第76話 海の町は気になるものだらけです
馬車が町へ入る頃には、窓を閉めていても潮の匂いが分かるほどになっていた。
日和はさっきからずっと窓の外を見ている。建物の隙間から海が見えるたびに目で追い、道を行き交う荷車に積まれた魚を見つけては振り返った。
「魚!」
「……見れば分かる」
「いっぱいありますよ。あれ、見たことない」
「海の町だからな」
少しでも長く見ようと窓へ寄ると、後ろから上着の袖を引かれた。
「危ない」
「まだ馬車の中ですよ」
「窓から落ちそうな勢いだった」
「そこまでは出てません」
「どうだろうな」
納得がいかず振り返ると、エリアスの口元がわずかに緩んでいる。
「……笑ってます?」
「笑っていない」
「今日それ何回目ですか」
そんなことを話しているうちに馬車が止まり、外からオスカーの声がした。
「到着いたしました」
扉が開いた瞬間、潮の香りを含んだ風が一気に入り込んでくる。
「海の匂い……」
思わず大きく息を吸う。
懐かしい。
そう思った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ揺れた。
向こうの世界で最後に海へ行ったのはいつだっただろう。思い出そうとしたところで、先に馬車を降りたエリアスがこちらへ手を差し出した。
「日和」
「あ、はい」
その手に自分の手を重ね、馬車を降りる。
少し強い風が吹いて髪が顔にかかり、日和は慌てて押さえた。
「思ったより風強いですね」
「海沿いだからな」
目の前にはアルノルトとはまるで違う町並みが広がっていた。
港へ続く道には荷車が行き交い、その先には大きな市場が見える。魚や貝、干したものらしき品が店先に並び、あちこちから威勢のいい声が飛び交っていた。
日和の目が輝く。
「エリアス様」
「先に言っておくが、視察がある」
「まだ何も言ってません」
「市場へ行きたいんだろう」
「……なんで分かったんですか」
「顔を見れば分かる」
そこまで出ていたらしい。
港の管理所へ向かう途中も、日和の視線は忙しかった。
「あれ、貝ですよね」
「ああ」
「大きいなあ。焼いたら美味しそう」
「日和」
「ちゃんと歩いてます」
少し先では銀色の魚がずらりと並び、その向こうには見覚えのない海藻らしきものもある。
「……あれも気になる」
「後で見ればいい」
「後で時間あります?」
「ああ。そのために連れてきたんだからな」
日和は足を止めた。
「……え?」
エリアスも立ち止まる。
「何だ」
「視察についてきてもいいってだけかと思ってました」
「市場を見たいと言っていただろう」
確かにそうだけれど。
それを覚えていて、この時間まで考えてくれていたとは思わなかった。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない」
そう言って歩き出す背中を追いながら、日和は少しだけ笑った。
視察を終えたあと、約束通り市場へ向かった。
近くで見ると、気になるものはさらに増えた。
見たことのない魚を覗き込み、店主に名前を聞いて、その隣の貝にも目を奪われる。数歩進んでは止まる日和に、エリアスは何も言わず付き合っていた。
そのとき、ふわりと香ばしい匂いが流れてくる。
「……いい匂い」
見ると、少し先の店で小さな魚を串に刺して焼いていた。
「食べるか」
「いいんですか?」
「食べたい顔をしている」
「そんな顔してました?」
「ああ」
「じゃあ……食べます」
焼きたての串を受け取る。
熱い。
息を吹きかけてから一口食べると、皮は香ばしく、身にはしっかりと塩が効いていた。
「おいしい」
思わず声が漏れる。
「エリアス様も食べます?」
「ああ」
もう1本受け取って渡しながら、日和はふと手を止めた。
こうしてエリアスと市場を歩きながら食べるのは、初めてではない。
まだ侯爵邸にいた頃、街を案内してもらったときにも2人で市場へ行った。
あのときも何かを買って、その場で食べた。
「……懐かしいですね」
「何がだ」
「前にもこうやって市場で食べましたよね」
エリアスも思い出したのか、手元の串を見る。
「ああ」
「あの頃は、私がこの世界のこと何も知らなくて」
「今も知らないことだらけだろう」
「あの頃よりは知ってます」
「そうか?」
「知ってますよ」
言い返しながら、日和は笑った。
あのときは、この人が怖かった。
何を考えているのか分からなくて、話しかけるだけでも少し身構えていた気がする。
それなのに今は、同じように隣を歩いて、同じものを食べている。
「変な感じ」
「何がだ」
「いえ。最初の頃は、エリアス様とこんなふうに出かけるなんて思ってなかったなって」
エリアスが日和を見る。
「私、エリアス様のこと怖い人だと思ってましたから」
「知っている」
「知ってたんですか?」
「顔に出ていた」
「そんなに?」
「ああ」
「私、顔に出すぎじゃないですか」
日和が困って笑う。
その顔を見て、エリアスの表情がふっと緩んだ。
いつもの、ほんの少し口元が動く程度ではない。
青みがかった灰色の目まで柔らかくなって、日和を見ている。
日和の胸が大きく鳴った。
「……何ですか」
「いや」
「今、絶対笑いましたよね」
「ああ」
今度は否定しなかった。
それが余計に困る。
「なんで笑うんですか」
「楽しそうだと思っただけだ」
「私が?」
「ああ」
エリアスはまだ少し笑っている。
「連れてきてよかった」
胸の奥が、また大きく鳴った。
日和は手に持った串へ視線を落とす。
さっきまで普通に話せていたのに、急に顔を見られなくなった。
前にも同じ人と市場を歩いた。
同じように隣で何かを食べた。
それなのに。
あの頃は、こんなふうに胸が鳴ったりしなかった。
「……魚、冷めますよ」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
「ああ」
隣でエリアスがまた少し笑う。
日和はそれ以上何も言わず、もう一口魚を食べた。
味はさっきと同じはずなのに、なぜかよく分からなくなっていた。




