第85話 見せたい場所があるそうです
翌日の午後、午前中の視察を終えたエリアスに連れられ、日和は別宅を出た。
行き先を聞いても教えてもらえないまま馬車に揺られることしばらく。港の賑わいが遠ざかり、窓の向こうに海を望むなだらかな丘が見えてきた。
「……ここですか?」
「ああ」
馬車を降りた途端、潮を含んだ風が髪を揺らす。丘には名前も知らない小さな花が一面に咲き、淡い色の向こうには青い海がどこまでも広がっていた。
「わあ……綺麗」
市場でも浜辺でも見たはずの海なのに、ここから見る景色はまるで違う。しばらく見入ってから隣を見ると、エリアスは海ではなく日和を見ていた。
「……何ですか?」
「いや」
「またそれ」
「楽しそうだと思っただけだ」
以前、市場でも似たようなことを言われた気がする。日和は急に落ち着かなくなって海へ視線を戻した。
「ここも視察先なんですか?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「お前に見せたかったからだ」
今度は日和が黙る番だった。
「……本当に最近、誤魔化さなくなりましたね」
「そうすると言っただろう」
「そうですけど」
分かっていても心臓には悪い。
2人で丘を歩く。何かを買うわけでも誰かに会うわけでもなく、ただ花の間を歩いて、ときどき海を眺めるだけなのに、不思議なくらい楽しかった。
「エリアス様は、ここによく来るんですか?」
「いや。以前、視察の帰りに通っただけだ」
「それで覚えてたんですね。綺麗だったから?」
エリアスは少しだけ間を置いた。
「いつか、お前に見せたいと思った」
日和は足を止めた。
「……いつからですか?」
「何がだ」
「私をここに連れてくること、考えてたの」
「さてな」
「そこは誤魔化すんですか」
「全部話すとは言っていない」
「ずるい」
思わず笑うと、エリアスもわずかに口元を緩めた。
丘の上まで来ると、海がさらに遠くまで見渡せた。風に揺れる花と、その向こうに続く青を眺めながら、日和は昨日交わした約束を思い出す。
昨日は「明日」という言葉が怖かった。理由はまだ分からない、それでも、その明日はちゃんとやってきた。
「……来てよかったです。連れてきてくれて、ありがとうございます」
「ああ」
「また来たいです」
言ったあと、自分でも少し驚いた。
また。
それも未来を指す言葉なのに、今度は胸の奥がざわつかなかった。
エリアスが日和を見る。
「なら、また来よう」
「……はい」
いつになるかは分からない。それでも、その約束が嬉しかった。
*
翌朝、別宅の前には2台の馬車が並んでいた。
荷物を積み終えた日和は、当然のように片方へ向かおうとして、エリアスがもう一方の馬車の前にいることに気づいた。
「エリアス様、そっちなんですか?」
「ああ。俺はここから別の町へ向かう」
「一緒に帰らないんですか?」
「もう1か所、確認しておきたい場所がある。数日で戻る」
「……そうなんですね」
自分でも分かるくらい声が落ちた。エリアスがこちらを見る。
「何だ」
「何でもないです」
「日和」
逃がしてくれそうにない。
「……少し残念だと思っただけです」
そう言うと、エリアスの目元がわずかに和らいだ。
「戻ったら店に行く」
「宵日和に?」
「ああ」
「……視察ですか?」
「違う。客として行く」
日和は目を瞬いた。
ずっと前、屋敷を出るときに言ったことを思い出す。
いつか、お客さんとして来てほしい。
あのときの約束が、ようやく叶う。
「……やっと来てくれるんですね」
「ああ」
「じゃあ、宿題の答えも聞けますね」
「宿題?」
「忘れたんですか?」
日和がじっと見ると、エリアスは少し考えてから思い出したようだった。
「……何を作ってほしいか、だったな」
「そうです。ちゃんと考えておいてくださいって言ったじゃないですか」
「ああ」
「『何でもいい』は禁止ですからね」
「分かっている」
「本当に考えてます?」
「考えている」
「じゃあ、楽しみにしてます」
口にしてから、日和は少しだけ笑った。
楽しみにしている。
数日後のことを、こんなふうに当たり前に。
「気をつけてくださいね」
「お前もな」
「はい。……また、アルノルトで」
「ああ。またな」
馬車がゆっくりと動き出す。
窓から振り返ると、エリアスはまだそこにいた。やがてその姿も別宅も見えなくなり、海が少しずつ遠ざかっていく。
この海へ来る前は、エリアスが好きだなんて知らなかった。
今はもう、知っている。
帰れば店がある。いつもの客たちがいて、数日すればエリアスも帰ってくる。
そのとき、宿題の答えは何だろう。
日和は遠ざかる海を眺めながら、まだ知らない答えを楽しみにしていた。




