第86話 留守の間にいろいろあったようです
海の町から戻って、数日が過ぎた。
朝起きて洗濯を済ませ、市場でその日の食材を買い、店へ入れば仕込みを始める。夕方になればリリィがやってきて、夜にはいつもの客が暖簾をくぐる。数日留守にしただけなのに、包丁を握って鍋から立つ湯気を見ていると、ようやく自分の暮らしに戻ってきた気がした。
海へ行く前と何も変わらない毎日。それなのに、ときどき店の扉を見てしまうようになったことだけは以前と違う。
エリアスはまだ戻っていない。
数日で戻ると言っていたから、そろそろだろうか。宿題の答えは考えてくれただろうかと、そんなことを考えてしまう。
そういえば、隣の家も静かだった。
海から戻った日に一度気になって見たものの、人の気配はなく、それからもエリオとは顔を合わせていない。店にも随分来ていなかった。
「……忙しいのかな」
以前も王都へ行くと言って2週間ほど留守にしたことがある。今回も仕事か何かだろうと、それ以上深く考えることなく、日和は洗った布巾を干した。
今はそれより、考えなければならないことがある。
ルカへの返事だ。
*
「ミレイユさん、今日このあと時間あります?」
その日の閉店間際、最後まで残っていたミレイユに声をかけると、酒の入った杯を置いてこちらを見る。
「あるけど、どうした?」
「ちょっと相談したいことがあって。よかったら、うちに来ませんか?」
「日和の家?」
「はい。ここだと落ち着かないので」
ミレイユは日和の顔をじっと見てから、何か察したように笑った。
「いいよ」
店を片づけ、火の始末を確認してから2人で家へ向かう。ほんの少し歩くだけなのに、店を出た途端に仕事が終わった気がして肩の力が抜けた。
家へ入ると、日和は買っておいた茶葉を取り出して湯を沸かした。海へ行く前に干しておいた布巾は畳んだまま棚の端に置いてあるし、椅子には朝取り込んだ上着が掛かったままだ。
「ちょっと待ってください」
「何だい?」
「片づけます」
「別にいいよ。人が暮らしてる家なんだから」
そう言われても気になる。日和が慌てて上着を片づけていると、ミレイユが面白そうに部屋を見回した。
「ちゃんと暮らしてるんだねえ」
「どういう意味ですか」
「店に住んでそうだから」
「住みませんよ」
温かいお茶を淹れ、戸棚に残っていた焼き菓子も少しだけ皿に出す。向かい合って腰を下ろすと、ようやく相談の場らしくなった。
日和はカップを両手で包んだものの、何から話せばいいのか迷う。
「それで、恋愛相談?」
「……まだ何も言ってませんけど」
「その顔で仕事の相談だったら驚くよ」
そんなに分かりやすいのだろうか。
「……ルカに、返事をしようと思って」
「ああ、商会の坊っちゃんか」
すぐに分かったらしい。
「答えは決まった?」
「はい」
「なら、あとは本人に言うだけだね」
「そうなんですけど……待ってもらってたから、ちゃんと伝えたいんです。でも、どう言えばいいのかなって」
「傷つけたくない?」
図星だった。
日和が頷くと、ミレイユは少し考えてから焼き菓子を1つ取った。
「それは無理じゃない?」
「……やっぱり?」
「好きな相手に断られて、まったく傷つかない奴なんてそういないよ。でも、だからって曖昧にしておく方が優しいわけでもない」
ミレイユは焼き菓子を一口かじり、今度はお茶を飲む。
「あの坊っちゃんだって、返事を急かさず待ってたんだろ。なら、ちゃんと答えてやればいい」
「……はい」
言わないまま終わったフィアの恋を思い出す。気持ちを伝えなかったことが間違いだったとは思わないけれど、ルカは伝えてくれたうえで返事を待っているのだから、自分も言葉にしなければならない。
「ちゃんと話します」
「うん。それがいい」
ミレイユの答えはあっさりしていたが、それくらいがありがたかった。
「ありがとうございます。やっぱりミレイユさんに相談してよかった」
「どういたしまして」
「こういう話、慣れてますよね」
「まあね」
そこで日和は、ふと気になった。
「……そういえば、ミレイユさんとガルドさんは、その後どうなったんですか?」
ミレイユの手が止まる。
「……何で今そっちに来るんだい」
「だって私ばっかり話してるじゃないですか」
「相談したいって呼んだのは日和だろ」
「それはそうですけど」
じっと見ていると、ミレイユが諦めたように息を吐いた。
「……付き合うことになったよ」
「えっ」
「声が大きい」
「いつですか?」
「日和が海に行ってる間」
まさかそんなことになっていたとは思わず、日和は身を乗り出した。
「何があったんですか?」
「大したことじゃないよ」
「付き合うことになったのに?」
「まあ……あいつが珍しく、ちゃんと言ったからね」
ミレイユは少しだけ視線を逸らした。その横顔がいつもより柔らかく見えて、日和まで嬉しくなる。
「よかったですね」
「……まあね」
「嬉しそう」
「日和」
「はい」
「そろそろそっちの話に戻ろうか」
嫌な予感がした。
「もう相談は終わりましたよ?」
「商会の坊っちゃんの話はね」
ミレイユがにやりと笑う。
「海では何があった?」
「……何も」
「へえ」
「本当に何もないです」
「何もなかった奴が、帰ってきてから店の扉ばっかり見てるのかい?」
見られていた。
日和は黙ってカップに口をつける。
「前に話してた、顔の怖い人と行ったんだろ?」
「……はい」
「で?」
「で、って」
「何かあった?」
「……綺麗なところに連れて行ってもらいました」
「へえ」
「海が見える丘で、花がいっぱい咲いてて」
そこまで話してから気づく。
ミレイユの顔が完全に面白がっている。
「何ですか」
「いや。随分いいところに連れて行ってもらったんだね」
「……そうですね」
「それだけ?」
「それだけです」
抱きしめられたことは言わない。絶対に言わない。
ミレイユはしばらく日和を見ていたが、やがて小さく笑った。
「答え、出たみたいだね」
日和は何も言えなかった。
けれど、否定もしなかった。
ルカへの返事はもう決まっている。海へ行く前は自分でも分からなかった気持ちが、今はちゃんと分かる。
「……ちゃんと話してきます」
「うん」
ミレイユはそれ以上何も聞かず、残っていた焼き菓子へ手を伸ばした。
日和も温かいお茶を一口飲む。
自分が海へ行っている間に、ミレイユとガルドの関係は進んでいた。そして日和自身も、海へ行く前とまったく同じではない。
数日しか経っていないのに、いろいろなことが変わったらしい。
まずは、待ってくれている人に返事をしよう。
日和はそう決めた。




