第93話 8皿目 魚の煮付け
「お待たせしました」
日和はカウンターに魚の煮付けを置き、その隣に青菜のおひたしを添えた。煮汁をまとった白身にはつやがあり、青菜の鮮やかな色がよく映えている。
エリアスはしばらく皿を眺めてから、日和を見た。
「魚か」
「はい。海の町で見たものに似た魚が、今日ちょうど市場にあったので」
「それでこれを?」
「それだけじゃないですけど」
日和は少し迷って、おひたしの器を整えるふりをしながら続けた。
「海に行ったときのことを思い出したので、エリアス様にも食べてほしいなって」
エリアスは何も言わなかった。ただ、その表情がほんの少しだけ柔らかくなった気がして、日和は落ち着かなくなる。
「……食べてください。冷めますよ」
「ああ」
エリアスが箸を入れると、柔らかく煮えた白身がほろりとほどけた。煮汁をまとった身を口へ運ぶのを、日和はついじっと見てしまう。
「どうですか?」
「うまい」
短い返事に、日和はほっと息を吐いた。
「よかった」
エリアスはもう一口食べ、今度はおひたしへ箸を伸ばす。
「こっちは薄いな」
「煮付けがしっかりした味なので、おひたしは薄めです。口の中を休ませる係ですね」
「そういうものか」
「そういうものです」
久しぶりに、ただ料理の話をしている気がした。
エリオのことを知ってから、何を話してもそのことが頭のどこかに引っかかっていた。それでもカウンターの向こうで料理を食べるエリアスを見ているうちに、少しずついつもの宵日和の空気が戻ってくる。
「……宿題の答えとしては、どうですか?」
日和が尋ねると、エリアスは箸を止めた。
「答えを出したのは俺だろう」
「そうですけど。私が食べさせたいものを作ったので、それでよかったのかなって」
「なら、正解だ。俺が望んだものだからな」
「簡単ですね」
そう言いながらも、日和は少し嬉しかった。
エリアスがまた魚を口へ運ぶ。その皿が少しずつ空になっていくのを眺めていると、海の町で過ごした数日が自然と思い出された。
青い海と潮の匂い、市場を歩いたこと。海辺で昔のことを話して、花の咲く丘ではまた来たいと思った。
あの場所へ行かなければ、自分の気持ちにもまだ気づいていなかったかもしれない。
「日和」
「はい?」
「なぜ、この料理にした?」
日和は少し考えてから答えた。
「……海に行って、よかったと思ったからです」
エリアスが顔を上げる。
「倒れたりもしたし、思い出したくないことまで少し思い出しましたけど、それでも行かなければよかったとは思ってません。だからエリアス様にも、あのときのことを思い出してほしかったのかもしれません」
「そうか」
エリアスはそれ以上聞かなかった。
やがて煮付けもおひたしもきれいになくなり、箸が置かれる。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
日和が空いた器を下げようと手を伸ばしたときだった。
「日和」
「はい」
「まだ、話がある」
手が止まった。
エリオのことだろうか。まだ説明されていないことがあるのかと思って顔を上げると、エリアスはまっすぐ日和を見ていた。
「海で、俺はもう誤魔化さないと言った」
「……はい」
覚えている。責任という言葉で取り繕わず、自分の気持ちを都合のいい理由に置き換えないと、あの人は言った。
「エリオのことを黙っていた俺が言っても、信用できないかもしれない。それでも、今度は言わずに済ませたくない」
胸の奥が騒ぎ始める。
何を言われるのか、分かってしまった気がした。
逃げるように視線を逸らすこともできたのに、日和はそうしなかった。
エリアスの青みがかった灰色の瞳を見る。
「俺は、お前が好きだ」
その言葉が落ちた瞬間、店の中がひどく静かになった気がした。
分かっていたはずなのに、本人の口から聞くのはまったく違う。胸がうるさいほど鳴って、それなのに不思議と答えには迷わなかった。
「……私も」
声が少し震えた。
一度息を吸って、今度はきちんとエリアスを見る。
「私も、エリアス様が好きです」
今度はエリアスが固まった。
ほんの少し目を見開いたまま何も言わないので、日和のほうが不安になる。
「……エリアス様?」
「いや。少し、予想していなかった」
「告白しておいてですか?」
「ああ」
真顔で返されて、思わず笑ってしまった。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
好きだという気持ちは、もう迷わない。でも、その先のことを考えようとすると、胸の奥に別の感情が広がってくる。
「でも……好きだからって、今すぐどうにかなりたいわけじゃないんです」
自分でもうまく説明できない言葉だった。
「エリアス様と一緒にいると嬉しいし、会えないと寂しいし、他の人と結婚するかもしれないって聞いたときは嫌でした」
そこまで言って、日和は止まる。
「……これはもう知ってましたね」
「ああ」
「忘れてください」
「無理だ」
「ですよね」
あまりにも迷いなく返され、少しだけ肩の力が抜けた。
それでも、胸の奥にある不安までは消えない。
この先のことを考えた途端、頭の奥に冷たい風が吹いた。
暗い空と、遠く下に見えるいくつもの明かり。何度も浮かぶのに、その前後だけが抜け落ちたままの記憶だった。
日和は無意識に自分の手を握る。
「私、まだ自分のことがよく分からないんです。元の世界のこともちゃんと思い出せてないし、帰れるかもしれないって分かっても、帰りたいのか帰りたくないのかも……まだ分からなくて」
好きだという気持ちは分かる。
でも、その気持ちだけで未来まで決めてしまうのは怖かった。
「だから、好きですけど……その先は、まだ待ってほしいです」
エリアスはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「分かった」
「……いいんですか?」
「ああ」
「好きって言ったのに、何も変わらないですよ?」
「何も変わらないわけではない」
日和が顔を上げると、エリアスはわずかに表情を緩めた。
「お前が俺を好きだと分かった」
「……そうですけど」
「俺には十分だ」
また胸が落ち着かなくなる。
日和が何も返せずにいると、エリアスは少しだけ間を置いた。
「それに、俺が言ったことも変わらない。俺は、お前を帰したくない」
海の町で聞いた言葉だった。
けれど今度は、その意味が前とは少し違って聞こえる。
「だが、選ぶのはお前だ」
帰るのか、残るのか。その先で、この人とどうなりたいのか。
まだ何も決められない。
明日のことを考えようとすると、今でも少し怖い。
それでも、今なら1つだけ言える気がした。
「……また、食べに来てください」
エリアスがわずかに目を見開く。
「その先はまだ分かりませんけど、ご飯まで来ないでとは言ってませんから」
少しの沈黙のあと、エリアスの表情がゆっくりと緩んだ。
「ああ」
「次はちゃんと、自分で食べたいものを考えてきてくださいね」
「また宿題か?」
「今度こそ、『私が食べさせたいもの』は禁止です」
「分かった」
日和も少し笑った。
元の世界のことも、自分自身のことも、答えの出ていないものばかりだ。
それでも、またこの店に来てほしい。また料理を食べてほしい。
そんな小さな先のことなら、今はちゃんと望める。
「じゃあ、また」
「ああ。また来る」
その約束だけは、不思議と怖くなかった。
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