第95話 姉は仕事に行ったまま帰りませんでした【湊Side】
姉がいなくなった日のことを、湊は何度も思い返した。
何か変わったことはなかったか。いつもと違うことを言っていなかったか、変な顔をしていなかったか。
けれど、どれだけ考えても思い出せない。
あの日も、いつもと同じ朝だった。
「姉ちゃん、今日遅い?」
出かける準備をしていた日和に、何気なく聞いた。
「たぶん。先に食べてて」
「了解」
顔色が悪いかもしれない。
けれどいつもの様子が変わらない姉に、気のせいだと納得してしまった。
日和はいつものように仕事へ向かい、湊も自分の予定をこなした。
いつもと違ったのは、日和が夜になっても帰ってこなかったことだ。
最初は残業かと思った。連絡を入れても返事がなく、電話をかけても出ない。それでも日和は大人だし、何か急な用事でもできたのだろうと自分に言い聞かせた。
けれど、日付が変わっても帰ってこなかった。
翌朝になっても連絡はない。
職場に確認し、警察にも相談した。思いつく限りの場所を探し、知人にも連絡した。
それでも日和は見つからなかった。
仕事へ行くと言って家を出た。
そして、そのまま消えた。
「……どこにいるんだよ」
何度そう呟いたか分からない。
絶対何かがあったはずなのだ。
けれど、自分は気づかなかった。
いや、気づけなかったんだ。
日和は昔からそういう人だった。自分のことは後回しにして、湊が困っていれば先にそちらを気にする。
姉ちゃんは大丈夫。
いつからか、勝手にそう思っていた。
だからあの朝も、何も聞かなかった。
何も気づかなかった。
それからも、日和が帰ってくることはなかった。
どこへ行ったのか。
どうして帰ってこないのか。
生きているのかさえ、分からなかった。
その答えを探し続けていた湊が、突然光に包まれたのは、何でもない日のことだった。
「――っ!」
足元が消えたような感覚に、咄嗟に目を閉じる。
耳鳴りがした。
身体が引っ張られ、次に足の裏へ硬い感触が戻ったときには、空気そのものが変わっていた。
「……は?」
目を開ける。
知らない場所だった。
広い石造りの部屋。床には見たこともない複雑な模様が光を残し、その周囲を何人もの人間が取り囲んでいる。
服装も、建物も、何もかもがおかしい。
湊は反射的に周囲を見回した。
「どこだよ、ここ」
誰もすぐには答えなかった。
代わりに、正面に立っていた年配の男がゆっくりと歩み出る。
「突然のことで、さぞ驚かれたことでしょう」
「そりゃ驚くだろ。何したんですか、あんたたち」
声が強くなる。
男は動じなかった。
「私はセドリックと申します。この国で宰相を務めております」
「そんなこと聞いてない。ここはどこですか。俺をどうやって連れてきたんですか」
「ここは、あなたがいた世界とは異なる場所です」
湊は眉を寄せた。
「……は?」
「我々は召喚術によって、あなたをこの世界へお招きしました」
意味が分からない。
異世界。召喚。
そんなものを素直に信じられるはずがない。
「帰してください」
「それについても、順を追ってご説明します」
「順番とかどうでもいいです。勝手に連れてきたんでしょう?」
湊が一歩踏み出すと、周囲にいた者たちがわずかに身構えた。
それをセドリックが片手で制する。
「あなたがお怒りになるのは当然です」
「だったら――」
「ですが、その前にお伝えしなければならないことがあります」
「何ですか」
セドリックは湊をまっすぐ見た。
「あなたには、お姉様がいらっしゃいますね」
息が止まった。
「……何で」
ここへ来てから初めて、湊の表情から怒りが消えた。
「なんで、姉のこと知ってるんですか」
「穂積日和様」
名前まで知っている。
湊はセドリックへ詰め寄った。
「姉を知ってるんですか?」
「はい」
「どこにいるんですか」
返事を待つ時間さえ惜しい。
「姉はどこですか。生きてるんですか?」
「ご安心ください」
セドリックの声は穏やかだった。
「お姉様は生きておられます」
その一言で、身体から力が抜けそうになった。
生きている。
ずっと、それすら分からなかった。
「……どこに」
掠れた声で聞く。
セドリックは静かに答えた。
「あなたのお姉様は、この世界にいらっしゃいます」
湊は何も言えなかった。
探し続けても見つからなかった姉がいる。
この、知らない世界に。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。




