第91話 宿題の答えを持ってきたそうです
エリアスの正体を知ってから、数日が過ぎた。
その間、隣家の扉が開くことはなかった。
日和も訪ねなかった。
ガルドと話して、聞きたいことは本人に聞くしかないと分かっている。それでも、いざ隣の家を目にすると足はそちらへ向かなかった。
何から聞けばいいのか、まだ決められずにいた。
そんなある日の夜、最後の客を見送った日和は暖簾を外そうとしていた。
今日も無事に終わった。
あとは片づけて、明日の仕込みを少しして帰ろう。そう考えながら外へ出たところで、人影に気づいた。
「……あ」
灰色の髪。
見慣れた濃紺の服。
数日前、エリオの家で見た顔がそこにあった。
エリアスだった。
「……こんばんは」
「……ああ」
それきり、会話が止まった。
日和は暖簾を持ったまま立ち尽くし、エリアスも何も言わない。
気まずい。
ものすごく気まずい。
以前ならエリアスが黙っていても、こういう人なのだと思えた。けれど今は、エリオとして普通に話していたことを知っている。
つまり、この人は喋れる。
そう思うと余計に腹が立つ。
「……何か?」
結局、先に口を開いたのは日和だった。
エリアスは少しだけ間を置いた。
「宿題の答えを出しに来た」
「……宿題?」
一瞬、本気で何のことか分からなかった。
けれどすぐに、海の町を発つ朝のことを思い出す。
――何を作ってほしいか、だったな。
――そうです。ちゃんと考えておいてくださいって言ったじゃないですか。
日和は手にしている暖簾を見る。
それからエリアスを見る。
「……本当に来たんですね」
「ああ。行くと言った」
確かに言っていた。
戻ったら、宵日和へ客として行くと。
いろいろありすぎて、それどころではなくなったと思っていた。
「もう閉めるところですけど」
「分かっている」
「……じゃあ、どうぞ」
日和は外しかけていた暖簾を抱え、身体をずらした。
エリアスが店へ入る。
考えてみれば、エリアスがここへ来たこと自体はある。けれど、客としてカウンターに座るのは初めてだった。
エリアスが腰を下ろし、日和はカウンターの向こう側に立つ。
沈黙。
やっぱり気まずい。
「……体調は?」
気づけば、最初に出たのはそれだった。
エリアスがわずかに目を見開く。
「もう問題ない」
「熱は?」
「下がった」
「本当に?」
「ああ」
「無理して来てないですよね」
「していない」
日和はじっと顔色を見る。
あの夜ほど悪くはない。少なくとも、今にも倒れそうには見えなかった。
「……なら、いいです」
息を吐くと、エリアスの表情がわずかに緩んだ。
「何ですか」
「いや」
「今、笑いました?」
「少しな」
「なんでですか」
「お前は変わらないと思っただけだ」
その言葉に、日和は眉を寄せる。
「変わりますよ」
「ああ」
「聞きたいこと、いっぱいありますからね」
「分かっている」
エリアスの表情から笑みが消えた。
「全部話す」
真っ直ぐ言われ、日和は返事に詰まった。
聞かなければならない。
どうしてエリオになったのか。どうして隣に住んでいたのか、どうして自分に黙っていたのか。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
日和はカウンターに座るエリアスを見た。
数日前まで熱を出して寝込んでいた人である。
「……その前に、ご飯にしません?」
「いいのか?」
「よくはないです」
「そうか」
「でも、今日は客として来たんでしょう?」
「ああ」
「だったら、先に食べてもらいます。そのあとです」
エリアスはしばらく日和を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった」
「じゃあ、宿題の答えを聞きます」
ようやく本題だ。
「ちゃんと考えてきました?」
「ああ」
「『何でもいい』は禁止ですよ」
「覚えている」
「じゃあ、何が食べたいですか?」
エリアスはすぐには答えなかった。
考えていないのかと思ったが、そうではないらしい。
やがて口を開く。
「お前が食べさせたいもの」
「……はい?」
「日和が、今の俺に食べさせたいと思うものが食べたい」
日和は瞬きをした。
「それ、『何でもいい』とあんまり変わらなくないですか?」
「違う」
即答だった。
「何が違うんですか」
「俺が選ばないというだけで、何でもいいわけではない」
「……屁理屈じゃないですか?」
「そうかもしれない」
認めた。
日和は呆れてエリアスを見る。
けれど、エリアスは真面目な顔をしていた。
「前に、お前が肉じゃがを作ったとき」
不意に出た料理の名前に、日和は黙る。
「あれは、お前が食べたいと思ったものだっただろう」
「……はい」
母の夢を見て、どうしても食べたくなった料理。
そして、自分が食べたいだけではなく、エリアスにも食べてほしいと思った。
「あのとき、お前が俺にも食べてほしいと言った」
「覚えてたんですね」
「覚えている」
エリアスは少しだけ間を置いた。
「だから今度は、お前が俺に食べさせたいと思うものを食べたい」
胸の奥が、落ち着かなくなる。
ずるいと思う。
エリオだったことについては、まだ何も説明されていない。聞きたいことも、言いたいこともたくさんある。
それなのに、こんなことを言われると困る。
「……分かりました」
日和は考える。
エリアスに食べさせたいもの。
今、この人のために作りたいもの。
浮かんだのは、青い海だった。
海の町で見た市場。並んで歩いた道。潮の匂いと、丘いっぱいに咲いていた花。
あの数日がなければ、自分の気持ちにはまだ気づいていなかったかもしれない。
そして、エリアスも今ここにはいなかったかもしれない。
「決まりました」
「何を作る?」
日和は少しだけ笑った。
「それは、できてからのお楽しみです」
エリアスがわずかに眉を上げる。
「教えないのか」
「私に任せたんでしょう?」
「……そうだな」
「じゃあ、待っててください」
日和は袖をまくり、厨房へ向かった。
今夜作るものは、魚の煮付けにしよう。
海の町で見た平たい魚によく似たものを、今日の市場で偶然見つけて仕入れてある。
それに、青菜のおひたしを添える。
海で過ごした時間を思い出しながら作る、今の自分がエリアスに食べてほしい料理。
宿題の答えを受け取ったのだから、今度は日和が答えを出す番だった。
次は11:00に更新しますφ(・ω・`)




