第90話 常連客は知っていたようです
翌日、日和はいつも通り宵日和を開けた。
市場へ行って食材を買い、仕込みをして、時間になれば暖簾を出す。身体はいつも通り動いているのに、頭の中だけがどうにも落ち着かない。
エリオがエリアスだった。
一晩経っても、その事実はまだうまく馴染まなかった。
思い返せば怪しいところはいくつもあったし、本人にエリアスの話を散々していたことを思い出すと今すぐどこかへ消えたくなる。
腹も立っている。
恥ずかしくもある。
それ以上に、何をどう受け止めればいいのか分からなかった。
だから考えるのをやめて、日和は目の前の火玉を刻んだ。
今日はいつもより随分細かくなった。
*
夜になり、店にはいつものように客が入り始めた。
料理を作っている間はまだいい。注文を聞き、鍋を見て、皿を出していれば余計なことを考えずに済む。
けれど、少し手が空くと隣家のことが気になった。
熱は下がっただろうか。
雑炊は食べただろうか。
あんなことがあったのに、結局心配している自分にも少し腹が立つ。
「おい」
「はい」
「酒」
「はい」
「……日和」
「はい」
「俺、まだ何も頼んでねえぞ」
日和は手にしていた酒瓶を見た。
顔を上げると、いつの間にかカウンターに座っていたガルドが怪訝そうにこちらを見ている。
「……飲みます?」
「飲むけどよ」
「じゃあ問題ないですね」
「あるだろ」
ガルドは眉を寄せた。
「なんだ。ぼーっとして」
「ちょっと考え事してただけです」
「ふうん」
納得していない顔をされたが、ガルドはそれ以上聞かず、出された酒を口にした。
しばらくして客足が落ち着いた頃、思い出したように口を開く。
「そういや、最近あいつ来たか?」
「誰ですか?」
「隣の兄ちゃんだよ。エリオだったか」
日和の手が止まった。
「……来ました」
「なんだ、その間」
「別に」
「何かあったのか?」
「何もないです」
「嘘つけ」
即答された。
日和は洗っていた皿へ視線を落とす。
「本当に、大したことじゃないです」
「大したことじゃない奴がそんな顔するかよ」
「どんな顔ですか」
「面倒くせえことになった顔」
随分具体的だった。
ガルドはしばらく日和を眺め、それから杯を置いた。
「……気づいたのか?」
日和の手が止まる。
ゆっくりと顔を上げた。
「……何にですか?」
「エリオだよ」
「……ガルドさん」
嫌な予感がした。
「もしかして、知ってたんですか?」
「ああ」
あまりにもあっさり返ってくる。
「エリオさんが、エリアス様だって?」
「ああ」
「……いつからですか?」
「最初から」
「最初から!?」
思わず声が大きくなり、近くの客がこちらを見る。日和は慌てて声を落とした。
「なんで分かったんですか? 見た目、全然違うのに」
ガルドが片方の眉を上げる。
「日和。あんた、獣人が鼻利くって知ってるか?」
聞き覚えのある言葉だった。
「……あ」
以前、ガルドとエリオが店にいたときの会話を思い出す。
見た目がどうだろうが、分かるものは分かる。
あのときは何の話なのか、まったく分からなかった。
「……あれ、このことだったんですか?」
「そうだよ」
「分かるわけないでしょう!」
「俺は分かった」
「ガルドさんじゃなくて私がです!」
ガルドは面倒そうに頭を掻いた。
「匂いだよ。見た目を変えたところで、俺には同じ奴にしか思えねえ」
「匂い……」
そんなところで見破られていたらしい。
「じゃあ、本当に最初から分かってたんですね」
「まあな」
「なんで教えてくれなかったんですか」
「なんで俺が言うんだよ」
「それは……そうですけど」
納得したくはないが、ガルドの言うことにも一理ある。
「ただ、勘違いすんなよ。俺が知ってたのは同じ奴だってことだけだ。なんで姿を変えてんのかも、なんで隣に住んでんのかも知らねえ」
「……そうなんですね」
「で、あんたはどうやって気づいた?」
日和は一瞬黙った。
「……目の前で魔法が解けました」
ガルドが瞬きをする。
「そりゃまた、派手にバレたな」
「笑い事じゃないですよ」
「笑ってねえよ」
少し笑っている。
日和が睨むと、ガルドは誤魔化すように酒を飲んだ。
「本人とは話したのか?」
「少しだけ。説明するって言われました。でも、私が帰ってきました」
「なんで」
「頭が追いつかなかったからです」
今も完全に追いついたとは言えない。
「騙されてたって怒ってんのか?」
「……分かりません」
「怒ってねえのか?」
「怒ってるとは思います。でも、それだけじゃないから困ってるんです」
エリオと話す時間は楽しかった。
隣人として話して、店で料理を食べてもらって、ときにはどうでもいい話もした。
それが全部エリアスだった。
日和は台に手をつき、小さく息を吐く。
「……私、エリオさんにエリアス様の話、いっぱいしてたんですよね」
「まあ、本人ならそうなるな」
「縁談の噂を聞いて嫌だったって話までしました」
「……本人に?」
「本人に」
ガルドが黙った。
その沈黙が余計につらい。
「何か言ってください」
「いや、何言えばいいんだよ」
「ですよね」
日和は両手で顔を覆った。
「……ちょっと帰りたくなってきました」
「ここ、あんたの店だろ」
「知ってます」
「じゃあ働け」
「働いてますよ」
ガルドは呆れたように息を吐いたあと、少しだけ真面目な顔になった。
「まあ、俺が知ってんのは匂いが同じだったってことだけだ」
空になった杯を置く。
「なんで隣にいたのかも、なんであんたに黙ってたのかも知らねえ。聞きたいなら本人に聞くしかねえだろ」
「……はい」
それは分かっている。
エリアスも説明すると言っていた。
次に会えば、今度は逃げずに聞かなければならない。
どうしてエリオになったのか。
どうして隣に住んでいたのか。
そして、エリオとして自分と過ごしていた時間は何だったのか。
「……ちゃんと聞きます」
「そうしろ」
ガルドはそれだけ言って、空の杯を日和の方へ押した。
「で、もう1杯」
「まだ飲むんですか」
「そのために来たんだよ」
「ミレイユさんに怒られますよ」
ガルドの手が止まった。
日和は少しだけ気分が晴れた。




