第74話 久しぶりに侯爵邸へ泊まることになりました
海へ向かう前日、宵日和は休みにしていた。
数日店を空けることになるので、仕込みはせず普段なかなか手が回らないところまで掃除しておく。棚の上を拭き、調味料の瓶を並べ直していると扉が叩かれた。
休みなのに誰だろう。
「はい」
扉を開けると、見覚えのある穏やかな顔が立っていた。
「お久しぶりです、日和様」
「オスカーさん!」
思わず声が弾む。
「どうしたんですか?」
「お迎えに参りました」
「……迎え?」
「はい。明朝は早くに出発いたしますので、本日は侯爵邸へお泊まりいただくことになっております」
日和は瞬きをした。
「聞いてないです」
「旦那様からは?」
「何も」
オスカーが一瞬だけ目を閉じる。
「……申し訳ございません。説明が足りなかったようで」
「相変わらずですね」
「否定できません」
思わず笑ってしまう。
店はもう休みにしているので問題はない。家へ戻って着替えなどをまとめ、掃除道具を片づけてからオスカーの待つ馬車へ乗り込んだ。
侯爵邸へ向かう道を眺めているうちに、なんだか妙な気分になる。以前は何度も通った道なのに、今では自分の店と家があるせいか、ずいぶん昔のことのように感じた。
やがて見覚えのある大きな門が見えてくる。
「……懐かしい」
「皆、日和様にお会いできるのを楽しみにしておりますよ」
「皆?」
「ええ」
馬車を降りて屋敷へ入ると、長い廊下も高い天井も、窓から見える庭もほとんど変わっていなかった。
「日和様?」
聞き覚えのある声に振り向く。
「あ!」
以前よく顔を合わせていた使用人が、驚いた顔でこちらを見ていた。
「お久しぶりです」
「本当に日和様! お元気そうでよかったです」
その声を聞いて別の使用人も顔を出し、気づけば何人か集まってくる。
「お店を始められたと聞きました」
「繁盛しているそうですね」
「いや、最初は全然でしたよ」
「旦那様からは順調だと」
「エリアス様が?」
名前を口にしただけで、少し胸が騒いだ。
「……そうなんですね」
以前なら何とも思わなかったはずなのに、最近どうもおかしい。
日和はそれ以上考えないことにして、オスカーを見る。
「厨房、行ってもいいですか?」
「もちろんです」
厨房へ近づくにつれて懐かしい匂いがしてきた。
扉から顔を覗かせる。
「こんにちは」
中にいた料理人たちが一斉に振り返った。
「……日和?」
「お久しぶりです」
「日和じゃないか!」
「元気そうだな!」
「店やってるんだって?」
一気に声をかけられ、日和は笑った。
「やってます。なんとか」
「なんとかどころじゃないって聞いたぞ」
「誰からですか、それ」
「オスカーさん」
振り返ると、オスカーは何食わぬ顔をしている。
ここで初めて料理を作り、この世界の食材を教えてもらった。土芋の扱いも火玉の癖も、最初は何ひとつ分からなかったのに、今では自分の店で毎日のように使っている。
「日和、今でも変な料理作ってるのか?」
「変な料理って言わないでください」
「最初に見たときは何作ってんだと思ったぞ」
「ちゃんと食べたじゃないですか」
「美味かったからな」
笑い声が上がる。
気づけば日和も厨房へ入り、鍋を覗き込んでいた。
「今日の夕食ですか?」
「ああ」
「何作るんです?」
「手伝う気か?」
「……ちょっとだけ」
「客だろ、お前」
そう言われても厨房に入ると手が動く。結局、野菜を切るのを少しだけ手伝うことになった。
「変わらないなあ」
「自分でもそう思います」
店を持って生活する場所も変わった。それでもここで包丁を握っていると、不思議なくらい以前と同じだった。
しばらくしてオスカーに呼ばれ、日和は厨房を出る。
案内されたのは以前使っていた部屋だった。
「……ここなんですね」
「はい」
部屋へ入ると、家具も配置も記憶にあるものとほとんど変わっていない。
「誰も使ってなかったんですか?」
「ええ」
「もったいない」
オスカーが少しだけ笑う。
「夕食の時間になりましたらお呼びいたします」
「分かりました」
それ以上は何も言わず、オスカーは部屋を出ていった。
日和は懐かしい部屋を見回す。
ここで暮らしていた頃は、自分の店を持って屋敷を出ることばかり考えていた。それなのに今こうして戻ってくると、少しだけ帰ってきたような気がする。
窓辺へ近づき、庭を見る。
そういえば、まだエリアスには会っていない。
同じ屋敷にいるのだろうか。
明日になれば一緒に海へ行く。それなのに、せっかくここまで来たのだから少しくらい会えないだろうかと思ってしまう。
そこまで考えて、日和は眉を寄せた。
「……なんで会いたいんだろ」
答えは出ない。
ただ、エリアスがこの屋敷のどこかにいると思うだけで、少し落ち着かなかった。




