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第10話 折る④

 あの騒動から一夜明けた月曜日の午後、研究室の扉が勢いよく開け放たれた。


「先生――私、事務所、辞めてきました!」


 車椅子を止める間もなく放たれたその言葉に、私の指先が止まる。


 キーボードの上で宙に浮いたまま、私は顔を上げた。


「……は?」


 姫乃は車椅子を止めることなく、私のデスクへ向かって突進してくる。その顔には、いつもの営業用の笑顔ではなく、何か吹っ切れたような――晴れやかな笑みが浮かんでいた。


「楽曲の権利関係もややこしそうだったので、ぜぇんぶ手放してきました。これまでの私の曲は、もう私のものじゃありません。ま、別に新しい曲つくればいいですしね」


 あまりに淡々とした報告。私は数秒の沈黙の後、こめかみを押さえて深いため息をついた。


「……あんたね」


「ほら、退所の手続きをして、契約終了の合意書にもサインしてきました。……あっけないですよね」


 私は椅子を回転させ、彼女と正面から向き合った。


「こっちはこれから所属事務所と法務的な詰めの打合せをするつもりだったのよ?楽曲の権利を手放すなんて、今後の戦略にどれだけ影響が出るか――」


「これは私の覚悟です」


 姫乃が、私の言葉を遮った。


 彼女は車椅子を私のデスクの前まで進め、真っ直ぐに私を射貫いた。その瞳には、迷いがない。


「これから先生にお世話になるのに、過去の駒路姫乃は必要ないと思ったので」


 私は何も言えなかった。彼女の目は、本気だった。


「……それに、先生」


 姫乃が、声のトーンを落とした。


「ひとつだけ、ずっと聞きたかったことがあります」


 静寂が、部屋を満たす。サーバーラックの低いファン音だけが、二人の間に横たわっていた。


「どうして、私だったんですか」


 姫乃は、まっすぐに私を見つめている。


「歌の上手い人なら他にもいたはずです。もっと有名な人、もっと使いやすい人。でも、先生はあの日、私を選んだ。……理由を教えてください」


 私は、キーボードから手を離し、背もたれに深く体を預けた。天井を見上げると古い蛍光灯が、微かに震えている。


 ――理由、か。


 私は、ゆっくりと息を吐いた。


「……一度だけ、姫乃のライブ映像を見たことがあった」


 私は視線を彼女に戻した。


「早智が見せてきた君の、『車椅子の歌姫』を象徴するような映像。まあ、正直なところ、私は音楽なんてわからないから、どれだけ上手いのかもわからなかった」


 姫乃が、僅かに眉を寄せる。


「でも」


 私は続けた。


「あの中で一箇所だけ、どうしても理解できないシーンがあったんだ」


 私は、姫乃の目を見据えた。


「君が車椅子から転げ落ちて、それでも歌い続けていたシーン。世間はそれを『悲劇』だの『不屈の精神』だのと呼んで感動を煽ってたけど――」


 私は、少しだけ声を強めた。


「私にはどうしてもそうは見えなかった。でも、姫乃と話してみて分かった……あの瞬間、君は、自分の脚で無理やり立ち上がろうとしたんじゃない?今の境遇を壊そうとして」


 姫乃の目が、大きく見開かれた。彼女は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 静かな、だが確信に満ちた声だった。


「やっぱりそうか」


 私は、小さく笑った。


「そうだろうと思った。だって、君は憐れまれるのを待っているような柄じゃない。自分の手で行くべき道をこじ開けようとして、足掻いている人間だ」


 私は立ち上がり、窓際へと歩いた。


 外では、スマートグラスをかけた学生たちが、レンズ越しに世界を眺めながら歩いている。


「だから……姫乃と会って、私も負けてられないと思った」


 私は窓に映る自分の顔を見た。


「こんなところで燻っているなんてゴメンだってね」


 私は振り返り、姫乃を見た。


「君を巻き込む形でこのプログラムを組んだのは、それが理由。私の止まった時計を動かすために、君のその『歌』が必要だった」


 私は、少しだけ笑った。


「……それだけのこと」


 姫乃は、しばらく黙っていた。


 そして――笑った。


 いつもの営業用の笑顔ではない。本当に、心の底から嬉しそうな、少女らしい笑みだった。


「――わかりました」


 姫乃は、車椅子を私の方へ向けた。


「それなら、私も全力で先生のお手伝いします。過去の『車椅子の歌姫』じゃなくて、今の私の歌で」


 その言葉に、私は初めて、この計画が成功するかもしれないと思った――と、良い話風には終われない。


「――でも、問題は山積みだから!」


 私は窓際からデスクへと戻り、わざとらしく両手を広げてみせた。


「姫乃と契約したはいいけど、肝心の運転資金がまるっきり足りない!本当はね、あんたの事務所と上手いこと提携して、宣伝費からライブの機材費まで全部あっちに持たせながら、こっちは研究開発を進めるっていう完璧な計画を立ててたのよ。それなのに――」


 私は、何もかも捨ててきたという姫乃の空っぽな手のひらを指差した。


「あんたが全部手放してきちゃったせいで、うちは今、無一文の独立組織。パトロン探しも機材の手配も、全部ゼロからやらなきゃいけない。私の計画をここまで鮮やかにぶち壊してくれたんだから、姫乃にも協力してもらうからね?」


 呆れ顔で吐き捨てると、姫乃は「あはは、すみません」と、ちっとも申し訳なさそうじゃない声を上げた。


「でも、先生ならなんとかしちゃうんでしょ?」


「……本当、いい性格してるわ」


 呆れながらも、私の頭は既に次の一手を組み立てていた。プランAが潰れたなら、プランBで行くまでだ。

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