第78話 目が覚めたらお腹が空きました
甘辛い匂いがする。
鍋の蓋を開ける音、食器を並べる音、遠くから聞こえるテレビの声。どれも知っている気がして、日和はゆっくり顔を上げた。
台所に懐かしい背中がある。
『日和、ご飯できたよ』
お母さん。
呼ぼうとしたのに、声は出なかった。
食卓には肉じゃがが置かれている。大きめのじゃがいもに玉ねぎ、にんじん、味の染みた肉、煮崩れかけたじゃがいもの角まで見覚えがあった。
母の肉じゃがは少し甘い。
日和が作るものより、砂糖が少し多かった。
『姉ちゃん、肉多くない?』
向かいには湊がいる。
『同じくらいでしょ』
『そっちの方が多い』
『じゃあこれあげるから』
『いいの?』
『その代わり、にんじんも食べなさい』
『それはいらない』
『じゃあ肉も返して』
母が笑う。
日和も笑って、湊が文句を言う。
特別な日ではない。ただ家族でご飯を食べているだけなのに、胸の奥が温かくなった。
ああ、そうだ。
こんな日があった。
もう少しだけ見ていたいと思ったところで、母の姿がぼやけた。湊の声も、肉じゃがの匂いも少しずつ遠ざかっていく。
待って。
まだ――
日和は目を開けた。
見覚えのない天井がある。
「……あれ」
「日和」
すぐ近くから聞こえた声に顔を向けると、ベッドの横にエリアスが座っていた。
「エリアス様……」
「気分はどうだ」
「気分……」
まだぼんやりする頭で考える。
ここは海辺の別宅だ。1人で海へ行ってエリアスに怒られて、子どもの頃のことを思い出して、それから――
頭が痛くなった。
息ができなくなった。
そして。
抱きしめられた。
そこまで思い出した瞬間、眠気が吹き飛んだ。
「……っ」
「どうした」
「なんでもないです」
「顔が赤い」
「赤くないです」
「赤い」
「気のせいです」
エリアスの手が伸びてくる。
額に触れられると分かった途端、日和は反射的に布団へ潜った。
「大丈夫です!」
手が止まる。
「……何がだ」
「熱とかないので」
「まだ触れていない」
「そうでした」
何をしているんだろう。
布団から目だけ出すと、エリアスが怪訝そうにこちらを見ている。その顔を見ただけで胸が落ち着かなくなり、日和はまた視線を逸らした。
おかしい。
今までだって近くにいたことはある。手を取られたこともあれば、今日の馬車では肩を借りて眠ったばかりだ。それなのに今は、隣に座っているだけで妙に意識してしまう。
「頭は?」
「もう痛くないです」
「息苦しさは」
「それも大丈夫です」
「吐き気は?」
「ないです」
「本当に?」
「本当です」
「なら、なぜこっちを見ない」
「それは体調とは関係ないです」
言ってから、しまったと思った。
「では、何と関係がある」
「聞かないでください」
ますます怪訝そうな顔をされる。
日和は布団の端を握ったまま、そっと息を吐いた。
ルカに好きだと言われてから、ずっと考えていた。
好きとは何なのだろう。
一緒にいて楽しいとか、優しいとか、会えたら嬉しいとか、いなくなれば寂しいとか。そういうものを1つずつ考えても、結局よく分からなかった。
けれど今は、分かる。
縁談の噂を聞いたとき、知らない誰かがエリアスの隣にいるところを想像するのが嫌だった。久しぶりに会えただけで嬉しくて、海へ誘われたことも嬉しくて、馬車で隣に座られただけで落ち着かなかった。
苦しくて何も考えられなかったとき、抱きしめられて安心した。
そして目を覚まして、エリアスがそばにいることにほっとした。
そこまで考えて、日和はようやく認めた。
私、エリアス様が好きなんだ。
「……うわ」
「日和?」
「なんでもないです」
「さっきからそればかりだな」
「今ちょっと忙しいので」
「寝ているだけに見えるが」
「頭の中が忙しいんです」
自覚した途端、今までなら気にならなかったことまで気になってくる。
すぐそばにエリアスがいる。
ずっとここにいたのだろうか。
自分が眠っている間も?
「……エリアス様」
「なんだ」
「ずっとここにいたんですか?」
「ああ」
「ずっと?」
「何度聞く」
「いや……」
聞かなければよかった。
また顔が熱くなって、日和は布団を鼻の辺りまで引き上げた。
「やはり熱があるんじゃないのか」
「ないです」
「顔が赤い」
「これは別件です」
「別件?」
「そこは追及しないでください」
「さっきからおかしいぞ」
心配そうに覗き込まれて、さらに困る。
近い。
そう思っただけで胸が跳ねた。
「……ちょっと離れてもらっていいですか」
「なぜ」
「近いので」
「具合が悪いのか?」
「だから違いますって」
エリアスの眉間に皺が寄る。
本気で心配しているらしい。
「日和、本当に何ともないんだな」
「大丈夫です」
「ならいいが……」
納得していない顔だった。
日和はその顔を見ながら、どうしたものかと考える。好きだと気づいたからといって、急に何かが変わるわけではないはずなのに、どう接していたのかすら分からなくなってしまった。
そのとき、きゅう、とお腹が鳴った。
「……」
「……」
今度は別の意味で顔が熱くなった。
「今のは忘れてください」
「無理だな」
「即答しないでください」
エリアスの口元がわずかに緩む。
「お腹空きました」
「それだけ言えるなら少し安心した」
とうとう笑われて、日和は恨めしそうに見る。
「何か用意させよう」
エリアスが立ち上がろうとする。
「待ってください」
「どうした」
「私が作りたいです」
案の定、エリアスの眉が寄った。
「今倒れたばかりだろう」
「もう大丈夫です」
「信用できない」
「さっきから信用なさすぎません?」
「誰のせいだと思っている」
言い返せない。
それでも今は、どうしても厨房に立ちたかった。
夢の中にあった食卓を思い出す。
少し甘い肉じゃが。煮崩れかけたじゃがいもと、文句を言いながらにんじんを避けていた湊、それを見て笑っていた母。
「作りたい料理があるんです」
エリアスが日和を見る。
「今は、それが食べたいんです。それに……」
そこまで言って、少し迷った。
好きだと気づく前なら、きっと何も考えずに言えた。
でも今は違う。
それでも、言いたかった。
「エリアス様にも、食べてほしいです」
今度はエリアスが黙った。
その沈黙に耐えられず、日和は視線を泳がせる。
「……いや、別に変な意味じゃなくて」
「何も言っていない」
「そうですけど」
「なぜ言い訳をする」
「今はあんまり細かいところに気づかないでください」
エリアスが少しだけ笑った。
その顔を見た途端、また胸が鳴る。
困る。
本当に困る。
「……それで、食べてくれます?」
「ああ」
今度は迷いのない返事だった。
「お前が作るなら、食べる」
また胸がうるさくなる。
日和は誤魔化すように布団をめくった。
「じゃあ、厨房を借りましょう。もう本当にお腹空きました」
そう言うと、エリアスがとうとう声を漏らして笑った。
「何がおかしいんですか」
「いや。お前らしいと思っただけだ」
「倒れた人に言うことですか?」
「だから安心したんだ」
まだ少し笑っている。
その顔をまともに見ていられなくて、日和はベッドから降りるふりをして俯いた。
恋を自覚したところで、お腹は空く。
そして今は、どうしても食べたいものがある。
できればそれを、この人にも食べてほしい。
そう思えるくらいには、もう大丈夫だった。




