第82話 恋する人はわかりやすいようです
厨房へ向かう途中、日和は隣を歩くフィアをちらりと見た。
さっきマシューと話していたときの様子を思い出す。
帰ると聞いたときの少し残念そうな顔も、閉じた扉をいつまでも見ていたことも、仲がいいのかと聞いただけで慌てていたことも。
たぶん、そういうことなのだろう。
自分のことにはあれほど長い間気づかなかったくせに、人のことなら案外分かるものらしい。
「何を作りましょうか」
「そうだね。マシューさん、甘いものは大丈夫?」
厨房へ入りながら尋ねると、フィアはすぐに頷いた。
「食べますよ。でも、甘すぎるものはあまり好きじゃないです」
「へえ」
「木の実が入っているものは好きです。前にもよく食べていたので」
「なるほど」
日和はそれ以上何も言わなかった。
ただ、やっぱりそうなんだろうなとは思った。
厨房には小麦粉やバター、卵、砂糖が揃っていた。木の実もあったので、甘さを控えた小さな焼き菓子を作ることにする。
「じゃあ、木の実を刻んでもらっていい?」
「はい」
フィアが張り切って作業を始める。
日和はバターを柔らかくしながら、その横顔を眺めた。
「フィアって何歳?」
「22です」
「22?」
思わず手が止まる。
「はい」
「……弟と同じだ」
「弟さんがいらっしゃるんですか?」
「うん。7つ下だから」
湊の顔が浮かんだ。
昨日、浜辺で思い出した幼い頃の姿。それよりもう少し大きくなってからの、何かあるたびに姉ちゃんと呼んでいた弟。
懐かしいと思う。
少し寂しいとも思う。
けれど、昨日のように頭が痛くなることはなかった。
「仲がいいんですか?」
「どうだろう。喧嘩もしたけど、まあ、仲はよかったと思う」
「会いたいですか?」
日和は少しだけ考えた。
「……うん。会いたい」
それは素直に言えた。
元気にしているのか知りたいし、話したいこともある。
会いたい。
けれど、それがそのまま帰りたいという気持ちなのかは、まだ分からなかった。
「でも、フィアの方がしっかりしてるかも」
「弟さんに失礼ですよ」
「本人いないから大丈夫」
フィアがくすくす笑う。
昨日までは名前も知らなかったのに、こうして一緒に厨房に立っていると不思議と話しやすかった。
「そういえば、日和さん」
「うん?」
「旦那様とは、いつからなんですか?」
日和は混ぜていた手を止めた。
「……何が?」
「お付き合いされているんですよね?」
「…………誰と?」
「旦那様と」
「してないよ!?」
思わず声が大きくなった。
今度はフィアが驚く。
「えっ」
「えっ、じゃないよ。なんでそうなったの?」
「違うんですか?」
「違うよ!」
少なくとも、今は。
最後の言葉は心の中だけにしておいた。
フィアは本気で驚いたらしく、目をぱちぱちさせている。
「私、てっきり……」
「何を見たらそうなるの」
「だって、こちらに女性の客人がいらっしゃること自体、初めてですから」
日和の手が止まった。
「……初めて?」
「はい。旦那様は視察でこちらにいらしても、お仕事ばかりです。誰かを連れていらっしゃることはありますけど、皆さんお仕事の方ですし」
「今回も視察だよ?」
「日和さんは視察する方じゃないですよね?」
「……まあ、そうだけど」
「それに、いらっしゃる前から色々と準備するよう言われていたんです」
「準備?」
フィアは木の実を刻みながら頷いた。
「お部屋をいつもより念入りに整えるようにとか、寝具も新しいものに替えるようにとか。食事も、海のものをいくつか用意しておくようにって」
「……そんなことまで?」
初耳だった。
「市場も見たいだろうから、視察の予定を詰めすぎないようにって、オスカーさんとお話しされていたと思います」
日和は何も言えなくなる。
市場でエリアスが言った言葉を思い出した。
『後で見ればいい』
『そのために連れてきたんだからな』
あれは、その場で思いついたことではなかったらしい。
「あと、海が見えるお部屋をって」
「……それも?」
「はい。日和さんは海がお好きなんですか?」
「好き……だと思う」
少なくとも今はそう思う。
元の世界で海の近くに住んでいたことを、エリアスはここへ来るまで知らなかったはずだ。
なら、単純に海を見せようと思ってくれていたのだろうか。
そう考えると、また胸の奥が落ち着かなくなる。
「だから、てっきり恋人の方なのかと」
「違うってば」
「でも、旦那様も日和さんを見るときだけ、少し違いますよ」
「……何が?」
「目が優しいです」
日和は完全に黙った。
「普段はもっと怖いというか……」
「分かる」
「あ、分かるんですね」
「最初は怖い人だと思ってたから」
「ですよね」
妙なところで意見が一致した。
フィアは少し笑ってから、木の実を刻む手を動かす。
「でも、日和さんとお話しされているときは全然違いました。昨日も」
昨日。
その一言で、抱きしめられたことまで思い出しそうになり、日和は慌ててバターを混ぜた。
「……もうエリアス様の話は終わり」
「どうしてですか?」
「お菓子作るから」
「作りながらでも話せますよ」
「22歳ってこんなに強かったっけ……」
湊はもう少し扱いやすかった気がする。
たぶん。
日和は砂糖を少し控えめに加え、卵を混ぜる。そこへ小麦粉とフィアが刻んだ木の実を加えていくと、柔らかな生地がまとまっていった。
「じゃあ、今度は私から聞いていい?」
「何ですか?」
「マシューさんのこと、好きでしょ」
フィアの手が止まった。
「…………え」
「さっき見てて、そうかなって」
「な、なんでですか」
「帰るって聞いたとき、すごく残念そうだったし。ずっと見送ってたから」
「見てたんですか!?」
「隣にいたからね」
フィアの顔がみるみる赤くなる。
「違います」
「そっか」
「……」
「じゃあ違うってことで」
日和があっさり生地へ視線を戻すと、フィアが困ったように黙り込んだ。
しばらくして、小さな声がする。
「……好きです」
「うん」
「ずっと」
日和は顔を上げる。
フィアは恥ずかしそうにしながらも、今度は否定しなかった。
「小さい頃から家が近くて、気づいたらずっと一緒にいたんです。でもマシューは私のこと、たぶん妹みたいにしか思ってなくて」
「それでさっきも?」
「……帰るって言われたら、もう少し話したかったなって」
かわいい。
思わずそう思った。
「だから、日和さんが一緒にお菓子を作ろうって言ってくれたの、ちょっと嬉しかったです」
「お礼は私がしたいだけだけどね」
「分かってます」
「でも、一緒に作ったって言って渡せばいいよ」
「えっ」
「せっかくだし」
「それは……」
フィアが途端にそわそわし始める。
日和は笑いながら、生地を小さく丸めた。
「人のことだと簡単に言えるんだけどなあ」
「何か言いました?」
「なんでもない」
「……日和さんも好きな人いるんですか?」
日和の手が止まった。
フィアの目が大きくなる。
「あ」
「何」
「いますね?」
「なんでそうなるの」
「今、止まりました」
「生地の形を考えてただけ」
「さっきまで迷わず丸めてました」
意外と鋭い。
「誰ですか?」
「言わない」
「私のは分かったのに?」
「フィアが自分で言ったんでしょ」
「ずるいです」
日和は答えず、ひたすら生地を丸めることにした。
けれど、さっき聞いた話が頭から離れない。
女性の客人を連れてきたのは初めて。
海の見える部屋。
食事。
市場を見るための時間。
自分が知らなかったところで、エリアスが準備してくれていたもの。
昨日は、もう責任だけではないと言っていた。
そして。
『少なくとも、お前には正直でいる』
思い出しただけで、また顔が熱くなる。
「……日和さん」
「何?」
「顔、赤いですよ」
「厨房が暑いから」
「まだ火もつけてませんよ」
「フィア」
「はい?」
「お菓子、焼こうか」
これ以上話していたら、何を口走るか分からない。
日和は逃げるように天板へ生地を並べた。
隣でフィアが笑っている。
どうやら新しくできた22歳の友人は、弟よりずっと手強そうだった。




