第92話 ちゃんと説明してもらいます
日和は平たい魚をまな板に置いた。
今日の市場で見つけた、海の町で見かけたものによく似た魚だ。白い腹に包丁を入れて下処理を済ませ、身が崩れないよう浅く切れ目を入れる。
鍋には水と酒、少しの甘味。それからルカに仕入れてもらっている南方の調味料を控えめに加えた。
火にかけると、魚の香りを含んだ湯気がゆっくり立ち始める。
「……エリアス様」
「ああ」
「どうして、エリオさんになったんですか?」
日和は煮汁を魚へ回しかけながら聞いた。
「最初は、お前の様子を見るためだった。店を始めたばかりで、何か起きていないか気になっていた」
「侯爵の姿じゃ目立つから?」
「ああ」
そこまでは分かる。
問題は、その先だ。
「隣の家まで借りたのも、そのためですか?」
少し間があった。
日和は落とし蓋をして火を弱める。
「当時は、何かあればすぐ動けるようにするためだと思っていた」
「当時は?」
「今なら、理由をつけてお前の近くにいたかっただけだと分かる」
危うく鍋を覗き込んでいた顔を上げそうになった。
「……そういうの、急に言わないでもらえます?」
「聞かれたから答えた」
「そうですけど」
日和は誤魔化すように隣の鍋へ湯を沸かし、青菜を入れた。火が通りすぎないうちに引き上げ、冷ましてから水気を絞る。
包丁で食べやすい長さに切りながら、もう1つ気になっていたことを口にした。
「私がエリオさんに話したことも、全部聞いてたんですよね」
「……ああ」
「縁談の話まで」
「覚えている」
「忘れてください」
「それはできない」
「してくださいよ」
「無理だ」
即答されて、日和は思わず振り返った。
「本人じゃないと思ってたから話したんですよ?」
「分かっている。だから、すまなかった」
エリアスの表情は真剣だった。
「お前が俺だと知らないことを利用した。正体を明かさないまま、お前と会い続けたのは俺だ。言い訳はしない」
怒っている。
たぶん、まだ。
けれど真正面から謝られると、どこへ怒りを向ければいいのか分からなくなる。
日和は青菜を器に盛り、薄く味を含ませた。
「……エリオさんと話してた時間も、嘘だったんですか?」
これが一番聞きたかった。
返事はすぐだった。
「違う」
日和は手を止める。
「姿と名前は偽った。話し方も少し変えていた。だが、お前と話していたことまで偽ったつもりはない」
「……どこまでがエリオさんだったんですか?」
「分けていない」
エリアスは静かに続けた。
「お前の店へ行きたかったのも、お前と話したかったのも、俺だ」
胸の奥が大きく鳴った。
怒っている相手にそんなことを言うのは、ずるいと思う。
「……もっと早く言ってほしかったです」
「ああ」
「私が気づく前に」
「そのつもりだった」
「本当に?」
「ああ」
疑わしくて目を細めると、エリアスがわずかに眉を寄せた。
「信用がないな」
「誰のせいですか」
言い返してから、日和はふと黙った。
似たようなやり取りを、エリオともしたことがある。
あの人と、この人は同じだった。
まだ不思議な感覚は消えない。それでも先ほどより少しだけ、胸につかえていたものが軽くなった気がした。
鍋から甘辛い香りが漂ってくる。
落とし蓋を外すと、煮汁はほどよく減り、魚の表面につやが出ていた。日和は身を崩さないよう器へ移し、上から煮汁をひとすくい。
隣には青菜のおひたしを添える。
海の町で過ごした時間を思い出して選んだ料理。
今の自分が、エリアスに食べてほしいもの。
「……できました」
日和は2つの器を手に、カウンターへ向かった。




