第94話 普通に来るのは難しいようです
あの夜から数日が経った。
好きだと言われて、好きだと返したからといって、何かが大きく変わったわけではない。日和は朝になれば市場へ行き、仕込みをして、日が傾けば暖簾を出す。
ただ、店の扉が開くたび、ほんの少しだけ期待するようにはなった。
その日の夜も、日和はカウンターの中で空いた器を片づけていた。
「こんばんは」
聞き慣れた声に顔を上げる。
栗色の髪に淡い緑の瞳、柔らかな印象の顔立ちをした男が、いつものように立っていた。
「……エリオさん?」
「はい」
日和はしばらくその顔を見つめた。
「なんでエリオさんなんですか?」
「……そこですか」
「そこですよ」
もう正体は知っているし、本人から理由も聞いた。数日前にはエリアス本人がこの店のカウンターに座り、魚の煮付けまで食べている。
それなのに、なぜまた栗色の髪に戻っているのか。
「もう私には隠す必要ないですよね?」
「お前にはな」
「じゃあ、なんで」
「止められた」
「誰に?」
「オスカーに」
妙に納得できる名前が出てきた。
エリアスはいつもの席へ腰を下ろし、小さく息を吐く。
「今日はこの姿で来るつもりではなかった」
「エリアス様のままで?」
「ああ」
「普通に?」
「ああ」
日和は想像してみる。
灰色の髪に鋭い顔立ちの侯爵が、営業中の宵日和へ普通に入ってくる。
「……目立ちますね」
「オスカーにも同じことを言われた」
屋敷を出るところで見つかり、行き先を聞かれて宵日和だと答えたらしい。
侯爵本人が何度も小さな料理屋へ通えば、嫌でも人目につく。日和の店に余計な噂が立つ可能性もあると言われ、結局エリオの姿で来ることになったという。
「事情は分かりましたけど……変な感じですね」
「何がだ?」
「エリアス様だって知ってるのに、見た目はエリオさんなので」
「そのうち慣れる」
「私が慣れるんですか?」
「他に方法がないだろう」
そう言ったところで、少し離れた席から低い笑い声が聞こえた。
ガルドだった。
日和とエリアスがそちらを見る。
ガルドは酒の入った杯を手に、明らかに面白がっていた。
「……何ですか」
「いや、別に?」
「絶対面白がってますよね」
「気のせいだろ」
「顔が笑ってます」
向かいに座っていたミレイユが、不思議そうに2人を見比べる。
「さっきから何の話?」
「いろいろありまして」
日和が曖昧に答えると、ガルドがまた笑った。
「いろいろ、ねえ」
「ガルドさん」
「なんだよ」
「楽しそうですね」
「まあな」
そのとき、隣から穏やかな声がした。
「僕はあまり楽しくないんですけどね」
日和は思わずエリオを見る。
さっきまでの低くぶっきらぼうな話し方とは違う。声も表情も少し柔らかくなっていた。
エリオの話し方だ。
「……戻るんですね」
小声で言うと、エリオがちらりと日和を見る。
「何のことです?」
「いえ、何でもないです」
分かっていて聞いている。
日和は少しだけむっとした。
「何よ。日和まで何か隠してるの?」
ミレイユがますます怪訝そうな顔をする。
「隠してるというか……私からはちょっと」
「何それ。余計気になるじゃない」
「まあまあ。気にしなくていいですよ」
エリオがにこやかに言う。
その笑顔を見て、日和はなんとも言えない気分になった。
今までなら、エリオはよく笑う人だと思っていた。
けれど中身がエリアスだと知ってしまった今では、目の前で器用にエリオへ戻られると妙に面白い。
「……エリオさんって、結構器用ですよね」
「そうですか?」
「そういうところです」
「よく分かりませんね」
絶対に分かっている。
ガルドが堪えきれずに吹き出した。
「お前ら、面白えな」
「ガルドさんまで何なのよ」
「何でもねえよ」
事情を知らないミレイユだけが納得できない顔をしている。
日和はこれ以上話すと本当に何か漏れそうなので、話題を変えることにした。
「それで、今日は何を食べます?」
「そうですね。日和さんにお任せします」
「駄目です」
「……駄目なんですか?」
「この前、宿題を出しましたよね」
エリオの笑顔がわずかに固まる。
「『何でもいい』も『任せる』も禁止です。ちゃんと自分で食べたいものを考えてきてくださいって」
「ああ……そうでしたね」
「忘れてました?」
「いえ」
「今、思い出しましたよね?」
「そんなことはありませんよ」
柔らかな笑顔のまま否定しているが、怪しい。
ガルドがまた笑った。
「ずいぶん言われるようになったな」
「……そうですね」
エリオは笑っている。
けれど日和には、今の返事だけ少しエリアスが混じったように聞こえた。
見た目も話し方も変わるのに、同じ人。
以前なら別々に見えていた2人が、少しずつ1人に重なっていく。
「じゃあ、考えてる間にこれでもどうぞ」
日和は小鉢を1つ、エリオの前へ置いた。
「ありがとうございます」
「それ食べ終わるまでに決めてくださいね」
「期限が短くないですか?」
「宿題を忘れた人が悪いです」
「忘れてはいませんよ」
「じゃあ問題ないですね」
ガルドがまた笑い、ミレイユはとうとう考えるのを諦めたように酒へ手を伸ばした。
少しだけ変わった、いつもの宵日和。
日和はそんな夜を、悪くないと思った。
*
王都の魔法研究院。
「――召喚術式が始まりました」
ノアは椅子を蹴るように立ち上がった。
「は?」
今日だなんて聞いていない。
「待って、止めろ!」
廊下へ飛び出し、階段を駆け下りる。
その途中で床が震えた。
「まだ――!」
廊下の先から眩い光があふれる。
ノアは走った。
けれど、光が消えるほうが早かった。
閉ざされた扉の前で足を止める。
「……間に合わなかった」




