第89話 隣人の名前が違いました
「……エリアス、様?」
返事はなかった。
日和は床に落ちた濡れた布を拾うこともできず、ベッドに眠る男を見つめていた。
灰色の髪も、鋭い輪郭も、見間違えるはずがない。つい数日前まで海の町で一緒に過ごしていた人が、どうしてエリオのベッドで眠っているのだろう。
いや、違う。
目の前で見た。
栗色だった髪が灰色に変わり、顔立ちまで変わった。魔法のある世界なのだから、何が起きたのかは分かる。
分かるのに、理解が追いつかなかった。
「……どういうこと?」
呟いても、答える人はいない。
日和はもう一度その顔を見る。
エリアスだ。
何度見てもエリアスだった。
では、エリオは。
そこまで考えたところで、ベッドの上の男がわずかに身じろぎした。
「……ん」
日和の肩が跳ねる。
閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、青みがかった灰色の瞳が現れた。焦点の合わない目がしばらく宙をさまよい、やがて日和を捉える。
「……日和?」
その呼び方に、息が止まった。
エリオなら、日和さんと呼ぶ。
「……エリアス様」
名前を呼ぶと、ぼんやりしていたエリアスの目がわずかに見開かれた。
「なぜ、お前が……」
掠れた声で言いながら身体を起こそうとして、すぐに眉を寄せる。
「起きないでください。まだ熱ありますから」
反射的にそう言ってから、日和は自分でも何をしているのだろうと思った。
今はそれどころではない。
エリアスも同じことに気づいたらしい。
日和を見る。
自分のいる部屋を見る。
そして、額へ落ちかかっていた灰色の髪に触れた。
その手が止まった。
「……まさか」
エリアスの顔から眠気が消える。
日和は膝の上で手を握った。
聞かなければならない。
聞くのが怖い。
それでも、このまま何も聞かずにはいられなかった。
「エリオさん、なんですよね」
沈黙が落ちた。
否定してほしいのか、自分でも分からなかった。
何かの間違いだと言われれば、きっと安心する。
けれど、エリアスはもう誤魔化さないと言った。
海の町で、自分に正直でいると言った。
だからだろうか。
エリアスは目を逸らさなかった。
「……ああ」
たった一言だった。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
声が似ていると思った。
心配性なところも、言い方も似ていると思った。
王都へ行く前、エリオは日和が馬車の2日目には外を見なくなっていたことを知っていた。
どうして知っているのかと聞けば、以前聞いた気がすると言われた。
自分が忘れているだけだと思った。
海へ向かう馬車では、エリアスにエリオと似ていると言った。
心配性なところも、言い方も。
あのときエリアスは何と言った。
――偶然だろう。
「…………」
思い出せば思い出すほど、頭が痛くなってきた。
それだけではない。
エリオには、エリアスの話を何度もしている。
屋敷で世話になったことも。
エリアス様と呼ぶようになったことも。
縁談の噂を聞いて、嫌だったことまで。
知らない女性と結婚して、一緒に暮らして、食事をするのを想像したら嫌だったと。
全部。
本人に話していた。
「……ちょっと待ってください」
日和は両手で顔を覆った。
「日和」
「待ってください。今、いろいろ思い出してるので」
思い出したくないことまで次々に出てくる。
ルカのことも話した。
エリオの前で、エリアスのことで落ち込んだ。
あれもこれも、全部。
「……嘘でしょ」
「日和、俺の話を――」
「ごめんなさい」
日和は立ち上がった。
自分でも驚くほど勢いがついて、椅子が床を擦る。
エリアスも身体を起こそうとした。
「待て」
「起きないでください」
「だが」
「熱あるんですよ」
「今はそれより――」
「それよりじゃないです」
反射的に言い返してから、日和は唇を噛んだ。
こんな状況なのに、具合が悪そうな顔を見ると放っておけない自分が嫌になる。
エリアスは何かを言おうとしている。
聞かなければならないことがあるのも分かっていた。
どうしてエリオになったのか。
どうして隣に住んだのか。
いつからだったのか。
どうして何も言わなかったのか。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど、今は無理だった。
「……今日は帰ります」
「日和」
「今は、ちょっと無理です」
エリアスが黙る。
日和は床に落ちていた布を拾った。水で濡らしたばかりのそれをどうすればいいのか一瞬迷い、結局近くの台へ置く。
「説明する」
低い声が背中に届いた。
日和の足が止まる。
「分かってる」
自分でも驚くほど小さな声になった。
「分かってます。ちゃんと聞かなきゃいけないのも。でも今聞いたら、たぶん……ちゃんと聞けないから」
怒っているのかもしれない。
恥ずかしいのかもしれない。
騙されていたと思っているのかもしれない。
それすら、今はよく分からなかった。
ただ、エリアスの顔を見ていると頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「……雑炊」
「何?」
「そこに置いてあります。食べられそうだったら食べてください」
こんなときに何を言っているのだろう。
それでも、作ってきたのだから仕方がない。
「水も飲んでください。まだ熱あるので、今日はちゃんと寝て……無理しないでください」
「日和」
また名前を呼ばれる。
その声がエリオのものと重なって聞こえて、日和は振り返れなかった。
「……お大事に」
それだけ言って、日和は寝室を出た。
後ろからもう一度名前を呼ばれた気がしたけれど、今度は足を止めなかった。
家を出て、扉を閉める。
すぐ隣にある自分の家まで、ほんの少しの距離しかない。
なのに、ひどく遠く感じた。
自宅の扉を開けて中へ入り、背中で扉を閉める。
そこでようやく、日和は大きく息を吐いた。
「…………エリオさんが、エリアス様」
口に出してみる。
やっぱり意味が分からない。
「……どうしよう」
答えてくれる人はいなかった。
今日の更新はここまでです!
明日の7:00をお待ちくださいφ(..)




