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第8話 私にできること


3日間の馬車旅を終え、日和はようやくレーヴェン領の中心都市、アルノルトへたどり着いた。


「……着いた」


馬車を降り、地面に足をつける。


揺れていない。


ただそれだけのことが、今はありがたい。


「もうしばらく馬車はいいです」


「そうか」


隣でエリアスが淡々と答える。


「3日ですよ。ずっと揺れてたんですよ」


「馬車だからな」


「お尻が痛いです」


「私に言われても困る」


「侯爵様ならなんとかしてください」


「何をどうしろと言うんだ」


相変わらず会話が続かない。


日和は小さく息を吐いて、目の前に広がる街を見た。


アルノルトは王都ほど大きくはないが、想像していたよりずっと賑やかな街だった。赤茶色の屋根が並び、中央には時計塔のような高い建物が見える。通りには荷馬車が行き交い、買い物籠を抱えた女性や走り回る子どもたち、店先で声を張る商人たちの姿があった。


そして、あちこちからいい匂いがする。


焼きたてのパン。肉を焼く香ばしい匂い。どこからか甘い香りも漂ってくる。


「……いい匂い」


日和は思わず足を緩めた。


「前を見て歩け」


「見てます」


「横しか見ていない」


「街も見たいので」


気になる店がいくつもある。


八百屋らしき店先には、馬車旅の途中で食べた赤い果実も並んでいた。その隣には見たことのない緑色の野菜が積まれている。


市場にも行ってみたい。


どんな食材があるのか、もっと見てみたい。


「後でいくらでも見られる」


エリアスに言われ、日和は足を止めた。


後で。


その言葉が、妙に胸に引っかかった。


「…………」


「どうした」


「いえ」


なんだろう。


後で。


明日。


来週。


先のことを表す言葉を聞くと、ときどき胸の奥がざわつく。


理由は分からない。


思い出そうとすると、またあの頭痛が起きそうな気がした。


「なんでもないです」


日和は再び歩き出した。


後で見られる。


それなら、後で見ればいい。


ただそれだけの話だ。



エリアスの屋敷は、街の北側にあった。


大きな門の向こうには手入れされた庭が広がり、その奥に3階建ての石造りの屋敷が建っている。


日和は門の前で足を止めた。


「……侯爵様って、本当に偉い人だったんですね」


エリアスが眉を寄せる。


「今まで何だと思っていた」


「怖い人」


「それはもう聞いた」


玄関前には使用人たちが並んでいた。


日和がその光景に圧倒されていると、先頭に立っていた白髪交じりの男性が1歩前へ出る。


「お帰りなさいませ、エリアス様」


「ああ」


「長旅、お疲れさまでございました」


男性の視線が日和へ向いた。一瞬だけ驚いたように目を見開いたものの、すぐに穏やかな笑みに戻る。


「こちらが、王都からご連絡のあった方でしょうか」


「そうだ。異世界から召喚された穂積日和だ」


「ホヅミ……」


「日和で大丈夫です」


男性は丁寧に頭を下げた。


「承知いたしました、日和様。私はこの屋敷で家令を務めております、オスカーと申します」


「よろしくお願いします」


「お部屋をご用意しております。まずは旅のお疲れをお取りください」


「あの、1つお願いしてもいいですか?」


「何なりと」


「お風呂に入りたいです」


オスカーはにこやかに微笑んだ。


「すぐにご用意いたします」


この人はいい人だ。


日和は3秒でそう判断した。



湯を浴び、着替えを済ませた日和は、用意された部屋のベッドに腰掛けていた。


窓からはアルノルトの街並みが見える。部屋は広く、家具も立派で、ベッドも驚くほど柔らかい。クローゼットには日和のために用意された服まで入っていた。


何から何まで揃っている。


ありがたい。


ありがたいのだけれど、どうにも落ち着かない。


この部屋も、服も、今日の夕食も、全部エリアスに用意してもらったものだ。


生活の基盤ができるまで面倒を見る。


エリアスはそう言ってくれた。


だからといって、いつまでも世話になるわけにはいかない。


日和は窓辺へ移動した。


眼下には、夕暮れの街が広がっている。


この街で生きていく。


少なくとも、帰る方法が見つかるまでは。


そのためには、まず仕事を見つけなければならない。


「仕事、か……」


何ができるだろう。


元の世界でどんな仕事をしていたのかは、相変わらず思い出せない。


文字はまだ読めない。


この世界の常識も知らない。


魔法は普通。


剣は使えない。


加護も特殊能力もない。


日和は自分の手を見る。


何もない。


そう思いかけて、ふと昨日の食事を思い出した。


薄いスープ。


口にした瞬間、もっとこうすればいいのにと自然に考えていた。


自分の暮らしは思い出せないのに、料理のことだけは不思議なくらい覚えている。


包丁の握り方。


魚の捌き方。


米の炊き方。


出汁の取り方。


煮物の味付け。


卵焼きの巻き方。


頭で覚えているというより、身体の中に残っているような感覚だった。


日和はしばらく自分の手を見つめる。


魔法もない。


剣も使えない。


特別な力なんて、何ひとつない。


でも。


自分にできることが、本当に何もないわけではない。


「……料理、か」


日和は立ち上がった。


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