第7話 侯爵様は人生を損している
馬車に揺られて数時間。
日和は早くも後悔していた。
「……お尻が痛い」
「まだ半日も経っていないぞ」
向かいに座るエリアスが呆れたように言う。
「馬車って、もっと優雅な乗り物だと思ってました」
「何を想像していたんだ」
「貴族が紅茶とか飲んでるやつです」
「走行中に飲めばこぼれる」
「夢がないですね」
窓の外には、見渡す限りの草原が続いている。
景色はきれいだ。
空は広く、遠くには山も見える。
ただし、馬車は揺れる。
とにかく揺れる。
これがあと3日。
考えないことにした。
*
昼を少し過ぎた頃、馬車は小さな街に停まった。
馬を休ませるため、しばらくここで休憩するらしい。
馬車から降りた日和は、大きく身体を伸ばした。
「地面って素晴らしい」
「大げさだ」
「ずっと馬車に乗ってた人には分かりません」
「私も乗っていただろう」
そうだった。
日和は街を見回した。
王都よりずっと小さいが、通りにはいくつもの店が並んでいる。野菜や果物を積んだ露店もあり、奥からは肉を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
日和の足が自然とそちらへ向く。
「どこへ行く」
「ちょっと見るだけです」
串に刺した肉を炭火で焼いている。
隣では丸いパンが積まれ、その向こうには赤い果実が山になっていた。
見たことがないものもある。
でも、どれもちゃんと食べ物だ。
異世界なのに、不思議と少し安心した。
「これ、何ですか?」
日和は露店に並ぶ赤い果実を指さした。
店主が答えてくれたが、聞いたことのない名前だった。
見た目はトマトに近い。
「食べてみたい……」
「買えばいいだろう」
「お金、荷物の中です」
王宮でもらった硬貨は、着替えと一緒に馬車へ積んでしまった。
エリアスが小さく息を吐き、店主へ硬貨を2枚渡した。
「え、いいんですか?」
「後で返せ」
「侯爵様なのに細かいですね」
「侯爵だから金を粗末にしていいという理屈にはならない」
もっともだった。
日和は赤い果実を受け取り、ひと口かじる。
酸味が強い。
でも、その後から甘みがくる。
「おいしい」
もうひと口。
生でも食べられるけれど、火を通した方が甘みが増しそうだ。肉と一緒に煮てもいいし、刻んで酢と合わせてもいい。
気づけば、また料理のことを考えていた。
「随分楽しそうだな」
「食材見るの、好きみたいです」
「みたい?」
「その辺の記憶が曖昧なので」
そう言うと、エリアスはそれ以上聞かなかった。
日和は少しありがたく思った。
隣の店から、肉の焼ける音がする。
じゅうじゅうと脂が落ち、炭から煙が上がっていた。
おいしそう。
「…………」
「食べたいのか」
「顔に出てました?」
「かなり」
またエリアスが硬貨を出した。
「ちゃんと返しますからね」
「分かっている」
焼きたての串を受け取る。
ひと口食べると、香ばしい肉汁が口の中に広がった。味付けは塩と香草だけらしい。
「……おいしい」
王宮で食べた薄いスープとは大違いだ。
「この世界にも、おいしいものあるんですね」
「当然だろう」
「昨日のスープを食べたときは、ちょっと心配になりました」
エリアスの口元がほんの少し動いた。
笑った?
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「笑いましたよね」
「気のせいだ」
怪しい。
日和は串を食べながら、並んでいる店を眺める。
「侯爵様の領地にも市場ってあります?」
「ある」
「こういう食材も?」
「もっと多い」
日和の目が輝いた。
「行ってみたいです」
「好きにしろ」
「案内してください」
「断る」
即答だった。
*
再び馬車に乗り、街を出る。
日和は窓の外を眺めながら、先ほど見た食材を思い返していた。
「侯爵様」
「何だ」
「好きな食べ物って何ですか?」
エリアスが少し考える。
「特にない」
「じゃあ、よく食べるものは?」
「出されたものを食べる」
「外で食べたりしないんですか?」
「必要がなければしない」
信じられない。
「食べるの、好きじゃないんですか?」
「嫌いでもない」
「じゃあ何なんです?」
エリアスは本当に不思議そうな顔をした。
「空腹を満たせれば、それでいいだろう」
日和は黙った。
朝には「生きている限り、人は食べる」なんて少しいいことを言っていたのに。
そういう意味だったのか。
「侯爵様」
「何だ」
「人生、損してますね」
エリアスの眉間に皺が寄った。
「余計なお世話だ」
「おいしいもの食べると、ちょっと幸せになりますよ」
「そうか」
「興味なさそう」
「ないな」
日和は呆れて窓の外へ顔を向けた。




