第77話 海は昔から身近なものでした
市場を見て回ったあと、案内されたのは港から少し離れた場所にある屋敷だった。
視察の際に使われる別宅らしく、侯爵邸ほど大きくはないものの、日和からすれば十分すぎるほど立派だ。
「こちらが日和様のお部屋です」
案内された部屋に入り、日和は真っ先に窓へ向かった。
「わあ……」
窓の向こういっぱいに海が広がっている。町から見たときよりずっと近く、窓を開けると潮の匂いを含んだ風が入り込んできて、日和は思わず大きく息を吸った。
「すごい、目の前ですね」
「お気に召したようで何よりです。夕食まではまだ時間がございますので、ごゆっくりお過ごしください」
「ありがとうございます」
案内してくれた使用人が出ていき、1人になってからも日和はしばらく窓辺に立っていた。
海がある。
見ているだけでもいいけれど、せっかくなら近くまで行ってみたい。夕食までは時間もあるし、窓から見えるくらい近いのだから少しくらいなら大丈夫だろう。
荷物を簡単に片づけ、日和は屋敷を出た。
目の前の道を抜ければすぐに海で、砂浜というより小さな石の混じった浜が続いている。市場や港の賑やかさはここまで届かず、聞こえてくるのは寄せては返す波の音ばかりだった。
「……懐かしいな」
潮の匂いも、風も、波の音も、この世界のものなのに不思議なくらい知っている。
ゆっくり歩いていると足元に小さな貝殻を見つけ、日和はしゃがんで拾い上げた。白くて丸いそれを眺めていると、胸の奥からぼんやりと何かが浮かんでくる。
子どもの頃も、こういうものを集めた。
綺麗な貝殻を見つけるたびに拾って、どちらが多いか弟と競争した。湊は大きなものばかり探して、日和は形が綺麗なものを選んで、それでどちらが勝ちなのか喧嘩になった気がする。
「……湊、負けず嫌いだったな」
思い出すと自然に笑みがこぼれた。
そのとき、後ろから早い足音が聞こえた。
「日和」
振り返ると、エリアスがこちらへ歩いてくる。
「エリアス様?」
いつも怖い顔ではあるけれど、今は明らかに機嫌が悪そうだ。
「何をしている」
「散歩です」
「1人で?」
「はい。夕食まで時間があったので」
エリアスの眉間の皺が深くなる。
「なぜ誰にも言わずに出た」
「目の前ですよ。ほら、屋敷も見えてますし」
「距離の話をしているんじゃない。ここはお前の知らない土地だ」
「でも海を見てただけですよ」
「それでもだ」
思ったより強い声に、日和は瞬きをした。
「……怒ってます?」
「ああ」
即答された。
そこまで怒られるようなことをしたつもりはなく、日和も少し困る。
「別に危ないことしてないですよ」
「何かあってからでは遅い」
「エリアス様、心配しすぎです」
「お前は心配しなさすぎる」
言い切られて、日和は口を閉じた。
また誰かにも似たようなことを言われた気がしたけれど、今はそれよりエリアスが本気で心配しているらしいことの方が気になる。
「……すみません。次からはちゃんと言います」
「ああ、そうしてくれ」
まだ少し険しい顔をしている。
日和は手に持っていた貝殻へ視線を落とした。
「でも、本当に大丈夫ですよ。海は慣れてるので」
「慣れている?」
「はい。元いたところでも、海の近くに住んでたんです」
エリアスの表情が変わった。
日和はそれに気づかないまま海へ目を向ける。
「子どもの頃は弟とよく海で遊びました。貝殻を拾ったり、波から逃げたり追いかけたりして。湊が転んでびしょ濡れになって、私が笑ったら怒ってたこともあったな」
話しているうちに、次々と光景が浮かんでくる。
青い海と、眩しい日差し。まだ小さかった湊が名前を呼びながら走ってきて、日和が待ってと言いながら追いかける。
ずっと曖昧だったはずなのに、今はちゃんと思い出せる。
「……日和」
「はい?」
振り返ると、エリアスが驚いたようにこちらを見ていた。
「思い出したのか」
「……あ」
言われて初めて気づいた。
料理のことは分かる。弟がいたことも、自分が姉だったことも分かるのに、自分がどんな場所で暮らし、どんな毎日を送っていたのかは思い出そうとすると靄がかかったように曖昧になっていた。
それなのに今は、子どもの頃の海が見える。
「そう、みたいですね」
もう一度海へ目を向ける。
「海の近くに住んでて、弟とよく遊んで……学校に行って、それから大人になって……」
そこまで言って、日和は少し考えた。
大人になってからは、どうしていたんだっけ。
どこに住んでいた。毎朝起きて、どこへ行って、誰と話して、家に帰って。
湊は大人になって――
「……っ」
突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。
日和はこめかみを押さえる。
「日和?」
「ちょっと、待ってください。なんか……思い出せそうで」
ずきん、とさらに強く痛む。
目を閉じると、さっきまでの青い海とはまるで違う光景が一瞬だけ浮かんだ。
冷たい風。
暗い空。
遠くに見える、たくさんの光。
ずっと下の方にある光。
「……っ、は……」
息が詰まった。
胸の奥が急に苦しくなり、息を吸っているはずなのに足りない。もっと吸わなければと思うほど呼吸は浅く速くなり、指先まで震え始める。
「日和」
「待って……もう少しで、何か……っ」
もう一度思い出そうとする。
冷たい。
風が強い。
暗い。
下に、光が――
「もういい」
次の瞬間、強く腕を引かれた。
気づけばエリアスの胸に抱き込まれていた。
頭を包むように片方の腕が回り、もう片方の腕が背中を抱く。あまりに突然で驚くはずなのに、今はそれを考える余裕もなかった。
「もういい。思い出さなくていい」
「でも……っ、は……もう、少し……」
「日和、私を見ろ」
顔を上げようとしても視界がうまく定まらない。
「息を吸いすぎている。ゆっくりでいい、私に合わせろ」
背中をゆっくり撫でられる。
「吸って」
エリアスがゆっくり息を吸う。
「……吐け」
真似をしようとするけれど、途中でまた呼吸が乱れた。
「っ、は……でき、な……」
「大丈夫だ、急がなくていい。もう一度だ」
抱きしめる腕に少し力がこもる。
「何も考えなくていい。吸って……ゆっくり吐け」
耳元に聞こえるエリアスの声だけを追いかける。
吸って、吐いて、もう一度。
何度か繰り返すうちに、少しずつ息が深くなってきた。
「そうだ。そのままでいい」
「エリアス、様……」
「いる」
すぐに返事が返ってくる。
その声に安心した途端、今度は急に全身から力が抜けた。
「なんか……眠い、です」
「日和?」
エリアスの腕が強くなる。
目を開けていようとしたけれど、もう力が入らない。さっきまで聞こえていた波の音も遠ざかり、エリアスの胸元に額を預ける。
温かい。
最後に分かったのは、自分を呼ぶ焦った声と、背中に回された腕の温かさだった。
そのまま日和の意識は途切れた。




