第61話 やっと来てくれました
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宵日和を開いてから、少しずつ顔馴染みの客が増えてきた。
ダリオの紹介で来る近所の人もいれば、仕事帰りに寄ってくれる人もいる。ミレイユはすっかり常連になり、最近ではガルドまで数日に一度は顔を出すようになっていた。
「ガルドさん、今日は2杯までですよ」
「なんでお前が決めるんだ」
「前にここで潰れたでしょう」
カウンターの端に座ったガルドが、酒の入った杯を持ったまま顔をしかめる。
「……あれは忘れろ」
「忘れません。肩掴まれましたし」
「悪かったって言っただろ」
「だから怒ってませんよ。でも、また潰れられたら困ります」
「今日は潰れねえよ」
最初の頃は、大きな体と傷のある顔を見て驚く客もいた。それでも本人は静かに酒を飲んで料理を食べるだけだし、酔って騒ぐ客がいればひと睨みで大人しくさせてしまう。本人にそのつもりはないだろうが、今ではすっかり宵日和の用心棒のようになっていた。
しばらくしてガルドが席を立つ。
「じゃあな、日和」
「はい。今日はちゃんと歩けてますね」
「当たり前だ」
「ミレイユに言っておきます」
「なんでだよ」
ぶつぶつ言いながら、ガルドは片手を上げて店を出ていった。
そろそろ今日は終わりにしようかと日和がカウンターを拭いていると、再び扉が開いた。
「まだ、入っても大丈夫ですか?」
聞き覚えのある柔らかな声に顔を上げる。
「エリオさん」
栗色の髪に淡い緑色の目。何度も顔を合わせている隣人が、少し遠慮がちに立っていた。
「もちろん大丈夫ですよ。どうぞ」
エリオが店内へ入ってくるのを見ながら、日和はふと思い出す。
「やっと来てくれたんですね」
「……やっと?」
「前に店に行ってみたいって言ってたでしょう?」
「ああ。覚えていたんですね」
「覚えてますよ。いつ来るのかなって思ってました」
「なかなか時間が取れなくて」
エリオはそう答え、カウンター席へ腰を下ろした。
「どうです?」
「落ち着く店ですね。よく整っていますし、動きやすそうです」
「なんか視察みたいな感想ですね」
エリオの動きが一瞬止まった。
「……そうですか?」
「最近、似たようなことを言う人がいたので」
「そうなんですね」
何でもない顔で返され、日和もそれ以上気にしなかった。
その日のおすすめだった白身魚の香草焼きを出すと、エリオは静かに食べ始めた。姿勢がよく、食器の扱いも妙にきれいだ。
「エリオさんって、育ちよさそうですよね」
「……そう見えますか?」
「食べ方がきれいなので」
「普通だと思いますが」
本人がそう言うなら、そうなのだろう。
日和は翌日の仕込みをしながら、最近あったことをぽつぽつと話した。
「そういえば、この前エリアス様も店に来たんですよ」
エリオの手が止まった。
「……エリアス様?」
「レーヴェン侯爵です。前にお世話になったって話したでしょう?」
「ああ、あの方ですか」
エリオは何でもないように頷く。
「ずいぶん親しい呼び方ですね」
「そうですか?」
「名前で呼んでいるので」
「ああ。本人に名前で呼べって言われたんです」
「……本人から?」
「はい。侯爵様じゃなくて、名前で呼べって」
エリオは少し黙った。
「それで、エリアス様と」
「最初は変な感じだったんですけど、何回か呼んだら慣れました」
「……そうですか」
なぜか口元が少し緩んでいる。
「何ですか?」
「いえ。いいと思います」
「エリオさんには関係ないでしょう?」
「それはそうですね」
そう答えながらも、どこか機嫌がよさそうだった。
*
それから、エリオは時々宵日和へ顔を出すようになった。
毎日ではない。2日続けて来ることもあれば、数日姿を見せないこともある。それでも扉が開いて栗色の髪が見えると、日和はいつの間にか「いらっしゃいませ」より先に名前を呼ぶようになっていた。
「エリオさん、今日は遅かったですね」
「少し仕事が長引きました」
「まだ食べてないですよね?」
「……はい」
「座ってください。すぐ作ります」
そんなやり取りも、何度目かになる頃にはすっかり当たり前になった。
エリオは決まってカウンターに座り、日和が出したものを静かに食べる。客が少なければ話をし、忙しければ邪魔をせずに食べて帰る。
そんなある日、ミレイユがカウンターで酒を飲んでいるところへエリオがやって来た。
「エリオさん。いつものところ空いてますよ」
「ありがとうございます」
日和がカウンターの端を示すと、エリオは自然にそこへ座った。
それを見ていたミレイユが、何やら面白そうに日和を見る。
「……何?」
「別に」
「絶対なんかあるでしょ」
「本当に何もないって」
そう言いながら、ミレイユはエリオと日和を交互に見た。
「ただ、よく来るなと思って」
「近所だからね」
「ふうん」
妙に含みのある返事だった。
日和が料理を取りに厨房へ入ると、ミレイユはカウンターに頬杖をつき、小さな声でエリオに話しかけた。
「ずいぶん熱心ね」
「何の話ですか?」
「さあ?」
ミレイユは笑って杯を傾ける。
エリオはしばらく彼女を見たあと、何も言わなかった。
「何話してたの?」
料理を持って戻った日和が尋ねる。
「なんでもない」
「そうです」
「……2人とも怪しい」
日和は首を傾げながら皿を置いた。
別の日には、ルカが仕入れの確認にやって来た。
「日和、この前の調味料どうだった?」
「かなり使ってるよ。そろそろ次をお願いしようと思ってた」
「じゃあ今度持ってくる。あとは頼まれてた食材なんだけど――」
カウンター越しに話していると、いつもの席に座っていたエリオが顔を上げた。
「こんばんは、フェルナーさん」
「……こんばんは」
ルカもエリオを見る。
「またいるんですね」
「近所ですから」
「近所って便利ですね」
「ええ、とても」
にこやかに話している。
それなのに、なぜか空気が少しだけ冷たい。
日和は2人を見比べた。
「知り合いになったんですね」
「何度かここで」
「顔を合わせていますから」
「よかった。せっかくなら仲良くしてくださいね」
2人が同時に日和を見る。
「……努力します」
「そうですね」
返事まで似ていた。
仕事の話を終えたルカは、帰り際に日和へ振り返った。
「じゃあ、次の仕入れの日にまた来るよ」
「うん。お願い」
「今度、例の店も見に行こう。欲しそうなものが入ったらしいから」
「ほんと? 行きたい」
その瞬間、カウンターから声がした。
「2人で行くんですか?」
日和とルカが揃ってエリオを見る。
「仕入れなので」
日和が答えると、エリオは少し間を置いて頷いた。
「……そうですか」
「エリオさんも何か欲しいものあります?」
「いえ。ありません」
なぜか返事が早い。
ルカが小さく笑った。
「じゃあ日和、また連絡する」
「うん。またね」
ルカが出ていったあと、日和はエリオを見る。
「エリオさん、ルカとあんまり仲良くないんですか?」
「そんなことはありません」
「そうですか?」
「はい」
本人がそう言うなら、そうなのだろう。
それからも、エリオは宵日和へやって来た。
ガルドがいれば酒の話を聞き、ミレイユがいれば意味ありげな笑みを向けられ、ルカが仕入れに来れば少しだけ口数が減る。
客が多い夜には日和とほとんど話せないまま食べて帰ることもある。それでも数日経てば、またカウンターの端に座っていた。
ある夜、日和が皿を運ぼうとすると、エリオが自然に場所を空ける。
「ありがとうございます」
「いえ」
「なんか、もう慣れてますね」
「何がですか?」
「この店にいるの」
エリオが店内を見回した。
ガルドが酒を飲み、近所の客が今日あったことを話している。ミレイユは顔馴染みになった客と笑い、日和はその間を行ったり来たりしていた。
「……そうかもしれません」
「もう常連さんですね」
「僕が?」
「これだけ来てたら十分でしょう」
日和が笑うと、エリオは少しだけ目を細めた。
「では、そういうことにしておきます」
「なんですか、それ」
日和は笑いながら次の皿を取りに戻った。
いつの間にか、エリオがカウンターにいる光景を珍しいと思わなくなっていた。
ガルドがいて、ミレイユがいて、仕事でルカが顔を出す。そして、カウンターの端にはエリオがいる。
そんな夜が、少しずつ宵日和の日常になっていった。




