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第11話 パトロン①

 あの余興の翌日から一週間で、私たちを取り巻く空気は見違えるほど変わった。


 あの日、志保先生が投げ込んだ“衝撃”は、AR《拡張現実》というフィルターを経由して、現実の表面をじわじわ侵食していった。SNSのトレンドは私の名前を粘着質に貼り付けたまま離さず、あの形容しがたい体験は、目撃者たちの網膜に焼け焦げのような残像を残し続けている。


「……園田准教授。君には感謝すべきか、怒りをぶつけるべきか、正直、私は今、悩んでるというのが正直な感想だ」


 週明け。学長室に呼び出された先生を待ち構えていたのは、阿久津教授だった。妙に落ち着かない――というより、落ち着こうとして失敗している顔。


 彼の前には、複数のホログラム・ウィンドウが展開されている。『izanagiが魅せた奇跡』と持ち上げる記事と、『阿久津の講演が退屈すぎて記憶から消し飛んだ』と笑う投稿が、仲良く同じ空間に並んでいた。


「私の講演内容を『贅沢なホワイトノイズ』と書いた不届き者もいるが……まあいい。結果として、投資家たちはizanagiに、ひいては私の名に、かつてない関心を寄せている」


 阿久津は、トレンド入りしている自分の名前をうっとりと見つめた。屈辱より先に、名声の甘さが舌に乗ってしまった人間の目だ。


「ただ、あのような騙し討ちは二度とするな。……次は許さんからな」


 その言葉を、先生は背中で受け流した。


「お互い、win-winで良かったじゃない」


 それだけ言い捨てて、先生は学長室を出た。


◇◇◇


 研究室に戻ると、そこは学長室のピリつきとは無縁の、いつも通りの気怠い日常だった。サーバーラックの低い唸り。机の上に転がるエナジードリンクの空き缶。先生は白衣のまま椅子に沈み込み、淹れたてのコーヒーに口をつける。


 外の世界では、私たちが仕掛けた“爆弾”がまだ爆音を上げ続けているのに。当の本人は、日常を確かめるみたいに、無造作にキーボードを叩き始めた。


 その静けさを、扉が開く音が切り裂いた。


「志保ちゃん、これ、てくださいよ! 投稿数、もう十万超えてます」


 早智さんの声が弾み、研究室の空気が震える。彼女が指先で空間を弾くと、私の視界に半透明のポスト・ウィンドウが次々と展開された。izanagiの視覚共有機能が、熱狂の断片だけを選別して、私の目の前に叩きつけてくる。


「人生で一番やばい体験だった」

「ARの概念が変わった」

「宇宙が生まれるところを見た。まだ手に折り紙の感触が残ってる気がする」


 先生は、いつもの顔でコーヒーを啜り、興味なさそうに言った。


「……ふーん」


 素っ気ない。けれど私は見逃さなかった。カップを握る指が、微かに“嬉しいときのリズム”を刻んでいる。


 ――あ、この反応。先生、本当は気にしてるのに、興味ないフリしてる。


「ふーん、じゃないですよ!いま、大学中の話題なんですから。……あ、これも、視てください」


 早智さんが、ある投稿を拡大した。


 @ARlover_y

『スマートグラスで全部録画してたけど、映像で見返しても全然すごくない。あの体験は、あの場にいないと絶対に伝わらない。マジで、人生で一番“そこにいた”ことに価値がある体験だった』


 その瞬間、先生の手が止まった。カップを唇に寄せたまま、彫像みたいに動かない。数行の文字を、穴が開くほど、何度も読み返している。


「……わかってるじゃない」


 吐息みたいに小さな声。なのに、深い満足が混ざっていた。


「え? 先生、今なんて――」


 早智さんが聞き返すより早く、先生は「何でもない」と言い、何事もなかったみたいにコーヒーを飲み干した。けれど私は見た。口元に一瞬だけ浮かんだ、誇らしげな笑みを。


◇◇◇


 翌々日。


 講義室の扉を開けた早智さんが、「あっ」と息を呑んで固まった。


「うわ……」


 いつもなら二十人もいれば多い方の、志保先生の講義。なのに今日は、階段状の教室が端から端まで埋まっていた。通路には立ち見の学生。空気が熱を持って、やけに重い。


 先生は教卓に立ち、いつも通り無愛想な声で言った。


「今日から受講する人、手を挙げて」


 バサバサと、教室中の腕が林立した。


「……理由は聞かなくてもわかる。あのライブ映像を見て、私の講義が面白そうだと思ったんでしょ。残念だけど、あれは余興。普段の講義は、退屈な基礎AR学よ。……それでもいいなら、残りなさい」


 誰一人、席を立たなかった。


 ――ただ、その“変化”は、微笑ましいものばかりじゃなかった。


 講義が終わって研究室へ戻ろうとすると、廊下が異様だった。静かな研究棟のはずなのに、サイン会でも始まるみたいに人が詰めかけている。


「あ、園田先生だ!」

「ライブ、すごかったです!どうやってあんなことを!?」

「先生の研究に参加させてください!」


 一人が叫ぶと、待ち構えていた学生たちが波みたいに押し寄せた。スマートグラスのレンズが、容赦なくこちらを狙う。


 先生は、私の車椅子を押す早智さんに短く言う。


「……早智、急いで。中に退避」


 もみくちゃになりながら、早智さんが強引に扉を開け、私を中に滑り込ませる。先生が最後になだれ込むのと同時に、追撃の手を振り払うみたいに物理キーをガチャリと回した。


 ――バタン。


 扉の向こうの喧騒が、急に遠くなる。先生は今日何度目かわからない深いため息をついた。


「……早智」


「はい」


「今日、研究室閉鎖。看板出してきて」


「了解です」


 先生はブラインドを乱暴に下ろし、外界の光を遮断した。静まり返った部屋で、端末から短く、聞き慣れない通知音が鳴った。


 先生が画面を一瞥する。


 そして――ふっと笑った。


 獲物を見つけた猫みたいな、不敵な笑み。


「……よし。ようやく捕まった」


 先生は椅子を蹴るように立ち上がり、放り出していた上着を掴んだ。


「行くわよ、姫乃。こんなところに居座ってたら、ストレスで死ぬでしょ」


「え、行くって……どこにですか?」


 私が問い返すと、先生は迷いなく言い切った。


「決まってるでしょ。資金調達よ。このバカ騒ぎのおかげで、ようやく最高のパトロンから返信が来たわ」


 混乱は――私たちにとって、むしろ追い風だった。

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