第72話 領地の視察についていくことになりました
宵日和は、今日もいつも通り営業していた。
ガルドが酒を頼めばミレイユが飲みすぎるなと言い、そこから言い合いになる。最近ではすっかり見慣れた光景で、日和も止めるどころか笑って眺めるようになっていた。
「だから俺はまだ1杯目だっつってんだろ」
「その1杯が大きいのよ」
「日和、こいつなんとかしろ」
「ミレイユの方が正しいと思います」
「お前、どんどん遠慮なくなってんな」
「常連さんですから」
「扱いが雑になってるだけじゃねえか」
向かいでミレイユが笑い、日和もつられて笑う。
そんなやり取りをしながら夜は過ぎ、最後の客を見送った。
「じゃあね、日和」
「また来る」
「はい。おやすみなさい」
ガルドとミレイユが並んで帰っていくのを見送り、日和は店の扉を閉める。
「……最近、ほんと一緒に帰るなあ」
本人たちは何も変わっていないと言い張るけれど、以前より明らかに距離が近い。少し笑いながらカウンターの皿を集め、厨房へ運んでいると、閉めたはずの扉が叩かれた。
忘れ物だろうか。
手を拭きながら扉へ向かい、何気なく開ける。
「はい――」
声が止まった。
灰色の髪に、青みがかった灰色の目。店の前に立っていたのは、久しぶりに見るエリアスだった。
「……エリアス様」
名前を呼んだ瞬間、胸が大きく鳴った。
最後に会ったとき、これからは名前で呼べと言われた。何度か口にすれば慣れると思っていたのに、久しぶりに本人を前にして呼ぶと妙に意識してしまう。
「久しぶりだな」
「……はい。お久しぶりです」
いつも通り答えたつもりなのに、少し声が固くなった。
エリアスがわずかに眉を寄せる。
「どうした?」
「え?」
「何かあったか」
「何もないです」
返事が早すぎた。
日和は誤魔化すように笑い、ふとエリアスの目を見る。
日が沈んだあと、まだ少しだけ青が残っている空。
店の名前を決めた日のことまで思い出し、また胸が鳴る。
「……日和?」
「はい!」
今度は声が大きすぎた。
「本当にどうした」
「なんでもないです!」
怪訝そうな顔をされ、日和は自分でも分からなくなる。
なんでこんなに緊張しているんだろう。
「それより、どうしたんですか? こんな時間に」
「少し話がある」
「話?」
急に真面目な声を出され、今度は別の意味で緊張する。
「何かありました?」
「いや」
「……とりあえず入ってください」
侯爵が店先に立っているところを誰かに見られたら目立つ。日和はエリアスを中へ入れ、急いで扉を閉めた。
静かになった店内に2人きり。
そう意識した途端、また落ち着かなくなる。
「座ってください。何か飲みます?」
「いや、必要ない」
「じゃあ……そこに」
カウンターの椅子を示し、自分はその向こう側へ回る。これなら少し距離がある。
なぜ距離が必要なのかは分からない。
「それで、話って?」
エリアスは少し間を置いてから口を開いた。
「数日後、領内の沿岸部へ行く」
「沿岸部?」
「ああ。港と周辺の村を視察する予定だ」
「海ですか?」
思わず身を乗り出すと、さっきまでの緊張が少しだけ薄れた。
「この辺にも海があるんですね」
「領地の南西側だ。ここから馬車で半日ほどかかる」
「へえ……どんな魚が獲れるんですか?」
エリアスが日和を見る。
「……やはりそこか」
「何がですか?」
「いや」
日和の頭にはもう食材が浮かんでいた。
「貝とかあります? 海藻は? 干した魚とか」
「ある」
「塩漬けは?」
「あると思う」
「発酵させたものもありそうですよね」
「それは現地で聞いた方が早い」
「気になるなあ」
思わず呟くと、エリアスがじっとこちらを見る。視線が合っただけで、さっき少し落ち着いたはずの胸がまた騒がしくなった。
「……なんですか?」
「興味があるのか」
「あ、はい。ありますよ。この辺じゃ手に入りにくいものもありそうですし」
「そうか」
エリアスはそれきり黙った。
「エリアス様?」
呼ぶと、ようやく口を開く。
「……一緒に来るか」
「え?」
「沿岸部へ」
日和は瞬きをした。
「私が?」
「ああ」
「視察に?」
「ああ」
「なんで?」
またエリアスが黙る。
「……現地の特産品を見る機会にはなる。魚介類だけではなく、塩や加工品もある。市場も見る予定だ」
「市場も?」
「ああ」
それはかなり魅力的だ。
行きたい。
そう思ったのに、すぐには返事が出なかった。
エリアスと一緒に、馬車で半日かけて海へ行く。
そう考えた途端、食材とは別のところで胸が鳴る。
「……日和?」
「あ、行きます」
「そうか」
「はい。行きたいです」
エリアスの表情がほんの少し緩んだ。
それを見た瞬間、また胸が跳ねる。
「……」
「どうした?」
「なんでもないです」
今日何度目だろう。
日和は誤魔化すように沿岸部の食材について質問し、エリアスもひとつずつ答えてくれる。海の魚、貝、塩、加工品、市場――聞けば聞くほど楽しみになってくる。
けれど、その楽しみの全部が食材のせいではないことに、日和はまだ気づかないふりをした。
久しぶりに会ったから、少し緊張しているだけ。
きっとそうだ。
「楽しみだなあ」
日和が呟くと、エリアスがこちらを見る。
「……そうか」
「はい」
「なら、よかった」
その小さな表情の変化に、また胸が鳴る。
日和はそっと視線を逸らした。
海へ行く日までには、もう少し普通に話せるようになっているといい。
そう思いながら、なぜ自分がこんなに緊張しているのかについては、考えないことにした。




