第84話 明日の約束をしました
その日も、エリアスとは顔を合わせないまま夜になった。
昨日は朝から視察に出て、日和が眠るまで戻ってこなかった。今日も朝から出ていたため、最後にまともに話したのは一昨日の夜、肉じゃがを一緒に食べたときになる。
――少なくとも、お前には正直でいる。
あんなことを言われた翌日から顔を合わせないなんて、少しずるい気がする。もちろん仕事なのだから仕方がない、それくらい分かっているのに、日和は自室のベランダに出て暗い海を眺めながら息を吐いた。
「……会いたかったのかな、私」
口に出すと、余計にそうだった気がしてくる。波の音を聞きながらぼんやりしていると、不意に部屋の扉が叩かれた。
「はい」
「日和、俺だ」
心臓が跳ねる。急いで部屋へ戻って扉を開けると、そこには昨日から1度も見ていなかったエリアスが立っていた。
「……おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
たったそれだけなのに妙に嬉しい。エリアスは日和の顔をしばらく見てから、少し眉を寄せた。
「体調は」
「もう大丈夫です。昨日も今日も倒れてません」
「本当に?」
「本当にです」
まだ疑っている顔だったが、とりあえず納得したらしい。
「外にいたのか」
「海を見てました」
「少し、いいか」
「はい」
2人でベランダへ出ると、夜の海はほとんど色を失い、遠くの港に灯りだけが浮かんでいた。並んでそれを眺めているうちに、日和は昨日のことを思い出す。
「あ、そうだ。これ、どうぞ」
部屋から昨日フィアと作った木の実のクッキーを持ってくると、エリアスが意外そうに包みを見た。
「俺に?」
「はい。昨日、フィアと作ったんです。マシューさんへのお礼で作ったんですけど、多めに焼いたので」
そこまで言ってから、日和は口を閉じた。多めに焼いたから、それだけではない。一昨日、エリアスは自分に正直でいると言ったのだから、自分も少しくらいは正直でいてもいい気がした。
「……エリアス様にも食べてほしくて、取っておきました」
エリアスは一瞬黙ったあと、包みを受け取った。
「そうか。ありがとう」
「甘さは控えめです」
「日和が作ったなら問題ない」
「それ、味の保証になってます?」
「なっている」
即答されて思わず笑うと、エリアスもほんの少し笑った。その顔を見て、やっぱり会いたかったんだと思う。
「明日は午前で視察が終わる」
「そうなんですか?」
「ああ。午後は空けてある」
「じゃあ、少しゆっくりできますね」
エリアスは一度海へ視線を向けてから、日和を見た。
「日和。午後、俺と出かけないか」
「……どこへ?」
「見せたい場所がある」
「どこです?」
「明日になれば分かる」
「教えてくれないんですか」
「ああ」
少しだけ考えて、日和は笑った。
「じゃあ、明日ですね」
――明日。
その言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。
冷たい風、暗い空、遠くに散らばるたくさんの灯り。一昨日と同じ断片が一瞬だけ浮かび、日和は無意識に息を止めた。
「日和?」
エリアスの声で我に返る。
「……大丈夫です」
「顔色が変わった」
「ちょっと、変な感じがしただけです」
「思い出したのか」
「分かりません。ただ……『明日』って言ったら、なんとなく」
続きを探そうとすると、胸の奥がまたざわつく。そんな日和を見て、エリアスはすぐ目の前まで来た。
「考えなくていい。今は思い出さなくていい」
「でも……」
「日和」
エリアスは少し迷うように日和を見たあと、静かに言った。
「……今だけだ」
「え?」
次の瞬間、身体が温かいものに包まれた。
一昨日とは違う。息ができなくなったわけでも、意識が遠のいているわけでもないのに、エリアスの腕の中にいる。
好きな人に抱きしめられている。
それが嫌になるほどよく分かって、日和はしばらく動けなかった。それでも離れようとは思わず、そっとエリアスの胸元に額を預ける。
「……明日、楽しみにしてます」
「ああ」
背中に回った腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「明日も会おう」
胸の奥がまたざわついた。それでも今度は、その言葉から逃げたくなかった。
今はただ、この腕の中にいたかった。
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