第79話 今は厨房までついてこないでください
結局、厨房へ向かう前にエリアスは1度自室へ戻ることになった。
海から日和を抱えて戻ってきたままだったらしく、上着には砂がつき、灰色の髪も潮風で少し乱れている。本人は気にしていなかったが、日和が着替えてきてくださいと言うと、ようやく自分の格好を確認した。
「すぐ戻る。厨房へ行くんだろう」
「行きますけど……エリアス様も来るんですか?」
「ああ。また倒れないとも限らないからな」
「大丈夫です。厨房くらい1人で行けます」
「信用できない」
「またそれですか」
今のエリアスに隣にいられたら、別の意味で料理どころではない。
どう断ろうかと困っているところへ、ちょうどオスカーがやってきた。
「日和様、お加減はいかがですか」
「オスカーさん。ちょうどよかった。厨房まで一緒に来てもらえませんか?」
「もちろんでございます」
日和がほっとすると、エリアスはまだ納得していない顔でオスカーを見る。
「日和を頼む。少しでも具合が悪そうなら止めてくれ」
「承知いたしました」
「無理をさせないように」
「はい。責任を持ってお側におりますので、旦那様はどうぞお着替えを」
そこまで言われて、エリアスもようやく頷いた。
「……分かった。無理はするなよ」
「しません」
エリアスが自室へ向かい、その姿が見えなくなったところで日和は小さく息を吐いた。
「……心配しすぎなんですよ」
「左様でございますね」
隣を見ると、オスカーがなぜか笑いを堪えている。
「なんですか」
「いえ。旦那様があれほど心配なさるのも珍しいものですから」
「そうなんですか?」
「ええ。少々分かりにくい方ではございますが、とても情の深い方ですよ」
「それは……知ってます」
答えた途端、オスカーの口元がさらに緩んだ。
「最初は怖い方だとおっしゃっていましたのに」
「最初だけです。今はちゃんと、いい人だって分かってますよ」
「それは何よりでございます」
妙に嬉しそうに言われ、日和は首を傾げる。
「私から見ても、お2人は随分とよい関係になられたと思います」
「いい関係?」
「ええ。旦那様は日和様を放っておけず、日和様はそんな旦那様をよく理解しておられる。案外、ちょうどよいお2人なのかもしれませんね」
「……何がですか?」
「さて、何でしょう」
「オスカーさん?」
「厨房はこちらでございます」
逃げた。
しかも、少し笑っている。
日和は怪訝に思いながら、そのあとを追った。
別宅の厨房は侯爵邸ほど広くはないものの、調理台も竈も綺麗に整えられていた。夕食の支度をしていた料理人たちは突然やってきた日和にも嫌な顔ひとつせず、事情を聞くと調理台の一角を空けてくれる。
「ありがとうございます。少しだけお借りしますね」
用意してもらった食材を確認する。
土芋、火玉、赤根、それから薄切りにできそうな肉。元の世界とまったく同じものではないけれど、見ているうちに作り方が頭の中に浮かんできた。
「何をお作りになるのですか?」
「肉じゃがです」
「ニクジャガ」
オスカーが聞き慣れない言葉を繰り返す。
「私がいた世界の料理です。母がよく作ってくれて」
夢の中で見た食卓を思い出しながら、日和は土芋を手に取った。
皮を剥いて、大きめに切る。母の肉じゃがはじゃがいもが少し大きくて、食べる頃には角が煮崩れて丸くなっていた。
火玉はくし切りにし、赤根は少し小さめにする。肉も食べやすい大きさに切り分けていくと、さっきまであれほど落ち着かなかった気持ちが少しずつ静かになっていった。
やっぱり料理をしていると落ち着く。
鍋を竈にかけて温め、少量の油を入れる。肉を広げると、じゅっと小気味よい音が鳴って香ばしい匂いが立った。
「全部煮るのではないのですね」
横から見ていたオスカーが尋ねる。
「先に少し炒めるんです。こうすると肉の匂いも気にならなくなるし、野菜にも味が馴染みやすくなるので」
肉の色が変わったところで火玉を加える。肉から出た脂をまといながら火玉が少しずつ透き通ってきたら、赤根と土芋も鍋へ入れ、崩さないよう大きく混ぜながら全体に油を回した。
そこへ水を注ぐ。
じゅう、と大きな音がして白い湯気が立ち上った。
問題は味つけだった。
元の世界なら醤油と砂糖、それにみりんや酒を使っていた。でも、ここには同じものがない。
日和は少し考えてから、森茸から取った出汁を加えた。塩をほんの少し、この世界で料理をするうちに見つけた発酵調味料も加え、最後に砂糖を入れる。
ひと煮立ちさせてから、小皿に煮汁を取る。
「……もうちょっとかな」
「何か足りませんか?」
「母のは、もう少し甘かったんです」
自分で作る肉じゃがは、もう少しあっさりしていた。
母のものは少し甘くて、煮汁が染みたじゃがいもだけでもご飯が食べられた。子どもの頃は、その味が当たり前だった。
砂糖をほんの少し足して、もう一度味を見る。
「……うん。これくらい」
鍋に蓋をして火を弱める。
ことことと静かな音が響き始めると、厨房の中に少しずつ甘い匂いが広がっていった。
日和はその匂いを吸い込む。
懐かしい。
夢の中で見た母の背中と、食卓に並んだ肉じゃが。向かいでは湊が肉が少ないと文句を言っていて、日和が自分の皿から分けてやる。
今度は頭も痛くならなかった。
ただ、そんな日もあったのだと思える。
「日和様」
「はい?」
「お加減は大丈夫でございますか」
オスカーが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫です。ちょっと懐かしくなっただけです」
「そうでございましたか」
日和が笑うと、オスカーも安心したように表情を緩めた。
しばらく煮たところで蓋を開ける。
ふわりと上がった湯気と一緒に、さっきよりずっと濃くなった匂いが広がる。
土芋に串を刺せば、ほとんど抵抗なくすっと通った。
「これくらいですね」
ここからは蓋を外したまま少しだけ火を強める。
煮汁を絡ませるように鍋をそっと揺すると、土芋の角がわずかに崩れた。火玉はとろりと柔らかくなり、赤根にも煮汁の色が染みている。
「……あ」
思わず声が漏れた。
夢で見たものとよく似ている。
少し煮崩れたじゃがいも。
味の染みた肉。
甘い匂い。
日和は小皿に土芋を1つ取り、箸で半分に割った。中から湯気が上がり、息を吹きかけてから口へ運ぶ。
ほくりと崩れる。
表面に絡んだ煮汁は甘く、中まで染みた出汁と肉の旨味があとから広がった。
「……おいしい」
思わず笑ってしまう。
同じではない。
母が使っていた調味料はないし、土芋も火玉も元の世界のものとは少し違う。それでも不思議と、食べたかったのはこれだと思えた。
「お母様のお味に近づきましたか?」
オスカーに聞かれ、日和は少し考える。
「同じじゃないです。でも、これでいい気がします」
「これでいい、ですか」
「はい。母の肉じゃがをそのまま作るのは無理ですけど、今の私が食べたい味にはなりました」
元の世界で母が作ってくれた料理を、この世界にある材料で自分が作った。
だから、これでいい。
日和はもう1度鍋を見る。
そして自然と、エリアスの顔が浮かんだ。
食べてほしいと言った。
好きだと気づいたばかりの相手に、母が作ってくれた料理を食べてほしいなんて、改めて考えると随分と恥ずかしいことを言った気がする。
「……やっぱり困ったな」
「何か?」
「なんでもないです」
オスカーを見ると、また口元が緩んでいた。
「オスカーさん」
「はい」
「笑ってません?」
「いいえ」
「絶対笑ってますよね」
「日和様がお元気になられたようで何よりだと思っているだけでございます」
「本当ですか?」
「もちろんでございます」
完璧な笑顔だ。
けれど、どうにも信用できない。
日和は追及するのを諦め、もう一度鍋へ向き直った。
最後に味を確かめて、火を止める。
「できました」
少し煮崩れた土芋と、柔らかくなった肉や野菜が艶のある煮汁をまとい、湯気を立てている。
懐かしいのに、同じではない。
母が作ってくれた料理を、この世界で暮らす今の日和が作った味。
そして今は、この味を食べたい。
エリアスにも、食べてほしい。
そう思いながら出来上がった肉じゃがを見つめていると、また少しだけ胸が騒がしくなった。
日和は小さく息を吐く。
料理はできた。
問題は、これからだった。




