第97話 好きだと分かってからのほうが困ります
好きだと言って、好きだと言われた。だからといって何かが大きく変わるわけではないと、少なくとも日和はそう思っていた。
「日和さん、こんばんは」
「……こんばんは」
店の扉を開けて入ってきたのは、栗色の髪に淡い緑の瞳をしたエリオだった。最近よく来る、以前もそれなりに顔を出していたはずなのに、互いの気持ちを知ってからというもの明らかに頻度が増えた。
「今日は何にします?」
「日和さんが――」
「お任せは禁止です」
先回りすると、エリオが口を閉じる。
「では、肉が入った温かいものを」
「……ちょっと進歩しましたね」
「褒めてもらえますか?」
「注文できただけですよ」
そう言いながら厨房へ戻ると視線を感じた。振り返れば案の定こちらを見ている。
「何ですか」
「見ているだけです」
「料理を見てください」
「作っている人を見てはいけませんか?」
最近、こういうことも増えた。
「……前からそんなこと言う人でしたっけ」
「言わなかっただけです」
「どうして急に言うようになったんですか」
「日和さんが、俺を好きだと分かったので」
「俺になってます」
「今は他に客がいません」
「そういう問題じゃないです」
エリオは少し笑った。好きだと言われる前は責任だの安全だのと理由をつけていたくせに、今では隠す気がないらしい。
「私、その先は待ってくださいって言いましたよね」
「ああ」
「覚えてます?」
「もちろんだ」
「なら、もう少しこう……遠慮するとか」
「距離を取ったほうがいいか?」
聞かれて日和は言葉に詰まった。
「……そこまでは言ってません」
エリオの口元が緩む。しまった。
「俺は待つと言った」
「はい」
「だが、お前を好きではないふりをするとは言っていない」
「……ずるくないですか、それ」
「そうか?」
絶対に分かっている。日和はそれ以上相手にせず、出来上がった料理をカウンターへ置いた。
食事を終えたエリオは今日も「うまかった」と素直に言った。その一言に慣れてきている自分も、少し悔しい。
閉店後、店を出るとエリオも当然のようについてきた。
「送る」
「家、隣ですよ」
「ああ」
「一緒に帰るだけでは?」
「俺が送りたい」
「……最近、本当に開き直ってません?」
「何がだ」
「そういうところです」
夜道を並んで歩く。ほんの数分の距離なのに、エリオは日和の歩幅に合わせてゆっくり歩いていた。
やがて家の前へ着く。
「ありがとうございました」
「ああ。おやすみ」
エリオが隣の家へ向かおうとする。その背中を見て、日和はなぜか少しだけ物足りなくなった。
明日も会える、きっとまた店にも来る。それなのに。
「あの、エリオさん」
呼び止めると、エリオが振り返った。
「どうした?」
「……よかったら、お茶でも飲んでいきます?」
言ってから、何を言っているのだろうと思った。店でも散々話したし家は隣、しかも明日も会うのだから、わざわざ引き止める理由なんてない。
「いや、別に深い意味はなくて。まだそんなに遅くないですし、お茶くらいなら――」
言い訳を重ねている途中で、エリオがこちらへ戻ってきた。
「エリオさん?」
淡い光がその身体を包む。栗色だった髪が灰色へ変わり、淡い緑の瞳が見慣れた青灰色へ戻っていく。柔らかかった顔立ちも、日和がよく知る鋭いものへと変わった。
「……なんで戻るんですか」
答えはない。代わりにエリアスが一歩近づき、日和が反射的に後ろへ下がると背中が扉に触れた。
さらに距離を詰めたエリアスの手が、日和の顔の横につく。
近い。ものすごく近い。
「エ、エリアス様?」
見上げると、青灰色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。さっきまでの余裕のある顔とは少し違う。
「日和」
「……はい」
「それ以上、俺を誘うな」
「誘うって、お茶ですよ?」
「分かっている」
「じゃあ――」
「分かっていて困っている」
日和は黙った。近すぎるせいで呼吸の仕方まで分からなくなる。
エリアスの視線が一瞬だけ日和の唇へ落ち、それからまた目へ戻った。
「……待ての状態を、やめていいなら入る」
意味を理解するまで少し時間がかかり、理解した瞬間、顔が一気に熱くなった。
「な……」
「どうする?」
「どうするじゃないです!」
「お前が誘った」
「お茶にです!」
「だから困っていると言っている」
エリアスは真顔だった。冗談ではないらしい。
近い、顔がいい、好きな人である。そしてこの人も自分を好きだと言った。
これはよくない。非常によくない。
「……今日は帰ってください」
「分かった」
即答だった。エリアスはあっさり腕を下ろし、日和から離れる。その素直さに、なぜか少しだけ腹が立った。
「そんなすぐ帰るんですか」
言った瞬間、しまったと思った。
エリアスが足を止め、ゆっくり振り返る。
「日和」
「……はい」
「俺を試しているのか?」
「違います」
「なら、今夜はもう何も言うな」
「……はい」
今度こそエリアスが隣の家へ向かっていく。その背中が扉の向こうへ消えるまで見送ってから、日和は自宅へ逃げ込んだ。
扉を閉め、そのまま背中を預ける。心臓がうるさい。
「……あれで待ってる状態なの?」
好きだと言って、好きだと言われた。その先はまだ待ってほしいと頼んで、確かにエリアスは待ってくれている。
待ってくれてはいるのだけれど。
日和は熱い頬を両手で押さえた。
「……思ってたのと違う」
明日、どんな顔で会えばいいのだろう。




