備をする。けれど志保先生にはそれがない。まるでコンビニの自動ドアをくぐるみたいに、当たり前の顔で進む。


 回転扉の中で、香水と磨き上げられた石の匂いが混ざった空気が肺に入った。扉を抜けた先は――ロビーだった。


 ひと際、広い。


 広いというより、空いている。床は光を吸うような深い色の石で、天井は見上げても距離感がつかめないほど高い。壁面の一部がそのまま滝になっていて、落ちる水の音だけがゆっくりと響いている。人の声はほとんどしない。ここでは“雑音”すら許されないらしい。


 受付カウンターの奥に立っていた女性が、こちらに気づいて一瞬だけ目を上げた。驚きも警戒もない、ただ「予定通りです」という顔。


「園田様ですね。牛久がお待ちです。こちらへ」


 名乗る必要も、名刺を出す必要もなかった。志保先生は返事だけ短くして、私の車椅子を押しながら案内に従う。


 警備ゲートを通る。エレベーター前の小さなホールに着く。そこも無駄に広く、椅子ひとつ置かれていない。秘書がカードキーをかざすと、扉が音もなく開いた。


 ――上に行くほど、世界が静かになる。


 最上階で降りると、絨毯が足音を丸ごと飲み込んだ。廊下の先に、重い扉。小さなプレートに《会長室》と書かれている。


 秘書がノックする。


「お通しします」


 扉が開いた瞬間、窓の向こうの景色が目に飛び込んできた。街全体が模型みたいに小さく、川の光だけが細い線になって走っている。


 そして――いた。


 ソファに腰掛け、銀縁のスマートグラスを指先で外しながらこちらを見る老紳士。白髪は整い、背筋はまっすぐ。柔らかい笑みを浮かべているのに、部屋の主導権が一切揺れていない。


 あの日、校門で道を尋ねてきた人だ。


 胸の奥が、ひゅっと縮む。


「……あ」


 私の小さな声に、老紳士は目尻を下げた。


「おや。道を教えてくれたお嬢さんだ」


 覚えている。ほんの数分の会話を。


 私は喉の渇きを誤魔化すように、小さく頭を下げた。


「こんにちは……」


「こちらこそ。あの日は助かったよ。――君が駒路姫乃さんだね」


 名前まで。


 志保先生が一歩前に出た。いつもの無愛想な顔のまま、しかし声だけは礼儀のラインを寸分も外さない。


「牛久会長。ご無沙汰してます。園田志保です」


 老紳士――牛久玄蔵は、口元に笑みを残したまま頷いた。


「久しいな。……相変わらず、目が死んでない」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 志保先生は私の車椅子の横に立ち、形式だけは整えるように言った。


「こちらは駒路姫乃。今回の“演者”です。本人の意思確認も含めて連れてきました」


 私がもう一度軽く頭を下げると、牛久会長は「うん」と短く頷き、視線を志保先生に戻した。


「座りたまえ。――と言いたいが、君は座らないんだろう」


「はい。長くなるので」


 会長が笑った。声は大きくないのに、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。


「よし。なら、挨拶はここまでにしよう。……で?」


 会長は肘掛けに腕を置き、指先を軽く組んだ。


「今日は、何を売りに来た」


「怪物です」


 志保先生は一切間を置かず、単刀直入に言い切った。

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