第88話 隣人の看病をすることになりました
その日の宵日和は、いつもより少し早く暖簾を下ろした。
最後の客を見送り、戸締まりと火の始末を済ませる。夕方に会ったエリオの顔色がどうしても気になって、営業中も何度か隣家のことを考えてしまっていた。
本人は寝れば治ると言っていたけれど、あの状態では素直に信用できない。
残っていた米と卵で消化のよさそうな雑炊を作り、小さな鍋に移して布で包む。食べられそうになければ無理に起こさなくてもいい。とにかく今は様子を見に行こう。
店を出て隣家へ向かい、扉を叩く。
「エリオさん?」
返事はない。
もう一度呼んでも物音がしないので、夕方に預かっていた鍵を取り出した。
「エリオさん、日和です。入りますよ?」
扉を開けると、家の中は暗かった。
持ってきた明かりを灯し、雑炊を置こうと机へ向かう。
そこで、日和はふと手を止めた。
「……あれ?」
さっきエリオを連れて入ったときは、そんな余裕がなかった。倒れそうな身体を支えて、とにかく座らせることしか考えていなかったから、部屋の中などほとんど見ていない。
改めて見回してみると、妙なことに気づいた。
何もない。
もちろん、家具はある。机も椅子も棚もあり、暮らすために必要なものは一通り揃っている。
けれど、それだけだった。
机の上には何も置かれておらず、棚には本が数冊並んでいるだけ。脱ぎっぱなしの服もなければ、読みかけの本や使いかけの小物もない。
日和の家なら、朝使ったカップを片づけ忘れていたり、買ってきた食材が籠に入ったままだったりする。店で使おうと思って持ち帰ったものが、いつの間にか机の端を占領していることだってある。
けれど、この家にはそういうものがまるでなかった。
「……綺麗好き、なのかな」
それにしても綺麗すぎる。
水場を覗いてみても、食材らしいものはほとんど見当たらない。
「エリオさん、普段何食べてるんだろ」
宵日和にはよく来ていたけれど、毎日ではない。
仕事で家を空けることが多いと言っていたし、今回もしばらく留守にしていた。それなら物が少なくても不思議ではないのかもしれない。
そう考えれば、一応は納得できる。
「……まあ、人の家を勝手に観察するのもよくないか」
今はそれより、エリオだ。
奥の寝室を覗くと、ベッドに横になっている姿が見えた。ちゃんと寝ていたことにほっとしたものの、近づいてみれば額には汗が浮かび、呼吸も少し荒い。
「……やっぱり大丈夫じゃないじゃん」
起こそうか迷ったが、よく眠っている。
せめて熱を冷ました方がいいだろう。
日和は水場へ戻り、布を探した。棚をいくつか開けて、ようやく見つけた布を水で濡らしてしっかり絞る。
「本当に物が少ないな……」
小さく呟きながら寝室へ戻り、ベッドの横に腰を下ろした。
栗色の髪が汗で額に張りついている。
「人のことはあんなに心配するくせに」
自分はこれである。
日和は小さく息を吐き、濡らした布を額へ乗せようと手を伸ばした。
そのときだった。
「……え?」
目の前で、栗色の髪が揺らいだ。
日和の手が止まる。
一瞬、灯りの加減かと思った。けれど、髪を覆っていた色が抜けていくように、栗色が少しずつ灰色へと変わっていく。
「……なに?」
変わっているのは髪だけではなかった。
柔らかかった顔立ちが揺らぎ、輪郭まで少しずつ変わっていく。
日和は息をするのも忘れて、その光景を見つめていた。
淡い光が身体の表面を走り、ふっと消える。
手から、濡れた布が落ちた。
灰色の髪。
鋭い顔立ち。
見間違えるはずがない。
つい数日前まで海の町で一緒に過ごした人。自分を抱きしめ、花の咲く丘へ連れて行ってくれた人。
そして――好きだと気づいた人。
「……え」
頭が追いつかない。
エリオが眠っていたはずのベッドにいるのは、どう見ても別の人だった。
けれど、その人を日和はよく知っている。
「……エリアス、様?」
返事はない。
エリアスは、何も知らずに眠ったままだった。




