第68話 王都での噂を耳にしました
エリオが王都へ向かってから、1か月が経った。
最初のうちは何とも思っていなかった。王都まで馬車で3日、向こうでどれくらいかかるか分からないとも言っていたのだから、すぐ戻ってくるとは思っていない。
それでも10日が過ぎ、2週間が過ぎ、気づけば1か月。
最近では扉が開くたび、顔を上げるのが癖になっていた。
「……遅いな」
呟いてから、日和は手を止める。
遅いも何も、いつ帰るとは聞いていない。それなのに自分は、いつから彼の帰りを待つようになったのだろう。
カウンターの端にある席を見る。
この1か月で何人もの客がそこに座った。当然だ。エリオ専用の席ではないし、誰が座ってもいい。
それでも空いていると、今日は来るかもしれないと思う。
誰かが座っていると、今日は来てもあそこには座れないなと思う。
「……何考えてるんだろ」
日和は小さく笑って、手元の皿を片づけた。
夕方になると客が増え、そんなことを考える暇もなくなった。料理を作り、注文を聞き、空いた皿を下げる。
忙しい方がいい。
店の中が賑やかなら、空いている席なんて気にならない。
そう思いながらカウンターを拭いていると、客同士の会話が耳に入った。
「そういや侯爵様、まだ王都らしいな」
日和の手が止まる。
「もう1か月くらいじゃないか?」
「今回は長いな。西の件があるからだろ」
「それもあるだろうけど、別の話もあるらしいぞ」
レーヴェン侯爵。
エリアスのことだ。
日和は布巾を動かしながら、何となく会話を聞く。
「別の話?」
「縁談だよ」
布巾が止まった。
「……縁談?」
思わず口から出ていた。
話していた客が日和を見る。
「お、店主も気になるか?」
「いや、その……レーヴェン侯爵の話ですよね?」
「そうそう」
聞き間違いではなかった。
「縁談って、結婚の?」
「他に何があるんだよ」
「まだ決まったわけじゃないらしいけどな。王都の貴族の娘だって話だ」
もう1人が酒を飲みながら頷く。
「侯爵様も32だろ? むしろ今まで決まってない方が不思議なくらいだ」
「領主で侯爵だからな。向こうから話はいくらでも来るだろ」
「本人が全然その気にならないって聞くけどな」
「今回は王都に長くいるし、とうとう決まるんじゃないかって噂だ」
「へえ……」
日和はそれだけ返した。
まだ決まっていない。
ただの噂だ。
そう分かっているのに、胸のあたりが妙にざわついた。
「日和ちゃん?」
「え?」
「それ、もう十分綺麗だぞ」
言われて手元を見ると、さっきから同じ場所を何度も拭いていた。
「あ……すみません」
「疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫です」
日和は笑って誤魔化し、厨房へ戻った。
縁談。
エリアスが結婚するかもしれない。
頭の中で言葉にすると、さっきよりも胸が落ち着かなくなる。
「……そりゃ、あるよね」
32歳の侯爵だ。
領地を治める立場で、家を継いでいかなければならない人でもある。自分が知らなかっただけで、今までも縁談くらいいくつもあったのかもしれない。
結婚したとしても、何もおかしくない。
むしろ自然だ。
日和は鍋の中を混ぜながら、ふと想像する。
エリアスの隣に、知らない女性が立っている。
きっと綺麗で、礼儀正しくて、侯爵夫人として隣に並んでも違和感のない人。
エリアスは相変わらず無愛想なのだろうか。
それとも、その人には笑ったりするのだろうか。
一緒に食事をして。
毎日、同じ家へ帰って。
「……」
日和は鍋を混ぜる手を止めた。
なんだろう。
ものすごく嫌だ。
「……なんで?」
自分でも分からない。
エリアスにはエリアスの人生がある。自分はたまたまこの世界へ召喚され、たまたま彼に助けてもらっただけだ。
店を持つまで世話になった。
今でも気にかけてもらっている。
それだけだ。
それなのに、知らない女性が彼の隣にいるところを考えると、胸の奥が重くなる。
「……恩人だから?」
口にしてみる。
しっくりこない。
「心配してくれたから……?」
それも違う気がする。
エリアスが誰かと結婚したところで、助けてもらったことがなくなるわけではない。もう会えなくなると決まったわけでもない。
それでも嫌だった。
「……変なの」
日和は小さく息を吐き、料理に意識を戻した。
まだ決まったわけじゃない。
噂だ。
ただの噂。
そう言い聞かせて店へ戻る。
それからしばらくして、また扉が開いた。
日和は反射的に顔を上げる。
「いらっしゃい――」
一瞬だけ、期待した。
けれど栗色の髪ではない。
「こんばんは、日和」
入ってきたのはルカだった。
「あ……ルカ」
「何、その反応」
「え?」
「一瞬、違う人が来たみたいな顔した」
「そんな顔してた?」
「してた」
ルカは少し不思議そうにしながら、いつものようにカウンターへ近づいてくる。
「誰か待ってた?」
「……別に」
答えてから、自分でも少し驚いた。
待っていた。
エリオを。
「そう?」
「うん。今日はどうしたの?」
「仕事。頼まれてた分、持ってきました」
ルカが荷物を持ち上げる。
「あ、ありがとう! ちょうど少なくなってたんだ」
「分かってる。だから持ってきた」
「助かる」
受け取ろうとすると、ルカがそのまま奥へ運ぶ。
「置く場所いつもと同じ?」
「うん、お願い」
「了解」
慣れたものだ。
ルカは何度も店へ来ているから、何をどこに置くのかも大体知っている。
荷物を置いて戻ってきたルカに、日和は水を出した。
「何か食べていく?」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ食べる」
「即答」
「日和の料理食べに来てるところもあるから」
「仕事じゃなかったの?」
「仕事もある」
ルカが笑う。
いつもの調子だ。
日和も笑い返し、料理の準備を始める。
「今日は何?」
「余ってるものでいい?」
「それがいい」
「変なもの出ても知らないよ」
「日和が作るなら大丈夫でしょ」
「信用されすぎるのも困るなあ」
話しながら手を動かしていると、さっきまで胸に引っかかっていたものが少しだけ薄れた。
ルカはそんな日和をしばらく見ていた。
「……日和」
「何?」
「なんかあった?」
手が止まる。
「なんで?」
「なんとなく」
「何もないよ」
「そう?」
「うん」
ルカはしばらく日和を見る。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「ならいいけど」
「何それ」
「無理に聞いても日和は言わないから」
「そんなことないよ」
「ある」
「ないって」
「じゃあ何があった?」
「……」
答えられない。
ルカが笑った。
「ほら」
「ずるい」
「聞かないって言ったのに自分から否定するからだろ」
「はいはい、料理作ります」
「お願いします」
日和は逃げるように厨房へ戻る。
何があったと聞かれても、自分でも分からないのだから答えようがない。
エリオが1か月帰ってこないことが気になる。
エリアスに縁談があると聞いて、嫌だと思った。
別々の2人のことなのに、今日はどちらも頭から離れない。
日和は鍋を火にかけながら、小さく息を吐いた。
「……ほんと、なんなんだろ」
答えはまだ分からなかった。




